3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2017年04月

『ウインドアイ』

ブライアン・エヴンソン著、柴田元幸訳
「彼」は子供の頃、自宅の窓のうち1つだけ、外側からはそこにあるのが見えているが、家の中からはどこにあるのかどうしてもわからないものがあると気付く。その窓に近づこうとした妹は姿を消したが、母親は「彼」に妹などいないと言う。妹の存在も窓の存在も、自分にはわかっているのに周囲からは否定されるという表題作を始め、軒並み不吉で禍々しい短篇集。表題作のように、自分の認識しているものを他人は認識していない、ないことにされるという恐怖がしばしば描かれる。また、自分の意識や体が何者かに乗っ取られていく、むしろ明け渡してしまった方が楽なのではという、自我も身体の輪郭もあやふやになっていくというパターンも度々現れる。人間の意識、感覚の曖昧さ、不確かさが一貫して描かれており、読んでいると自分の足元がゆらぐような気分になった。確たる自分などというものはなく、何か別のものと置き換えられても何も変わらない、自覚も起きないのではないかと。あからさまではないが、じわじわと嫌な感じがしのびよってくる。1編1編は短いのだが、よくこれだけトーンの揃った嫌な話を書くな!と感心する。

『はじまりへの旅』

 森の中で、独自の教育方針に基づいて6人の子供と生活しているベン・キャッシュ(ヴィゴ・モーテンセン)。毎日のトレーニングと勉強により、子供達はアスリート並の体力を持ち、6か国語を喋れるようになっていた。ある日、入院していたベンの妻レスリーが死んだという知らせが入る。レスリーは仏教徒で火葬を希望していたが、カソリックである彼女の両親は土葬しようとしていた。ベンは妻の遺体を取り戻す為に子供達と旅に出る。
 アメリカ北西部からニューメキシコまで、2400キロのバスでの旅は、楽しそうでもあり過酷そうでもある。森の中から殆ど出たことのない子供達にとってはカルチャーショック、かつベンも子供達も資本主義の世の中には強い反抗心を持っているので、珍道中ロードムービーとしても楽しい(資本主義・物質主義への反抗の仕方が子供っぽいが・・・)。一家が移動に使っているバスの内装が、キャンピングカーのようにベッドやソファーがしつらえてあって羨ましくなってきた。
 楽しい映画ではあるのだが、色々と問題もあると思う。ベンの教育方針は、古典的自由主義に基づき、超リベラルなはずなのだが、現代の中に置くと遅れてきたヒッピーのようでもある。アナーキーを突き詰めて逆にステレオタイプ的な、古典的な型にはまってしまっている(資本主義の否定、宗教の否定といったような)。ベンが若かった頃のリベラル像のまま現代に至っているようにも見え、一種のパロディのようだ。ベンは非常に頭がよく教養豊かで、子供達にどの分野であれそれなりに教えることが出来る。しかし、子供の自主性を尊重しているようでいて、教育方針はベンが良かれと思っているものでありそれ以外の選択肢がない。子供が反抗すると自分を論破しろと言うのだが、どの子も口が達者というわけではない。言葉で説明するのが難しい子もいるし、ベンは知識も豊富で口も達者だから無茶ぶりだろう。同等に扱っているようでアドバンテージが全然違うというずるさ。
 長男と次男は、この不自然さにうすうす気づいてはいるのだが、彼らにとってはモデルとなる「大人」の選択肢が父親しかないないのだ。これは結構きついと思う。色々な大人がおり、色々な考え方があるということを体感できないから。ベンがなまじ頭が良くてカリスマ性があるので、いくら「自由」で個人を尊重すると言っても、子供達は父親の支配下から逃れられないのではないかと思う。レスリーの死は全てがベンのせいというわけではないが、森での生活の影響であることは否めないだろう。元々弁護士として働いていた人なので、社会との繋がりが絶たれた生活を続けることは、やはり辛かったのではないか。本作、そのあたりの掘り下げが少々甘く、ベンに優しすぎな気がした。

『夜は短し歩けよ乙女』

 大学の後輩である「黒髪の乙女」(花澤香菜)に片思いしている「先輩」(星野源)は、「なるべく彼女の目に留まる」作戦、略して「ナカメ作戦」を敢行するが外堀ばかり埋まっても一向に彼女との関係は進展せずにいた。ある晩、披露宴の二次会から町に繰り出した乙女は珍事件に巻き込まれていく。原作は森見登美彦の同名小説。監督は湯浅政明。
 いやーこれは素晴らしいな!私が思うアニメーションの楽しさ、喜びに満ちている。背景(空間)もキャラクターもフォルムが伸び縮みし自由自在。こういう自由さがいいんだよ!原作では四季を通した連作集だったと思う(読んだのが大分前なので記憶が・・・)が、映画では一晩の出来事に圧縮されている。これは賛否が分かれるところだと思うが、私はとてもいいなと思った。空間やキャラクターのフォルムが自在に伸び縮みするアニメーションの方向性と、時間が伸び縮みするストーリーとが上手く合っているのだ。ふわーっと何かに夢中になっている人(乙女は冒険に夢中だし、先輩は恋で無我夢中だ)の中では、時間も空間もねじまがる。主観度がすごく高いと言えばいいのか。なお脚本は劇団ヨーロッパ企画の上田誠が手がけているが、力技ではあるが一点に向かってどんどん盛り上がっていく高揚感があった。
 原作の黒髪の乙女は、いわゆるモテそうな女子とはすこしずらしているようでいて、真向から「女」度の高い女子にひいてしまう男子にとっては、ちょいユニークかつ攻めすぎていなくてちょうどいい、まあこういうのがお好きなんでしょうねぇ!という一見あざとくない所があざといキャラクター造形だったように思う。映画では花澤が演じることで、かわいいが言動がよりフラットであざとさが軽減されているように思った。花澤の声質の効果もあるが、演技もあまり「かわいい」に寄せず、むしろ酒豪であったり性別関係ないニュートラルな気の良さ(実際乙女は老若男女に対して態度があまり変わらない)が感じられる演技になっていたと思う。
 また、先輩役の星野源は、キャラクターとしてはザ・星野源みたいな嵌まり方だし演技もこなれている。プロ声優ではない出演者としては、パンツ総番長役の秋山竜次も予想外にいい味わいだった。声優、俳優総じて、出演者のキャラクターへのはめ方が良かったように思う。
 ちなみに、私にとって本作は『ラ・ラ・ランド』よりも全然楽しいミュージカル映画だった。歌がすごく上手いというわけではないところが逆にいい。また、古本市で乙女がビギナーズラックにより掴んだ本は、私のお勧め本でもある(今は復刊され題名一部変わっている)。乙女お気に入りの絵本『ラ・タ・タム』も好きだったなぁと懐かしくなった。古本市パートは、実在の本の書影があちこちに出てくるので読書好きは見てみてほしい。原作者の名前ももちろん出てくる。

『午後8時の訪問者』

診察時間終了1時間後、診療所の玄関ベルが鳴った。医師ジェニー(アデル・エネル)は玄関に向かおうとした研修医を、業務時間外だからと制止する。翌日、身元不明の少女の遺体が発見され、警察が診療所の監視カメラを確認しにきた。録画された映像の中には、彼女が診療所のベルを鳴らす姿があった。責任を感じるジェニーは、少女の身元を判明させようとあちこち聞きまわる。監督はジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ。
ジェニーが診療所のドアを開けなかったのは、診療時間が過ぎていたからということもある。しかし同時に、研修医に対して自分がここのボスであるということを示したかったからでもあると、彼女自身が漏らす。もし彼女が一人で残業していたら、ドアを開けたかもしれないのだ。彼女の行動は強く責められるものではないだろうし(実際の所、業務時間終了後いつまでも診察を受け付けていたら仕事として維持できないだろう)、少女が死んだのは直接的には彼女のせいではない。しかし、ジェニーにとっては医師という職業を仕事として割り切るのかどうか、自分の迷いに突き刺さる出来事になってしまったのだと思う。彼女は大学病院(研究センターのようなものか?)への就職が決まっていたのだが、自分の人生を大きく変える決断をしてしまう。これはぱっと見衝動的なのだが、ずっと迷っていたものが噴出して踏ん切りがついたと言うことなのだと思う。
少女の死に対するジェニーの責任感、少女の名前を知る事への執念は少々行き過ぎ、警察にもたしなめられるほどだ。しかし、その責任感を失くしてしまっては自分はおしまいだ、これをちゃんとしておかないと人としてダメだ、というような焦燥感に突き動かされているようでもあり、彼女が医師という仕事に対して保持し続ける矜持のようにも思えた。匿名の誰かではなく、名前のある個人の為に自分は働いているし、誰でも名前を持った存在として扱われるべきなのだと。ジェニーは往診にも駆けずり回るが、徐々に患者の信頼を得ているように見える。彼女が、個人対個人として相対するようになったからではないか。
あの時、あの場でこうしていれば、ああしていればという後悔に突き動かされる人たちの物語でもある。自分の行動を悔いているのはジェニーだけではない。皆、魔がさすというか、ちょっとした倫理観のゆらぎ、嫉妬や欲望により、判断を誤ってしまうのだ。そしてその判断が誤っていたということは、後からでないとわからない。これがどうしようもなくやりきれない。

『女装して、一年間暮らしてみました。』

クリスチャン・ザイデル著、長谷川圭訳
脚の冷えに耐えかねて、試しに女性用ストッキングをはいてみた著者は、女性の世界にはこんなにいいものがあるのか!と衝撃を受ける。徐々に女性が身に着けるものに関心が向くようになり、全身女装してみたらどんな気分かという「実験」に着手する。
冷えるがモモヒキ的なやつは苦手という著者。男性用ストッキング的な物はドイツにはないのか・・・(日本にはありますよね)。それはさておき、著者は女装している間、特にメイクや着こなしに慣れてからは、男性の恰好をしている時よりも解放感を感じ、それが女装に対する愛着に拍車をかけていく。著者は、「男性」として振舞えという社会的な要求、男性同士のコミュニケーション(このあたりは、著者がTV業界で働いていたという職場環境も大きかったのかも)に大きなプレッシャーや不快感を感じていたのだと気付いていく。そして女性ってなんて自由で素晴らしいんだ!と感激するのだが、この時の「女性」とは、あくまでもヘテロ男性(著者は女装はするが性的嗜好はヘテロで妻もいる)である著者が思う所の「女性」にすぎない。女性の良い(と著者が思っている)面しか見えていないのだ。しかし、女性として振舞ううちに、徐々に女性も社会が要求する「女性」を演じているのであって決して自由ではない、やはりプレッシャーに脅かされているのだと思い当たる。著者が女装をやめると、女装時にちやほやしてくれた女友達は一斉に遠ざかっていくのだが、外見、装いによるカテゴライズって相手が同一人物だとわかっていても、なされてしまうのだ。著者のアプローチは少々一方的だし、聞き取りをする女性達の傾向にも偏りがある(全ての女性がいわゆる女性ならではの装いを好んでいるわけではないだろう)。やはり「男性」側の見方にすぎないきらいはあるのだが、自分たちが自覚している以上に「~らしさ」「~のように見える」ことに縛られているという立証実験として、著者の心身の変化も含め面白かった。自分のメンタルの変化について、ちゃんと専門医に意見を求めにいくところはジャーナリストっぽいし、医者がその問いに真面目に答えるところは誠実。冗談扱いしないのだ。

『あなたを選んでくれるもの』

ミランダ・ジュライ著、岸本佐知子訳
新作映画の脚本執筆に行き詰っていた著者は、地元のフリーペーパーの売買広告を目にする。様々な個人が、様々な物品を「売ります」と提示している。著者は広告主を訪ね、彼らの話を聞くことにする。
本作中で著者が脚本に行き詰っている映画は『ザ・フューチャー』(日本では2013年公開)。公開当時に見たが、正直、それほど自分の心にはヒットしなかった。著者の小説についても同様なのだが、ノンフィクションである本作はじわじわと染みてきた。著者が会いに行く人たちは全くの初対面の他人、しかも、普段著者(とおそらく読者)が生活している圏内ではあまり行き会わない異文化の人だ。彼らは著者の予想・世界の外から言葉を投げかけてくる。決して愉快な人たちばかりというわけではないが、全くの他者と向き合うことで、頭の風通しが良くなるような気持ちになる。著者がスランプから脱したのも、自分の頭の外にある予想外のものに揺さぶられたからではないだろうか。
 

『娘よ』

 パキスタン、インド、中国の国境付近にそびえたつカラコルム山脈の麓に暮らすアッララキ(サミア・ムムターズ)と10歳の娘ザイナブ(サレア・アーレフ)。アッララキの夫は部族の族長だが、敵対する部族との手打ちの証として、ザイナブを先方の老族長に嫁がせることを決める。アララッキはザイナブを守る為、部族の掟を破り村からの脱出を図る。監督はアフィア・ナサニエル。
  日本では初めて公開されるパキスタン映画だそうだ。素朴な作品かと思っていたら、思いのほかエンターテイメント度が高い。映画タイトルの出し方や、ファーストショット等からも、「映画」をやるぞ!という意気込みみたいなものが感じられた。ローカルでありつつ、エンターテイメントとして王道を目指している感じ。いかにして逃げるかというサスペンスとして見る側を引きつけ、勢いがある。「逃げる」という設定って汎用性があるなぁと妙に感心した。日本やハリウッド映画ではあまり見慣れない風景(都市部以外はとにかくだだっ広くて、ロングショットが映える)なので、ロードムービーとしても面白い。
 アララッキとザイナブのやりとりが、親子の細やかな情愛の感じられるものだった。ザイナブが学校で習った英語を、アララッキに教える様が印象に残る。アララッキが、TVドラマの時間だからそっちを見よう!と言うあたりからも、親子の距離の近さ、親密さが窺える。ザイナブは「子供」として可愛がられているのだ。
 ザイナブの言動が本当に子供としてのもので、結婚がどういうものなのかも、自分が置かれた状況もよくわかっていないということが、随所で示唆される。冒頭、子供の作り方についての友人とのやりとりや、アッララキにここで待ちなさいと言われたのに子犬を追いかけて勝手に動き回ってしまう様は、正に子供。親から引き離されて結婚なんて無理だし可愛そうと思わせるのと同時に、現状のよくわかっていなさにイラっとさせるあたりも、実に子供らしい。母娘の逃走に協力してくれるトラック運転手のソハイル(モヒブ・ミルザー)とのやり取りも、親戚の叔父さんや隣のお兄さんという感じで、単純に「子供」であることが強調されている。子供を結婚させることの無体さが際立ち、また、アッララキが捨て身で逃亡を図る理由も納得がいく。加えて、ソハイルに好意を示されても、アッララキは子供のことで手一杯でそれどころじゃないよなぁと腑に落ちもするのだ。
  部族間の闘争により殺人が起き、殺した人数はそっちの方が多いから不公平だ!という目には目をの価値観だったり、娘を差し出すことで調停を図ったりという、非常に前近代的な世界の話なのだが、さらっとスマートフォンが登場して不意を突かれる。現代でも、こういう世界があるところにはあるのだとはっとした。

『マイ・ビューティフル・ガーデン』

 毎日自分のルールに則った規則正しい生活をしているベラ・ブラウン(ジェシカ・ブラウン・フィンドレイ)は、生き物が苦手。庭付きのアパートに住んでいるが植物の手入れは出来ず庭は荒れ放題だった。庭を愛する隣人のアルフィー・スティーヴンソン(トム・ウィルキンソン)は荒れたベラの庭が気に入らない。ある日、不動産会社から庭をきれいにしなければ退去させると言い渡されたベラは、アルフィーに助けを求める。監督はサイモン・アバウド。
 とても可愛らしく愛らしい作品。いわゆる名作秀作というわけではないが、ほっとする。アルフィーの庭が美しく(室内の観葉植物もいい)、ベラと同じく庭仕事興味がない私も楽しく見た。また、イギリス映画なのにと言っては語弊があるが、食事がちゃんとヘルシーそうかつおいしそう!アルフィーに雇われていたものの喧嘩別れをしてベラに雇われるシェフ・ヴァーノン(アンドリュー・スコット)が作る料理がカラフルで食べやすそう。ベラのいつもの食事は缶詰なのだが、徐々にヴァーノンの料理を食べるようになる様も可愛らしい。
 ベラはちょっと発達障害ぽい人で、『ザ・コンサルタント』のベン・アフレックを思い出した。決まった時間に決まった行動をしないと落ち着かず、料理の盛り付けも左右対称、同じ形の洋服を複数用意し着まわす等、行動パターンには類似が多い。もっとも、ベラは他人とのコミュニケーションは意外とちゃんと取れているし、冗談も言えるし、自分で小説を書くような創造性もある。ちょっと風変わりで、その風変りな部分が自分自身を窮屈にしていると言った方がいいかもしれない。
 庭造りの中で土や植物「無秩序」と接するうち、彼女が思う秩序とはまた違った形の秩序や美があることにベラは気付き、少しずつ心も行動もリラックスしていく。前述した食事の変化もその一つだが、家を出るときの一連の動作の変化も印象的だった。彼女は玄関がちゃんと施錠されたか心配するあまり、チェックしすぎて毎日仕事に遅刻してしまうのだが、ある時ぱっと飛び出ていく。理由も行動も他愛ないものなのだが、彼女の中では大きな変化なのではっとする。
 おとぎ話的な作品ではあるが、出演者が皆チャーミングで(基本悪人がいないし)気分よく見られた。ベラ役のフィンドレイは、ロセッティの女性像のような風貌で、レトロな服装が良く似合う。ちなみに舞台は現代なのだが、ベラの服装が妙にレトロなのだ。

『歩道橋の魔術師』

呉明益著、天野健太郎訳
1979年の台湾、台北。西門町と台北駅の間には、幹線道路に沿って立ち並ぶショッピングモール「中華商場」があった。歩道橋には子供達に手品を見せて手品用具を売る「魔術師」がいた。「ぼく」は旧友と会い、魔術師の記憶を呼び覚ましていく。
中華商場を舞台とした連作集。どれも大人となった「ぼく」「わたし」が子供時代を回想するという構造で、そのどこかしらに魔術師が登場する。過ぎ去ってしまった時代の、今はもう存在しない場所(中華商場は取り壊されている)を舞台としておりノスタルジックさが漂うが、その思い出、あるいはその過去から繋がる現在にはしばしば身近な人の死が関わっており、どこか影がある。子供時代の傷や後悔は、大人になってもずっと尾を引き時にその人を蝕み続けるという側面も感じさせるのだ。良かれ悪しかれ、子供時代の体験はその人の人生に影響し続ける。しかし、本作では子供の頃のどうということない日常の中に、ふっと魔法がかかる瞬間がある。この魔法がかかる瞬間を日常とシームレスにつないでいく、文章の平熱感がいい。この人にとってはそういうことだから、これはこれで真実だと思わせる。

『屋根裏の仏さま』

ジュリー・オオツカ著、岩本正恵・小林由美子訳
 20世紀初頭、相手の写真だけを頼りに日本からアメリカへ嫁いで行った「写真花嫁」たち。写真は全くの別人、現地では過酷な労働が待っていることも多々あったが、少しずつ、つつましやかではあるが生活は軌道に乗っていく。しかし日米開戦と共に日系人の強制収容が始まる。
 「わたしたち」という主語により語られる物語。「わたしたち」は嫁いで行った大勢の娘たちの声の総体であり、一つの声のようでいて多種多様なあり方を見せる。語りが合唱のようなハーモニーを形成しており、大きな声のうねりとなっていると同時に、実は「わたしたち」というものはなくて「わたし」が大勢いる、同じ「わたし」はいないのだと感じさせるのだ。対して、最後の章の「わたしたち」のみ、日系女性たちではなく、彼女らが町からいなくなった後に残った住民たち、日系ではないアメリカ人たちを指す。こちらは個人の声の総体ではなく、「わたしたち」という大きな主語の影に個人が隠れている。「わたしたち」は関わったが「わたし」は関わっていないというように、「わたし」という個人の要素を薄めているという対比がなされているように思う。「わたしたち」という主語のあやうさを含む機能を味わえる作品。

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