3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2017年02月

『ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男』

 南軍の兵士として南北戦争に従事していたニュートン・ナイト(マシュー・マコノヒー)は、戦死した甥の遺体を故郷であるミシシッピ州ジョーンズ郡に届けようと脱走。やがて農民から食料をむりやり徴収する軍と衝突し、追われる身となる。湿地帯に身を隠して黒人の逃亡奴隷たちと共に闘うようになった彼は、白人と黒人が共存する反乱軍を結成し、軍と対立していく。監督・脚本はゲイリー・ロス。
 実話を元にした話だそうだが、ナイトの存在は近年まであまり知られていなかったそうだ。当時としてはかなり型破りな人だったんだろうけど。(本作中の)ナイトは白人だろうが黒人だろうが個人は個人だという考え方で、黒人に対しても(他の白人と比べると)自分と同じ人間として接する。一方で彼が軍に反旗を翻す理由は、奴隷制度に反対しているからではなく、軍が自分達の作物や家畜を根こそぎ奪うから、搾取するからだ。白人だろうが黒人だろうが自分が育て収穫したものはその人のもので、それを奪うのは不当だから闘う、というのが彼の方針だ。これはとてもアメリカ的な考え方ではないかと思う。自分達の生活と権利を守るのが一番大事という考え方はともすると、「それ以外」を阻害する排他的なものになりかねないが、ナイトは意外と来るもの拒まずだし自分の妻子そっちのけで地元の農家を救いに奔走したりするので、そのあたりも稀有な人ではある。
 とは言え、彼の理想は当時の世間にはまだ早すぎた。南北戦争が終わっても、名称や形が変わっただけで黒人が差別されることに変わりはなく、ナイトの勢いも衰えていく。史実ベースとは言え、もの悲しい。更にきついのは、ナイトの時代から約90年後のある裁判の顛末だ。これだけ時間がたってもこんなもんか!と唖然とした。どんなに傑出した人でも1人で歴史を変えられるわけではない(ナイトの場合は傑出したというか、タイミング的に活躍できた時期があったという方がいいのかも)のだ。
 なお、冒頭の戦場の描写はかなり生々しく迫力がある。当時の兵士って、半分くらいは死ぬことを前提として配置されていたんだろうなと実感させられる。とにかく大量の死人が出た戦争だったんだなとビジュアル的に納得するし、各地の農家で男手が足りなくなり食い詰めるというのも説得力が増す。
 歴史ものとしても面白い作品だったが、後年のある裁判の挿入の仕方が唐突で、流れが悪くなる。この裁判が作品にとって大きな意味を持つというのはわかるのだが、構成に難がある。

『アックスマンのジャズ』

レイ・セレスティン著、北野寿美枝訳
 1919年のニューオリンズで、連続殺人事件が起きる。凶器が斧と見られたことから「アックスマン」と呼ばれるようになった犯人は新聞社に予告状を送り付け、「ジャズを聴いていない者は殺す」と宣言する。タある事情から警察内では嫌われ者のタルボット警部補はこの事件の捜査にあたる。一方、マフィアに犯人探しを依頼された元刑事のルカ、ピンカートン探偵社で事務をしているが探偵志望のアイダもこの事件を追っていた。
 実際に起きた未解決事件を題材にしているそうだ。1919年のニューオリンズが舞台ということで、様々な人種のコミュニティが共存しているが差別意識は強く、それがタルボットを苦しめ、アイダの足を引っ張る。タルボットには黒人の妻と子供がいるが、この時代、白人と黒人との結婚は許されないどころか、パートナーとしていることがわかっても周囲からのバッシングはもちろん、実際に暴力を振るわれかねない。自分が家族だと見なしている人たちを世間からは隠しておかなければならないのだ。また、アイダは白人として通用するくらい肌色が明るいが、それでも出自を知られると黒人として差別され、暴力を受ける。登場人物たちの背後、そして事件の背後には常に人種差別が横たわっており、これがあの時代の「普通」だったことを痛感させる。この「普通」に個人が対抗することがいかに難しいか、折々で感じさせるのだ。
 タルボット、ルカ、アイダはそれぞれ別個に事件を追い、それぞれがある結論を得る。彼らにとって見えるのは事件のある側面のみというところが小説の構造としては面白いが、事件を追う側にしてみたらなんか不消化だよな。・・・と思っていたら最後に思わぬ展開があり、これはうれしかった。続編も発行予定のようなので、今から楽しみ。
 なお、題名にジャズとつくが、ジャズが本筋に絡んでくるのは最初だけで予告状の内容も立ち消えになってしまうのには拍子抜けした。多分、実際に送られてきた予告状がそういう内容だったんだろうけど。

『マリアンヌ』

 1942年、秘密諜報員のマックス(ブラッド・ピット)はカサブランカに潜入。現地でフランスのレジスタンスであるマリアンヌ(マリオン・コティヤール)と夫婦を装ってあるミッションを遂行する。2人は恋に落ち結婚、ロンドンで暮らすようになり、娘も生まれた。しかしマリアンヌにある疑惑がかけられる。監督はロバート・ゼメキス。
 まさかここまで古めかしいメロドラマのルックスをしているとは。それがいい・悪いというのではなく、意外だった。本作、最初の舞台が「カサブランカ」なあたりにしろ主演2人の選出にしろ、往年のハリウッドのスター映画のオマージュという側面を持っていると思うのだが、そのスター感、クラシカルな佇まいと脚本と監督の作風とが、いまひとつマッチしていないように思う。私はゼメキス監督作にはあまり明るくないのであくまでそういう印象だということだが・・・(ゼメキスに対してはずっと苦手意識があったが『フライト』で和解いたしました)。
 妻は自分が見てきた妻のままなのかという疑いを夫が猜疑心に苛まれつつ晴らそうとする話なのだが、その疑いが出てくるタイミングが大分遅い。疑惑が生じてからも、マックスの右往左往が続きいまひとつ起伏に欠ける。マリアンヌが、自分が思ってきたような彼女である、愛して結婚したような彼女であると果たして断言できるのか、というサスペンスがあるはずなのだが、その揺らぎみたいなものもぼんやりとしている。ブラッド・ピットがぼんやりと胡乱な顔をしているというのも(そういう演出なのだと思うが)一因だが、ストーリーテリングの焦点が合っていないんじゃないかなという気がした。本来、マリアンヌが何者かという部分より、マックスが何を信じ何に賭けるかという、彼の内面の問題の方が主になる物語なのではないか。
 物語はほぼ一貫してマックスの視点で進む。マリアンヌは美しく快活で機転がきく、魅力的な人だ。マックスはあまり社交的ではなく、仕事上「夫婦」としてパーティーに出るのも気が重そう。人の輪の中で魅力を発揮するマリアンヌとは対称的だが、彼女の人当たりの良さと如才なさは彼にはないもので、いいコンビなのだ。彼女は任務中でも「感情には嘘がない」と言う。また出産時には「あなたが見ている私が私自身」とマックスに話す。終始、マックスの前で彼女がどういう人だったのか、彼女のこの言葉、彼女に対して自分が感じたことをマックスが信じ続けることができるのかという話なのだ。
 ちょっと冗長に感じたが、ああ映画だな!とはっとするシーンがいくつかあった(これは監督であるゼメキスの趣味か)。冒頭、マックスの足が映りこむところと、結婚式から出産への場面転換はドラマティック。この2か所で、すごく映画見たなという気分になった。

『ショコラ 君がいて、僕がいる』

 1897年のフランス北部。小さなサーカスで職探しをしていたベテラン道化師のジョルジュ・フティット(ジェームス・ティエレ)は黒人芸人ラファエル・パディーヤ(オマール・シー)と出会い、彼と名付けコンビを組むことを思いつく。ショコラと名乗るようになったラファエルとフティットは一躍人気芸人となり、パリの劇場と専属契約を結ぶ。スターとして名声を手に入れた2人だが、ショコラはギャンブルにおぼれていく。監督はロシュディ・ゼム。
 ちょっとストーリー展開の起伏がゆるくてだらだらしているかなぁ・・・。淡々としていると言えば聞こえはいいのだが。もっとも、そんなにエモーショナルに盛り上げる類の話ではないというのも確かだ。なんとなく、白人と黒人の感動バディもの的な雰囲気を漂わせた宣伝だったが、実際の所はバディになりきれなかった哀しみの方が濃くにじむ。
 フティットとショコラの芸は、今見ると明らかに人種差別意識があるものだし、当時はそれが普通だった。フティットはショコラとコンビを組もうと思うくらいなので黒人に対する嫌悪感はないが、真に同等だとは思っていなかったのではないか。そもそも差別意識にも無自覚だったろう。作中でも描写はあるが、愚か者役がフティットで、黒人が白人の尻を蹴る芸であっても、芸として完成されていれば笑いは起きる。ただ、役割の入れ替わりという発想がフティットにはなかった。彼はショコラを一人前の芸人にしようとしてはいるのだが、その前提として2人は対等であるという認識がいまひとつなく、だからショコラに彼の熱意は伝わらなかったのかもしれない。
 一方、ショコラはスターとして振舞うようになるが、彼に求められるのは依然として「白人に尻を蹴られる黒人」役で、フティットと対等な芸人だからでもアーティストだからでもない。これはショコラの技能・才能とは関係ないことだ。白人と同等のアーティストとして振舞えば、彼に才能があろうがあるまいがブーイングを受ける。ショコラはこの理不尽に打ちのめされていく。彼に出来ることやりたいことと、世間が彼に許すことがどんどんずれていってしまうのだ。万国博覧会の(悪名高い)「野蛮人」展示をまのあたりにする様は痛ましい。黒人としてのアイデンティティも、芸人としての自覚も中途半端なまま、どんどん崩れていくのだ。
 とは言え、苦しむのはショコラだけではなく、フティットにはフティットの苦しさがある。あるシーンで彼はゲイであることが示唆されるが、彼はそれをオープンにすることはできないし、公的にパートナーを持つことも出来ない。彼はおそらくショコラを愛しているが、相手が同性である、黒人であるという二重のタブーとなってしまう。生まれる時代を選ぶことは出来ないが、生まれた時代による運不運というのを痛感せずにはいられない。

『虐殺機関』

 世界の紛争地域で鎮圧任務についていたアメリカ軍特殊部隊のクラヴィス・シェパード(中村悠一)大尉に、あるミッションの為チェコに向かえという指令が下る。ターゲットはジョン・ポール(櫻井孝宏)なるアメリカ人言語学者。世界の紛争の影には常に彼の姿があるというのだ。現地に赴いたシェパードは、ジョン・ポールと懇意にしていたチェコ語教師ルツィア・シュクロウポヴァ(小林沙苗)に近づく。原作は伊藤計劃、監督は村瀬修功。
 伊藤計劃作品3作の映画化企画の一環として製作された本作だが、製作中にスタジオが倒産、何とか新会社を立ち上げ完成にこぎつけたという経緯があるので、とにもかくにもちゃんと完成してよかった。公開時期が結構延びてしまったが、それも納得できるクオリティで更にほっとした。特にキャラクターにしろ諸々のガジェットにしろ、デザイン面が良くできていたと思う。キャラクターのビジュアルが、それぞれの民族の差異を感じさせるもので、これは日本のアニメーションでは珍しいのではないかと思う。シェパードと同僚のウィリアムズは共にアメリカ人だが、ウィリアムズの方がより顔の凹凸がはっきりとした骨格で、いわゆる白人男性の風貌。シェパードはつるっとしておりアジア系っぽい。ルツィアの方がシェパードよりも顔の骨格のめりはりがあるんじゃないかなというくらいで、彼女は全身の骨格も結構しっかりとしている。いわゆるアニメの女性キャラクターのような華奢さは感じさせない(むしろシェパードの方が軍人としては華奢に見えるくらいだ)。
 また、人工筋肉を使ったアイテムのデザインがユニークさと不気味さ(有機的な部分がおそらくそう思わせる)を醸し出していて面白い。飛行機内のシートベルトにも生き物の肉体が絡みつくような雰囲気があるが、作中の人たちにとってはそれが普通だから、全員無反応という所にシュールさを感じる。また、投下用ポッドやコンタクトレンズ(デバイスを直接目に装着するからか)が使用後に液化する様には、なるほどこれが軍事用ってことね!と妙にわくわくした。
 原作を読んだ時も思ったが、映画でより強く感じたのがシェパードのナイーブさ、若々しさだ。アメリカの軍人、しかもエリートがこんなに揺さぶられやすくていいのか?というくらい簡単にジョン・ポールの言葉に心乱されてしまう。ジョン・ポールが使う「言葉」の特質はあるものの、軍人メンタリティとはそれに対して「だから何だ」と(良くも悪くも)返せるようなものではないかと思うが。シェパードは作中何度も軍人としては珍しく文系大学出身であることをからかわれるのだが、言葉の使われ方に対するセンシティブさがある。
シェパードのルツィアに対する思い入れは少々説明不足ではある。とは言え、彼が見ない、感じないようにしていたものと対面しつつもジョン・ポールが見ている世界とは別の世界を見ている人が彼女だったのかもしれない。作中、最も強く逃げないキャラクターは、彼女なのだ。
 終盤、セリフとモノローグで一気に処理してしまったところがちょっと残念なのだが、そもそも言葉量が多い原作なんだよな・・・。各人がそれぞれの思想を垂れ流すタイプの小説は、こういう部分が映像化に不向きなんだろう。それにしても、ジョン・ポールの理屈は原作が書かれた当時はそれを言っちゃあお仕舞よ、的なものとして捉えられていたと思うのだが、今やその理屈に準じるようなことをあけっぴろげに言っちゃう政治家が出てくるようになったんだもんなぁ・・・。建前の崩壊とは恐ろしい。映画の製作が遅れたことで期せずしてよりタイムリーになってしまった感がある。

『狩人の悪夢』

有栖川有栖著
人気ホラー作家の白布施と雑誌の企画で対談した有栖川は、京都・亀岡にある彼の自宅を訪問することになった。しかし有栖川が泊まった翌日、白布施の亡きアシスタントが住んでいた家で、右手首のない女性の死体が発見される。
待ってましたよ!な火村&アリスシリーズ最新長編。作中、アリスのサラリーマン時代にインターネットが既に普及していたことにあっさりとなっていて(本シリーズは23年続いている。アリスはプロ作家になる前はサラリーマンだった設定)、長期にわたるシリーズを続けていく秘訣を垣間見ましたね・・・。1人の男の人生こそが最大の謎だった前作『鍵の掛かった男』と比べると、今回はオーソドックスな謎解きもの。仮説→反証、仮説→反証し推理の範囲を狭めていく。まどろっこしく感じられるような重複(というか反復か?)描写もあるのだが、終盤の推理の為にはこれが必要だったんだなと腑に落ちる。ただ今回は犯人特定に至るまでの推理過程はもちろんなのだが、最後の一手である、どうやって犯人に告白させるかという部分の方に目がいった。
(以下若干ネタバレになるかもしれないが)今回の推理には明確な物証がない。最後の推理はある人物の口から語られるのでシリーズ中でも珍しいパターンだと思うのだが、犯人にはこの人物によって追求されるのが一番堪えるということが、(「だから堪える」と文章上明記されるわけではないのだが)真相解明と共にわかってくる。この部分、動機を含めて二重の意味での謎解きになっているのだ。加えて、火村はこういうことをこの人物にさせるのかという、キャラクターの側面を垣間見た感もある。著者の近年の作品は、規定の枠の中でどういうマスの埋め方をしていくかという技巧的な(しかもすごーく地味かつ地道な)部分に特化している気がするが、今回はこう来たか・・・。しかしあとがき読むと「まだ新しいことがやれそうな気がする」的なことをさらっと言っているので恐ろしいかつ頭が下がります。

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