3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2017年01月

『高い城の男』

フィリップ・K・ディック著、浅倉久志訳
第二次世界大戦が枢軸国の勝利に終わり、ナチス・ドイツと大日本帝国が分割統治している世界。分割統治下のアメリカでは『イナゴ身重く横たわる』という、連合国が第二次世界大戦に勝利したという設定の小説が流行、発禁処分となり、作者である「高い城の男」は保安警察に狙われていた。美術商のチルダンは顧客の田上に叱責され、再度商談に向かう。ロッキー山脈連邦に暮らすジュリアナは、トラック運転手のジョーと共に「高い城の男」に会いに行こうと思い立つ。ドイツでは首相の死によりナチ党内の権力争いが激化していた。
史実とは逆転したパラレルワールドが舞台だが、統治下アメリカの閉塞感、ユダヤ民族が置かれた状況(当然戦中よりも更に迫害はひどい)等が日常として迫ってくる。その閉塞感を打ち破る、あるいは気を紛らわせるために登場したのが『イナゴ身重く横たわる』で、実際ジュリアナはこの小説に心を奪われる。おそらく『イナゴ~』に描かれているのは読者にとっての「史実」なのだが、作中ではそんなバカな!と鼻で笑われる。しかし「高い城の男」にとっては書かずにいられなかった真理であり、ジュリアナにとって娯楽小説を越えた何かになっていく。フィクションが(作中人物にとっての)ノンフィクションを動かしていくのだ。『イナゴ~』の使われ方にしろ、チルダンが掴ませられる贋作品にしろ、もしかしてシリーズ化される予定だったのかなという気がする。続編では、フィクションがノンフィクションをより浸食し塗り替えていく展開だったのかも。本作で見られるのはその予兆だ。

『The NET 網に囚われた男』

 北朝鮮で妻子と暮らす漁師ナム・チョル(リュ・スンボム)は、ボートで漁に出たものの、エンジンが故障し韓国側に流されてしまう。韓国の警察は彼を拘束し、スパイ容疑で厳しい取り調べを行いつつ、韓国へ亡命しろと迫ってくる。監督はキム・ギドク。
 真綿で首を絞めていくような息苦しさだ。ナム・チョルは妻子の元に戻りたいだけなのだが、韓国の警察は彼をスパイだと決めつけ、自白を迫り拷問まがいの取り調べをする。「未来のスパイだから」だと言うのだが、それを言ったらきりがないだろう。警察はナム・チョル個人は見ず、北朝鮮から来たスパイ、あるいは自分達の手駒として使える可能性があるスパイ候補としか見ていないのだ。ナム・チョルが何を言っても信じてもらえないという状況がとにかく怖い。唯一彼と個人として接する若い警官は、彼を救おうと奔走するが無力だ。組織や国家の名を借りないものは、本作では何もできない。常に自分の上に覆いかぶさってくる何かを意識し、その存在に奉仕することを強いられる世界のなんと息苦しいことか。
 韓国警察がナム・チョルを転向させようと、街の豊かさを見せに連れ出すが、ナム・チョルは固く目を閉じ見ようとしない。見なければ北朝鮮に戻った時に何も答えなくて済むし、亡命希望と疑われなくて済むというのだ。韓国にとってナム・チョルは「哀れな国民」「気の毒」なのだが、当人にしてみれば亡命を強いる韓国の方が無体なことをやっている。またナム・チョルにとっては、韓国の豊かな生活は、物を無駄にしお金がないと何もできない世界でもある。
 とは言え、北朝鮮は北朝鮮で極端な監視社会であり、ナム・チョルは韓国の豊かさを見たことでスパイと疑われ、やはり厳しい取り調べを受ける羽目になる。南も北も、警察の振る舞いは大して変わらない。取り調べとはナム・チョルの行動を確認することではなく、自分達にとって望ましい自白を引き出すことなのだ。当然、彼が何を言っても、警察側が望まない答えは「嘘」として扱われる。尋問のやり方まで同じ(まあルーツは同じなんでしょうが・・・)なのには笑ってしまった。どこにいても、ナム・チョルは国家や組織といった「網」に囚われた男であって、逃げ場はない。現代の韓国と北朝鮮という実在の国を舞台にしているのでよりインパクトがあるが、どこの国・時代でも当てはまりそうな、寓話的な味わい。

『エジプト十字架の秘密』

エラリー・クイーン著、越前俊弥・佐藤桂訳
田舎町アロヨで、首なしで貼り付けにされた死体がT字路で発見されるという事件が起きた。“T”だらけの事件に興味を持ったエラリーは捜査を開始するが、めぼしい情報は得られなかった。そして半年後、再び”T”だらけの事件が起きる。クイーンの国名シリーズ5作目。
過去に一度読んだことがある作品なのだが、今回新訳で読んで、私は真犯人を別の人と勘違いしていたことに気づきましたね・・・!人間の記憶ってほんといいかげんだなー。そして記憶に残っている以上にやたらと長距離移動する話だった。エラリーが事件をあちこちを訪れる様は、かなりドタバタ劇っぽくて落ち着きがない。ここまで引っ張る必要あるのか?って気もするが、ひっぱりまわした上での、トリックを見破るきっかけが非常にシンプルだという所が、本格ミステリとしての醍醐味だろう。この部分は本当にすっきりしていて、あーっ!て思うんだよなー。ここまで絞り込めるものかと。この一点でそれまでのぐだぐだも納得させる力がある。ただそこに至るまでの引っ張り具合がな・・・。小説としてはアンバランスなんだけど、本格ミステリとしては確かに高評価になると思う。

『おばあさん』

ボジェナ・ニェムツォヴォー著、栗栖継訳
美しい谷間で娘一家と暮らすようになったおばあさん。教育はないが、様々な知恵と温かい心と勇気を持ち、孫たちを愛し、家事に励む。おばあさんと家族、谷間の人々との交流を描く。19世紀チェコの有名な作家による、国民的文学作品だそうだ。あとがきによるとニェムツォヴォーは民族・社会解放運動の先駆者で、当時チェコを支配していたオーストリア政府から目をつけられていたそうだ。そのせいもあって非常に経済的には苦しい一生だったとか。本作にも民族主義的な要素は多く、チェコの国土への愛や、皇帝に対する素朴な敬愛等も描かれる。またおばあさんは敬虔なクリスチャンなので様々な宗教儀式、また冠婚葬祭の描写も多い。チェコの昔ながらの生活習慣や伝統、民話等を記録しておこうという意図もあったのかもしれない。教条的な部分も多いのだが、四季を通した自然の描写、生活のあれこれの描写が生き生きとしていてとても楽しい。おばあさんは自分は昔堅気だと自認しており昔のやり方であれこれやるが、若者にそれを押し付けるようなことはしない。人それぞれの生き方があると理解しており、個人を尊重しているところは意外と現代的でもあった。

『クラッシュ・ゾーン』

 「未体験ゾーンの映画たち2017」にて鑑賞。違法公道レースをしたことで逮捕され、2年間服役していたロイ(アンドレス・バースモ・クリスティアンセン)はようやく出所し、妊娠中の恋人シルビアと前妻と娘であるニーナの為にもレースの世界から足を洗おうと決意する。しかし彼をライバル視するレーサーのカイザーが挑戦を挑んでくる。更にニーナの恋人チャーリーがレースに参加すると言いだし、ニーナも同乗すると言う。前妻からニーナを連れ戻せと言われたロイは、愛車のマスタングでカイザーらを追う。監督はハロルド・ブレイン。
 ノルウェー発のカーアクション映画『キャノンレース』の続編。前作での展開及びラストからそのまま続いているので、キャラクターの説明等が一切ないという潔さ。ノルウェーでは説明いらないくらいヒットしたってことだよな・・・。アバンで前作のダイジョエストは漠然とわかるので、単品でも大丈夫なことは大丈夫だと思うが。そもそもそんなに入り組んだ話ではないし、何なら前作より更に能天気になっていると思う。
 今回はノルウェーからスウェーデン、フィンランド経由でゴール地点がロシアというコースなのだが、季節は冬。しかも当然豪雪地帯。雪上でレースをし派手なカーアクションをかましているので、前作よりもカースタントの難易度は上がっているように思う。極端に寒い地域でないと出来ないようなネタもあり、えっそれ大丈夫なの?!CGじゃないよね?!と思わず二度見してしまいそうになる所も。カーアクションて色々あるけど、これは初めて見たわ・・・。登場する車の台数は減ったが、いい意味で泥臭く大変楽しかった。自動車が、ちゃんと自動車として走りアクションしているのがいい。『ワイルドスピード』シリーズみたいなのももちろん楽しいのだが、あれはカーアクションというよりも車を使った格闘技みたいな感じだからな・・・。
 本作、前作に引き続き父親と娘の物語でもあるが、父親であるロイが随分甘やかされるようになっちゃったなーという感は否めない。前作では疎遠だった娘との絆をレースで取り戻したが、本作では既に(恋人はいるが)ニーナはロイのことを大好きだし、父親としても夫としてもあまり役に立たないロイのかっこいい所をわかってくれている。ある意味夢の娘像だよなと。ロイはいわゆる「大人」として振舞えない人なので、娘との共犯関係みたいなものが余計に嬉しいのかも。前妻は良くも悪くも大人になってしまったんだよな。
 なお、一番驚いたのはノルウェーの刑務所の住環境が結構良さそうな所。そんなに重罪じゃなかったからだろうけど。刑務所内での仕事が裁縫というのも何かいい。

『MERU/メルー』

 難攻不落と言われる、ヒマラヤ・メルー峰シャークスフィンの登頂に挑む、登山家たちの奮闘を追うドキュメンタリー。2008年10月、コンラッド・アンカー、ジミー・チン、レオン・オズタークの3人はメルー峰に挑むが、7日間のツアーの予定が倍以上も要する苦闘となった。監督は登頂に参加した当事者の登山家であり、山岳カメラマンでもあるジミー・チンと、エリザベス・C・バサヒリィ。
 元々映画化が前提だったのだろうが、登山中の映像が豊富で、登山素人の目から見ると色々と新鮮で面白かった。所要日数と持ち運べる荷物量の兼ね合い等、当然と言えば当然なのだが言われないと気付かなかった。また、場所によっては夜間に登るというのは、氷がより固くて剥落しにくい状態を選んでいるからだそうだ。昼間の方が見通し良くて安全な気がしてたけど、なるほど。一番驚いたのは、序盤でも映し出されるのだがテントの設置場所。設置というか、これは吊り下げている感じなのでは・・・。最近の登山用具はすごいなー。当然のことだけど、登山も進化するんだな。自分の知らない世界を垣間見る面白さがあった。
 登山のプロジェクト自体はもちろんドラマチックなのだが、登山家3人の背景、プロジェクトの過程で個々を襲うトラブルがこれまたドラマチックすぎる。特にチンとオズタークを襲うトラブルは、事実は小説より奇なりとはいうけれど、まさか連続してこんな羽目にあうなんてと唖然とした。当事者にとっては登山に対するモチベーションがぐらつくような事態だったろう。生死にかかわるトラブルを経てなお登頂に挑もうという姿勢には凄みを感じるが、そこまでして登りたいのか?という疑問も当然沸いてくる。登山家それぞれのパートナーたちは登山自体には理解があるが、大きなリスクを抱えた登山にはやはり反対する。そりゃあそうだよな・・・。それでも彼らが山に登るのは、「そこに山があるから」としか言いようがないのだろうというのも、本作を見ていて思った。
 なお、風景は当然素晴らしい。空撮も多用されており、結構な予算を組んだプロジェクトだったことが窺える。とは言え、雪山の恐ろしさもありありと見られる映画でもある。よく無事だったな・・・。

『ドラゴン×マッハ!』

 香港で臓器売買の闇取引を展開しているホン・マンコン(ルイス・クー)摘発の為、潜入捜査をしていた刑事チーキット(ウー・ジン)は、正体がばれ、タイの刑務所に収監されてしまう。刑務所の看守チャイ(トニー・ジャー)は、刑務所所長コー(マックス・チャン)に白血病の娘の治療費を援助してもらっていた。しかし刑務所が闇取引に関与していることに気付く。監督はソイ・チェン。
 原題は「SPL2」なので、SPLの続編なのだろうが、単品で見ても大丈夫な内容だと思う(私はSPL未見だが特に問題なかった)。邦題はカンフー×ムエタイ的な意図で付けたのだろうが、内容とあんまり合っていない(そんなにあっけらかんとした作風ではないので)と思う。SPLがよっぽど集客出来なかったってことかな・・・。とは言え、カンフー対ムエタイ、カンフー&ムエタイなのは本当だしアクションの見応えはすごい。早い!(ジャンプが)高い!強い!と唸りまくり。その滞空時間の長さは何なんだ!トニー・ジャーに関してはさすがに『マッハ!』ほどの超人振りではないのだが、それでも全然キレがいい。またさしの組みあいはもちろんなのだが、中盤の刑務所内での群衆大乱闘シーンがすばらしい。チーキットとチャイ、コーの動きを追いつつ、遠景で取っ組み合っている人たちの動きもちゃんと「アクション」として機能している。群衆の動きが単調でなく、画面の隅までちゃんと演出が行き届いている感じで、俯瞰していくような撮影もとてもよかった。
 香港での出来事とタイでの出来事を、徐々に時系列を合わせていくようなやり方で交互に見せていく。エピソードを盛りすぎぎゅうぎゅう詰め状態なので、ごちゃっとした印象は否めないが、大雑把なようでいて、妙な所できちんと伏線回収していくなという印象を受けた。前述の時系列の合わせ方も強引なんだけど、合わせようという意図は結構はっきり伝わってくる。また、チーキットが薬物依存症であるという設定の活かし方や、コーの「いいネクタイ」等、やらなくても支障はなさそうなところでちゃんとやってしまう妙な律義さを感じた。どちらもいい使い方だったと思うが。
 チーキットもチャイも、どんどん逃げ場のない方向に追いつめられていく。彼らはホンやコーから見たら負け犬なのだろうが、ズタボロになってもぎりぎりで踏みとどまる、自分にとって本当に大事なものは手放さないぞ!という気概に心打たれた。2人だけでなく、2人の直属の上司たちも意地を見せるところが清々しかった。また、チャイの娘の勇気と健気さにはやはり目頭熱くなる。 トニー・ジャーの父親としての演技がなかなか様になっているのも良。

『人魚姫』

 実業家のリウ(ダン・チャオ)は香港郊外の自然保護区域を買収し、イルカや魚を追い払って海を埋め立て、リゾート開発を狙っていた。この計画を阻止しようと、人魚族はリウの暗殺を計画する。若い女性人魚シャンシャン(リン・ユン)を人間に変装させリウの元に送り込むが、リウとシャンシャンは恋に落ちてしまう。監督・脚本はチャウ・シンチー。
 アクション映画以外のチャウ・シンチー監督作って、どうもキワモノ感が拭えないのだが、これは私の先入観かなー。満席立ち見も出るほどの客入りだったけど、そこまで面白い作品とは思えなかった。どうも監督のギャグセンスと相性が悪い。冒頭の観光客の面子がいかにもマヌケ、不細工といった面々でマヌケ、不細工だったらこういう振る舞いだろうというテンプレな振る舞いをするあたりからして苦手意識を感じてしまった。不細工ギャグとか、嘔吐ギャグを必ず入れるところとかもきつい。あとCGの出来が悪いというのではなく、色と質感がギラギラ寄りなのは多分好みなんだろうけど、これもきつい。ギャグが上滑りしている感じなんだけど・・・。
 ただ、なかなかぐっとくる所もある。貧しい出身から這い上がり、無理して「セレブ」をやっていたリウが、屋台の焼き鳥の味に涙ぐんでしまうエピソードは、王道人情ものっぽく、またリウが結構無理してきたんだなという背景が窺えるものだった。焼き鳥がきっかけでシャンシャンとの距離がぐっと縮まる、更に不思議なミュージカルシーンにも発展するというのも楽しい。
 ところで、シャンシャンの兄貴分はタコの人魚なのだが、タコの移動能力がチートというのは、『ファインディング・ドリー』と同じだった。やっぱり使い勝手がいいんだろうな。『ファインディング~』に出てくるタコの方が大分かっこよかったですが・・・。

『疾風スプリンター』

 自転車ロードレースチームに加入したチウ・ミン(エディ・ポン)とティエン(ショーン・ドウ)はチームのエース、チョン・ジウォン(チェ・シウォン)のアシストをすることになる。2人はチームメイトとして、ライバルとして友情を深め、チームは台湾各地のレースで好成績を残す。しかし資金難でチームは解散することになり、チウ・ミン、ティエン、ジウォンはそれぞれ別のチームに移籍し、競い合うことに。監督はダンテ・ラム。
 序盤は紋切型でどこか古臭い。監督の娘がポニーテールにサロペット姿なのは、80年代の少年マンガのヒロインかよ!と突っ込みたくなった。しかし尻上がりに面白くなっていく。俳優たち自ら走っている(スタントも使っていると思うが、かなりの部分自分で走っているみたい)レースシーンに迫力があり、俳優たちが必死すぎて変顔になるのも厭わないという気合の入り方。ここは本当に見応えがあるし、このレースシーンがあるから映画として引き込まれる。他が若干大雑把で盛りだくさんすぎるのだが、レースシーンを見るといいものを見た!と納得してしまうのだ。
 チウ・ミンとティエンは、最初はとんとん拍子で実績を積んでいく。しかしチームを移籍し、スターとしてもてはやされたりエースとしての重圧に苦しんだりするうちに、人生に躓いてしまう。そこからの再起を賭けた展開が熱い!チウ・ミンとティエンは性格的に決して馬が合うというというわけではないが、レーサーとしての技量は認め合っており、共闘していく様が清々しい。強敵(ライバル)と書いて友と呼ぶ、という少年漫画王道の関係性が見られるのがうれしい。また、彼らの先輩でもあるエースのジウォンがちゃんとした模範的な人というか、エースとしてのお手本のようでもあり、彼を後輩の2人がアシストし、やがて追うようになるという構造も王道感あってよかった。
 なお、韓国で競輪に出場するというエピソードで、2人1組で行うレースが出てくるのだが、こういうシステムのレースって韓国には本当にあるの?物語の演出の一部としてすごくいい機能なんだけど、実際のレースとしては結構大変そう。

『こころに剣士を』

 1950年代初頭、第二次大戦終結によりドイツによる支配からは脱したものの、今度はソ連占領下に入り、スターリン政権下にあったエストニア。エンデル(マルト・アバンディ)はソ連の秘密警察から逃れ、田舎町の小学校教師として身をひそめていた。フェンシング選手だった彼は子供達にフェンシングを教えるが、校長は彼の素性を怪しむ。着実に上達していく子供達はレニングラードで開催される全国大会に出たいとせがむが、エンデルにとってレニングラードに出ることは、逮捕されかねない危険な行為だった。監督はクラウス・ハロ。
淡々と進む作品なのだが、終盤でいきなりスポ根的な演出が見られ、気分が一気に盛り上がる。子供達の勇気が発揮される場面であると同時に、エンデルにとっても自分の人生を賭け勇気を振り絞る、彼が自分の人生を選ぶシーンなのだ。
 エンデルはそもそも、教師になろうと思っていたわけではない。なりゆきで小学校に勤めるようになっただけで、子供は苦手だし教え方もわからない。序盤、子供達が授業で跳び箱を飛んでいる。上手に飛べた子供がぱっとエンデルの方を見るのだが、エンデルは他所を見ていて気付かない。子供が微妙にがっかりした顔をするのだ。子供達の見てほしい、気にかけてほしいという欲求や不安感を、彼はいまひとつわかっていないのだ。加えて戦争で若い男性が駆り出されていた為、父親のいない子供が多い。父親的な存在に飢えているので、よけいにエンデルを慕うのだろう。フェンシングによって彼らの苦しさが減るわけではないが、一生懸命学ぶこと、何かに夢中になることが、気持ちを支えていくことにもなるのだ。
 最初は子供は嫌いだと言っていたエンデルも、子供達と接するうちに、本気で教師として振舞うようになってくる。子供達にとって「教師」であり、模範とすべき「剣士」である為、自分の人生を賭けるまでになる。町にやってきた時からしたら予想外の方向に彼の人生が進む、そういう人生を彼自身が選び取る。おそらく彼にしろ子供達にしろ、抑圧された時代の中で選択できるものがごく少ない状況だ。そんな中での選択がこれである、という所に何だかぐっときた。希望が残るラストもいい。

 
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