3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2017年01月

『マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ』

 大学に勤めるマギー(グレタ・ガーウィグ)は既婚の文化人類学者ジョン(イーサン・ホーク)と恋に落ちる。ジョンは妻ジョーゼット(ジュリアン・ムーア)と離婚し、マギーと再婚。ジョンとジョーゼットの子供達は双方で面倒を見ることになった。ジョンとの間に子供が生まれ幸せを満喫していたマギーだが、大学を辞めて小説家を目指すジョンと暮らすうち、将来に不安を抱くようになる。子供の世話を通じてジョーゼットと親しくなったマギーは、彼女がまだジョンを愛していると知り、夫と前妻に返すという計画を思いつく。監督はレベッカ・ミラー。
 マギーにしろジョンにしろジョーゼットにしろ、我儘と言えば我儘に見えるかもしれないが、迷走はするものの最終的には自分のやりたいようにやる、自分本位の人生を生きることにするという所がとても良かった。自分本位というとちょっと語弊があるかもしれないけど、自分の人生の主役は自分である、というところがしっかりしているので見ていて安心できるのだ。あまり常識とされていることとか世間体とかを気にしないところがいい。大事なのは自分がどう考えているかだ。
 マギーはジョーゼットに言わせると「邪気がない」。悪意や損得はあまり感じられない人なのだ。しかし同時に、独自の合理性に基づき行動しているように見えるので、ともすると利己的と思われそうでもある。自分にとっての最適解が他の人にも適応するとは限らないことをたまに忘れてしまう人という感じなので、だから周囲が怒ったり呆れられたりするんだろうけど、心底嫌われることはなさそうだ。何か、人間として魅力的な所があるし、本人はとても真面目なのだ。それはジョーゼットに関しても同様だ。ジョーゼットの方がよりわかりやすく我儘かもしれないが。
 一方、ジョンの自分の都合のいいように解釈する傾向と、人のせいにしがちな傾向にはイラっとする。ジョーゼットと暮らしていた頃は彼女や子供の世話が重石になっていたが、何でもよくできるマギーと暮らし始めると、甘えが一気に出てくる。そりゃあ別れたくもなるな・・・。甘ったれではあるが、実は世話をする立場になっている方が物事がうまく回るタイプの人なんだろうな。イーサン・ホークは私にとってイラっとするタイプの男性を演じることが多い(というか殆どそう)のだが、本作も同様だった。

『ミューズ・アカデミー』

 ピント教授は現代のミューズ像を探るという「ミューズ・アカデミー」を開設する。享受の妻は「恋愛は詩がねつ造したもの」と言って夫のミューズ像を否定。生徒たちと議論するうち、愛や欲望も巻き込み彼らの関係も議論も変化していく。監督はホセ・ルイス・ゲリン。
 疑似ドキュメンタリー風の序盤なのだが、見ているうちにやはり明らかにフィクションであり、劇映画的な演出がされていることがわかってくる。特に音の編集の仕方(車内での会話が車の外でもよく聞こえるとか)で「フィクションですよ」という念押しをしている。しかし何よりフィクションだなーと思ったのは、ピントの講義の内容のうすっぺらさ、つまらなさだ。ミューズ云々はともかく、彼の言う「現代のミューズ」像がヘテロ男性にとっての女性像に留まっているところからして前時代的で(じゃあヘテロ女性の表現者やゲイ男性の表現者はどうなるんだということになる)、よくこの人大学で教えてるなと思うくらい。自分個人の性愛指向と、(一般的な)詩作におけるインスピレーションとをいっしょくたにして話すので、講義を真に受けるのがばからしくなってくる。もちろんゲリン監督はそのあたりはわかった上でピントにこういった言動をさせているのだろう。議論の進め方やかなり無理筋な時もある反論の仕方からしても、すごく頭がいいというわけではないという設定なのだろう。ピントは詩人としてそれなりの評価を得ているようだが、生身の女性に誘発されないと創作が進まない程度の才能ということか。
 聴講生の多くは女性なので、ミューズ像を女性に押し付けるかのようなピントの発言には反感を示す学生もいる。ピントのちょっとずれた講義によって、むしろ学生同士の話し合いは深まっていく。またピントの意図に反して全く別の方向に詩作のインスピレーションを感じ始める学生もいる。ピントの愛人は羊飼いの歌を研究しており、羊飼いの1人に異性としても強く惹かれる。羊飼いたちの歌は口頭伝承のようなので、彼はピントがあやつるようなレトリックや記述される為の言葉とは真逆の存在と言える。ピントが彼らの詩を否定するのも無理はないということか。
 恋愛はフィクションだと言っていたピントの妻が、あれこれいいつつもピントへの執着を自認してしまい、若い愛人をけん制するあたりは滑稽でもあるし、もの悲しくも、ちょっと怖くもある。いきなり話が形而下に戻ってきたな!

『ブラインド・マッサージ』

 シャオマー(ホアン・シュアン)は子供の頃に遭った交通事故で視力を失い、いつか回復すると言われつつも視力が戻ることはなかった。成長した彼は南京のマッサージ院に就職する。そこには彼と同じく、視覚障害を持つマッサージ師たちが勤務していた。多趣味な院長のシャー(チン・ハオ)は結婚を望み見合いを繰り返していたが、目が不自由なことを理由に断られ続けていた。ある日、シャーの同級生ワン(グォ・シャオトン)と恋人のコンが仕事先を求めて転がり込んでくる。シャオマーはコンに強く惹かれ、院内の人間模様もざわつき始める。原作は畢飛宇(ビー・フェイユィ)の小説。監督はロウ・イエ。
 マッサージ師たちの殆どは視覚障害を持っているが、人間の集団の中で起きることは、障害があろうとなかろうとあまり変わらない。普通に寝て起きて食事をして仕事をする。恋も欲望も嫉妬もある。ただ彼らの世界は視覚に頼るものではないので、視覚によって把握する映画を見ている側からは、何となく不思議に感じられる部分もある。ワンとコンは職場やお互いの部屋(男女別室の寮になっている)で、人前にしてはちょっと過剰なくらいいちゃつくのだが、これは見えない・見られないからだろう。周囲は彼らが何をしているのか具体的にはわからないし、同じ空間に他人がいても、その人が静かにしていれば2人にはわからない。ただ、気配によりなんとなくわかってしまう、しかし口に出して確認するのは憚られるので、状況が曖昧なまま奇妙な緊張感が強まるのだ。
 また、視覚の世界側の価値観が急に持ち込まれ、差異にはっとするところもある。客から美人と評判のマッサージ師は、見た目の美しさは自分には(見ることはできないから)関係ないものと思っていたのに、客は皆そこで評価するので「美人」という価値観に巻き込まれてしまう。更に、彼女は美人だと聞かされたシャーは、自分には確認できない評価なのにもかかわらず、彼女のことを好きになってしまう。流されやすすぎ!と突っ込みたくなるが、自分では確認できない「美」への憧れが強烈で笑って済ませるには切なすぎるのだ。女性側からしてみたらいい迷惑ではあるのだが・・・。
 セクシャルなものでもそうでないものでも、身体の接触によるコミュニケーションにより切実さを感じた。特に同僚同士のちょっとした励まし合いや慰めなど、細やかさが感じられ印象に残る。また、隣室から漏れ聞こえる声、どこかから流れてくる笑い声や鳴き声等、常にざわめきに取り囲まれている感じがする。

『天使にショパンの歌声を』

 ケベックにある、修道院が経営する寄宿学校では、校長のオーギュスティーヌ(セリーヌ・ボニアー)が音楽教育に力を入れていた。ピアノコンクールでの実績もある名門校だが、経営は苦しく、母体である修道院の総長は閉鎖を考えていた。オーギュスティーヌは生徒による音楽会を開き、マスコミを見方につけ世論を動かそうとする。監督はレア・プール。
 修道院が管理する寄宿学校といっても、当然のことながら色々な雰囲気の所があるんだなと妙に感心した。カソリックの中でも音楽なんてもっての他という派もあるが、本作の修道院では肯定的に見られている。総長はオーギュスティーヌの方針に否定的だが、宗教上の方針というよりも彼女個人が「音楽が分からない」人だし、単純に音楽教育にはお金がかかり経営を圧迫するからだ。
 オーギュスティーヌは自身もかつてはピアニストであり、音楽教育に情熱を傾けている。彼女にとっては音楽は心を乱すものではなく、人生を支えるものであり、祈りのようなものでもあるのだろう。物語の時代設定は明言されないが、ラジオで女性のピル使用の是非を問う内容が放送されているシーンがあり、価値観が大きく変わりつつあるものの、女性にとってはまだ縛りの多い時代だったことが垣間見られる。オーギュスティーヌは総長から良妻賢母を育てる教育への転換を促される(おそらくカソリック修道院としては総長の考えの方が一般的なのだろう)が、「高い理想を持てと生徒たちに言っています」とはねつける。音楽の才能がある生徒にとっては、それは彼女らの人生を精神的にも生活の手段としても支え得るものだと彼女は考えているのだ。音楽にしろ何にしろ、自分に与えられたものを使って生きる、そのために闘うという姿勢が清々しい。
 生徒たちの音楽との関係は、ピアノの才能を持ちコンクールを目指すアリス(ライサンダー・メナード)以外ではさほどクローズアップされないのだが、合唱シーンでの表情は皆とてもよかった。また、アリスと仲良くなるスザンヌ(エリザベス・トレンブレイ=ギャニオン)は吃音があるのだが、歌うときはそれが消える。音楽があることが、彼女にとっての壁を壊すのだ。おそらくアリスにとっても他の生徒たちにとっても、形は違えど同じようなものなのではないだろうか。

『映画と本の意外な関係!』

町山智浩著
映画の中には、様々な本や言葉が登場する。その出典や背景を知ることで、映画をより深く読み解くことができる。原作小説や引用された言葉、劇中で使われた曲の歌詞など様々な「言葉」を解説。
映画を見ているだけだと気づかない(字幕の都合で割愛されちゃったりもするし)引用が色々説明されていて、映画も本も好きな人には特に面白いのでは。著者はまえがきで「誰かの家を訪ねると、本棚が気になるんです」と書いているが、私もそう。映画の中に出てくる本棚や登場人物が読んでいる本は当然気になってまじまじと見てしまう。そういう人にはうってつけのコラムだ。人によっては言うまでもないよというようなメジャーな引用から、日本では未公開作品に関する話まで、幅広くとっつきやすい1冊だと思う。一つの映画や本から、他の作品、あるいは他のジャンルへと知識とイメージが連鎖していくことは、どんな分野にせよ鑑賞を続ける上での醍醐味だと思う。途中から映画のあらすじ説明の分量が妙に増えてくるのは、連載媒体の読者層に関係しているのか、時間がなかったのか・・・。なお第16章で著者が大炎上させてしまったある案件に言及、かつ詫びを入れているが、たまにまたやらかしそうになっているので気をつけて下さいね(笑)。

『シャム双子の秘密』

エラリー・クイーン著、越前敏弥・北田恵里子訳
カナダでの休暇から車で帰る途中、エラリー親子はデービス山地で道に迷い、山火事に遭遇してしまう。なんとか脇道を辿り、山頂の屋敷にたどり着いた2人は助けを求める。使用人はいい顔をしなかったが、屋敷の主人である医学博士ゼイヴィアの好意で宿と食事にありついた2人だが、翌朝、書斎で博士の死体が発見された。死体の右手には半分に破られたトランプが。一方、山火事は収まる気配がなく、屋敷の人たちを追い詰めていく。
昔、旧訳で読んだ時にはダイイングメッセージの真偽を突き止めていくロジックがよくわからなかったんだけど、新訳で読んだらわかりやすくより面白かった。前に読んだとき何か変な話だなと思ったのは、ロジカルな部分を読み取りきれなかったからなんだな。改めて読むと、手がかり、ダイイングメッセージが孕んでしまうある問題に挑戦し始めた作品だったということがわかる。山火事の絡ませ方も、緊迫感を高めることに加え、時間的なリミットを設定してこの問題に強制的にけりをつける為だったのかとも。なお、クイーン親子はどの作品でも結構仲良いが、本作では特にいちゃいちゃ感というか、ぶーぶー文句いいつつもお互い好きなんだなーという感じが出ている。エラリーがお父さんはしょうがないなぁ!的に振舞いつつもやっぱりパパ大好きな感じ、微笑ましいです。こういう父息子関係(子供成人済み)ってアメリカの小説ではあんまり見ない気がするんだけど・・・。私が陰惨なものばかり読んでいるからでしょうか・・・。
 

『静かなる叫び』

 1989年12月6日、モントリオール理工科大学の学生らはごく普通の日常を送っていた。バレリーはインターンシップの面接を受け、ジャン=フランソワは課題に追われていた。しかし1人の男子学生がライフル銃を校内に持ち込み、女子学生を狙って発砲し始める。犯人は14人の女子学生を殺害した後自殺し、バレリーは重傷を負ったものの生還。しかし生き残った人達にも深い傷が残った。1989年にモントリオール理工科大学で起きた銃乱射事件をモチーフに作られた作品。監督はドゥニ・ヴィルヌーブ。
 犯人の少年、被害にあった学生たち、それぞれの1日を静かなトーンで追っていくが、見ていてどんどんいたたまれなくなってくる。犯人が何をするつもりか、映画を見ている側には最初からわかっているわけだが、何かタイミングがちょっと違えば彼が思い直す機会があったのでは、あるいは被害をもっと小さくできたのではと思わずにはいられないからだ。犯行はそれほど計画的にも見えず、むしろ行き当たりばったりだし射撃の腕がすごくいいというわけでもない。なんとかできたのではと思えてしまうと言う所が辛いのだ。事件で無事だったとしても、助かった者は強い後悔に駆られ、ジャン=フランソワは自責の念に押しつぶされてしまう。生き残った人達がずっと苦しむというのがまた辛い。
 犯人は、女性が、フェミニストが憎い(彼は就職に失敗しており、女子学生が就職先を奪ったという思いがある様子)とメッセージを残す。彼の憎しみは何だったのだろうと茫然とする。自分と因縁のある誰かならともかく、漠然とある属性を憎むというのは、何なのだろうと。ヴィルヌーブ監督は一貫してその疑問と向き合っている気がする。
 バレリーは面接の際、面接官から「女性は妊娠したら(仕事を)辞めてしまうから正直採用したくない」と言われる。彼女はその場では何も言わないが、その言葉にとても傷ついたということがわかる。面接官の言葉の延長線上に、犯人の憎しみがあるようにも思った。終盤、ある選択を迫られるであろうバレリーが、それでも力強い表情であることにほのかな希望がある。 
                                                                 

『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』

 1950年代後半、ドイツの検事長フリッツ・バウアー(ブルクハルト・クラウス)はナチスの戦争犯罪の告発に執念を燃やしていた。ある時、数百万人のユダヤ人を強制収容所送りにしたアドルフ・アイヒマンに関する情報が、アルゼンチンから届く。バウアーはイスラエルの諜報機関モサドと接触、アイヒマン逮捕を狙うが、ドイツの捜査機関内にもナチスの残党がおり、バウアーの妨害を図る。監督はラース・クラウメ。
 似た題材の映画として、『ハンナ・アーレント』『顔のないヒトラーたち』が記憶に新しいが、物語内の時系列としては、本作、『ハンナ・アーレント』『顔のないヒトラーたち』ということになるのかな(『ハンナ・アーレント』は長期にわたる話なので全体をカバーするような形になるのかもしれない)。どの作品でも、主人公は政府や司法から、また国民から非難・攻撃される。皆、上向いてきた国内情勢に水を差すようなことをしたくないし、不愉快な過去と向き合いたくはないのだ。現在のドイツを見ると、第二次大戦時の反省が徹底されているというイメージなのだが、すぐにそういう状態になったというわけでは全然なく、バウアーのような人たちが粘り強く取り組んできた成果ということなのだろう。
 TV出演したバウアーが、ドイツの何を誇るべきかと若者に問われた際の言葉が印象に残った。バウアーは、土地や森は元々そこにあったものだから我々が誇ることではない、ゲーテもニーチェもアインシュタインもすごいのは彼ら個人だから我々が誇る事ではない、我々が誇れるのは自分達が親や子供に何をできたかということだ、というような話をする。バウアーにとってはナチスの犯罪を暴き、自国で司法の裁きを受けさせる(バウアーはアイヒマンを捕えるだけでなく、ドイツで裁判を行うことが重要だと考えた)ことが、国を愛することであり誇るなのだ。しかし、周囲は彼を(国の)裏切り者扱いをする。これが辛くもどかしい。愛国心て何だよ!と叫びたくなるのだ。
 バウアーはユダヤ人で収容所に送られた体験を持つ。執拗なナチスの残党狩りはその復讐だろうと揶揄する人もいるが、バウアーにとっては一度ナチスに屈した(収容所から出る代わりにナチスに従うという)ことへの後悔からの行動であり、今過去と向き合うことが自国の未来につながると信じてのことである。アイヒマン逮捕の顛末は史実通りで、本作の後味は苦い。しかし、本作の約十年後が舞台である『顔のないヒトラーたち』でも描かれたように、バウアーのような人が再び立ち上がるところに、ドイツという国の希望があったのではないかと思う。

『ホワイト・バレット』

 救急病棟に、頭に銃弾を受けた強盗犯チョン(ロー・ホイパン)が搬送されてきた。警察との銃撃戦で負傷したのだ。チョンから仲間の情報を得たいチャン警部(ルイス・クー)らは殺気立つが、チョンは口を割らない。加えて、至急の手術を勧める医師トン(ビッキー・チャオ)に対しても説得に応じず、手術を拒んでいた。監督はジョニー・トー。
 次々と事件が起き、目まぐるしくスピード感がある。スリリングで引き込まれるが、着地点がずっと見えない不思議な作品だった。医療群像劇サスペンスとクライムサスペンスを無理矢理合体させたみたいだ。また、やたらとエピソード量がありもたれそう。トンが担当する神経外科の患者たち個々のエピソードも語られるのだが、それがやたらと濃い。トンの当初の所見が外れて下半身の自由が奪われたと絶望する青年や、難手術に挑む中年夫婦、認知症らしきにぎやかな老人。1組ずつでも1本の映画になりそうな悲喜こもごもなのだが、それをぎゅうぎゅう詰めにしてくる。チョンと警察のかけひきの伏線となる部分もあるのだが、おおよそはそれほど関係ない。また、トンは外科医なので手術シーンが頻繁に出てくるが、セットも内臓も結構ちゃんと作って撮影している。でも、ストーリー上これもあんまり必要ないんだよね・・・。少なくとも、内臓を出す必要はない。やれることは全部やろうみたいな変な意気込みを感じた。
 登場人物が全員ぴりぴりしており、ややヒステリック。手術を失敗しかけ、自分の技量への自信を失っているトンは情緒不安定だし、チョンに翻弄され汚職まがいの行為に手を出してしまうチャンも、強盗団への対応に右往左往する警官たちも、神経を削られていく。その中心にいるのはチョンだが、彼もまた頭に銃弾が埋まったままで、命のタイムリミットは迫っている。どんどん追い詰められていく緊張感でストーリーを引っ張るが、その緊張感の果ての、謎のクライマックス。いや起きていることは謎じゃないんだけど、見せ方がこうくるの?!というもので、見応えはあるんだけど笑ってしまった。音楽含め、過剰なエレガントさがいきなり投入されるのだ。いきなり奇跡みたいなことが起こってしまうのも、まあありかな!という気分になってくる。

『ネオン・デーモン』

 トップモデルを夢見て田舎からロサンゼルスへ出てきた少女ジェシー(エル・ファニング)は、モデル事務所と契約を交わし、人気カメラマンのテストモデルになる。若さと天性の魅力によってカメラマンやデザイナーの心を捉えたジェシーはトップモデルへの階段を上り始めるが、彼女の魅力はライバルたちの嫉妬心に火をつけるものでもあった。監督はニコラス・ウィンディング・レフン。
 メタリックな蛍光色に彩られた夢のように美しく血みどろな世界という、「いつものレフン」感満載の新作。見る側としてはまたこれ?という気分もあるが、ビジュアルの癖こそがこの監督の最大の持ち味なんだろう。『ドライヴ』にしろ『オンリー・ゴッド』にしろ本作にしろ、物語自体は非常にオーソドックスな恋愛であったり復讐譚であったりという、ごくありふれたものだしストーリーライン自体もそんなに捻ってこない。見せたいのは物語を媒介とした映像そのものということか。話がどうこうとかはあんまり興味ないのかもなー。美しさ=ビジュアルが全てという本作のモチーフは、レフン監督の作風と一致しているとも言える。それにしても、若さと美しさの追求が人を狂わせていくというのは、今時それかよって感じが否めない。未だにそれがネタになるくらい、ハリウッドは美と若さが持てはやされる世界ってことなのだろうが。
 本作の設定の前提として、ジェシーを演じるエル・ファニングに絶対的な魅力がなければならないのだが、正直な所、それほどとは(私個人の趣味では)思えなかった。なので、カメラマンもデザイナーもジェシーを見ると息を呑み夢中になっていくという展開には、なんだかなという気分になってしまう。また、周囲の女性達も彼女に嫉妬し、あるいは魅了されてとんでもないことになるのだが、何というハイリスクローリターン!的な感想しか出てこないのね・・・。わざわざそんなことするほど、ジェシーに魅力ある?って思ってしまう。また「そんなこと」後の3人の女性も、特に魅力が増したようには見えないし、カメラマンにインスピレーション与えるようにも見えない(ので終盤の抜擢が茶番に見えてしまう)。美の基準て難しいなー。「ネオン・デーモン」とは一見ジェシーのようでもあるが、彼女の中にそういうものを見出してしまう周囲の心理、そしてそういうもの、外的な美に固執してしまう監督の性分のことを指しているようにも思った。
 それにしても、前2作よりも悪趣味だなと(自慰はともかく満月の晩のあれは、大昔のすっごく安い悪魔崇拝ネタみたいで何か観客バカにしてる?って気分に・・・)思うところが多くげんなりした。自分の趣味の方向に舵を切りすぎるとどん引きされるタイプの監督だと思う。
 なお、なぜかキアヌ・リーヴスが出演しているのだが、彼が演じるモーテルの主だけ他の登場人物とは異質に見えるところが面白い。ジェシーに何か特別なものを感じている風にも見えない。キアヌは(世間的に一応)美形ということになっていると思うのだが、作中の美と若さを巡るあれこれにはとんと興味がなさそうなのだ。彼にとっては女は女、男は男、ピューマはピューマでそれ以外の何かは付加されていないのだろう。

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