3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2016年12月

『自生の夢』

飛浩隆著
 天才詩人アリス・ウォンが生み出した「詩」とその後の変遷を描く「#銀の匙」「曠野にて」「野生の詩藻」、言葉の力で大量殺人を行った殺人犯が“忌字禍”を滅ぼす為に召喚される「自生の夢」等を収録した、著者10年ぶりの作品集。
 twitterで著者のアカウントを発見した時にまず思ったのが「生きてたんだ・・・」、あとがきの最後の文章を読んで思ったことが「普通に生活している人だったんだ・・・」なので、新作が出て本当にほっとしました。『グラン・ヴァンカンス』シリーズ2作はプログラムにより造られた仮想現実世界を描いたが、本作収録作の多くでは「言葉」による世界の変容が描かれる。情報が物理を変容させるというイメージは似ているように思う。10年ぶりに著者の作品を読むせいか、こんなに情動的だったかなという意外性はあるが、その世界のイメージがあふれ出てくる感じは、「変容」に対するフェティッシュな感覚は変わっておらず、そうそうこれだとうれしくなった。ただ、当時ほど最先端のとんがった感じはしないが、それは読者としての慣れによるものかもなぁ(ここ10年間で書かれたものを収録しているので、SF小説シーン自体の変化もあるだろうし)。アリス・ウォンが生み出したものを巡るシリーズと表題作では、言葉を書く主体と書かれた言葉との、書く/書かれる関係の反転に、足元を危うくするような不安が迫る(何しろ小説だって「書かれる」ものだし)。また、「灰洋」が襲ってくる「海の指」は記憶との戦いのようでもありぞわりと怖くもの悲しい。

『アズミ・ハルコは行方不明』

 郊外の町に住む愛菜(高畑充希)は元同級生のユキオ(大賀)に夢中。ユキオは学(葉山奨之)とグラフィティアートを始める。行方不明になった独身OL、安曇春子(蒼井優)をモチーフにしたグラフィティはSNSで拡散されていく。一方、街では男性ばかりを無差別に襲う、女子高生ギャング団が出没していた。原作は山内マリコの同名小説。監督は松居大悟。
 時系列も視点も大々的にシャッフルされており、原作よりも更にうねっている感じ。ただ、手持ちカメラの動きの不安定さや、時間・視点の行き来の頻繁さで、かなりごちゃごちゃした印象にはなっている。脚本は頑張っていると思うのだが、ビジュアルとして整理されていない感じ。
 原作は、郊外に住む若い女性(だけではないが)の鬱屈と限界を描きつつも、彼女らを応援する部分があり、そこにぐっときた。が、本作は原作小説ほど訴えてくるものがない。特に愛菜のエピソードは、彼女の表層の部分しかとらえられていないように思った。原作でも、愛菜はそもそもそんなに「厚み」がある人としては描かれておらず、恋人への依存が強い「うざい」女性なのだが、それでも彼女が感じているが言語化できない閉塞感、鬱屈はある。映画だと、そのあたりが零れ落ちてしまい、単に「うざい」女性で終わってしまいそう。
 春子のエピソードの方が、春子の鬱屈や人となりが分かりやすい。会社の社長と専務という、分かりやすい悪者、彼女がどういう目で見られているか象徴するものがあるので、そこへ照らし合わせることが出来るからだ。この2人、本当にろくでもない男性なのだが、「世の中」の一面を非常に分かりやすく代弁している。それがまた腹立たしい。春子の職場の先輩女性はある方法で彼らをぎゃふんと言わせる。爽快ではあるが、なんだかなぁという気もする。結局、彼らの価値観に乗っかった上でのことになっちゃうよなと思うのだ。
 女子高生ギャング団の面子の(映画館のシーンでの)面子の揃え方がいい。そのへんにいそうな、特に美人でもないし目立たなそうな顔の子もちゃんといる。いわゆる芸能人ぽさ、俳優ぽさが出ているのはフロントの子くらいで、他は本当に普通なのだ。そういう子たちがわーっと駆け出す(そしてその他の女性たちも駆け出す)クライマックスはなかなか良かった。ここを外したらダメだということを、監督がちゃんと理解しているんだなとほっとした。

『コンビニ人間』

村田沙耶香著
36歳未婚の古倉恵子は、大学生の頃からコンビニでバイトを始め、就職活動もせずずっと同じ店でのバイトを続けてはや18年目。次々に入れ替わる店長とアルバイトを見送りつつ、店員という仕事に勤しみコンビニの商品を食べ続け、生活の殆どがコンビニによって成り立っていた。ある日、新人バイトとして白羽という男性が入ってくるが、彼は婚活の為にコンビニに来たのだという。
第155回芥川賞を受賞したことで一気に売れた作品だそうだが、これは(著者がというより編集者の指導な気がするけど)賞狙えるしこれなら狙いたくなるわ!と納得。文章はかなり読みやすくしてあるし、分量も短め。すっと読み切れるのに後を引く。とっつきやすさと引っかかりとが理想的なバランス。古倉は作中では「変わった人」「ヤバい」扱いだし、世間一般でもおそらくそうなのだろう。彼女はいわゆる人並みな振舞が出来ない。強固なマニュアルがあるコンビニならば、自分を人並みという枠にはめて、人並みであるかのように振舞うことができる。しかし、これはそんなに変わったことではなく、多くの人はわざわざそれを意識しないというだけだろう。そして彼女の「変」と言われる部分は、具体的な根拠があるものではなく、世間の多数派がそう言っているからというだけのことだ。むしろ無意識に枠に合わせてしまう人たちの方が不自然なんじゃないのかという気もする。古倉の行動原理はある意味非常に合理的であるようにも見える。妹の子供の顔を見に行った際のシチュエーションが、彼女の考え方を端的に、しかも直截ではなくあらわしていて上手い。さりげないけどすごい異物感。 でも理論的は理論的なのだ。

『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』

 未知の魔法生物を求めて世界中を旅している、魔法動物学者ニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)。ニューヨークにやってきたニュートは魔法のトランクに入れて持ち歩いている魔法生物に逃げられ、魔法生物の飼育を禁止しているアメリカ合衆国魔法議会に指名手配されてしまう。ニューヨークでは魔法によると見られる町の破壊が起きており、一般人=ノーマジから姿を隠している魔法界と、人間界との軋轢が心配されていたのだ。原作はJ・K・ローリングの小説で、脚本もローリングが担当。監督はデビッド・イェーツ。
 ハリー・ポッターシリーズからのスピンアウトというか、新シリーズ。私は原作は読んでいないのだが、時代を遡り舞台は1920年代。当時の街並みや衣装を楽しむ、コスチュームプレイものとしてもいい。レッドメインがとにかくこの時代の服装が似合う。他のキャストも、レトロな服装が様になっている人ばかりだ。
 私はハリー・ポッターシリーズには今一つ乗れず、原作も映画も全ては把握していない。当初の(多分子供への読み聞かせという側面が大きかったからかも)設定の行き当たりばったり感や、魔法世界と一般人世界の両方が存在する世界のはずなのに2つの関連性が乏しい所、他国という概念が希薄な所などがひっかかっていたのだ。本作はある程度世界設定がならされた状態でリリースされているので、違和感がないわけではないが、ハリポタシリーズよりはそのあたりが改善されている。何より、登場する魔法生物たちが時にかわいらしく時にグロテスクで魅力がある。ニュートは魔法生物の保護を訴える立場だが、いわゆる動物愛というよりも、研究者としてのメンタリティが強く、時に人間そっちのけ。よりよいサンプルが欲しい!データが欲しい!という科学者の性を垣間見られる。魔法生物を愛してはいるが、ちょっと距離感があるところがいいのだ。
 ニュートにしろ、魔法議会の調査官だがニュートと行動を共にすることになるティナ(キャサリン・ウォーターストン)にしろ、魔法を使えない一般人だが巻き込まれていくコワルスキーにしろ、皆どこか不器用で、「世間」で上手くやっていけない。そんな人たちが力を合わせて事態を何とかしようとする話なので、ある意味エリート揃いのハリーポッターよりもぐっとくるものがあった。特に、魔法界にしてみたらよそ者であるコワルスキーが、「友達だから」とニュートを助け続ける姿がいい。魔法界と人間界は相変わらず断絶しているが、こういう人がいるのならあるいは、という希望を持たせる。一方で、不器用で「世間」に受け入れられたいばかりに悲劇を起こす人もいて、これはなんとも痛ましかった。2つの世界両方での差別の犠牲になったようなものだよな・・・。

『ブルーに生まれついて』

 1950年代。甘いマスクとソフトな歌声で、ジャズ界のジェームズ・ディーンともてはやされたトランペット奏者チェット・ベイカー(イーサン・ホーク)だが、麻薬に溺れていく。1966年、麻薬がらみのトラブルで顎と歯に重傷を負い再起不能かと思われたが、ジェーン(カルメン・イジョゴ)の献身的な愛情に支えられ、ドラッグを絶ちミュージシャンとして再起を図る。監督・脚本はロバート・バドロー。
 ジャズミュージシャン、チェット・ベイカーの伝記映画というよりも、彼に対するオマージュのような雰囲気だと思う。伝記としてはエピソードが断片的すぎることに加え、ベイカーが主演を務めるベイカーの自伝映画が作中作として挿入されるので、虚実混じった感が強くなる。映画で妻エレインを演じたジェーンが実際に彼のパートナーとなり、自伝映画はベイカーが重傷を負ったことにより製作中止になってベイカーの記憶の中にしかないので、なおさらレイヤーが入り混じる。これはベイカーとエレインの思い出なの?それともジェーンとの思い出なの?と混乱するところも。ベイカーにとっては、2人とも同じような存在なのかもしれないなとふと思った。
 重傷からリハビリを重ね、再起不能と思われていたベイカーが奇跡の復帰を遂げる。遂げることは遂げるのだが・・・。実在の人物だからネタバレも何もないのだが、何とも苦い。確かに大変な努力があったのだろうが、心の弱さはどうしようもないのか。ジェーンとの二人三脚のようなリハビリの過程も、愛が深いとも言えるが依存しているとも言える。彼女には彼女の目標があるということを全く考慮していないということが終盤で露呈してしまい、これまた苦い。才能は確かにあるのだが、弱く脆すぎる。同時代の天才であるマイルス・デイヴィスの存在が大きすぎ、プレッシャーに耐えられなかったというのも、プロとしてどうなのよ!と言いたくなってしまう。マイルスはマイルス、自分は自分というふうには思えなかったんだろうなぁ。情けないのだが、自分が生きる場所がジャズの世界にしかない以上、そこで否定されたら生きていけないというところが痛切。
 イーサン・ホークのどこか弱弱しいルックスが、役柄と合っており好演。トランペットはさすがに吹替え(でも演奏の仕方は特訓したそうで、素人目には違和感はない)だが、歌は本人が歌っている。私はホークにセクシーさを感じたことはなかったのだが、本作での歌声にはぐっときた。この曲、本当にいい曲だったんだなとしみじみさせられた。

『まなざしと微笑』

 ケン・ローチ初期傑作選にて鑑賞。1981年作品。イギリス北部の鉄鋼の町シェフィールド。高校を卒業したミックとアランは就職先が見つからない。職業紹介所に通っても職がなく、失業手当をもらう為に列に並ぶ毎日。やがてミックは靴屋の店員をしている少女と親しくなり、アランは食べるために軍に入る。
 不景気な背景だが、ボーイ・ミーツ・ガールな青春ものとしての側面も強い。ケン・ローチ作品(特に初期の)にしては珍しくユーモラスで笑える所が多い。ボーイ・ミーツ・ガールだが少年の気が利かな過ぎる。サッカー観戦での振る舞いは、そりゃあ彼女は怒るよ!と呆れてしまうが、まだ意識が恋愛の方に行っていないんだろうなぁ。全般的に、少年と少女が一緒にいるシーンでは少女の方が大人びているというか、如才なさがある。映画館でチケットを買う時の振る舞い等、少年への配慮がある。この年齢では女性の方が大人びているというわけではなく、彼女は既に「世の中」に出て働いているからという側面が大きいのだろう。ミックは就職の面接等でも世慣れておらず、失言も多い。正直と言えば正直なのかもしれないが、まだまだ子供という感じだ。
 ただ少女もやはりまだ少女で、大人というわけではない。母親がデートをしているところを見てしまい「不潔」と言ったり、離婚した父親を恋しがっていたりする。母親、父親もそれぞれに別個の人生を送る人間で、関係性は変化せざるを得ないということを、なかなか受け入れられないのだ。両親ともに彼女を愛してはいるのだろうが、彼女が望むような形には出来ない。ミックの家庭は(父親が失職したみたいだが)関係性が比較的安定しており、両親や姉とのコミュニケーションもそこそこ円滑な様子なのとは対称的だった。
 軍に入ったアランは度々帰省するが、彼の言動がどんどん軍に感化されていくところがちょっと怖い。アイルランドとの関係が緊張している時期なのか、現地の鎮圧に参加しているようなのだが、相手が一般人でもアイルランド人だから、カソリックだからということで疑問を持たなくなっている様子がちらっと見える。なまじ若くて世の中を知らないから、簡単に感化されちゃうんだろうな。そうでもないと軍人なんてやってられないという側面はあるのかもしれないけど、自分の行いに疑問を持たなくなっていくのは怖い。

『家庭生活』

 ケン・ローチ初期傑作集にて鑑賞。1971年作品。若い娘・ジャニスが妊娠するが、世間体を気にする両親によって中絶を強いられる。両親の無理解の元、ジャニスは徐々に精神を病んでいく。
 ジャニスが起こす問題、両親の不寛容さ、親子の軋轢といったものは現実でも目にするし小説や映画のテーマとしてももちろん多々取り上げられる、よくある話と言えばよくある話だ。それ故に普遍性を持つ。家族の問題としてはかなり類型的な類のものなのだが(本当に典型的なパターンで、臨床心理の教材として使えるんじゃないかというくらい)、それを冷徹に映し出しており容赦がない。
 ジャニスの両親は当時としてはおそらく普通の、善男善女なのだろう。しかし2人とも、自分達の世界、自分達の価値観とは違うものもこの世にはある、違うやり方でも生きていくことはできるという発想がない。特に母親の方がジャニスに対する支配欲のようなものが強く、従順であることを強いる。父親は妻がジャニスに対して抑圧的すぎるのではという疑問を当初は持っているが、ジャニスが精神病院に入れられたことで、娘はやっぱり問題があってダメなんだと、妻と同意見になってしまう。
 問題の当事者はジャニスではあるのだが、彼女が抱える問題は両親、特に母親との関係に根差すもので、両親が変化しなければ、おそらく状態はよくならない。ジャニスは最初グループホームのような施設に入るが、その間は言動は落ち着いており、本来自分で考え行動できる人なんだろうとわかる。両親との物理的な距離が離れていれば、彼女は自分を保てるのだ。それが崩れる後半の展開は、もうやりきれなさでいっぱい。
 やりきれなさを募らせるのは、彼女の病状の悪化がほかならぬ医療によってもたらされるということだ。当初はジャニス、両親それぞれに対するカウンセリングが行われていたが、当時としては先進的だったこの方法は、病院の理事会には理解されず、担当医の契約が切れると共になしくずしに終了してしまう。後任の医師は従来の治療法、電気ショックと鎮静剤による「治療」をし、結果、ジャニスの自主的な意思はどんどん後退してしまうのだ。
 当時のイギリスの精神医療が他国と比べてどの程度の水準だったのかはわからないが、こんな前時代的な「治療」だったのかとショックだった。そもそもジャニスは、現代ならば入院が必要なレベルではない。医者と医療が彼女の症状を作り上げてしまうのだ。ラストシーンには背筋が凍る。時代の限界とは言え、もしカウンセリングが続けられていたら、彼女の人生はもっと違うものになったのではとやりきれなかった。
 

『シークレット・オブ・モンスター』

 1918年、第一次世界大戦後のフランス。ヴェルサイユ条約締結の為にフランスに駐在中のアメリカ政府高官には、美しい妻と息子がいた。息子は依怙地で教会での投石や自室での籠城など、両親の手を焼かせていた。家庭教師にはかろうじて懐くものの、彼の言動は更に手の付けられないものになっていく。監督はブラディ・コーベット。
 冒頭で第一次世界大戦前後の世界情勢が解説されるのだが、これは日本オリジナルの字幕解説だそうだ。このあたりの経緯はうろ覚えだったのでかなり助かった。逆に言うと、全く事前知識がない状態で見るとあまり面白くない作品ということになる。色々と仕掛けがある作品らしいのだが、私は漫然と見てしまったので色々と気づかず、勿体ない事をした。ただ、作品公式サイトのネタバレ解説を読んでも、思わせぶりすぎてあまり意味なかったんじゃないか?という気もしてくる。インパクトあるとすれば、キャストに関することくらいかな・・・。雰囲気だけで乗り切っている作品な気がしなくもない。
 少年がやがて独裁者=モンスターになっていくことが示唆されるのだが、「モンスター」と言うほど奇妙ではないように思った。扱いにくい厄介な子供ではあるが、まあ想定内の厄介さ。この家庭で問題がありそうなのはむしろ両親、特に母親だろう。父親は典型的な仕事にかかりきりで子供に無関心な人。一方母親は、子供そもそも母親になりたくなかったのではないか。家庭教師を解雇する時に話す内容から、まだ結婚も出産もしたくなかった(そしてせずに済む環境で生きていた)らしいが、父親に粘り強く口説かれて承諾したのだ。息子に対して母親として振舞おうという意欲はあるが、双方の相性がいまひとつ悪く、一緒にいればいるほど関係が悪化していきそう。子供を産んだら即母親として振舞えるわけではないし、親子が必ずしも情愛にあふれているわけでもない。2人とってはこの母とこの子供の組み合わせは運が悪かったとしか言いようがない。なぜ独裁者が生まれたのか、具体的に説明せずにただ子供時代を見せるという形だが、それだけでもあーこの状況はきついな・・・という気分にはなる。
 なお、父親はアメリカの高官なので子供も国籍としては(少なくとも劇中で描かれる少年時代では)アメリカ国民ということになるのだろうが、そこから独裁者が生まれるというところが皮肉だ。

『満潮(上、下)』

シッラ&ロルフ・ボリリンド著、久山葉子訳
警察大学の学生オリヴィアは、未解決事件を調べる課題として、刑事だった亡き父が担当していたノードコステル島の殺人事件を選ぶ。臨月の女性が砂浜に生き埋めにされ、満潮により溺死したのだ。オリヴィアは父の同僚だった男性を探すが彼は刑事を辞め失踪していた。一方、町ではホームレス襲撃事件が起きていた。
過去の殺人事件やホームレス襲撃事件、大企業の役員が抱える秘密など、様々な要素、様々な人々の過去と現在が絡み合っていく。要素が多いので真相のフェイクとなる部分も多く、えっそっち?と驚かされる。裏と表がくるくる入れ替わるパズルのような印象があった。ピースの組み合わせ直しが頻繁に行われ、話がどんどん広がっていくのだが、着地点がまた意外。個人的な怨恨が、一番突発的に発露されるものなのかも。オリヴィアの若さ故の正義感と無鉄砲さ、夢中になりやすや見込みの甘さ(現職警官たちとの見解の相違がな・・・)微笑ましくもあり、彼女の今後を応援したくなる。

『五日物語 3つの王国と3人の女』

 ロングトレリス国の女王(サルマ・ハエック)は不妊に悩み、犠牲と引き換えに怪物の心臓を食べて男の子を授かる。怪物の心臓を料理した下女も同時に妊娠しており、男の子を産んだ。2人の男の子は兄弟のように育つ。一方、ストロングクリフ国で染料仕事をしている老姉妹。姉は美しい歌声を彼女の姿を知らない王(ヴァンサン・カッセル)に見初められ、不思議な力で若さを取り戻し王宮に入る。そしてハイヒルズ国の王女は城の外に出る為に結婚を切望していたが、王の謎かけを解き結婚の権利を得たのは“鬼”だった。監督・脚本はマッテオ・ファローネ。
 衣装とセット、ロケ地が、中世スペインかイタリアのようでいてどこでもないような雰囲気で素晴らしい!撮影もとても美しく、全般的にゴージャス。しかし、ファンタジーとは言っても本来の昔話の味わいの強い、血と土の臭いがするもの。時にグロテスクで不条理だ。近年増えた「実は○○だった昔話」とは一味違う。原作は17世紀にイタリアで書かれた民話集『ペンタメローネ 五日物語』だそうだ。『ゴモラ』の監督が本作のような作品を撮るというのが意外だった。
 3つの物語から成る作品だが、物語の中心にいるのは3人の女性だ。どの人も、それぞれ欲望を抱いている。ロングトレリス国の女王の前に現れた老人は、望みを叶えるには犠牲が必要と言う。彼女らは何が犠牲になるのかわからないまま、望みの為に邁進してしまい、それが思わぬ結果を呼び寄せる。特に老姉妹のエピソードは、王の好色さ(カッセルって本当に好色な役が似合うな・・・)下種さと相まって痛ましい。
ラスト、燃える綱の上を曲芸師が綱渡りするシーンがある。美しいが危うい。人の人生もまたこのように危ういものという暗喩のようでもあった。
 しかし最も昔話、おとぎ話っぽいのは、ハイヒルズ国王が飼育していたある物だろう。よ、よりによってそれか!人によっては卒倒しそうだけど見ているうちになんとなく可愛く見えてくるから不思議だ。クリーチャーの造形にはさほど気合が入っていない(意外とシンプル)なところに逆に味があった。
 なお、若返った老姉妹の姉が森の中に立ちつく姿が、なんとくなくマックス・エルンストの絵(「花嫁の装い」あたりの)の一部みたいに見えた。赤毛のつややかさ、ボリューム感とその隙間から見える肉体の質感がそう思わせたのか。

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