3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2016年12月

『エンピツ戦記 誰も知らなかったスタジオジブリ』

舘野仁美著、平林享子構成
スタジオジブリのアニメーターとして、動画チェックとして27年間のキャリアを積んだ著者が語る、アニメーターという仕事、ジブリというスタジオの姿。スタジオジブリの広報誌『熱風』に連載された回顧録を書籍としてまとめたもの。巻末に構成者あとがきがついているのだが、それによると著者の言葉は当初はもっと鋭く率直だったそうだ。登場する人たちの殆どは現役なので、さすがに諸々配慮して柔らかい言い方に修正したらしい。とは言え、配慮が窺える言い回しではあるが、個人、組織に対する言葉はやはり鋭い。明瞭な否定の言葉はないものの、著者の中ではここはひっかかっていることなんだろうなとか、このあたりは問題だと思っているんだろうな、という意識が透けて見えるところが面白かった。動画チェックというポジションの板挟み感や細かな気の回し方等、これは本当にきつかったろうなと思う(基本的に「ダメ出し」する仕事なので社内でも煙たがられるし動画と仲良くなりすぎるとダメ出ししにくくなる)。著者は宮崎駿の側で長年働いてきたわけだが、アニメーターとしての姿とはまた違う、経営者としての宮崎、上司としての宮崎の姿が描かれている。昔気質の騎士精神みたいなものを持っているという指摘にはなるほどなと。そして高畑勲はやはり怖い人なのだった・・・。上の人たちが特定局面で超有能かつ癖のあるタイプだと部下は大変だよなー。勉強にはなるだろうけど、自分が食われないようにする距離感の取り方が難しい。

『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』

  幼い頃に科学者だった父親ゲイレン(マッツ・ミケルセン)を兵器開発の為に帝国軍に拉致され、父親の盟友で反乱軍の異端児だったソウ・ゲレラ(フォレスト・ウィテカー)に保護されたものの、ソウにも置き去りにされたジン・アーゾ(フェリシティ・ジョーンズ)は、一人きりで生きてきた。彼女の背景を知った反乱軍はジンに接触。ジンは反乱軍のキャシアン・アンドー(ディエゴ・ルナ)と共に、巨大兵器デス・スターの設計図入手に挑む。監督はギャレス・エドワーズ。
 スター・ウォーズシリーズの「エピソード4新たなる希望」直前に位置づけられる物語。とは言え、ジンにしろアンドーにしろジュダイではないし、そもそも世の中でジュダイやフォースの存在自体が眉唾ものだと思われているらしい。また当初、ジンは生きていくのに精一杯で、帝国軍だろうが反乱軍だろうが知らん、という態度だし、反乱軍であるはずのアンドーの態度にも「仕事」感が強く嫌々な風にすら見える(ゲイレン殺害の指令を受けているからというのもあるけど)。強い使命感があるわけではなく、行動のモチベーションはさほど強くない。キャラクターとしてもそれほど「立って」おらず、本当に「その他大勢」感がある。そのせいもあってか、物語前半はかなりかったるく平坦な印象。正直な所、少々退屈だ。
  しかし後半、急速に気分が盛り上がっていく。ジンに強いモチベーションが生まれ、アンドーたちもそれに感化されていくのだ。大して共通項も使命感もなかった人たちが、帝国軍の好きにさせてたまるか!という意地で繋がり、なんとかミッションを遂行しようとする。彼らの闘いが、エピソード4の「希望」に繋がるのだ。ジュダイたちの物語は王道の英雄物語だが、本作はその背後にいた多数の名もなき人々の物語だ。彼らにもそれぞれの人生があり物語があった、彼らがいたから次の物語に続いたのだと感じさせるクライマックスには、やはりぐっとくる。色々と(主に脚本上の)難点も多い作品なのだが、クライマックスの盛り上がりで帳消しになるくらい。
 キャラクターとして魅力があったのは、おそらく本作見た人の多くは同じことを言うだろうが、チアルート・イムウェ(ドニー・イェン)と相棒のベイズ・マルバス(チアン・ウェン)。チアルートは座頭市をイメージしたような盲目の僧侶だが、何しろドニー・イェンが演じているのでやたらと強い。しかし彼はジュダイではなく、フォースは使えないし、体感したこともないだろう。それでもフォースの存在を信じ続けている。その姿勢が何だか泣けた。ベイズはフォースを信じていないが、チアルートを信じ、時に無茶な彼の行動を支え続ける。ぐんぐん先に行っちゃうチアルートも、ぶつぶつ言いながらフォローするベイズも可愛いのだ。

『ヒッチコック/トリュフォー』

 フランソワ・トリュフォーによるアルフレッド・ヒッチコックのインタビュー集であり、映画の教科書として名高い『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』。当時のインタビューの音声(動画はない。インタビュー当時も写真のみの撮影だったようだ)や、マーティン・スコセッシやウェス・アンダーソン、クリストファー・ノーランら、現在活躍している監督たちへのインタビューにより構成されたドキュメンタリー。監督はケント・ジョーンズ。なお日本語字幕は日本における『定本~』の翻訳者、山田宏一が担当している。
 私は『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』は未読なのだが、なぜヒッチコックとトリュフォーなのかということは前々から不思議に思っていた。ヒッチコックの作家性を世に知らしめたのがトリュフォーということだったのか。それまでヒッチコックは職人的な監督、商業監督という認識だったのだろうが、トリュフォーはヒッチコックの技法を分析し、本人に確認していく。その技法が後々どのように見られ、影響を与えてきたのかを、現代の監督たちが語る。私はヒッチコックに対してトリュフォーに対しても熱心な観客ではないし、映画の技法面にも疎いので何だか申し訳ない気分にもなったが、とても面白かった。ヒッチコックの演出、画面の作り方はシステマティックでもあるのだが、それを極めていくと実にヒッチコックぽい、というスタイルになる。
 いいインタビュアー、聞き手というのはどういうものか、ということを見ながら考えた。単に聞き上手なだけではだめだろう。トリュフォーはヒッチコックへのインタビューの際、時間をかけて入念に下準備をしてから臨んだそうだ。インタビュー対象(とその作品)に対する知識はもちろん、映画というジャンル全体について知識がある、かつ映画だけではなく様々な引出しがあって相手の反応に応じて取り出せる、という状態があってこそのインタビュー・・・だとすると大分ハードルが高い。しかしその高いハードルを越えてきたから、ヒッチコックはトリュフォーを信頼し話をしたのだろう。相手が自分(と自分がいる分野)のことをわかってるな、よく見てくれてるなと思えれば、そりゃあ積極的に話したくなるよな。色々なインタビューを読んでいても、分野に関わらずいいインタビューってインタビュアーの知識が広いし深いケースが殆どだと思う。

『失われた時を求めて 5 第三篇 ゲルマントのほうⅠ』

マルセル・プルースト著、高遠弘美訳
美しいゲルマント夫人に憧れる“私”は、散歩する夫人を待ち伏せ何とか一目見たいと願う。ゲルマント夫人の甥である友人サン=ルーを訪ねて“私”は兵営を訪ねる。サン=ルーは訪問を歓迎するが、“私”はゲルマント夫人に紹介してもらえないかと期待していた。
光文社古典新訳文庫版でちまちまと『失われた時を求めて』を読み進んでいる。いつになったら終わるんだとちょっと心配にはなるし一気に読みたい人には不便だろうが、新しい訳だとさすがに読みやすい。文章が古くなることで誤解していた部分も、修正されるというメリットもある。“私”とサン=ルーの会話は意外と気安く距離感も近く、これは結構ないちゃいちゃ感なのではないだろうか・・・。サン=ルーの恋人がちょっととんがった、擦れた(ように演出している)所のある女性だという雰囲気がよく出ており、“私”が微妙に見下している感じも伝わる。本篇の中心にあるのは、“私”のゲルマント夫人への片思い。片思いといってもゲルマント夫人は30歳以上年上でまともに相手にされそうもないのだが、ストーカーまがいの「出待ち」はするわ、サン=ルーに対して何でスムーズに紹介してくれないんだよ!と軽くイラつくわで、なかなかに10代っぽい(“私”は17歳の設定)。具体的な恋というよりも、あるイメージに対する強烈かつ一方的な憧れ、彼の人生における片思いの結晶化みたいなもので、「隣の女の子」的なアルベルチーヌ(第二篇で登場)への思いとはまた違う。第一、二篇よりも“私”の若々しさ、若さ故のあさはかさが際立つ。サン=ルーの若さや育ちの良さ故の微量の傲慢さのようなものも率直に描かれているが、“私”の中にもそれはあるのだ。

『マダム・フローレンス!夢見るふたり』

 第二次世界大戦中、1944年のニューヨーク。音楽家たちのパトロンとして名の知られたマダム・フローレンスことフローレンス・フォスター・ジェンキンス(メリル・ストリープ)は歌手になることを夢見続けて内輪でのコンサート等をひらいていたが、実は大変な音痴。しかし自分ではそれに気づいていなかった。夫のシンクレア(ヒュー・グラント)は妻に夢を見せ続ける為にマスコミやショービズ界を買収し彼女を賞賛する記事のみ書かせていたのだ。しかしフローレンスはカーネギーホールでリサイタルを開くと言いだす。監督はスティーブン・フリアーズ。
 フローレンスは実在の人物で、1944年にカーネギーホールで行われたコンサートは今でも伝説として語り継がれているそうだ。フリアーズ監督はここ数年、実話を元にした映画をよく手掛けているが、本作も同様。手際のいい手堅いコメディになっているが、随所で不思議な奥行があり陰影が深い。同じネタを使った(フローレンスをモデルとしたフィクション)フランス映画で『偉大なるマルグリット』(グザヴィエ・ジャノリ監督)があったが、どちらもいい作品だと思う。方向性は違うが、どちらも一様でない見方が出来る作品として、余韻が深かった。
 フローレンスの物語のようでいて、実は夫であるシンクレアの物語としての側面の方が印象に残った。サブタイトルの「夢見るふたり」はちょっとロマンティックすぎないかなと思っていたが、本当に2人で夢を見た話だったんだなと腑に落ちた。金に糸目を付けずに、妻が音痴であることを本人からも隠し続け、歌手として舞台に立たせたシンクレアの行為は、フローレンスを馬鹿にしているようなものでもあり、音楽に対して不誠実とも言える。実際、作中で記者が彼のことを批判する。しかし彼の言動を見ていると、音楽に対してはともかく、妻に対しては決して馬鹿にしているわけではなく、彼女の望みを叶えたいとは本気で思っていたのだろうと思えるのだ。シンクレアには愛人がおり、愛人を住まわせているアパートの費用はフローレンス持ち、愛人ともまあまあ円満というちゃっかりさなのだが、フローレンスへの愛にも嘘はない(フローレンスが相続している財産目当てとも考えられるが、その財産切り崩して妻に夢を見せているわけだから本末転倒だろう)。フローレンスとシンクレアに限ったことでなく、当事者同士にしかわからない愛のあり方がある、というより愛のあり方は大体そういうものだろう。2人で夢を見ることが、この人たちの愛だったのではないか。
 ところでフローレンスは自分が音痴だということを本当に知らなかったのだろうか。子供の頃は天才少女ピアニストとしてホワイトハウスで演奏したこともあったとのことなので、本来は優れた音感があったのは確かだろう。本来あった音感が病気の後遺症でねじ曲がってしまったというわけだ。度合いはわからないが、ねじまがっているということは分かる、分かっていて修正しようとするから珍妙な歌声になる(歌を聞くと、それほど大幅にずれていない部分もあるので)のかなとも思った。ストリープのショックを受ける演技が巧みすぎるので、自覚がなかったんだという方向でに見えるのだが、音痴を承知でシンクレアの「嘘」に乗ったとも思える。
 ところで、記者が指摘した「音楽に対する冒涜」というのも、案外そうでもないかもなという気がした。フローレンスは音痴だが音楽を心底愛しており、音楽で人を楽しませようとする。その気持ち自体は音楽を冒涜するものではなくむしろ逆だろう。だからコール・ポーターもカーネギーに来たんじゃないかな。
 なお私はメリル・ストリープが苦手なのだが、間違いなく上手いことは良くわかる。ストリープはミュージカル映画に主演できるくらい歌が上手いのに、ちゃんと音痴の歌い方になっているし、表情の説得力がありすぎてねじ伏せられる感じ。また、ヒュー・グラントが素晴らしい。口八丁手八丁な男にはまりすぎている。打ち上げパーティーでぱっと踊りだす姿にはしびれた。

『路地裏の迷宮踏査』

杉江松恋著
本格ミステリ黎明期から1960年代くらいまでを中心に、数々の作品を残した海外の作家53人を紹介する書評、というよりも作家ガイドブック。日本ではあまり知られていない作家も多く含まれる。作家のプロフィール、おすすめ作品紹介はもちろん、当時の世相、社会背景までさらっと解説しており、著者の知識の幅と過不足のないバランス感が実感できる。一見、時代性とは無縁に思える作品であっても、その時代からは逃れられないし、積極的に時代性(ないしは時代に対するアンチテーゼ)を取り込み生き残る作品もあって、指摘されないとここは意識しなかったなと既読作品に対して気付いたところも。正直、大半の作家の作品は手に取ったことがない(多少読んでいるのはバークリー、ウォー、ブラウン、リューインくらいだもんなぁ・・・)が、ちゃんと読んでみたくさせるところが著者の腕。意外なところではO・ヘンリーをミステリ枠で扱っている。ミステリ小説に多少関心のある人にとっては、軽い読み物としてちょうどいいと思う。一気読みというよりも、休憩時間や寝る前に1章だけ読みたいという感じ。なお、著者はバランス感覚に優れているとは思うのだが、一か所これはちょっと言葉遣いのミスしたなという所があり、そこだけひっかかった。

『緋い猫』

浦賀和宏著
昭和24年。17歳の洋子は佐久間という青年に恋をする。しかし彼のプロレタリア仲間2人が殺される事件が起き、佐久間は姿を消した。洋子は佐久間を追い、彼の故郷である東北の寒村を訪ねる。そこで彼が東京で飼っていた三毛猫を見かけるが、村の人々は佐久間はいないと口をそろえ、彼女には監視がつく。
浦賀先生は精緻な球と暴投とを交互に繰り出してくるよね・・・。太平洋戦争直後の日本で、GHQの暗躍に下山事件にと出して来れば、これは何か巨大な陰謀が・・・!と期待するじゃないですか。そして閉鎖的な村、何か隠している風の村人たちとくればこれは横溝的なミステリの世界が・・・と期待するじゃないですか。しかしである。いきなりジャンルが跳躍するようなラストにはあっけにとられた。前フリはあそこじゃなくてそっちだったのかー!そういう意味ではトリッキーだが、フェイクが大ネタすぎる!なお非難しているのではなく、面白かったです。

『ゴッド・ガン』

バリントン・J・ベイリー著、大森望・中村融訳
発明家の友人が、自分は神を殺せると言いだした。表題作の他、題名の意味にぞっとする「ブレイン・レース」、空間の概念がよじれる「空間の海に帆をかける船」、不死の異星人と不死の秘密への執念を燃やす地球人研究者との長年にわたる攻防を描く「邪悪の種子」等、10作品を収録。
ベイリー初挑戦なのでまずは短編から。がっつりSFなものから、エルフが登場するファンタジー風味のものまで幅広い作風で意外と読みやすい。この世界観だとセオリーとしてはこうだけど、こうしてみたらどうかな?という発想がベースにあるように思った。前述の「空間の海に~」も「ブレイン・レース」もそんな感じ。またグロテスクだったり陰惨だったりするシチュエーションの中にも、どことなくユーモアが混じる。「ブレイン~」は情景としてはかなり怖い、グロテスクなものなのだが、登場人物に絶妙なマヌケさがある。「蟹は試してみなきゃならない」もユーモラスさと寂寥感が尾を引く。か、蟹も辛いんだな・・・。また「ロモー博士の島」は時代を先取りしすぎている感がある(笑)。

『裁かるゝジャンヌ』

 宗教映画祭にて鑑賞。1927年、カール・ドライヤー監督のサイレント映画。神のお告げに従い、兵を率いてイギリス軍と闘ったジャンヌ・ダルク(ノルネ・ファルコネッティ)は捕えられ、異端審問をうける。審問官たちはジャンヌの答えを誘導し、異端放棄の宣誓書に署名させようとする。死の恐怖から一度は署名したものの、ジャンヌはこれを撤回、火刑に処される。
 ジャンヌ・ダルクの伝説の中から異端審問のみにスポットを当てた作品。実際には異端審問は何度も行われたそうだが、本作ではそれを1回、ほぼ1日の出来事として凝縮している。シンプルな話ながら、濃度がすごい。傑作と名高い作品だそうだが、納得だ。人の顔のクロースショットの連続と言っていいほどクロースが多く、ロングショットが殆どないという、個人的にはすごく苦手なタイプの作品なのだが、圧力がありすぎて苦手さが吹っ飛んだ。サイレントなので台詞は字幕で出るのだが、すべての口の動きに対して台詞が表示されるわけではなく、ここ何か言ってるな、くらいのことしかわからない部分も多い。にも関わらず、どういうやりとりがあったのか何となく流れがわかる。俳優の表情の作り方、その撮り方が的確すぎるのだ。
 特にファルコネッティの演技が素晴らしい。目の色が薄い人なので、顔の角度が変わるだけで光の入り方によって目の表情が変わる。これをフル活用して顔のアップだけで持たせてしまう。顔の微細な表情の変化が見事。ファルコネッティは元々舞台俳優で主演映画はこれ一本くらいだそうだが(本作の撮影があまりに大変で嫌になってしまったらしい)、こういう作品を残せたなら十分かなと思ってしまう。
 一環してジャンヌは高潔であり、審問官たちは悪辣な表情で撮られている。しかしジャンヌの信仰心の篤さは、理屈が通らない狂気と紙一重のようにも見える。神への信仰を再確認した後の目つきは、澄んだ瞳というよりも恍惚とした表情だ。更に、彼女の信仰あるいは狂気に誘発され、火刑を見に来た民衆もまた、ファナティックになっていく。何かが伝染していくような不穏な終わり方だ。

『胸騒ぎのシチリア』

 ロックスターのマリアン(ティルダ・スウィントン)は声帯手術後の保養の為、恋人のカメラマン・ポール(マティアス・スーナールツ)とシチリアのバンテッドリーア島で過ごしていた。そこへマリアンの元夫で音楽プロデューサーのハリー(レイフ・ファインズ)が、最近娘だとわかったというペン(ダコタ・ジョンソン)を連れてやってくる。ハリーはマリアンとの復縁を望んでいた。監督はルカ・グァダニーノ。
 シチリアの風景はものすごくきれい!観光映画としても効果抜群なのだが、ちょっと変てこな印象。出てくる映像はキラキラしたシチリア海と浜辺があって風情のあるコテージと田舎町があって、そこで美しい男女がいちゃついたり諍いを起こしたりして、というような、イタリア映画黄金時代を(私が勝手に)思い起こすようなものなのだが、ショットのつなぎ方にやたらと躍動感がある。本作、マリアンがロックスターということもあってロック、特にローリングストーンズの音楽が印象的な使われ方をしているのだが、映像のリズムがロックっぽいのだ。イタリア映画的なムーディーな音楽は殆ど出てこなかったように思う。
 登場人物はほぼ4人のみでマリアンとハリーはおそらく50歳前後、ポールはマリアンより若く、ペンはぐっと離れて20歳前後といったところだ。この配置からすると、若く美しい女性が年長の3人の関係を引っ掻き回すパターンが定番だろうし、実際ペンはポールに対して気を引こうとするし、半分くらいは成功しているように見える。
 が、やはり本作での人間関係のゆらぎはマリアンを中心としてハリー、ポールの3人の間で生じているように思う。マリアンとハリーは離婚したとは言えお互いの仕事に理解もあり、ウマは合うので再会すれば親密な空気は生じる。一方で、ハリーとポールの間にも親密さがあるところが面白い。そもそもポールをマリアンに紹介したのはハリーなので、この3人が共犯関係のようにも見えてくる。とはいえ、ハリーがマリアンとの復縁を望んでいる以上、マリアンと(ぱっと見)円満なポールとの間には嫉妬が生じる。親密さと嫉妬とがそれぞれを反対方向にひっぱり、なんとも面倒臭い感じになっているのだ。ペンは結局、榧の外だったように思う。彼女の若さと聡明さも、3人の因縁に対するアドバンテージにならないのだ。マリンは当初、ペンに対してすごく若いしハリーに付き合わされて(父親の元妻とその恋人の家に連れて行かれてもな・・・きまずいよねってことだろう)かわいそう、みたいな態度を見せていたのだが、案外それが実際の所だったのかもしれない。

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