3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2016年12月

『2016年ベスト本』

相変わらず今年も新刊はあまり読めなかった。SF小説に少し慣れてきたので、もうちょっと読もうと思っている。

1.カーソン・マッカラーズ著、村上春樹訳『結婚式のメンバー』
新潮文庫の「村上・柴田翻訳堂」はいいシリーズだが、その中でも最も心抉られた作品だった。10代の頃に読まなくてよかった(笑)

2.ジェイムズ・エルロイ著、佐々田雅子訳『背信の都』
真珠湾攻撃前後のアメリカが舞台なのだが、むしろ現代のアメリカの姿が立ちあがってくることに震える。

3.『クィア短編小説集 名付けえぬ欲望の物語』
サブタイトルの通り、様々な形の名付けえぬ欲望が垣間見え、裾野が広いアンソロジー。カテゴライズしにくいものを集めた面白さがある。

4.ロバート・エイクマン著、今本渉訳『奥の部屋』
エイクマンの作品は初めて読んだのだが、じわじわ怖い。ホラー苦手な私でも大丈夫なタイプの怖さ。ちょっと黒沢清の映画っぽいかも。

5.アンディ・ウィアー著、小野田和子訳『火星の人』
深刻なのにユーモラス!オプティミズムに裏打ちされた、知恵と勇気の物語。そして科学の知識大切。

6.アン・ウォームズリー著、向井和美訳『プリズン・ブック・クラブ』
刑務所での読書会運営に携わった著者によるルポ。読書は1人でやることだと思っていたが、グループで読むからわかることもある。

7.堀江敏幸著『その姿の消し方』
自分とは時代も場所も違う、全く無関係なはずの人たちとの縁ができていくようでもあった。

8.アンデシュ・ルースルンド&ステファン・トゥンベリ著、ヘレンハルメ美穂 羽根由訳『熊と踊れ(上下)』
血のしがらみ、暴力の記憶と継承。面白いが恐ろしく悲しい。

9.ピエール・ルメートル著、橘明美訳『傷だらけのカミーユ』
本年度一気読み大賞。カミーユ三部作完結編だが、ほんとに傷だらけ!辛い!

10.長嶋有『三の隣は五号室』
40年に渡る人々の生活の記録という側面もあるのだが、読んでいる間はあまりそれを意識しない。しかしはっと、生きている人たち1人1人の生活の積み重ねが40年を作っていると気づく。

2016年ベスト映画

今年も色々映画を見たが、以前よりも本数はこなせなくなってきているなと実感する。それでもやはり映画は面白いし幅広く見たいなとは思っている。

1.『ダゲレオタイプの女』
今年は『クリーピー』もあり黒沢清イヤーであった。生者と死者の交わり合いと断絶を描く理想の幽霊譚。どの国で、どのキャストで映画撮っても黒沢清は黒沢清に他ならない。

2.『ヴィオレット ある作家の肖像』
本作が日本公開された2015年のベストに入れるべきだったんだろうが、年明けてようやく見られた。1人の女性が自分自身として生きるようとすること、表現することの切実さが迫ってくる。

3.『キャロル』
これもまた女性たちが自分自身を生きようとする物語。たとえそれが世間から望まれないものだとしても。色調、質感が素晴らしく美しい。8.

4.『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』
こなさなければならない材料がてんこ盛りだが見事に調理するルッソ兄弟の手腕に唸る、アメコミ映画の極北。アベンジャーズの続編的でありつつ、最終的にはスティーブ・ロジャースという人の物語に着地していく。しかしスタークは気の毒でしたね・・・。

5.『ブルックリン』
原作も良かったのだが、映画の方がより現代に通ずるものがある。1人の女性が自分の居場所を選びとっていく様が瑞々しい。

6.『スポットライト 世紀のスクープ』
報道とは、職業倫理とは、ひいては人を信じることとはと問いかけてくる、今だからこそ見たい作品。

7.『団地』
終わっていく場所としての団地、そしてそこから通じる異空間!阪本順治の快作であり怪作。

8.『この世界の片隅に』
メインストリームではないが時代を越えて残る作品だと思うし、そこにこそこの作品が作られた意味があると思う。

9.『コップ・カー』
スタンドバイミー的な世界からホラーへ、そして一気にハードボイルドな世界に突入するラストに痺れた。

10.『母の残像』
私は家族を扱った映画が好きなのだが、今年見た家族映画の中では、不在の母が中心にある本作が一番良かった。


『ニーゼと光のアトリエ』

 1944年のブラジル。精神科医のニーゼ(グロリア・ピレス)は精神病院に赴任するが、電気ショックやロボトミー手術等暴力的な治療に反感を示し、ナースが運営する作業療法部門に配属される。ニーゼは絵具や粘土を癇じゃに与えて彼らの表現を引き出そうとする。実在の医師のエピソードをドラマ化した作品。監督・脚本はホベルト・ベリネール。
 ニーゼが赴任した精神病院の様子からは、当時、精神病患者は独立した個人として扱われていなかったことが見て取れる。患者というよりも収容者といった扱いで、治療の概念も現代のものとはだいぶ違う。何しろロボトミー手術が普及し始め持てはやされていた時代だ。病院側の言う治療とは、患者が言うことを聞くようになる、扱いやすくなるということで、そこに患者本人が幸福かどうか、その人らしくいられるかどうかという発想はない。 ニーゼが目指す治療とは正にその部分で、患者(ニーゼはクライアントと呼ぶ)にとってどういう形でいることが幸せなのか、内面の調和を得られるのかを配慮している。しかしそういった考え方も、作業療法や現代で言うところのアニマルセラピーも、当時は型破りもいい所だったはずだ。当然、他の医師たちは強く反発し彼女への協力を拒む。また患者の家族も、精神疾患についての理解は乏しい。ある家族が病状の好転に対して、(患者は)もう良くなった・完治したんだろうと言うが、ニーゼの表情は微妙だ。こういった症状に完治というものはなく、いい状態をキープしていくというのが実際の所だと思うのだが、そういった理解は家族にはない。そして家族の言う「治った」とは本人がどうこうというより、家族にとって負担が少なく、理解しやすい状態になったということなのだ。
 本作の最後に、実在のニーゼ医師へのインタビュー映像が挿入される。その言動からも、彼女が様々なものと闘ってきた人だということがわかってくる。作中でもニーゼは戦い続けるが、実を結ぶとは限らない。特に時代との戦いはきつかったのではないかと思う。彼女の治療方法も女性医師であることも現代では珍しくないが、当時は時代を先取りしすぎたものだったのだろう。
 ニーゼは患者らに親身になって接し、創作意欲を引出していくが、彼女の立ち位置はあくまで治療者であり医であり、その線引きは明確にされている。全て「医療」としてやっていることなのだ。患者に深入りしすぎる若いスタッフを叱責するのも、患者の作品の展示方法について「日付順でないと意味がない」と指摘するのもそれ故だろう。医師は医師でしかなく、患者の家族にもパートナーにもなれないのだ。彼女の支援者が医療ではなく芸術分野から出てきたのは皮肉でもある。彼女にとっては、アートが主目的ではなかったのだろうから。

『ヒトラーの忘れもの』

 1945年、ナチス・ドイツによる占領から解放されたデンマークだが、ドイツ軍は海岸線に無数の地雷を埋めたままだった。その除去に動員されたのは捕虜となったドイツの少年兵たちだった。彼らを監督し除去作業を行うことになったデンマーク軍のラスムスン軍曹(ローラン・ムラ)はナチスを強く憎んでいるものの、少年たちと共に過ごすうちに心が揺らぐ。しかし少年たちは次々と命を落としいき、ラスムスンは葛藤する。監督・脚本はマーチン・サントフリート。
 とにもかくにも、ドイツ軍地雷埋めすぎ!基本的に人力除去するしかないので戦後どうするつもりだったんだと思ってしまうが、戦争中ってそんな先のこと考えないものなんだろうな。地雷の非人道的な側面はいやというほど見せてくれる作品。除去作業自体が難しいこと、全て除去できたかという確証がなかなか持てない(どこにいくつ設置したという記録が残っているとは限らない)ことが悲劇を生む。
 当初、ラスムスンはナチス・ドイツ、ひいてはドイツ人を許す気持ちは毛頭ない。彼が世話になる農家の女性も同様だ。デンマークは5年間ドイツに占領されていたわけで、デンマーク人の恨みや憎しみは溜まりに溜まっていたのだろう。ラスムスンにとって少年兵たちは、まとめて「憎いドイツ人」で、最初はろくに食事は与えないし厳しいノルマを課す。しかし毎日顔を突き合わせていれば1人1人の性格の違いや背景も見えてきて、それぞれの人生を生きる個人としての彼らの姿が立ち上がってくる。そうなると彼らを使い捨てにするようなやり方には疑問もわくし、疑似父子のような情も沸いてくる。
 とは言え、彼らがドイツ兵であるのも事実で、農家の女性や他のデンマーク軍人、アメリカ軍人は彼らを相変わらず憎み蔑むし、ラスムスン自身も怒りに襲われ激高したりもする。敵だった存在を許すことはそう簡単には出来ないのだろう。少年たちがデンマーク人をどう思っているのか、自分たちの国がやったことがどういうことだったのかわかっているのか、作中では明示されないが(多分よくわかっていないんだろうなぁ・・・)、そこも気になった。許す、と理解し合う、というのとはまたちょっと違う。ラスムスンはおそらく少年たちのことを理解はしなかったが、ぎりぎりの線で許したのだと思う。ラストは一つの寓話のようでもあった。

『ビビビ・ビ・バップ』

奥泉光著
ジャズピアニストのフォギーこと木藤桐は、世界的ロボット研究者の山荻から、電脳空間内の「墓」の音響調整を依頼されていた。加えて山荻は、自分の「葬式」でピアノを演奏してほしいと頼む。その頼みがきっかけで、フォギーはとんでもない事件に巻き込まれていく。
電子情報が全て死滅した「パンデミック」後に再び都市が創設されたという、21世紀を舞台にしたSF的冒険活劇、なのだが山荻のレトロ趣味のせいで電脳世界内に1960年代新宿が出現し、実在した伝説的ジャズミュージシャンたちのアンドロイドによるセッションが実現し、更に有名落語家たちや歴代棋士のアンドロイドも登場するという、未来と過去(と言っても複製だが)が入り混じる賑やかさだ。1960年代の新宿には有名人も次々ゲスト出演してきて、山荻氏結構ミーハーだったのねという気分にも。このあたりの知識が豊富な人が読めばより楽しいのだろう。語り口調の軽妙さに加え、フォギーが呑気かつ流されやすい性格なので、緊急を要する事態なのに一向に緊急感が出てこないあたりがおかしい。高度に情報化され肉体も様々に調節できる科学技術が普及した、いかにもSF的な世界だが、それは一定水準以上の経済力を持つ層のみ(つまりフォギーもそこそこ富裕層なのだ)で、その下にはいまだに肉体労働に勤しむ貧困層が広く厚く存在するという、かなり極端なディストピア格差社会になっていることが垣間見えるあたり、うっすらと寒くなる。そういう層は存在しないかのように登場人物たちの営みが行われているだけになおさらだ。なお本作の語り手は猫型アンドロイド。AIの方が世界を俯瞰しているのだ。

『ポッピンQ』

 中学校卒業を控えた伊純(瀬戸麻沙美)は、陸上部での記録に心残りがあった。浜辺で不思議な石「時のカケラ」を拾った伊純は、「時の谷」と呼ばれる不思議な世界に迷い込む。伊純の他にも時のカケラを持った少女たちが時の谷を訪れていた。彼女らはその世界の住民・ポッピン族の長老から、世界の危機を知らされる。危機を回避するには、時のカケラを持った5人が心をひとつにして踊らないと成らないと言う。監督は宮原直樹。
 東映アニメーション創立60周年記念作品だそうだが、これでいいのか東映?という気が。東映の女児アニメと言えばプリキュア、監督の宮原はプリキュアEDのダンス作画で有名な人なので、作品の方向性と起用としては妥当なのかもしれないが、ドラマ作りがとにかく残念。キャラクターデザインはかわいらしいし動画もいいのに、脚本がどうにも不器用だなという気がした。
 5人の少女はそれぞれ、今の自分を嫌だと思っており、克服したいものがあるがそれと向き合う勇気がない。元の生活に戻りたい気持ちと戻りたくない気持ちの間で揺れている。自分の未来を怖がらなくていい、自分をもうちょっと好きになれるはずというあたりが作品のコンセプトなのだろうが、それぞれの事情が異なるところを「私たち同じだね」と括ってしまうのはちょっと乱暴な気がした。言うほど同じには見えなかったんだよな・・・。また、作品のコンセプトに各キャラクターの言動を添わせすぎようとしていて、セリフが上滑りになっているところが気になった。行動とセリフの流れが取ってつけたように見える。ドラマの運び方がこなれていないということなんだと思う。そのへんが、不器用だなと言う印象の原因か。
 作画的な見所はやはりダンスシーンなのだろうが、これも違和感を感じた。時の谷は人間の世界とは違い、異なる文化が発展している不思議な世界だ。その世界で流れる音楽がいかにもなJポップとアイドル的なダンスというのは、奇妙な感じがする。えっそこだけ人間界と同じなの?と。

『ミス・シェパードをお手本に』

 1970年代、劇作家のベネット(アレックス・ジェニングス)は北ロンドン、カムデンのとある通りに引っ越してくる。黄色い古ぼけたバンで生活しているミス・シェパード(マギー・スミス)もその通りにやってきて、やがてベネットの家の前に居ついてしまう。ミス・シェパードはプライドが高く時に理不尽、なぜかフランス語に堪能で音楽にも造詣が深く、しかし同時に音楽を嫌がってもいた。彼女とベネットの15年間にわたる交流を描く。原作はアラン・ベネットの実体験に基づく舞台劇で、本作ではベネットが脚本を担当。監督はニコラス・ハイトナー。
 「お手本に」って題名はちょっと趣旨と違う気がするが、彼女のわが道を行くところを見習ってみたいと言うことかな。ただ、ミス・シェパード本人も好んで「わが道」を行っているのかというとそうではなく、もうちょっと屈託があるように思った。自分で選んだ道ではあるし、自分のやり方でやり切るわけだが、そこに葛藤がないわけではないし、人に言えない辛さも抱えている。
 ミス・シェパードはある種の分裂した状態にいる人なのだと思う。若い頃に音楽と信仰との間で引き裂かれ、未だに上手いこと着地できていないように見える。彼女の長いお祈りは、過去に起こしたある事件のせいでもあるのだが、音楽を愛することへの後ろめたさからも生じているのだろう。若い彼女に司祭が言った言葉はちょっと許せない。人の魂を試すようなことを言うのはやめてよねと。
 ベネットもまた、分裂した状態にある。彼の場合は、生活者としての自分と、書く主体としての自分との間でだ。映像上も、ご丁寧にベネットは書き手と生活者と2人同時に現れるのだ。生活者としてミス・シェパードとやりあうベネットを、書き手としてのベネットは観察しながらいいぞもっとやれ、と思っているというような状態だ。そしてベネットは、ミス・シェパードを観察し、ネタにすることに罪悪感を感じている。彼は元々、自分の母親をネタにしたコメディを執筆しており、母親ではネタ切れだからミス・シェパードに目を付けたと言う面も否めないのだ。自分の生業、というか愛するものに対する罪悪感は、ミス・シェパードが抱え続けているものと似通っているかもしれない。
 ベネットは何かとミス・シェパードを気に掛けるが、周囲からは「親切ね」と評される。客観的に見ればベネットは十分親切な人なのだが、本人は惰性(そして前述のように多少の打算)だからだと言う。照れもあるだろうが、実際のところ、惰性に近いような関係の方が、毎度心を込めて行う親切よりも長続きするのではないだろうか。ベネットもミス・シェパードもまさか15年の付き合いになるとは思っていなかっただろう。ベネットはミス・シェパードの介護者ではないと自認しているし、実際、ヘルパー達のように躊躇ない触れ方、助け方は彼には出来ない。ベネットがミス・シェパードの人生について知ったことは、彼女の口からではなく後々になってから知ったことだと言う。あくまで隣人なのだ。
 作中時間の経過をあまり感じさせない作品なのだが、ベネットの家に出入りする人の出入りの仕方が明らかに変わったラスト、ああそういう時代になったし、ベネット本人もそういう気持ちになったんだなと、ちょっと感慨深くなった。

『ドント・ブリーズ』

 ゴーストタウン化が進むデトロイト。妹を連れて街から逃げ出したいロッキー(ジェーン・レビ)は、恋人のマニー(ダニエル・ゾバット)と友人のアレックス(ディラン・ミネット)と組んで空き巣強盗を繰り返していた。ある老人が娘が事故死した際の多額の賠償金を隠し持っていると聞いた3人は、その老人宅に強盗に入る。老人は盲目なので、「目撃」もされないとたかを括っていた彼らを、予想外の恐怖が襲う。監督はフェデ・アルバレス。
ホラー映画は苦手なのだが、やたらと評判がいい作品なので見てみた。結果、確かに面白い!すごく面白い!見られないほど怖くはなかった(というより別のベクトルの嫌さの方が強いかな・・・)ので、ホラー苦手でも大丈夫。
 舞台はほぼ室内で動きが限られており登場人物も最小限で、とてもよく設計されているなと思う。一種の機能美みたいなものすら感じる。かちっとした理詰めの作りを好む監督なのだろうか。各種アイテムの用意の仕方、これがここにありますよーという見せ方が几帳面。わざわざ見せたものは全て伏線として回収していくので、ほんと生真面目と言えば生真面目な作風だと思う。
 予告編の通り、老人が目茶目茶強いというのが一つの怖さなわけだが、真の怖さはその先にある。そこを伏せたままにした予告編は結構良心的だった。ホラーの怖さの一つは対象が不可解である、理屈が通らないと言う所にあると思うが、本作でもそれが後半一気に加速していく。
 またホラー的な怖さというわけではないが、デトロイトの町の荒れ方、人のいなさがうすら寒い。モブを入れる製作費がなかったということなのかもしれないが、今のデトロイトは実際このくらい人気がないんだという共通認識があるってことでもあるのかな。若者3人の行動は浅はかに見える所もあるが、ろくな仕事もなく世間から取り残されているのだという背景が透けて見える。移動するには、強盗でもやって資本を手に入れるしかないのだ。一方、老人の方も若者たちとは別の意味で、社会からないがしろにされた存在だ。底辺同士が激突し食い合うという殺伐としたものがある。
殺伐と怖い作品ではあるのだが、映像の色合い、質感が予想外に美しい。特に光の使い方は効果的だと思った。物語の大半が暗い室内で展開されるので、差し込む光はより印象深い。

『聖杯たちの騎士』

 脚本家のリック(クリチャン・ベイル)はセレブとしてあちらこちらのパーティーに招かれ、享楽的な日々を送っていた。美しい女性達との記憶を辿る一方で、父親、弟との記憶もまとわりつく。監督はテレンス・マリック。
 例によってエマニュエル・ルベツキの美麗な撮影なのだが、ルベツキ節が強すぎてここ数作は何見ても似通った印象という部分は否めない。マリックは『ツリー・オブ・ライフ』以降、その変奏曲ばかりを撮っている気がする。本作もやはり、『ツリー~』と根っこは同じだ。女性達との関係がクローズアップされているようでいて、実の所リックの葛藤の大元は、家父長的な父親との関係、そして弟たちに対する罪悪感にある。男性間での関係の方が根の深い問題であって、対女性との問題は、むしろ根本的な問題からの逃避によって生じたもののように見える。また女性たちとの関係は一過性のもので、リックの中では甘美な思い出として処理されている部分も多々あるのではないか(スメタナの楽曲が何度か繰り返されるが、これが流れるシーンはセンチメンタルな思い出らしい)。
 『ツリー~』も父親との関係上の葛藤が延々と描かれていたが、本作もそれと同じ流れにある。加えて、本作ではリックの弟への言及がある。彼には複数の兄弟がいたらしいが、現存しているのは彼と弟のみ。弟は社会的には成功しているリックと異なり、どうやらその日暮らしらしい(享楽的っぽい所はリックと似ていて妙におかしいのだが)。また自殺したらしい弟がいたこともわかってくる。自殺の原因は父親との関係にあったらしく、リックは弟を残して家を出たことを悔やんでいるようだ。とは言え、死んだ弟とはもう対話は出来ず後悔は宙に浮いたまま。父親との対話も出来るんだか出来ないんだかという感じで、リックの葛藤は延々と続きそうでもある。
 近年のマリック監督作を見ていると、社会的に「大人の男」をやっていくことがどうにもこうにもしんどい、という叫びが共通して響いているように思う。そろそろ別のネタを・・・と思わないでもないのだが、監督にとってそれだけ根が深い問題ってことだろうか。

『四日間の不思議』

A.A.ミルン著、武藤崇恵訳
かつて暮らしていた屋敷をふと訪れたジェーンは、叔母の死体を発見し、同様して“凶器”の位置を変え指紋をふき取り、更に窓から脱出して地面に足跡を残してしまう。容疑者扱いを恐れ、友人ナンシーの手を借りて田舎に身を隠したが、警察の捜査は彼女が思いもよらなかった方向に進んでいた。
ミルンと言えば『くまのプーさん』を書いた児童文学作家として有名だが、一方でミステリ小説『赤い館の秘密』も有名。本作もミステリ小説・・・なのだが、冒頭からちょっと調子がおかしい。ミルンのユーモアが存分に発揮されており、とても楽しく読んだ。ジェーンを筆頭に登場人物全員にやや妄想癖と思い込みの強さがあり、それが事件をどんどんややこしくしていく。むしろ本格ミステリのパロディみたいだし、実際、ジェーンもナンシーもミステリ小説好き(子供時代に2人で使った「暗号」も披露される)。絵にかいたような「頭の悪い警官」も登場するが、名探偵は登場せずに事態がどんどんややこしくなる。各人が余計なことをしなければ真相は明白だったかもしれないのに(笑)。

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