3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2016年11月

『聖の青春』

 子供の頃に腎臓の病気・腎ネフローゼを患った村山聖(松山ケンイチ)は、入院中に将棋に夢中になる。大阪でプロ棋士・森信雄(リリー・フランキー)の弟子になり、上京して同世代の天才・羽生善治(東出昌大)との対戦を目指すが、難病は村山の体を蝕んでいく。29歳で亡くなった棋士・村山聖の生涯を追った大崎善生の同名ノンフィクションが原作。監督は森義隆。
 序盤、説明的な台詞が続き、また日本映画の悪い癖が・・・とげんなりしそうになったが、どんどん削ぎ落され作品のスピード感が増していった。省略するところは大幅に省略し、羽生とのライバル関係に焦点を絞った構成にしている。実在の人物が主人公、しかも羽生を筆頭に現在存命どころか第一線で活躍している人が登場するわけで、脚本演出は(かなりフィクションとして脚色しているのではと思うが)色々とやりにくいところもあっただろう。しかし、脚本も役者も健闘しており、さほど期待していなかっただけに満足度が高かった。普遍的な青春物語、一種の「競技」ものとして楽しめるように作られていると思う。私も将棋の知識には乏しいが、とても面白かった。特に序盤、村山が上京してマンションの下見をして回ったり、東京でも徐々に仲間が増えて将棋会館で話し込んだりという小さなエピソードの端々に、青春ぽさを感じる。また将棋の対局シーンは当然多いが、将棋を知らなくても、役者の演技やショットの積み重ねで今どんな感じなのか雰囲気が伝わってきて、見ていて飽きない。作品の間口を広げようという配慮がほどよくされていたと思う。
 全編通して、村山の生き方の一途さと同時に、どろどろとしたもの、人間としての弱さも描いている。(本作で描かれる)村山は愛すべき所が多々ある人だが、友人として、ライバルとして付き合うのが相当厄介そうな人でもある。不器用だがかまってほしがりな感じは、愛されもし、鬱陶しがられたりもしたんじゃないだろうかと思わせるものだ。将棋に関しては妥協がなく率直すぎる。染谷将太演じる後輩の江川との感情のぶつけあいが印象に残った。(お互いに別の意味で)持っている人には持っていない人のことはわからないのだ。また、将棋に全てを注ぎ込んで命を削る彼の生き方も、将棋に対する真摯さ・率直さも、鬼気迫ると言えばそうなのだが、親しい人(特に家族)にとっては大分残酷なものだったのではないかと思う。病気の苦しさは本人にしかわからないとは言え、将棋に打ち込める体を保持するために不摂生をなんとかして!と言いたくもなる。そこに注意を払う手間すら、将棋にうちこむエネルギーに代えたかったのかもしれないが。
 羽生は村山にとってライバルであり憧れであるのだが、2人の間には将棋以外の共通の話題がない。差しで飲む(このエピソードは創作らしいが)時のお互いの趣味の合わなさは、村山の片思い感も相まってユーモラスでもある。しかし、むしろ将棋しかない、棋士同士としてなら深い所まで分かり合える(し、他にはおそらく必要ではない)というところには、少年漫画の宿命のライバル感あってぐっときた(この対話はフィクションらしいので、多分宿命感は意識して作ったんだろうな)。村山は少女漫画好きだから不本意かもしれないけど・・・。

『山のかなたに』

 第17回東京フィルメックスにて鑑賞。イスラエルに暮らす一家。ある日、長女イファットはアラブ人青年からの誘いを断り帰宅した。同じ日の夜、父親は新しいビジネスが上手くいかない苛立ちを、丘に向けて銃を発砲することで紛らわせる。翌日、丘でアラブ人青年の死体が発見される。監督はエラン・コリリン。
 ごく平穏に見えた一家が、ちょっとしたことから徐々にそれぞれ、危うい方向に進み始める。軍を退役した後、ねずみ講まがいの商売を始める父親、教え子との浮気に走る高校教師の母親、差別に反対しデモに打ち込むが、予想外の事態に巻き込まれる長女(他長男がいるが、概ね不在)。父親は「俺たちは悪人じゃない」と言う。一方で長女が出会ったアラブ人青年は「俺は悪いアラブ人じゃない」と言う。彼らは皆、決して悪人ではないし、悪事をはたらこうとしているわけではない。しかし、ちょっとしたはずみ、出来心で悪へ寄って行ってしまうこともあるし、そもそも無自覚に悪を選択してしまうこともある。自分は善人のはず、という思い込みこそが危ういこともある。
 アラブ人に対する偏見を持たないはずのイファットは、いざアラブ人青年に誘われると躊躇したり(とは言っても、初対面の男性に一緒に行かないかと言われたら若い女性は一般的に躊躇するだろうから、民族に対する偏見とはまた別問題にも思うが)、その罪悪感から後日わざわ亡くなった青年の自宅を訪ねて見舞金を渡そうとしたりする(イスラエルにおけるアラブ人の見られ方が垣間見えて興味深かった)。彼女は善意で行動したわけだが、それが遺族にとってどういう意味を持つかには思いが至らない。若さ故の独善と言えばそうなのだが、自分が善良であることを疑わないからこその落とし穴(その後の展開も含めて)であるような。
 前半、父親のビジネスがどうにも上手くいきそうもないあたりはユーモラスさもあるのだが、妻や娘の動向が不穏で、徐々に笑えなくなっていく。特に妻の無防備さというか、脇の甘さにはハラハラしっぱなしだった。それ絶対まずいって!という方向にどんどん行ってしまう。同年代の男性の誘いはきっぱりとかわせるのに、よりによってなぜそこに行く・・・。なんというか、年齢の割に無邪気で擦れてないんだけどそこが困っちゃう。
 

『薔薇の奇跡』

ジャン・ジュネ著、宇野邦一訳
メトレー少年院を経てフォントヴロー中央刑務所に収容された「僕」は、そこで出会ったアルカモーヌ、ビュルカン、ディベールという美しい囚人たちのこと、そしてそこでの生活を回想する。著者の自伝的な要素が強いと言われる作品。ジュネと言えば本人も元泥棒で何度も投獄されており、かつ同性愛者であるということばかりが知られている気がするし、私もまずはそのイメージを思い起こす。今回、光文社古典新訳文庫版で読んだのだが、新訳だとかなり読みやすくなっている。過去の訳から受ける印象よりもかなり明瞭で理性的。確かに幻想が入り混じり時にナルシスティックではある(そして性的な部分はあけすけ)のだが、そこに溺れず、更に俯瞰するような冷静さがあると思う。幻想も陶酔も、監獄での(おそらく不愉快な)体験をねじ伏せて自分のものとするためのフィルターではないか。章だてがされておらず、メトレーとフォントブローの思い出が前置きなく入れ替わるので、読む側は今どの時代のことを読んでいるのか、誰についての記述なのか混乱するのだが、それも織り込み済みだろう。巻末の解説でも言及されているように、アルカモーヌ、ビュルカン、ディベールは3人の別人ではなく同じ人物のように思えてくる。著者のイメージの中の荒くれ者、少年のイデアのようなものに見える。

『ハイキャッスル屋敷の死』

レオ・ブルース著、小林晋訳
犯罪解決の実績を持つ歴史教師キャロラス・ディーンは、校長から調査を頼まれる。校長の友人ロード・ペンジに、殺害を示唆する脅迫状が送り付けられたというのだ。更に数日後、ペンジの秘書がペンジのオーヴァーを着た姿で射殺された。ディーンはペンジ一族が住むハイキャッスル屋敷に滞在することに。
1958年に発表されたイギリスの本格ミステリ。わけありの一族、古めかしい屋敷、不可解な犯罪、そして関係者一同に会しての謎解き。本当に由緒正しい本格見ミステリという感じでどこか懐かしい(実際50年代の作品なのだが)。謎解きを先延ばしにしているうちに被害が広がる様などもはや様式美。こういうのってやっぱり楽しいなぁ。トリックの一部が物理的にちょっと難しいんじゃないかという気はしたが・・・。ただ、事件の真相と犯人の動機は、ある人にかかっていたプレッシャー、責任の大きさを感じさせ痛ましい。なお、屋敷で出される食事が毎食やたらと豪華で、これ一日3回食べるってイギリス人はどういう胃袋持ってるのと思っていたら、ディーンがげんなりしていたのでやっぱり多すぎらしい。

『フランコフォニア ルーヴルの記憶』

 第二次大戦中、ドイツ軍のパリ侵攻に伴い、ルーブル美術館から多くの美術品の疎開を実行した当時のジャック・ジョジャール館長と、美術品保護の責任者としてパリに派遣されたナチスの高官・メッテルニヒ伯爵。各地から美術品を略奪しルーブルに収容した、ルーブル美術館の生みの親とでも言うべきナポレオン一世と、ドラクロワの絵画「民衆を率いる自由の女神」に描かれたフランスの象徴である女性「マリアンヌ」。そして本作の監督であるソクーロフと、skypeで通信中の美術品運搬船の船長。過去と現在を行き来しながら、ルーブル美術館の姿とその歴史を辿る。監督はアレクンサンドル・ソクーロフ。
 ソクーロフが美術館を題材に撮った作品と言えば、全編1カット、全編エルミタージュを使ってのロケを敢行した『エルミタージュ幻想』が有名だが、これをイメージして本作を見るとちょっと拍子抜けするかもしれない。『エルミタージュ幻想』は映像美とスケールの大きさ、豪華さがあったが、本作はむしろコンパクト。サブタイトルの通り、ルーブルの記憶の断片、夢のかけらを垣間見るような雰囲気だ。また、実際にルーブルで撮影しているし収蔵品も登場するが、題名から期待するほどには映していない。
 本作がスポットを当てているのはルーブルと国家・権力との関係だ。その成り立ちからしても、単なるコレクションや教育の為だけではなく、フランスという国家の力、財力を誇示するためのものという側面が強く、その時々の権力とは切り離せない。
 ルーブルの美術品の中には、戦争の「成果」として各地から持ち帰られたものも多い。その戦争による死者はもちろん、(主に海路での運搬による)運搬の途中での事故死者も多かっただろう。収蔵までに失われた人命も美術品も多々あったのだと本作は示唆する。そういう事業を敢行できたのは、やはり国家の力の元強引に進めることが出来たからだと。
 ルーブル美術館という機関もコレクションも当然素晴らしいし、その恩恵は多々あるのだが、なかなか血なまぐさい側面もあるということを念押しするような作品だった。マリアンヌは度々、「自由、平等、博愛」というフランスの基盤となる理念をつぶやくが、ルーブルの収蔵品が集まった過程は、あまり自由・平等・博愛とは(少なくともある時代までは)あまり関係なさそう。

『灼熱』

 1991年、クロアチア紛争勃発前夜に敵同士となり悲しい運命をたどるイェレナ(ティハナ・ラゾヴィッチ)とイヴァン(ゴーラン・マルコヴィッチ)。2001年、紛争終結後、母と共に荒れ果てた故郷の家に戻ってきたナタシは大工のアンテと惹かれあう。2011年、平和を取り戻した現代で、過去のしがらみに苦しむマリヤとルカ。クロアチアの3つの時代を生きる別々の男女を、同じ俳優が演じる。監督・脚本はダリボル・マタニッチ。
 別人を同じ俳優が演じるということで、俳優の技量がとてもよくわかる作品だった。本作の中で描かれる感情には、言葉に出来ない部分が大きすぎる。何を言っても嘘っぽくなる、あるいは言葉にするとその意味合いがずれてしまうところを、人の表情、動作の微妙な差異で読み取らせる。時に鬼気迫る表情があり、そこに言葉に出来ない強烈な葛藤があることがわかるのだ。
 どの時代も、男女の間には民族、そして歴史という壁が立ちはだかる。クロアチア紛争が今まさに勃発しようとしている1991年や、戦争の記憶が生々しい2001年はともかく、既に復興を遂げた2011年でも、当人たちというよりもその両親や周囲の記憶が彼らを苛む。家族がセルビア人/クロアチア人に殺された、故郷を奪われたという記憶は、そう簡単には薄れない。直接戦争で傷つくことはなくても、周囲の記憶により相手を憎む、同時に自分にその記憶を与えた親を(愛すると同時に)憎むという、戦争直前直後とはまた違った苦しみがあり、痛ましい。
 なぜ自分たちはこんなことになったのか、この状況は何なのかということを、どの時代の男女も問い続けているように思えた。それは答えのない問いであり、そもそも誰に尋ねればいいのかもわからないものだ。そんな膠着状態の中、相手に対して扉を開ける人もいる。葛藤しつつも、そこに希望がある、というよりもそこにしか希望はないのだろう。
 男女の関係も彼らの背後にあるものも苦しく辛いのだが、それを取り巻く風景はとても美しく穏やかだ。鳥のさえずりから始まり、鳥のさえずりで終わる。人間が憎しみ争っても、そこに変わりはないところが、救いでもあるが空しくもあった。血で血を洗うようなあれこれがあって多くの人が死んでも、この風景には関係ないんだよなぁと。
 

『丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ2』

高橋源一郎著
朝日新聞論壇時評を中心にまとめた『ぼくらの民主主義なんだぜ』の続編。2015年から2016年前半あたりまでの原稿をまとめたものだが、今現在に至るまでに、書かれた次期より更に、民主主義ってなんだ!と叫びたくなるような事態が次々に起こり、読んでいて若干空しさを感じることもあった。ただ、そこで空しく諦めてしまってはだめだよという姿勢が本作の根底にはある。丘の上のバカでいい、声を上げ続けなくてはならないのではないかと。なお、私は小説家としての高橋源一郎のイメージからは、新聞で(文学以外の)論評をするとは思っていなかった。なぜやるようになったのか不思議だったのだが、本著の中でそこに至るまでの経緯や覚悟が垣間見え、なるほどなと腑に落ちた。

『死体は笑みを招く』

ネレ・ノイハウス著、酒寄進一訳
動物園で人間の左腕と左足、そして左腕と左足が切り落とされた死体が発見された。死体は高校教師で環境保護活動家のパウリーと判明。刑事オリヴァーとピアは捜査を開始するが、パウリーは過激な活動により様々な人の恨みを買っていた。
オリヴァー&ピアシリーズの2作目だが、日本では最後に翻訳されることになった。確かに、シリーズの他作品と比べるとちょっとパンチが弱めでミステリとしても粗い(というか他作品の精度が高いってことなんですが)。腕足の切断がある登場人物をシリーズに引き入れる為だけに使われているような気もする。とは言え、この後の作品にも登場する人物や、オリヴァーやピアの生活背景がはっきりわかる部分を含む作品なので、シリーズのファンなら必読だろう。今回、オリヴァーはしばしば私情に目がくらんであまりかっこよくなく、ピアもプライベートの問題で心が揺れている。仕事は出来るが万能ではないし常にクールなわけではないという、人間味のある部分がいい。同僚たちとの仲が良すぎない感じも、職場の実感が出ている。

『エブリバディ・ウォンツ・サム!世界はボクらの手の中に』

 1980年代。野球推薦で大学に入学する新入生のジェイク(ブレイク・ジェナー)は、野球部の寮に向かった。到着するなり4年生のマクレイノルズ(タイラー・ホークリン)とルームメイトのローパー(ライアン・グスマン)に絡まれるが、他の先輩らも変わり者ばかり。途中編入してきたマリファナ愛好者のウィロビー(ワイアット・ラッセル)、自信と実力が見合わないナイルズ(ジャストン・ストリート)、ギャンブル狂のネズビット(オースティン・アメリオ)、気はいいが田舎者とバカにされている“ビューター”ことビリー(ウィル・ブリテン)。新学期が始まるまでの数日間、ジェイクは部の仲間とバカ騒ぎを続ける。制作・脚本・監督はリチャード・リンクレイター。
 私にとってリンクレイター監督の作品は、すごくぐっとくる時もあるけど(『スクール・オブ・ロック』『スキャナー・ダークリー』等)、イラついてどうしようもない時もある(『ビフォア~』シリーズ)。本作は残念ながら後者だった。冒頭、ジェイクがうっきうきで入寮してくるあたりから、あーこの先ずっとこのテンションなのかなーと不安になっていたが、ずっとこんな感じだった。群れてバカをやっているシーンが続くとさすがにうんざりする。総じて騒がしすぎ、酒飲みすぎ、セックスしようとしすぎでげんなりした。いやー80年代アメリカで大学生じゃなくてよかった・・・。もちろん彼らのように羽目を外しっぱなしな若者ばかりじゃなかっただろうが、現代の大学生ってアメリカであれ日本であれ、こんなに遊びほうけられないんじゃないかな。ジェイクたちを見ていると、いい気なもんだよな、という気分になってしまうのだ。
 ジェイクたちが楽しむのはとにかく「今この時」であり、未来にはさして不安もなく、世界は無事稼働しているように見える。彼らには根拠のない無敵感があり、それがこの先も続くかのようだ。
 しかし、そんな日々でもほころびが見えることもある。新学期が始まる前に野球部を去る人もいる。彼は、「今この時」をやめられないまま延々と過ごしてしまった人なのだ。彼のエピソードがちらりと入ることで、ジェイクたちの「今この時」は終わりのあるもので、いつかは大人の世の中に出ていく。大学生活はその前の猶予期間みたいなものだよなとしみじみした。そう思うと、バカ騒ぎをしておいて正解ということでもあるか。
 なお、ジェイクはいわゆる脳筋バカではなく、文学や音楽の素養があるが、これは監督の青春時代を投影しているからかな?だとしてもキャラ設定ちょっと盛りすぎ(そこそこイケメン、野球の才能あり、文科系の素養あり、意外とかしこい)だぞ!

『誰のせいでもない』

 カナダのケベック州モントリオールに住む作家のトーマス(ジェイムズ・フランコ)はスランプ中で、恋人サラ(レイチェル・マクアダムス)との関係にも亀裂が入っていた。大雪の日に車で田舎道を走っていたトーマスは、目の前に飛び出してきた少年に慌ててブレーキをかける。少年が無事なことを確認して自宅に送ると、母親のケイト(シャルロット・ゲンズブール)は血相を変えて飛び出していった。この事故が、トーマスとサラ、その周囲の人たちの人生を変えていく。監督はヴィム・ヴェンダース。
 ヴィム・ヴェンダース監督の『Pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』はこういう3Dの使い方があるのか!とすごく新鮮に思えたので、今回も3Dで見た。Pinaはダンスをする身体とそれが存在する空間をより際立たせる3Dの使い方だったが、今回は作中の空間を登場人物の心情や相手との関係性に合わせて操作するような演出だったように思う。
 トーマスとケイトが夜、電話で話すシーンがあるのだが、別々の場所にいた2人が同じ場所にいるのかとふと錯覚させるような瞬間があった(音声の調整による演出も大きいと思うが)。2Dで見たらこれほどはっとはしなかったんじゃないかなと思う。遠い、近い、という感覚が、2Dで見るのと3Dで見るのとだと(観客との距離感も含め)ちょっと違うような気がする。
 トーマスとケイトは物の考え方も生活習慣も随分違い、何も起こらなければ全く接点がなく、出会うこともなかったろうし仮に出会ったとしてもそう親しくはならなかったのではないか。そんな2人の人生がある事故によって交錯してしまう。それを悲劇(事故自体は悲劇としか言いようがないが)とも喜劇とも見せず、2人のその後10数年を断片的に見せていく。夜の電話のシーンは、唯一、2人の心が重なったと思えるもので、人生の不思議さを感じさせ、印象に残った。その他の部分では、トーマスはトーマスで、ケイトはケイトで自分のやり方で事故を乗り越え、人生を続けていく。ケイトの息子は事故とトーマス、そして自分に因果関係があると考え、悩む。確かに事故は彼の人生に起きたことでもあり、因果関係はあるだろう。しかしそこに過度な意味合いを見出そうとするのは、ちょっと違うんじゃないかなと思った。こういうのは、自分なりに何とか折り合いをつけていくしかないんだろう。ケイトの息子からは、トーマスは上手いことやった、ケイトは損をしたと見えるのかもしれないが、ケイトはケイトで、トーマスとは全く別のやり方で上手いことやったのだと思う。
 トーマスは他人に対してあまり共感的ではなく、どちらかというと自分本位。恋人とその娘と遊園地に行った際に事故が起き、トーマスは事故に遭った人を助ける。帰宅後、恋人は「何で動揺しないの、私は手が震えているのに」と彼をなじる。実際の所トーマス自身は危ない目に遭ったわけではないから動揺しない、恋人はもし自分や家族が事故に遭っていたらと想像して動揺するということなのだろうが、つまりトーマスはそういうタイプの人なのだ。それをなじられてもなぁという気もするが、彼の最後の行動は、純粋に相手の為だろう。本作の原題は「Everything Will Be Fine」だが、自分に向けてではなく、相手に向けての言葉なのだ。

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