3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2016年10月

『世界の終わりの七日間』

ベン・H・ウィンタース著、上野元美訳
 小惑星が地球に衝突し、人類がほぼ滅亡すると予測される日まであと1週間に迫った。元刑事のパレスは、小惑星の衝突を止められると信じ飛び出した妹ニコともう一度会う為に、元警官たちのコミュニティーを抜け出し、元犯罪者のコルテス、犬のフーディーニと共に旅を続けている。パレスはニコの仲間たちの痕跡を辿り、ある場所に目星をつけるが。
 滅亡間近な世界で「警官」として振る舞うパレスを主人公とした三部作の完結編。小惑星は容赦なく地球に近付いており、社会は崩壊している。もうすぐ人類がいなくなるであろう世界で、殺人事件を解決し犯人を罰する意味はあるのか?パレスはあくまで法を守り警官として振る舞い続ける。それが彼にとって人間らしさを全うするということなのだろう。そしてニコもまた、その行きつく先が痛ましいものだとしても、彼女なりに人間らしさを全うしようとしたのかもしれない。パレスはニコを頑固だと言うが、パレスも結構頑固なのだ。最後の最後までまっとうに生きようとするパレスの姿は、絶望的な状況の中でもほんのりと明るい。余韻がとても深いシリーズだった。
 

『ジェイソン・ボーン』

 世間から姿を消し、賭けボクシングで稼いでいたジェイソン・ボーン(マット・デイモン)の前にCIAの元同僚、ニッキー・パーソンズ(ジュリア・スタイルズ)が現れる。彼女はCIAが世界の監視の為に新しいプログラムを始動させたことと、ボーンの正体に関する新たな情報を伝えようとしていた。彼女が残した情報を元に、ボーンは再び動き始める。CIA長官のデューイ(トミー・リー・ジョーンズ)はボーンが秘密を暴露することを危惧し、部下のヘザー・リー(アリシア・ビカンダー)、そして密かに腕利きの工作員(ヴァンサン・カッセル)にボーン捕獲を指示する。監督はポール・グリーングラス。
 グリーングラス監督とデイモンが組んだ9年ぶりのボーンシリーズ新作。私はボーンシリーズでは3作目の『ボーン・アルティメイタム』が一番、特にラストシーンが一番好きなので、正直この先のボーンは見なくてもいいなと自分の中では完結してしまっていた。でもわざわざ新作やるんだったらやっぱり楽しみになるし見に行くよね、というわけで見に行ったのだが、うーん・・・。今一つテンションが上がらない・・・。最大の要因は自分の中で既にシリーズが完結したことになってしまっているからなのだが、それを差し引いても少々物足りないと思う。
 ボーンシリーズといえば、当時は新鮮だった矢継ぎ早に繰り出される生身のアクションだろう。本作ではさすがに、この手法がアクション映画内でやりつくされた感があることに加え、デイモンもそれなりに加齢したからか(とは言え体をきっちり作りこんで「戦える」感出しているあたりは流石なのだが)、控えめになっている。代わりに派手なカーアクションが投入されているのだが、正直言ってあまり面白みがない。特にバイクを使ったカーチェイスは、あんまりこういうの得意じゃないのかな?という感じの物足りなさ。SWATの装甲車は頑丈だなぁと感心させるちょっと楽しいシーンなどもあるのだが、全般的に、人間が動いているシーンほど見栄えがしないように思った。やっぱり生身のアクションの方がグリーングラス監督は得意なのだろう。
 また、ボーン3部作の面白さのキモは、アクション以上にエモーショナルな部分にあったように思う。自分は何者なのか、更に記憶を失う前の自分が今の自分にとって望ましくない、忌まわしいものだった時にどう生きていくのかという、ボーンの葛藤が物語を走らせていた。3部作の最後で彼は過去から解き放たれ生まれ直したようにも見える。しかし今作で、彼はまた過去に引き戻される。ただ、今のボーンの立ち位置が、ボーンとしての彼なのか、ボーン以前のしての彼なのか、記憶が入り混じって曖昧になっており、そこで歯切れの悪さが生じているように思った。ボーン自身のスタンスがいまひとつ見えてこないのだ。次作がある(のかどうかは知らないが)からまだ助走段階だよということなのか。この先は、ボーンの意思のどこまでが自由意思で、どこまでがプログラムで植えつけられた意思なのか?自由意思とは何なのか?という方向に進むのかもしれない。
 なおCIA側の内部での腹の探り合いが相変わらず続くが、ここでも一区切りつく。しかしやはり同じ穴の貉というところが小物感あり。そもそも、CIAにとってのボーンの存在って、敵としても手駒としても最早そんなに重要じゃない(超人的とは言え人間1人の力で大事を起こせる時代じゃないんじゃないかなと)気がするんだけど・・・。

『アイ・ソー・ザ・ライト』

 1944年、アラバマ州でカントリー歌手のハンク・ウィリアムス(トム・ヒドルストン)は前夫と離婚して間もないオードリー(エリザベス・オルセン)と結婚した。歌手志望のオードリーはハンクのステージに共に立つが、彼女の歌はいまひとつでバンドにも観客にも不評だった。やがて息子が生まれハンクもオードリーも幸せに包まれるが、ハンクが売れっ子になるにつれ、家を空ける時間が長くなり、家族との溝は深まっていった。監督はマーク・エイブラハム。
 活躍した時期は29歳で他界するまでの6年間と短いものの、後の音楽に大きな影響を与えたカントリー歌手、ハンク・ウィリアムズの伝記映画。作中の歌はハンクを演じるヒドルストン自ら歌っており吹替えなしなのだが、上手い!実際のハンクに似ているのかどうかはわからないのだが、ヒドルストンの芸達者振りが実感できる。トム・ヒドルストンというと『マイティ・ソー』(ケネス・ブラナー監督)のロキや『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』(ジム・ジャームッシュ監督)の吸血鬼など人外、人外じゃなくてもどこかゴシック色のある浮世離れした雰囲気の役ばかり印象に残っているが、本作では普通(とは言っても当時のスターだけど)の人役。人外系の役柄で見られなかった表情が見られる。スターとしてのかっこよさ、1人の男性としての弱さと情けなさを両方見せており、この人、やっぱり上手かったんだなと改めて思った。
  ただ、映画としては平坦で少々起伏に欠ける。ハンクはスターになるが、女癖の悪さと過度な飲酒で妻との関係は悪化、やがて重い病気に侵され、プライベートは平穏無事とは程遠かった。それらすべてを同じような比重で、時系列に沿って描いている為、作品の軸、クライマックスをどのあたりに設定したのかがよくわからない。ここだという印象に残るシーンがないのだ。伝記としては誠実な描き方なのかもしれないが、映画としては起伏に乏しい。キメッキメの冒頭は何だったんだよ!とちょっと突っ込みたくなってしまう。類型的といえば類型的なストーリーなので、音楽以外に何かフックがないと(つまりオーソドックスに上手い!ってほどには上手くない映画の作りなのだろう)2時間以上間を持たせるにはちょっときついかなぁと思った。とは言え、ハンクが歌っているシーンは概ね見ていて楽しい。これは音楽映画の強みだろう。
  ハンクは女好きで結婚後も浮気が耐えないのだが、女性運はあまり良くなかったみたいだ。ハンクの妻・オードリーは歌手として成功したいという野心があるが、彼女にはハンクほどの才能がない。それでも、ハンクは彼女を自分のステージに上げる。ハンクも彼女の下手さはわかっているはずなのに、やっぱり惚れた相手にそういう指摘はできないのか・・・。バンドメンバーがげんなりしているのがわかるので、何だかハンクがかわいそうになってしまう。自分の歌手としての腕にプライドを持っていればいるほど、下手な相手とデュエットって耐えられないんじゃないかという気がするが。オードリーにしても、すぐ隣に天才的な人がいたら自分の才能の度合いはわかってしまうんじゃないかと思うが、そこまで固執してしまうものなのか(ただ、離婚したいというオードリーにも一理ある。一緒に生活するのが難しい人同士が運悪く結婚してしまったケースだったのでは)。また、売れない時代からのマネジャー的存在でもある母親が、さりげなく支配欲強い風なのもきつい。これは嫁姑絶対上手くいかないでしょ・・・。

『聲の形』

 小学生の石田将也(入野自由)は、聴覚障害を持つ転校生の西宮硝子(早見沙織)に興味を持ち、彼女をからかうが、それは学級全体に波及し硝子は孤立していく。しかしある出来事をきっかけに、将也が周囲から孤立、硝子は転校してしまう。5年後、高校生となった将也は硝子と再会、今度こそ「友達」になろうとする。原作は大西良時の同名漫画、監督は山田尚子。
 『けいおん!』『たまこラブストーリー』を手掛けた山田監督、脚本の吉田玲子、製作スタジオは京都アニメーションという布陣で、アニメーション映画としてのクオリティは、作画、演出共に高い。キャラクターデザインは可愛らしいが、演技をやらせすぎないところがよかった。声優の演技もデフォルメ度が低いというか、そのへんにいそうな男子、女子感を打ち出している。特に将也役の入野の演技が素晴らしく、この人いつの間にかこんなに上手くなっていたのか!とびっくりした。
 ただ、アニメーションとしてのクオリティはとても高く映像上の演出もセンスがいいのだが、ストーリー上これでいいのか?と疑問に思うところも。これは原作由来のものなので言ってもしょうがないところはあるのだが、良作なだけに気になってしょうがなかった。山田監督は、個人にとって世界が美しく輝く瞬間を切り取るのが上手いだけに、とても勿体ない。
 将也たちと硝子の間に生じる食い違いと破綻は、それなりに安定していた共同体に異物、全くの他者が出現した(というよりも自分達以外を「異物」と認識してしまう)ことから生じるものだろう。硝子は仲間に入りたい一心で、あえて空気を読まずに踏み込んで来たりする。将也たちにとっては、硝子とコミュニケートするためには彼女に合わせた方法を取らなければならないし、自分達のやることの腰をいちいち折られるような気がするのだろう(それをフォローするのは教師の役目だろうが、本作の担任教師はまあひどいな)。彼らにとって、硝子は徐々に鬱陶しい存在になっていく。もしも彼らが大人だったらもっと上手い折り合いの付け方がわかるのだろうが、そのへんのスキルの低さが生々しく子供な感じがした。
 そもそも論になってしまうのだが、硝子が他者として出現する存在だとしたら、聴覚障害者であるという設定は必須ではなのではないだろうか。差異があるんですよと最初に明らかにする為の設定なのだろうが、逆に原因(と将也たちが捉えるもの。実際はもっと色々のものが交じり合っている)がはっきりしすぎていて、そこから先に考えが及ばないのではないかなと思った。将也と級友の間にも当然差異や誤解があり、それが段々露呈していく。自分とは違う、必ずしも自分の意思に沿わない相手とどう意思疎通し折り合いをつけていくか、という部分が大事なのだと思うのだが。
 原作だともっと具体的に、聴覚障害があると何に困るのか、周囲とのギャップがどういう形で出るのかという部分が描かれているので何となく納得がいったのだが、映画だと尺の都合上、ちゃんと踏まえてはいるがあっさり目なのも一因かもしれない。
 また、将也が硝子に恋心を抱くことはあり得ても、硝子が将也に、というのはちょっと無理筋すぎないか。原作がそうなっているからしょうがないと言えばしょうがないんだけど、彼女がされたことを考えると、恋愛どころか信用するのも難しいだろう。そこを越えていく、お互いに許しあうということが一つのテーマだったんだろうが、恋愛要素を入れたことでそこがぼやけてしまった気がする。好意がなくても許せるのかと思ってしまうし。あと、そもそも許されると思うなよという気持ちも見ていて拭えなかったからなぁ・・・。

『ある戦争』

 デンマーク軍の部隊長クラウス(ピルー・アスベック)は、平和維持軍の任務の為にアフガニスタンに駐留していた。ある集落でタリバンの襲撃を受け、発砲場所と考えられる地区への空爆を要請するが、実際には民間人しかいなかった。クラウスは民間人11人を死亡させたとして軍法会議にかけられる。監督はトビアス・リンホルム。
リンホルム監督は脚本家として『光のほうへ』『偽りなき者』(トマス・ヴィンターベア監督)を手掛けており、今回長編初監督だそうだ。シリアスで見た後ずーんと考えさせられる脚本を書いてきたが、自監督でもそこは同様。白黒つけられない世界を描き続ける作家性なのだろう。
 予告編や映画のあらすじだけを見ると、軍法会議がメインなのかなという印象だが、実際はそこに至るまでが結構長い。クラウスと部下たちが日々どういう任務をこなしているのか、現地の民間人とのやりとり(この顛末がやりきれない)や、仲間同士のやりとりもひとつづつ追っていく。どういう経緯で軍法会議に至るのかというところに、説得力があるのだ。同時に、デンマークで彼の帰りを待つ妻子の日常も並行して描かれる。クラウス夫妻には3人の幼い子供がいる。長女はクラウスが置かれている状況を理解しているようだが、長男は父親の不在が辛いようで学校では問題行動が多い。末っ子が誤飲した為に病院に運び込むシーンがあるのだが、上の子2人もつれていく。ああ子供だけで留守番させられないからかとはっとした。ちょっとしたことなんだけど、実際にその場を見てみないとぴんとこないことってある。ともあれ、クラウス側とその家族側、全く違う環境ではあるが双方の日常をまずしっかり見せることで、クラウスが当事者になる問題が、日常と地続きであることが強く意識される。
 クラウスは軍法会議にかけられ、実刑判決を受けるか否かというところまでいくのだが、彼が起こした(とされる)事件は、戦争をやっていればそこそこ頻発するんじゃないかという気もする。少なくとも、民間人を全く巻き込まない戦争というのは難しいだろう。もちろん軍規は厳密であるべきだが(軍法会議自体は開かれて当然だろう)、厳密に守って自分達が全滅するんじゃ兵士なんてやってられないだろうし・・・。見ている間中ジレンマを感じ続けた。クラウスは軍人としてはむしろ真面目で、民間人を巻き込んだ罪悪感には苛まれるし、保身の為に虚偽の証言は出来ないと思い詰める。しかし妻からすると、刑務所に入って何かが解決するのか、家族はどうなるのかという不安しかない。ここにもまた、ジレンマがあるのだ。
 戦争の中で起きることは、その責任を個人に負わせるには荷が重すぎるのだろうとつくづく思わされる。じゃあ全員責任免除に出来るかと言ったらそんなわけないので、ここでもまたジレンマが・・・。どちらが正しいのか、妥当なのかという回答を避け続けるような作品だった。正解を出してはいけない類の問いもあるのだ。

『ザ・サン 罪の息子(上、下)』

ジョー・ネスボ著、戸田裕之訳
 オスロの刑務所に服役中の麻薬中毒者サニーは、他の囚人からの「告解」を聞き許しを与える聖人のように扱われていた。しかし、サニーはある日脱獄し姿を消す。その後オスロ市内で殺人事件が相次いで起こる。オスロ警察殺人課のシモン・ケーファス警部は、殺人事件の連続性に気付き、サニーとの関連にも気づいていく。
 序盤はそれほどでもないのだが、序盤を過ぎると急にアクセル踏み込んでスピードを落とさない。物語の視点も場所・時系列も次々と変わり目まぐるしく、急展開に次ぐ急展開で一気に読んだ。題名からも推測できる通り、サニーがある人物の息子であり、父親が背負っていた荷を息子が肩代わりしけりをつけるという、濃厚な復讐譚としての側面がある。加えて、その人物とシモンの関係、シモンが背負っている問題が思わぬところで結びつき開示されていく。この人の罪に対する制裁、あるいは許しがどういう形で現れるのか、あるいは許しなどありえないのか、重苦しく密度が高いが滅法面白い。
 本作、登場人物数は結構多いのだが、一人一人の造形がしっかりと立ち上がっており、下っ端のギャングや麻薬中毒者に至るまで、使い捨て感がない。それぞれの視点の切り替え方、どこでどの登場人物の視点にするかという部分が抜群にうまいと思う。サニーを乗せるタクシーの運転手など、わずかな出番なのに人となりとここに至るまでがよくわかるキャラクターになっている。

『アリバイ・アイク:ラードナー傑作選』

リング・ラードナー著、加島祥造訳
 名コラムニストで短編小説の名手でもあった著者の、傑作13編を収録。「村上・柴田翻訳堂」シリーズより。
 何をするにも言い訳をせずにはいられない男が登場する表題作をはじめ、小説というよりも漫談、ホラ話といった味わい。そしてどいつもこいつもよく喋る!翻訳も上手いのだろうが、内容はしょーもないのに喋りにグルーヴ感があってどんどん乗せられてしまう感じがする。著者はフィッツジェラルドやヘミングウェイと親しかったそうだが、作風は全く異なる。本作はやはりコラム寄りというか、「文学」を意識した文学という感じではないのだ。週刊誌とか新聞とかに掲載されていて往々に単行本化されないまま、みたいな雰囲気がある。しかし、その読み捨てられる感がいい。軽さ、おかしみが前面に打ち出されているが、人間の愚かさを冷徹に見つめるようなシニカルな視線もあり、そのあたりもコラムニスト出身者ぽい。
 それにしても、アメリカ人にとって野球は本当に特別なスポーツなんだなー。巻末に収録された柴田元幸と村上春樹の対談でも言及されているが、同じく村上・柴田翻訳堂から出版されているフィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』の先祖みたいな感じ。

『救い出される』

ジェイムズ・ディッキー著、酒本雅之訳
 アウトドア好きでスポーツ万能なルイスの誘いを受け、カヌーで激流の川下りに向かった4人の男たち。しかし2人の無法者に襲われる。負傷者を抱えながら何とか逃げ延び、「川」から脱出しようとする。「村上柴田翻訳堂」シリーズより、『わが心の川』を復刊・改題したもの。
 アメリカ南部怖いよ!なんだよ無法者って!最初は美しく雄大だった自然が、一挙に猛々しく襲ってくる。その様は確かに迫力あるのだが、一番怖いのは人間だよ!見知らぬ人間同士が鉢合わせすることで一気に血なまぐささが生じ、クライムノベル、ノワールのような雰囲気になってくるのだ。その反転具合にはえっそういう話だったの?!とびっくりした。題名は『救い出される』なのだが、最初考えていた遭難・事故から救出とは(もちろんそういう意味合いも大きいのだが)大分事情が違ってくる。そもそも、彼らは本当に救い出されたのか?巻末に収録された柴田元幸と村上春樹の対談では「闇のみなもとから救い出される」のだというが、むしろ闇のみなもとがこの先ずっと自分達と並走することになってしまったのでは。なお、身体の感覚、衝動に関する記述が目立ち、自分の体をもてあますと同時にフル回転させたいという欲求がそこかしこに現れる。しかしフル回転させるシチュエーションが大変な修羅場、かつ修羅場であると同時に高揚感もおぼえる瞬間でもある。身体を自覚するほど「闇のみなもと」に近づいていくようでもあり、だとするとそこから逃れる術はないのでは。

『ジャニス:リトル・ガール・ブルー』

 女性ロックシンガーとして後の世代に多大な影響を与えつつも、1970年に27歳でこの世を去ったジャニス・ジョプリン。彼女が家族や恋人に残した手紙を軸に、彼女の人生を辿るドキュメンタリー。
 私は恥ずかしながらジャニス・ジョプリンのことはさほど良く知らない(さすがに有名な曲は聞いたことある、と言う程度)のだが、作中で使われれる当時のステージの映像を見るとさすがに迫力があって、今見てこの迫力だったら当時は大変なセンセーショナルさだったんだろうということは分かる。自分の中身を搾り取って分け与えていくような歌い方で、見ずにいられない(当時のメディアが彼女の歌を指して「発情した雌」みたいな表現を(おそらく褒める意図で)していたのにはぎょっとした。こういう批評上の言葉使いがOKな時代だったのか・・・)。
 ジャニスは気丈で意思の強さのある人だったようだし、だからこそのしあがることが出来たのだろうが、同時に周囲から認められたい・愛されたい、そして誰かを愛したいという欲求がとても強いという面もあったようだ。彼女はいわゆる美人ではなく、学生の頃から独自の道を歩んでいたので学校では浮いていたし、いじめられていたそうだ。特に、大学で受けた嫌がらせがひどくて胸が痛んだ。大学生くらいの年齢でそんな低レベルの嫌がらせをするとは・・・。当時の体験の反動で、承認欲求みたいなものがより強くなったという面もあるのかもしれない。
 ただ、作中で語られる恋人や家族との関係からすると、彼女の愛されたさは往々にして空回りしていたようにも思える。後に有名人になったジャニスが高校の同窓会に出席するエピソードがあるのだが、見ていて辛かった。かつての同級生たちは冷淡なもので、いわゆる「スターの帰省」みたいな雰囲気はあまりなかったようだ。ジャニスの音楽が理解されない土地柄だったのかもしれないし、同級生たちにとってはずっと「いけてないジャニス」のままだったのかもしれない。同窓会でマスコミのインタビューに応じるジャニスはしどろもどろで全然楽しそうでもないし、気乗りしないなら行かなければいいのにとも思うのだが、成功した自分を見せずにはいられなかったんだろうなぁ。
 また、ジャニスは家族(主に両親と妹)に頻繁に手紙を書いているのだが、家族のリアクションは今一つ薄そうだった。両親が彼女の成功をどうとらえていたのか妹が解釈するのだが、えっそれどういう意味で・・・?としばしフリーズした。そんなに理解不能だったということなのか?でも理解できなくても許容してくれるだけでいいし、子供への愛とはまた別物なんじゃないの?と。ジャニスが学校に不向きだと早々に見抜いて自由にさせていたりと、決して理解も愛もないわけではないのだが、ジャニスが両親に向ける愛の強さには追い付いていなかったのではないか。この、愛の強さといかスピードというかが愛を注ぐ相手の強さ・スピートと一致しないという運の悪さは、家族関係でも恋人との関係でもついてまわっていたように見えた。そこから生じる満たされなさが、彼女をドラッグにのめり込ませたと言う面もあるだろう。
 愛し愛されることの(彼女にとっての)不十分さが全部歌にぶちこまれているように聞こえてきたが、それとこれとはまた別の問題(優れたミュージシャンが皆不幸だなんてことはないだろう)とした方がいいんだろうな。

『シーモアさんと、大人のための人生入門』

 89歳のアメリカ人ピアノ教師、シーモア・バーンスタインを、俳優のイーサン・ホークが監督として撮ったドキュメンタリー。シーモアはプロのコンサートピアニストだったが、50才で引退し教育と作曲に専念するようになった。知人の食事会でたまたまシーモアと会ったイーサン・ホークは、彼と話すことでとても安心でき、彼の人生に興味を持ったのだと言う。
 シーモアはピアニストしてもかなり売れっ子だったらしく、ステージに立つのをやめると決意した時には、周囲から「才能を持つ者として自分の責任を果たすべきだ」と引き止められたらしい。しかし、彼本人にとっては自分が果たすべき責任とはプロの演者としてのものではなかった。シーモアは人前に立つことが本来苦手だった(パトロンやエージェントとの付き合いも苦痛だったようだ)という事情はあるのだが、才能・適性と責任についての認識って、自分の価値判断を他人に説明するのが難しい類のものなのだろう。シーモアの言葉は、こういう説明しにくい部分、言語化しにくい部分に触れたものが多かったように思う。彼の専門分野が音楽という、言語ではカバーしきれない表現方法だからということもあるだろうが、元々、シーモアが言語化しきれないものへの親和性が高い人だったのではないかと思う。
 それ故か、彼の言葉は時に矛盾していたり質問への返答を拒むようなそぶりが見られたりもする。彼の中で、言葉はそれほど確固として固まったものではないんじゃないかなと思った(インタビューのような形式は本意ではないのかもしれない)。彼の本分はむしろ聞くことにある。音楽家として、音楽教師としての彼の適性は、そこにあるのだと思う。彼が生徒に指導するシーンがいくつかあるのだが、生徒が出す音への聞く姿勢が深い所まで聞きに行く感じ。スタンウェイのピアノ倉庫でピアノを選ぶ時も同様だ。そして、その深い所まで聞きに行く姿勢を、生徒にも求める。イーサン・ホークがシーモアに対して「安心できた」というのも、芸術に対する真摯さに加え、彼の聞く姿勢のせいではないかと思う。
 本作、私にとってドキュメンタリーとしてはちょっと物足りず、彼の芸術論や人生論よりもピアノの指導の仕方をもっと見たかったのだが、ピアノ教師をやっていた私の母は、本作にすごく心動かされたそうだ。シーモアの言葉のひとつにそう!そうだ!と深く共感したし、彼のピアノの指導の仕方から、彼の音楽や人生そのものが伝わってくると話していた。観客個人の経験によって映画の価値が左右されるようなことはないと思うし、「何々を経験していない人にはこの映画はわからない」というのは製作側の逃げだとは思うのだが、実体験の有無によって理解度が左右されてしまうということはやっぱりあるんだろうなぁ。映画そのものが好きな者としては何だか悔しいが。

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