3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2016年10月

『エピローグ』

円城塔著
オーバー・チューリング・システム(OTC)が現実世界の解像度を上げ続け、人類が“こちら側”へと退転した世界。特化採掘大隊の朝戸と支援ロボット・アラクネは、OTCの構成物質(スマート・マテリアル)を入手するため、現実宇宙へ向かう。一方、ふたつの宇宙で起こった連続殺人事件を刑事クラビトは捜査していた。
著者の『プロローグ』で発生したシステムの行き着く果てを描いたような本作。物語とは何か、文字による記述というシステムはどこへ行くのか?書けば「そうこうこと」になり延々と書換えられるという文章の性質そのものを小説内の設定として組み込むという試みなのかなと思ったが、これは意外と落としどころが難しい設定なんだなとも。何しろ何度でも書換えられるので、様々な方向から様々な都合で世界が改変されてしまう。そもそも小説とはそういうものだが、それをいかにして「小説」というフォーマットに落とし込んでいくのか。はたまた、フォーマットに落とし込むことにどういう意義があるのか、という小説と言う形態の広がり方について考えさせられる。読む側以上に、書く側にとって、なぜ小説と言う形態なのか、という課題は重いのだろう。

『プロローグ』

円城塔著
小説を書こうとしている「わたし」は、執筆にあたり言語表記の範囲を決め、登場する13氏族を制定していく。しかし次々と異常事態が起こり、「わたし」は「わたし」とすれ違いつつ、執筆の為、喫茶店から地方への出張、海外へも出向き、アメリカ・ユタ州で登場人物と再会する。
著者初の「私小説」だそうだが、誰にとっての「私小説」なのか。「わたし」は小説を書こうとしつつ、日本語の構造を解析し、自作を構成する言葉の統計を取ったり、作家が作った物語と、偶発的に言葉の並び替えによって生じた文章とはどう違うと言えるのか思索したり、プログラミングで小説は生成されるのではと考えたりする。小説が、それを構成する言語がどのように構成されているのか、解体しつつシュミレーションしているようだった。「わたし」は何重にも存在し、「わたし」であることにさほど重要性はない。「わたし」にとっての私小説ではなく、「小説」にとっての、どのように生成され構造されていくかという私小説であるように思った。しかし、もっと頭のいい読者だったらより読み込めるんだろうなぁと思うと悔しい!なお、装丁が中身を的確に表していると思う。

『HiGH&LOW RED RAIN』

 雨宮雅貴(TAKAHIRO)と広斗(登坂広臣)兄弟は、1年前に姿を消した長兄・尊龍(斎藤工)を探し続けていた。ヤクザに追われる少女・成瀬愛華(吉本実憂)から、尊龍の行方と目的に関する情報を得るが。監督は山口雄大。『HiGH&LOW THE MOVIE』の続編。
 前作、映画としては出来がいいとは言い難いし色々珍妙だったのだが、一つのアトラクションとしてはありかなと思ったし、とにかく作っている側のやる気に満ちているので、ある意味面白かった。本作は、前作よりもドラマ重視になっている。登場人物を雨宮兄弟とその周辺に絞り込んだことでドラマ作りがやりやすくなったのだろうが、ちゃんとドラマをやろうとしていることで、却って前作にあった映画としては異形の面白さみたいなものは薄れてしまったと思う。前作はある種の祭り、今回はスタンダードな兄弟ドラマだからテンションのパワーダウンはやむなしという部分はあるだろう。
 ただ、こういう映画を作るのか、という面での異文化を見るような面白さはやはりある。このシリーズ、一番重視されているのは見た目がいかにかっこいいかと言うことで、話の整合性とか、リアリティみたいなものは度外視しているんだなということが良くわかるのだ。架空の町が舞台とは言え、全員一応日本語喋っており日本が舞台と思われる(総理大臣いるし)のだが、序盤の、白い十字架が立ち並ぶ墓地のシーンでさっそく突っ込みたくなった。たしかにその方が見映えはするかもしれないけれども!クリスチャンだという設定とか特になかったじゃん!お線香とか存在しない世界なんだろうな・・・。PVを繋ぎ合わせたような世界観は前作通りなのだが、ここまで「俺が考えたかっこいいやつ」を徹底していると、むしろ清々しい。
 今回、肉弾戦のアクションの見せ方の手数が随分増えたという印象を受けた。前作では集団対集団だったが、今回は人数絞られていて、アクション指導を丁寧にやる余裕があったのかも。ただ、そのアクションの撮り方はカット割りが細かすぎていまひとつ迫力に欠ける。一連のアクションを通しの全体像で見たいのにーと思ったが、演じる側の技量の問題なのかな。
 なお、斎藤工が壁ドン通り越して壁になっていたので笑った。当然斎藤のキャリアを踏まえて台詞を作っているだろうから、笑わせにきてるよな・・・。それにちゃんと応える斎藤もえらい。プロである。

『ダゲレオタイプの女』

 ダゲレオタイプを使う写真家ステファン(オリヴィエ・グルメ)の助手として雇われたジャン(タハール・ラヒム)は、ステファンの娘で写真のモデルを務めるマリー(コンスタンス・ルソー)に惹かれる。長時間を露光を必要とする為にモデルの体を拘束するダゲレオタイプは、マリーに負担を与えていた。ジャンはマリーを救い出そうとするが。監督は黒沢清。
 フランスで製作された、黒沢監督初の海外撮影・海外キャスト起用作品。しかし出来上がった作品はどう見ても黒沢清監督作品だし舞台が東京だろうがパリ郊外だろうが関係ないんだな!とある意味感動した。曇天空の下列車が止まるファーストショットで早くもわくわくする。大変美しく、黒沢映画ではおなじみのモチーフが次々と現れる。ドアはゆっくりと見るものを誘い込むように開き、なぜか室内に風が吹き込みカーテンはそよぎ、急に周囲が暗くなる。ロケハンの優秀さにも唸った。もうここしかない、くらいにぴったりとはまる場所を使っている。地下室など、黒沢清っぽすぎて笑ってしまったくらい。
 昔の人は写真は被写体の魂を抜くと信じていたと言うが、等身大のダゲレオタイプには確かにそのような妖気が漂っている。長時間拘束されるというのも、その拘束具の形状も禍々しい。ホラーの小道具としてはとっても優秀だ。とは言え、本作中、ダゲレオタイプの装置や写真自体は、ホラーの要素としてはそれほど大きくは機能しない。死者は勝手に動きだし、死者の世界と生者の世界は入り混じっていく。監督の前作『岸辺の旅』に少し通ずるものがあるかもしれない。扉の向こうを覗くシークエンスが何度か現れるが、往々にして扉は勝手に開き、こちら側よりもあちら側の方が明るく見えるという所が、誘い込まれるようで何とも怖い。死者は、明るいところにも平気で現れ行動する。
 しかし、2つの世界が重なり合い、死者は生きている時のように側にいるものの、生者との意思の疎通は阻害されている。おそらく彼女らには意思はあるのだが、生者のそれとは違い、もう理解することは出来ないしこちらの意思も通じない。そばにいるはずなのにどうしようもなく隔たれている感じが、悲恋(らしきもの)と呼応していく。

『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』

 1920年代、ニューヨーク。フィッツジェラルドやヘミングウェイを世に送り出した編集者、マックス・パーキンズ(コリン・ファース)の元に、無名作家のトマス・ウルフ(ジュード・ロウ)が原稿を持ち込んでくる。彼の才能を見抜いたパーキンズはウルフに協力して原稿の手直しに励み、処女作『天使よ故郷を見よ』はベストセラーに。次の作品の為、2人は昼夜を問わず大量の原稿の校正を続ける。パーキンズは家庭を犠牲にしていると妻に諌められ、ウルフの恋人アリーン(ニコール・キッドマン)は2人の関係に激しく嫉妬する。やがてウルフはパーキンズがいないと作品を完成できないと揶揄されたことに腹を立て、2人の関係にも亀裂が走る。原作はA・スコット・バーグ『名編集者パーキンズ』、監督はマイケル・グランデージ。
 トマス・ウルフの作品を特に読んだことがなくても、パーキンズのことを知らなくても大丈夫な作品だが、フィッツジェラルドやヘミングウェイのことは(本作での登場時間は短いのだが)知っておいた方が楽しめると思う。特にフィッツジェラルドは『グレート・ギャツビー』の後、長いスランプ時期に入っており、妻が精神的に不安定なこともあり生活が厳しい。苦境のフィッツジェラルドをパーキンズが以前と変わらず支え続けていることがわかる描写もあり、パーキンズの人柄がわかる。
 ウルフはどちらかというと奇人変人扱いされるであろう人柄で、声は大きくテンションの上がり下がりが激しい。執筆量はやたらと多く、1作品の原稿が木箱数箱に入れられ編集室に届くというシーンもある。これを書きたい、という意欲が旺盛だというよりも、頭の中で言葉が渦巻いており、書き出さずにいられないように見える。キッチンで立ったまま原稿を書くウルフの姿は、何かに追い立てられているようだった。一語を絞り出すのに必死だというフィッツジェラルドも大変そうだが、ウルフの言葉の過剰さは、これはこれで大変そう。
 ウルフは対人関係でもテンションの上がり下がりが激しく、好意を持った相手にはぐいぐい押してくる。ウルフにとってパーキンズは初めて自分の作品を認めてくれた相手ということもあり、パーキンズを深く信頼するようになる。執筆している間は作家は孤独で苦しいだろうと思うが、その苦しさを理解してくれる相手がいるという喜びが、2人で作業を進める様には充ちている。
パーキンズも才能ある作家に信頼されてもちろん悪い気はしないので(演じるジュード・ロウが久しぶりにキラキラ感全開で押してくるので、そりゃあ悪い気はしないな!と妙に納得する)、彼との仕事にはどんどんのめり込んでいく。作家の才能がどんどん開花していく様を目の当たりにし、その手助けをするというのは、やはり他の仕事では味わえない喜びがあるのだろう。その喜びの代えがたさみたいなものが、そこに立ち入ることができないアリーンやパーキンズの家族にとってはやりきれなかったのだろうが。
 ウルフの信愛は直球だが、不信が芽生えるとそれに蝕まれるスピードも速く、こういう人と付き合うのは仕事相手としても友人としても、実に大変そう。フィッツジェラルドに暴言をはいたウルフをパーキンズが叱責するシーンがあるが、ウルフは多分、何で怒られてるのかぴんとこなかったんじゃないか。書けない状態を想像できないことに加え、パーキンズが自分以外を尊重するということが念頭にない感じ。こういう形で過剰に信頼を寄せられるというのも、なかなかきついものがある。パーキンズは実に人間が出来ていた(家族から見たら別の意見があるだろうけど、作中では妻はパーキンズの仕事を尊重している)んだろうな・・・。才能ある者から離れられない性分という側面もあったのかもしれないが、すごく抑制のきいた振る舞い方。コリン・ファースにははまり役だったと思う。ファースが演じることで人徳感が上がっている気がしなくもない。

『ブレイクの隣人』

トレイシー・シュヴァリエ著、野沢佳織訳
1792年、英国。海の向こう、フランスでは革命の真っ最中で、その熱はロンドンにも飛び火していた。英国南部の村で暮らしていたケラウェイ一家は、ロンドンに引っ越す。家具職人の父・トマスは、大道具係としてサーカス団の興行主アストリーに雇われた。都会の暮らしになかなかなじめない長男のジェムは、ロンドンっ子の少女マギーと友達になる。2人はジェムの家の隣に住む、革命を支持するという噂があるブレイク氏に興味を持つ。
ブレイク氏とは、詩人で画家のウィリアム・ブレイク。作中でも次作の詩や絵画を披露している。彼が生きた時代のロンドンの雰囲気、市井の人々の生活、当時フランス革命がイギリスにどのような影響を与えていたのか、生き生きと描かれていて面白い。元々階級社会ではあるが、当時のロンドンは富と貧が狭いエリアですみ分けられており、明暗をくっきり見てとれてしまう。庶民の暮らしは厳しく、下には下がいる世界だ。とは言え、物語はジェムやマギーら、子供達の視点から進む。少年少女の成長物語ブレイクは当時の人たちから(いや現代人からしても)見たら先進的すぎてエキセントリック。近所からも不審者扱いされているし、王制廃止論者なので迫害も受ける。しかしジェムやマギーにとっては自分達と対等に接する数少ない大人だ。ブレイクは相手が子供、しかも抽象的な話や芸術文化に縁のない子供だと言うことを考慮せずに話すのだが、ジェムにとってはそれが視野を広げる手がかりとなる。歴史小説であると同時に、スタンダードな少年少女の成長物語として楽しかった。しかし当時の女性は人生の選択肢が男性以上に限られていて辛いな・・・。

『傷だらけのカミーユ』

ピエール・ルメートル著、橘明美訳
 カミーユ・ヴェルーヴェン警部の恋人アンナが、強盗事件に巻き込まれ重傷を負った。カミーユは強引に事件を担当し、犯人を捜す。しかし犯人は執拗にアンナを狙ってくる。
 『悲しみのイレーヌ』『その女アレックス』(作中時系列順)に続く、カミーユ・ヴェルーヴェン警部三部作完結編。とうとうカミーユの名前が題名にあがるわけだが、題名が内容そのもので、もう初っ端から傷だらけである。1ページ目で、あっこれまずいやつ・・・だめだめ!と顔を覆いたくなる不吉さ。カミーユの行動も、自分で自分を泥沼に追い込んでいくような、理性的に考えたら選択ミスの連続のように思える。しかし、その非合理さ、理屈に合わなさが、彼のアンヌに対する思い、彼が抱える問題故のものなのだということもよくわかる。冷静で理知的なカミーユだが、事件が自分のことになった途端、平静ではいられなくなってしまうのだ。その傷だらけになりつつ地獄へ突っ込んでいく感じ、そしてどうしてもそうなってしまうという抗えなさが、過去2作よりも作品のノワール風味を強めている。また過去2作と同様に、ある地点でがらっと風景が変わって見える、ミステリのけれん味たっぷりな作品なのだが、その見えてくる景色が辛い。当事者も辛いことがわかっているので、大変荒涼としてやりきれない気持ちになる。とても面白いのでシリーズ続編を望む声も大きいようだが、私はカミーユの物語はこれで終わるのがふさわしいと思う。もう彼は全部やりつくしたのだろう。


『淵に立つ』

 小さな金属加工工場を営む鈴岡利雄(古舘寛治)と章江(筒井真理子)夫婦。2人の前に、利雄の知り合いで刑務所から出てきて間もないらしい、八坂草太郎(浅野忠信)が現れる。八坂は夫婦と同居するようになり、娘も八坂に懐く。しかしある事件が起き八坂は姿を消す。8年後、夫婦は八坂の消息を掴む。監督・脚本は深田晃司。第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞受賞。
 私は深田監督の作品は、おそらく変化球であろう『さようなら』しか見たことがないのだが、本作を見ていてあっこの絵『さようなら』で見たやつだ!とはっとする場面が所々あった。構図をかなりかっちりと決めて撮る監督なのだろうか。冒頭のメトロノームの使い方や八坂の白いつなぎと赤いインナー等、ちょっと暗喩的な演出が多すぎるんじゃないかという気はしたが、ひとつの寓話のような雰囲気を強めるという意図なら効果的だったと思う。また、ともすると抽象的になりすぎそうなところを、役者の肉体の存在感が引き止めている。出演者全員とてもよかった。特に筒井の普通の中年女性っぽさとそこから見え隠れする凄みは素晴らしい。
 ある家族の崩壊を描いたようでもあるが、そもそも目の前のこの人を自分は本当に知っていると言えるのか?何を持って「知っている」とするのか?という問題とずっと向き合うような作品だった。人物を背後(後頭部のアップが多い)から映したショットが多いのもまた、表情が分からない=何を考えているのかわからないことを連想させる。
 この人は何者なのか、という疑問は主に八坂に対してのもののように見える。利雄は八坂と前々から知り合いで彼の過去も知っているが、それでも八坂が起こす「事件」については予測もつかなかった。章江はもちろん八坂とは初対面だが、彼に徐々に惹かれていく。彼女もまた、八坂があのような「事件」を起こすとは思いもよらなかっただろう。とは言え2人が見ていた八坂の姿が偽りというわけではなく、八坂の一面を見ていたにすぎない。
 とは言え、八坂は最初から得体のしれない人として登場する。深刻に「この人を本当に知っているのか」という問題が浮上するのは、むしろ利雄と章江の関係においてではないか。利雄の「ほっとした」発言、そして八坂との過去の告白後、章江にとっての利雄は見知らぬ人になってしまったのだろう。ただ、家族という仕組みには、こういう面は多かれ少なかれあると思う。そこを問い続けても問わな過ぎても、家族という仕組みは崩壊してしまうのかもしれないが。

『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』

 灯台守の父と暮らす少年ベンの母親は、妹シアーシャを生むと姿を消し、以来、父親は悲しみに暮れていた。祖母は子供達を自分の家に引き取ろうとし、2人は嫌々ながら町に住むことになる。しかしシアーシャがフクロウの魔女に連れ去られてしまう。土地の妖精たちによると、シアーシャは妖精セルキーなのだと言う。ベンはシアーシャを助ける為に魔女の家に向かう。監督はトム・ムーア。
 ビジュアルが素晴らしい!アイルランドが舞台でケルト文化が背景にあるので、美術のそこかしこにケルト風の文様がちりばめられている。エンドロールでイメージボードやキャラクターデザイン表が見られるが、本にまとめて出版してほしいくらい。円をベースにデザインした風のキャラクターは、シンプルだがデザインも動きも可愛らしい。特に犬とおばあちゃんたちのデザインは秀逸だと思う。
 可愛らしく美しいおとぎ話だが、実はかなりしんどい物語ではないだろうか。兄妹の母親は妖精だった為に、人間の世界では暮らせなかったらしいということがなんとなくわかってくるが、人間の世界で暮らせないということは、この世にいられない、あの世へ行ってしまったということでもある。家族がそろって暮らせる日はおそらくもう来ない。そして父親が自分の哀しみで手一杯で、子供達の方になかなか気持ちが行かない。そうすると、子供達は子供達で母親が恋しいわけで、どんどんあの世の方に近づいてしまう。祖母のやり方は横暴ではあるのだが、子供達をなんとかこの世側に引き戻そうとしているとも言える。父親が出てくる度に、お父さんしっかりして・・・!とハラハラしてしまった。父親が動き出すことが、物語をめでたしめでたしで終わらせるには必須なのだ。
 ベンとシアーシャの冒険物語であると同時に、身近な喪失とどう向き合っていくかという物語でもある。フクロウの魔女と、彼女の息子である石化した巨人のエピソードは、ベンとシアーシャの父親の姿にも重なった。

『ブロディ先生の青春』

リュミエル・スパークス著、木村政則訳
 1930年代、エディンバラの女子学校で教鞭をとるブロディ先生は、お気に入りの生徒を集め、芸術や哲学、歴史を個人的に教えていた。「ブロディ隊」と呼ばれる彼女たちは、革新的な教育方針を取るブロディ先生に眉をひそめる校長や他の教師たちにとっては頭の痛い存在だった。10歳だった「ブロディ隊」の少女たちはやがて17歳になり、ある「裏切り」が起きる。
 美人で理知的、博学な(ように見える)ブロディ先生にブロディ隊の少女たちは夢中になり、ブロディ先生も彼女たちに出来る限りの知識を与え、導こうとする。が、それは本当に教育なのか?少女たちは成長するにつれ、当然世界が広がるので、ブロディ先生の知識には偏りがあり、彼女の「正しさ」は一面的なものにすぎないことがわかってくる。個人の自主独立と自由を奨励するはずの彼女の教育は、自分の考えに生徒たちをあてはめ、自分のコピーを作ることにすぎないのではと。それでも彼女らはブロディ先生に愛想をつかすということはなく、先生の実態を察しつつ付き合っていく。多感な時期にインパクトのある年長者と接すると、その影響はずっと残るのだろう。教育者をやるにはそういう危険に自覚的でないとならないと思うが、ブロディ先生にその自覚がない。1人の少女はそこに気付き、ある行動に出る。ブロディ先生はいつでも今が自分の青春だというふうに振舞うが、生徒たちの青春は生徒たちそれぞれのもので、ブロディ先生のものではないのだ。ちょっとした影響力を持ってしまった人は、こういう誤解をしやすいんだろうなぁ。
 様々な時系列、それぞれの体験と妄想が入り混じり、にぎやかでユーモラス。しかしぞわっと怖くなる瞬間がある。特にブロディ隊の1人で妄想力豊かなサンディの妄想こうじての行動にははらはらさせられる。

ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ