3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2016年09月

『レッド・タートル ある島の物語』

 嵐の海に投げ出された1人の男は、無人島に辿りつく。真水と果実でなんとか生き延び、いかだを作って島からの脱出を試みるが、何度試しても奇妙な力で島に引き戻されてしまう。ある日、男の前に1人の女が現れる。監督・原作・脚本はマイケル・デュドク・ドゥ・ビット。第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門特別賞受賞作品。
 スタジオジブリ作品との触れ込みで、プロデューサーは鈴木敏夫、高畑勲がアーティスティックプロデューサーとしてシナリオ・絵コンテのアドバイスをしたそうだが、いわゆる「ジブリ作品」とはかなり色合いが異なる。ジブリはプロデュース的な立ち位置で、ドゥ・ビット監督の作家性の強い作品になっている。監督が2000年に発表した短編『岸辺のふたり』には号泣したものだが、本作はそれともまた印象が異なる。
 絵の地というか、目の細かな画用紙に描いたような質感で、色合いもとても美しい。無人島が舞台なので海の描写は当然多いのだが、南の海の色で、水の質量感もすごくいいなと思った。また、セリフが一切ないのだが、キャラクターの演技が的確なので、物語の理解には支障ないと思う(小さいお子さんには難しいかもしれないが)。ちょっとした仕草まで目が行き届いていると思う。また、男にまとわりつく蟹たちの演技が素晴らしい。ユーモラスで可愛らしく、かといってぎりぎり擬人化には至らずあくまで「蟹」。作品のアクセント、息抜き部分になっていた。
 神話や昔話のような物語で、異なる存在との遭遇と交じり合いを描かれる。そこで新しい生活が生まれていき、それはそれで幸せだろう。しかし男にとっては、それは同時に島に幽閉される、絡め取られるということでもある。男は結構ガッツがあって何度もいかだで漕ぎ出すのだが、島は何としても彼を離してくれない。男に対する執着(まあ愛は愛なのかもしれないが)が少々怖くもあった。
 恐いと言えば、後半で起こるある事件は、生々しく恐い。抗いようのない事態には、どうすることもできないのだ。そこからまた日常を取り戻していく様はたくましいのだが。

『スーサイド・スクワット』

 世界が崩壊しかねない大惨事にあたり、政府は悪名高い犯罪者たちを、特殊部隊“スーサイド・スクワット”としてスカウトする。ミッションが成功すれば減刑されるが失敗すれば死亡、逃げても殺されるのだ。メンバーはスナイパーのデッドショット(ウィル・フェレル)、ジョーカー(ジャレッド・レト)の恋人ハーレ・クイン(マーゴット・ロビー)、火を操るエル・ディアブロ(ジェイ・ヘルンナンデス)、ブーメランを武器にするキャプテン・ブーメラン(ジェイ・コートニー)ら。寄せ集めの彼らは唯一一般人である軍人フラッグ(ジョエル・キナマン)に率いられ闘いに臨む。監督はデヴィッド・エアー。
 DCコミックの花形悪役が集結したという本作、予告編がなかなか好印象だったので(マーゴット・ロビーの二次元感はすごいと思った)楽しみにしていたのだが、アメコミファンからも映画ファンからも反応はいまひとつ。不安になりつつ見てみたが、確かにこれはなぁ・・・。
 キャラクターのビジュアルの再現度はおそらく高いのだろうが、このキャラクターをどういう絵で見せたいのかということに、あまり意識がいっていないんじゃないかなと思った。同じくDCコミックの映画で時系列上は本作の前作ということになる『バットマンVSスーパーマン』は、映画としては大分退屈ではあったが、絵に関してはこう見せたい!ここを見ろ!という自己主張がはんぱなく、その点では見た甲斐があった。監督はじめスタッフが違うんだろうから当然といえば当然なのだが、本作にはそこまでの執着は感じない。執着がない分普通に退屈になってしまった気がする。
 また、これが最大の問題点だと思うのだが、本作で描かれているようなキャラクターの行動原理だと、悪役を使ってやる意義があんまりないんじゃないかと思う。私はアメコミには詳しくないのだが、デッドショットにしろハーレクインにしろ、コミックではこういう人じゃないんじゃないかなー。特にハーレクインについては絶対に違うという気がする。おそらく彼女はとにもかくにもジョーカーのことが一番なので、他の人たちに対して仲間意識は持たないんじゃないだろうか。悪役であることに理由や葛藤が必要ではない作品もある、ということだと思う。
 とにかく脚本の脇が甘く、世界崩壊の危機に関しても自業自得だろ!認識甘すぎる!と突っ込むしかない。人間ドラマを盛り込むのは悪いことではないし、犯罪者たちを「悪」としているけど一番あくどいのは・・・という含みを持たせたかったんだろうなという推測は出来るが、そういった複雑なドラマに耐えられるほど脚本がしっかりしていないので、取ってつけたように見えて困った。

『ディアスポリス DIRTY YELLOW BOYS』

 東京に暮らす密入国者たちが自衛の為、独自に作った組織「異邦都庁(通称・裏都庁)」。警察として存在する「ディアスポリス」の署長・久保塚(松田翔太)と相棒の鈴木(濱野謙太)は、日々トラブル解決に奔走していた。ある日、裏都民の女性が誘拐される事件が起きる。久保塚は監禁先を突き止めるものの、彼女は既に殺されていた。黒金組の若頭・伊佐久(眞木蔵人)から、殺害現場から逃げたのは周(須賀健太)と林(NOZOMU)という中国人留学生で、彼らは「ダーティイエローボーイズ」なるアジア人犯罪組織のメンバーだと知らされる。監督は熊切和嘉。
 すぎむらしんいち/リチャード・ウーによる漫画が『ディアスポリス/異邦警察』としてTVドラマ化され、更に映画化された(企画としては最初からTV+映画のセットだったみたい)そうだが、TVドラマは未見。後で確認してみたら今日本映画を背負って立つであろう人たちが監督していて、見ればよかったなと後悔した。熊切監督はドラマ版でも数話担当しているが、おそらく映画は、ドラマよりも重いトーンになっていると思う。
 私は熊切監督の作品は(出来不出来に関わらず)結構好きなのだが、作中頻繁に、どこにも居場所がない、どこにも行けない人たちが出てくるという印象がある。その人たちが自分達の居場所として新たに共同体を作ろうとするが頓挫する、という展開も定番になっている気が。その居場所のなさが、往々にして貧しさ(経済的なものだけでなく、文化的な貧しさも)と一体化しているというところに、今日性を感じると同時に、熊切監督の作家性というか、何を見ているかという部分が色濃く表れていると思う。同世代の監督の中でも、貧しさに対するセンサーが鋭い気がする。『海炭市叙景』あたりで顕著だが、貧しさがどういう形で表出するものか肌感覚でわかっており、それを映像に落とし込むことが出来ているのではないか(『海炭~』に関しては監督が本作の舞台である北海道出身だからということもあるのかもしれないが)。
 周と林は「ダーティイエローボーイズ」を乗っ取り犯罪を重ねる。周はクレバー、林は周に忠実で腕っぷしが強い。彼らは貧しさと母国での差別から抜け出す為、犯罪者となった。しかし、この先何をしたいのか、どこへ行きたいのかは具体的なイメージは見えてこない。2人の仲間になる若者たちも同様だ。彼らは今一緒にいること、今が楽しいことが一番重要なのだろう。それは刹那的というよりも、普通の若者らしい、あるいは子供らしく友達同士で遊ぶ体験を取り戻そうとしているように見えた。周と林がサービスエリアでソフトクリームを食べるシーンは、どうということもないシーンなのだが印象に残る。こういう、気の抜けた日常は彼らには今までなかったものなんだろうと。
 出演者が皆いい。役者の選び方がうまいなと思った。特に周役の須賀は、こういうサイコパスっぽい役柄も出来るようになったのか!と唸らせる。たまにまだ子供っぽい体格なことが分かるシーンがあり、あっそうか周はまだそんな年齢なのかとはっとした。

『その島のひとたちは、ひとの話をきかない 精神科医、「自殺希少地域を行く』

森川すいめい著
 人口に対して自殺者の比率が他地域よりも顕著に低い、「自殺希少地域」と称される地域がある。ホームレス支援や東日本大震災被災者支援を行ってきた著者が、自殺希少地域を訪ね、生き心地のいい社会とは何か考察する。
 データを収拾・検証する研究書というよりも、その研究を行う過程での体験記のようなもので、軽く読める。自殺者が少ない地域というと、土地柄が温かく皆穏やかで住みやすいんだろうなぁ等というイメージを持ちがちだろうし、著者も当初はそう思っていたそうだ。しかし、実際に自殺希少地域である町村を訪ねてみると、一見、さしてて「住みやすそう」という感じではない。住民は概ね親切だが、狭い土地故の噂や中傷も普通にあるし、この土地が嫌いでしょうがなくて出て行ったという人の話も聞かれる。精神科にかかっている患者の人口比も、他地域とさほど変わらない。メンタルを病んでいる人は一定数いるのだ。重要なのは、それでも自殺までは至らない、苦しくてもそこまでは追いつめられないという点だろう。著者は自殺者が人口に対して少ない要因として、地域内の人付き合いの頻度は高いが密度は低い、という点をまず挙げる。どの地域もいわゆる田舎なので、地域住民はほぼ顔見知りだし、地方によっては勝手によその家に入ることにもあるくらいだが、付き合い自体は意外と濃くない。ただし付き合い自体は途切れずにあるので、調子が悪そうな人がいればすぐにわかり、自殺防止にもなる。同時に、同調圧力はそれほど高くなさそうなのだ。コミュニケーションの距離感に独特な癖みたいなものがあって、面白い。これはよそから来た人には不思議な感じがするだろうなぁ(逆に、この地域の人が他の地方に行ったらカルチャーショックを受けるのかもしれないが)。
 とても親切にしてくれる人も多いのだが、基本、よそはよそ、うちはうちみたいな感じ。人づき合いを嫌う人がいても、それはそれとして、という感じの捉え方にようだ。意外と個々の我が強い傾向があり、協調はするが過度な同化ではないので、その部分での精神的摩耗が比較的軽いのかも。複数の異なる人間が暮らしている以上ユートピアはありえない。しかし少しでも気楽に生きられる社会になれば、というヒントが得られるかもしれない。

『探偵はひとりぼっち』

東直己著
 人柄の良さで周囲から愛されていたオカマのマサコちゃんが殺された。しかし、警察の捜査は一向に動きを見せずない。若い頃に彼女の恋人だったという大物代議士が、スキャンダルを恐れて隠ぺいしようとしたのではという噂がススキノに流れ始め、ゲイコミュニティーには怯えが広がっていた。マサコちゃんの友人だった「俺」は、真相を突き止めようと動き始めるが、身辺に怪しげな男たちが現れる。『探偵はバーにいる』シリーズの4作目。映画『探偵はバーにいる2』の原作でもある。
 「俺」は口を閉ざす人たちに対して納得がいかない。おかしなことはおかしいと言い、怒るべきところでは怒るべきだというのが彼のやり方なのだろう。ただ、それは守るべきものを持たない、身ひとつだから出来ることだと思う。「俺」は苛立ちを旧知の記者・松尾にぶつけてしまう。この時の松尾の反応が強く印象に残った。松尾もゲイコミュニティーの人たちも、ススキノの住人たちも、「俺」から見たら卑怯なのかもしれないが、それを「俺」に責められる筋合いはないだろう。「俺」は松尾に諌められ一応退くものの、おそらく本当にはぴんときていない。そんな「俺」に、最後に大変な事態が起きる。「俺」はそれを引き受けられるのかどうか、続きがちょっと気になる。
 なお、80年代が舞台なのだが、やっぱりバブルだったんだなー。「俺」はさしたる収入源がなさそうなのに、今現在の「金がない」とは大分趣が違う。もし今同じような設定だったら、多分銀行口座からお金引き出せないよな。

『熊と踊れ(上、下)』

アンデシュ・ルースルンド&ステファン・トゥンベリ著、ヘレンハルメ美穂 羽根由訳
 レオ、フェリックス、ヴィンセントの三兄弟と幼馴染のヤスペルは、緻密な計画によって武器強奪、そして銀行強盗を企て、成功させる。彼らの間には家族としての強い絆があった。しかし同時に、レオの中には父親によって植えつけられた暴力への志向があった。一方、ストックホルム市警のブロンクス警部は銀行強盗事件の捜査を進めていた。
 家族の絆と言うと聞こえはいいが、それが「家族」を不自然にゆがめてしまうこともある。レオたちの父親は、他人を信じず暴力で他者と渡り合う生き方しか出来ない人物で、その分「家族」には絶対的な忠誠を要求する。幼かったレオたちはそれに従う他なく、そのために大きな傷を負ってしまう。そして成長してからも、父親の呪縛から逃れることができない。妻子を物理的・精神的な暴力でコントロールしようとする父親の姿は読んでいて腹立たしいし怖い。どんなにひどい親でも、子供にとっては親であり頼り愛されようとせざるを得ないというのも腹立たしいし辛い。そして、父親の支配の仕方をレオが無意識に踏襲している、父親から逃れようとしてまた出戻ってしまうことが更に怖いのだ。スリリングでとても面白いのだが、暴力による支配の連鎖は読んでいてストレスが溜まる。レオたちだけでなく、ブロンクスもまた同じような暴力にさらされてきた。生き方のどこで道が分かれてしまうのか、2人の対峙はやるせない。
 なお、本作は実話が元になっているそうだ。それだけなら珍しくはないが、著者の1人が事件の当事者というケースはかなり珍しいのでは。暴力により他者を支配しようとする言動の生々しさが際立っていた。

『クィア短編小説集 名づけえぬ欲望の物語』

A.C.ドイル、H.メルヴィル他著、大橋洋一監訳、利根川真紀・磯部哲也・山田久美子訳
 もともと「変態的・倒錯的」という別称で使われていた「クィア queer」という言葉。やがて、性的マイノリティ全般を示す総称として、またそのいずれにも属さない欲望を示すようになる。なんともいえない奇妙な味わいの8編を収録した短編集。平凡社ライブラリーから出ている『ゲイ短編小説集』『レズビアン短編小説集』に連なるアンソロジー。
 セクシャリティにまつわる語として使われがちなクィアだが、本作の中には、セクシャリティという枠にも収まりきらない、奇妙なものもある。1編目のメルヴィル『わしとわが煙突』は煙突に執着する老人の話なのだが、こ、これは老人BL・・・なのか・・・?相手は煙突だけど・・・。またその道の方には言うまでもないシャーロック・ホームズシリーズからも2編(しかも同じトリックのやつ、というとどれだかわかる人もいるだろう)。伝オスカー・ワイルド『ティルニー』は一部抜粋なのだが、これは当時大問題だっただろうという性的ファンタジー。しかし最もクィアという言葉にはまる作品は、ウィラ・キャザー『ポールの場合 気質の研究』『彫刻家の葬式』、ジョージ・ムア『アルバート・ノッブスの人生』ではないかと思う。LGBTのいずれにも当てはまらなさそうな、欲望がどのようなものか名付けられないような曖昧さを持つのだ。同時に、登場人物の居場所のなさ、どこにも所属できない寂しさも際立つ。『アルバート~』は映画化もされたが、原作の方がより奇妙な味わい。

『グッバイ・サマー』

 小柄な体格と長めの髪の毛から女の子と間違われることもある14歳のダニエル(アンジュ・ダルジャン)は、目立ちたがりで機械いじりが得意な転校生・テオ(テオフィル・バケ)と仲良くなる。学校や家族にうんざりした2人は、車輪の付いた小屋を自作し、夏休みに2人で旅に出る。監督・脚本はミシェル・ゴンドリー。
 ダニエル役のダルジャンが大変可愛らしく、これは確かに女の子と間違われちゃうなーという説得力がある。とは言えダニエルにとって見た目の「可愛さ」はあまり喜ばしいことではなく、片思いしておりそこそこ仲のいい女の子にも異性扱いしてもらえない。彼はクラスの中ではちょっと浮いていて、男子グループよりも女子グループとつるんでいる(好きな女の子の傍にいたいというのもあるのだが)。周囲の男の子たち、特にクラスの親分的な男の子たちが誇示する「男らしさ」に参加することはできない、かといって女の子とと話が合うというわけでもなさそうなダニエルにとって、テオの存在ははっきりと「親友」と言えるものだったのだろう。
 周囲から浮いている、というよりも最初から馴染む気がないテオにとっても、ダニエルは大切な存在になっていく。個展での振る舞いには、ちょっと風変わりではあるが彼の思いやりが充ちていて微笑ましかった。テオの方がダニエルよりもわが道を行き、やや大人びているので相手への配慮も出来る。とは言え、全く平気というわけでもないということが垣間見える終盤にも、はっとするものがあった。
 2人とも、方向性は違うが親が大分重い、14歳男子には持て余すような存在であるという所も、シンパシーを呼んだんだろうなと思う。子供にとって親の存在はどうしようもないものだとしみじみ思う。横暴で労働力としてしか子供を見ていないテオの親も困り者だが、「ものわかりのいい母親」として振舞おうとするダニエルの母親も、息子にとってはかなり厄介だろう。そこ、踏み込まないで!という部分に(当人はオープンなつもりで)どんどん入ってくるので見ていて焦る。
 ダニエルは、自分は個性がない、周囲に流されてばかりだと嘆く。だから自分流のやり方をしているように見えるテオに惹かれたのだろう。しかし、ダニエルが自分で言うように無個性だとは見えなかった。画が得意だというのも個性だし、色々考えすぎ(なので結果的に流されているように見える)なのも個性だろう。テオが同級生に馬鹿にされたことにカチンとくるのは、彼は堂々と好きなことをやっているのに何でいちゃもんつけるんだという考え方だろうし、そこは流されていない。むしろ何で流されやすいと思っているのか不思議なんだが、テオのように明瞭な個性が欲しいということなのかな。
 車輪付きの小屋で旅に出るというフレーズだけでわくわくしてくるし、少年2人の車作りと旅路はどこかファンタジックで夢のようでもある。夏休みの香りに満ちているのだ。しかし、夢は覚めるものだし夏休みには終わりがある。急に現実が襲ってくる後味はほろ苦い。こういう夏休みは一度だけで、もうこの先ないだろうなという寂寥感が襲ってくる。おそらく、ダニエルとテオはこの先会うことはないだろう。でも、お互いに一生に一度くらいの夏休みを共にした友達のことは、ずっと忘れないのではないだろうか。

『プリズン・ブック・クラブ コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年』

アン・ウォームズリー著、向井和美訳
 ジャーナリストである著者は、カナダのコリンズ・ベイ刑務所で読書会を運営するボランティア活動に誘われる。 取り上げる本は、『怒りの葡萄』『またの名をグレイス』『ガラスの城の子供たち』等、小説からノンフィクションまで幅広い。読書会の1年を追ったドキュメント。
 読書は1人でするものだが、複数でその本について話し合う読書会でなければ得られないものもある。自分と違う読み方をする人の話を聞くことで、その本についての理解がより深く広くなる。自分の思考の外側に手が届くとでも言えばいいのか。読書が直接的に囚人の更生の役に立つのかどうかは何とも言えないが、自分について、また周囲の人たちについて考えそれを言語化し整理する力はつくだろうし、それが立ち直りの手助けになったりはするのだろうと思う。実際、参加している囚人たちの中には、どんどん深い読み方をし、それを文章にしていく人たちもいる。物事を色々な方向から見るということに慣れていくのだ。
 著者に関しても同様で、自分の読み方と、囚人たち(というか自分以外の全ての人)の読み方は違うのだと折に触れて確認していく。どちらが正しいというわけではなく、どちらの読み方もできるから読書は素敵なのだろう。読書会は、様々な読み方に触れる機会なのだ。読書会の司会者が「この作品のテーマは?」と問うのはその様々さをないがしろにすることではないかと気になったが、読書に慣れてない人にとっては、ひとつのテーマがあると仮定した方が読みやすい(読んでいて納得しやすい)のかもしれない。
 人はなぜ本を読むのか、読書にどんな意義があるのかという疑問への回答となっている作品だと思う。閉塞した環境でプレイバシーも乏しい刑務所の中では、読書はある種の避難所のようなものでもある。これは刑務所の外の世界でも同じだろう。カナダの刑務所事情や囚人をめぐる社会状況が垣間見えるところも面白かった。

『ラスト・ウェイ・アウト』

フェデリコ・アシャット著、村岡直子訳
 テッド・マッケイは脳腫瘍を苦に自殺を企てる。拳銃を頭にかまえた時、玄関の扉が激しく叩かれる。訪問者の男・リンチは、ある組織からテッドに依頼があると言う。その依頼内容とは、テッドと同じような自殺志願者を殺してほしいというものだった。
 テッドが奇妙な出来事にどんどん巻き込まれていく、と思ったらえっそっちのジャンル?!しかし更に読み進めるといややっぱりそっち?!という風に、どんどん変容していく小説で、先が気になり大変面白い。何を言ってもネタバレになりそうで困るなぁ。語りのレイヤーや伏線の置き方等複雑な部分もあり、何度もページを逆走して確認したりもしたのだが、その煩雑さも気にさせない、一種のノリの良さみたいなものがある。途中で登場してくるローラという女性の造形がなかなかよかった。野心家ではあるが、ちょっと専門バカみたいな所があり、駆け引きはするが悪女というわけではないという、紋切型ではない具体性がある。もっとも彼女に限らず、登場人物にしろその場の情景にしろ、描写は具体的でディティールが細かい。そんな中、テッドという人の個性はいまひとつ掴めないまま話が進む。しかしこれも作者の企みのうちだろう。最後まで気を抜けない。
 
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