3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2016年08月

『X-MEN:アポカリプス』

 『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』、『X-MEN:フューチャー&パスト』に続く、X-MEN前日譚シリーズ3作目。人類の文明発祥より以前から存在し、神として世界を支配していたものの、人間によってピラミッドの中に閉じ込められたミュータント・アポカリプス(オスカー・アイザック)。数千年の眠りから目覚めた彼は、世界に新たな秩序をもたらし支配する為、人類文明の一掃を計画する。彼の存在に気付いたプロフェッサーXことチャールズ・エブゼビア(ジェームズ・マカヴォイ)とミスティークことレイブン(ジェニファー・ローレンス)は計画阻止に立ち上がる。一方、普通の人間として家庭を築いていたマグニートーことエリック・レーンシャー(マイケル・ファスベンダー)を悲劇が襲う。監督はブライアン・シンガー。まず最初に気付いたのが、私は未だにマイケル・ファスベンダーの顔を認識できていない!散々見ているはずなのに毎回初めて見る人のような気がする・・・なぜだ・・・。
 私はX-MENシリーズの最初の2作くらいは結構好きなのだが、以降、特にファースト・ジェネレーション以降はいまひとつ乗れず、世間ではこんなにきゃあきゃあ盛り上がっているのに何か悔しい!ともやもやしていた。今回こそこの波に乗れるか、と思っていたけどやっぱり駄目だった。無念である。ファースト・ジェンレーションは学園ドラマのノリが苦手、フューチャー&パストは歴史改変SFとしていじりすぎ(そもそも映画のX-MENシリーズ自体、キャラクターの方向性や設定等微妙にずれこんできているので)・ストーリー盛りすぎで胃もたれ感が否めなかった。今回は、ストーリー自体はフューチャー&パストに比べるとシンプルになったが、全体的に(今までもだけど)長すぎ・間延びしすぎな気がして飽きてしまった。
 また、ファースト・ジェネレーション以降はチャールズとエリックの関係が物語のキモになるが、関係性自体は早い段階で固まってしまっているので、以降は物語の駆動力としては弱い。毎回、えーまたこれを繰り返すの・・・という気分になった。だって若い頃から晩年まで距離感ほぼ変化ないもんな!チャールズとエリックのキャラクターに愛着がないと見る側のモチベーション維持できない気がする。私はどちらもあんまり好きじゃないんですよ・・・(特にチャールズ。こいつエリックより全然性質悪い・・・)。
 唯一フックになっていたのは、レイブン=ミスティーク。チャールズともエリックとも共に歩めない彼女は、単独で虐げられているミュータントを助けていた。ミュータントの間では英雄扱いだが、自身ではそれを否定する。そんな彼女が、若い世代の為にあえて英雄であることを引き受けようとしていく。おそらくリーダーや教育者は柄でもない彼女が、腹をくくっていく様がいい。これは演じたローレンスの力が大きいのだと思う。その時々の感情の揺らぎがわかるのだ。

『ハイ・ライズ』

 ロンドン郊外の高層マンションに引っ越してきた医師のラング(トム・ヒドルストン)。マンションの入居者たちがひらく華やかなパーティに毎晩招かれ、徐々に知り合いも増えてきた。マンションの中にはスポーツジム、スパ、小学校やスーパーマーケット等様々な設備が整っており、完成された世界のようだった。しかしマンション内には階級があり、小競り合いが続いているのだと低層階入居者のワイルダーから教えられる。ある日全館で停電が起きたことをきっかけに、くすぶっていた入居者たちの不満が噴出し暴動が起きる。原作はJ・G・バラードの同名 小説。監督はベン・ウィートリー。
冒頭十数分で、犬好きは見ない方がいいかもなぁ・・・としみじみ思わせるシーンがあるので犬好きの方はご注意ください(猫は出てこない)。おそらく舞台は70~80年代なのだろうが(原作小説が日本で発行されたのが1980年)、今これを映画化する必然性みたいなものが、あまり感じられなかった。時代を特定するような要素はあまりない作品なので、時代を超えたもっと普遍的な作品になってもよさそうなのだが、妙にレトロに感じられた。最初からレトロにしようと思って作ったのか、結果的にレトロになっているのかわからないのだが。
 マンション内では低層階の住人と上層階の間で扱いに格差があり、不満が噴出し暴動が起きていく。下層が上層に下剋上をしようとするのだ。隅々まで管理されていた快適な生活環境は崩壊し、入居者のモラルも崩壊、混沌としていく。しかし、混沌としていくのに、誰もタワーから出ていかないという奇妙さがある。システムが崩壊しているようで、実はしていない、別のシステムに移行しただけではないかという気がしてくるのだ。下層階が上層階を乗っ取たのかというと、必ずしもそうは見えない。結局階層同士は入り混じっておらず、それぞれの階層の中でそれぞれカオスになっているだけのように見える。またカオスといっても、カオス状態の中から新しい秩序が生まれ、それなりに粛々と入居者の生活が続いている。形が変わっただけで大した変化はないんじゃないかなぁという、拍子抜け感がある。閉じられた空間の中であっちへ行ったりこっちへ行ったり(これはインターネット普及前ならではの設定だなぁと時代を感じた)、いっそ長閑にも見えてくるという奇妙さ。
 トム・ヒドルストンの人気ぶりがいままで今一つぴんとこなかったのだが、本作には似合っていたと思う。作中でヒドルストン演じるラングが「最高の(マンションの)備品」と称されるのだが、確かに「備品」な感じがする。肉体的なセクシーさはあるのに実在感が乏しいというか、「物」っぽいのだ。肉体のノイズが少ないとでも言えばいいのか。不思議な役者だと思う。

『ミモザの島に消えた母』

 30年前、休暇を過ごしていた島でまだ若かった母親を亡くしたアントン(ローラン・ラフィット)は、40歳になっても喪失感に苛まれていた。カウンセラーからは父親と話し合えと言われるが、父親も祖母も母の死については口を閉ざす。アントンは妹アガッタ(メラニー・ロラン)と共に島を訪れ、当時の母親のことを知ろうとする。原作は『サラの鍵』のタチアナ・ド・ロネの小説。監督はフランソワ・ファヴラ。
 子供の時に残ってしまった心の傷やもやもやは、その時に適切な処置をしておかないと後々の禍根になるものだとしみじみ感じた。母の死の真相に執着するアントンに対して継母が「時間が癒す」と言葉をかけるシーンがある。時間が解決することももちろん多々あるだろうが、その反対のケースも結構多いのではないかと思う。時間と共に浸食し、気力体力が衰えてくる年齢になってから一気に体を蝕んでくる傷もあるのだ。離婚した元妻や娘たち、また仕事のしがらみで悩むアントンの苦しさは中年の危機とも言えるし、それは子供時代と切り離されたものではないってことでもあるのでは。死ぬまで子供時代が追いかけてくるのかと思うと、なかなかきついものがあるが。
 アントンは父親と仲が決裂しているというわけではないが、良好とも言えずに他人行儀さが否めない。彼の振る舞いは時に子供っぽい。悪気はなくとも、相手の気持ちを配慮する余裕がなく、いつも自分のことでいっぱいいっぱいなように見える(クリスマスだか大晦日だかのパーティーでのある振る舞いには、それが許されるのは名探偵だけだよ!と突っ込みたくなった)。冒頭、車中でのアガッタの横顔は妙に少女めいて見えるのにもはっとした。彼らは大人としてどう振舞っていいのか今一つ掴みあぐねているようだ。身近な「大人」としては母親が居なくても父親や祖母がいるわけだが、母親が死亡した時の2人の振る舞いは、兄妹にとっては「大人」に対する不信感を招くものだったのかもしれない。アントンは母の死以来、父親との距離を埋められず、アガッタは何もなかったように振舞っている。もし、母親が死んだ時の大人たちの対応が(真相を伏せたとしても)もっと違うものだったら、アントンはここまで母親の死に方に拘らなかったかもしれない。
 アントンの実家は裕福で父親も祖母も教養豊かないわゆる「いい家」(なので庶民の母は馴染めなかった)なのだが、アントン自身が親和性を感じる文化はそれとは違うということが、ちらちらと見えるのが面白かった。彼にとってのいい「パーティー」は、ビール片手に音楽をかけて踊りまくるような、もっと気楽なものなんだろう。彼が自分でそういう雰囲気の家庭を作っていく可能性が見えるところにほっとした。それは母親にはできなかったことだから。


『拾った女』

チャールズ・ウィルフォード著、浜野アキオ訳
ある夜、サンフランシスコのカフェに現れた小柄なブロンドの女。ヘレンと名乗る彼女は、ハンドバックをどこかで無くしてお金の持ち合わせもないと言う。カフェの店員ハリーは、泥酔している彼女に金を貸し、適当なホテルまで送り届けた。翌日、金を返しにやってきたヘレンと会い、ハリーは衝動的に店を辞め、彼女と同棲を始める。しかしアルコール依存症のヘレンとの生活はすぐに破綻し、2人は死の誘惑に抗えなくなる。1954年に発表された巨匠の初期作品が待望の邦訳だそうだが、著者の作品を読むのは本作が初めて。途中までは破滅的なボーイミーツガール(ボーイやガールという年齢ではないが)であり、ボニー&クライドみたいなことになっていくのか?と思っていたら、中盤以降、あれ?という方向にずれこんでいく。そして最後、はっとした。このラストで、これまで見ていた景色ががらりと変わってしまう。ハリーが捨て鉢すぎやしないか、また彼とヘレンに対する周囲の反応に微妙な違和感を感じていたのは、そういうことでもあったのかと。本作はいわゆる謎解きミステリの体裁ではないが、このラストが一大トリックになっている。そして、これがトリックとして成立してしまうということが、なぜ思いが至らなかったのかと読者を責めるのだ。

『チャイナ・メン』

マキシーン・ホン・キングストン著、藤本和子訳
《村上柴田翻訳堂》シリーズ。移民、あるいは不法移民としてアメリカにやってきた中国人たち。鉄道建設や鉱山等で労働力を提供し、アメリカ繁栄の礎を築いた彼らの末裔である著者が紡ぐ、彼らの記憶。当時アメリカ人が中国人を「チャイナメン」だと侮蔑的なニュアンスをはらむそうだが、著者は「チャイナ・マン」と記載する。移民してきた中国人たちは、時間と世代を重ねるごとに中国人からは遠のき、かといってアメリカ人としても違和感を持ち続ける。著者はそこにコンプレックスや負い目ではなく、「チャイナ・マン」という新しい立ち位置を与える。アメリカではノンフィクションの括りに入れられているそうなのだが、どちらかというと「お話」的な、語りとしての力が強い。人の口が語る時のように、必ずしも起承転結や伏線はないし話題がとりとめもなく移ったり、ファンタジーの領域に突入するようにも見えるが、そこが却って、移民たちの背景にある中国の歴史・神話まで感じさせる。自分の両親や叔父、従兄など身近な人たちの話なのに壮大、かつ散漫な広がりを見せる。

『死霊館 エンフィールド事件』

 1970年代、ロンドン北部の町エンフィールド。4人の子供とシングルマザーから成るホジソン家では、正体不明の音や、家具がひとりでに動いて襲ってくる等の奇妙な現象が起きていた。特に二女のジャネットは何者かの気配を感じて強く怯えていた。霊能力者のロレイン・ウォーレン(ベラ・ファーミガ)とエド・ウォーレン(パトリック・ウィルソン、)夫妻は彼らの家に向かうが、不可解な現象の原因はわからないままだった。監督はジェームズ・ワン。なおシリーズ2作目だが、前作を見ていなくても大丈夫。
 アメリカを中心に活動した実在の心霊研究家・ウォーレン夫妻を主人公とした、実話を元にしたホラー映画。エンフィールド事件は史上最長のポルターガイスト現象と言われているそうだ。ポルターガイストって欧米圏に特有の心霊現象なんだろうか。ジャネットが幽霊の存在を訴えても当然のことながらなかなか信じてもらえず、誰にも信じてもらえない、あるいは自分が本当におかしいのではないかという恐怖でひっぱるのかと思ったら、結構あっさり複数人の前でポルターガイストが起きる。えっもういいの?!と若干拍子抜けした。幽霊にしろ悪魔にしろ自己主張が結構激しい。いや自己主張激しいからわざわざ死後に幽霊になるのか・・・。
 私はホラー映画はどちらかというと苦手(びっくりさせられるから)であまり見ないのだが、本作は「真犯人」はどいつなのか、目くらましのトリックは何だったのか、というミステリ的なアプローチもあるので面白く見ることができた。何より、ロレインとエドのパートナーシップの在り方が好ましい。霊能力者としての能力があるのはロレインで、エドはそのサポートや調査をするのだが、彼女の能力を信じ続けるエドがいてこそ、十分に発揮できるのだ。霊能力というわからない人にはわからないものを信じるというのは難しいし、現にジャネットは信じてもらえないことで苦しんでいる。霊能力の素養はあるにせよ、ロレインの能力を「才能」として信じ続けるエドがいてこそ、彼女は霊にも、自分を疑う世間にも立ち向かえるのだ。ロレインがジャネットにかける言葉は、かつてのロレイン自身にかける言葉のようでもあり、思いやりにあふれている。
 また、大活躍するというわけではないのだが、ホジソン一家の向かいに住む夫婦の行動には、こういうのが隣人愛というのかなと思った。あの状況で一家を信じ続けるというのは結構すごいと思う。夫婦や家族、友人の間での愛と信頼がひとつのモチーフになっているので、結構怖いホラー作品ではあるのだが、エモーショナルでぐっとくるところがある。ただ、最後に字幕で説明された「その後」には、そういう意図はないのかもしれないけど結構ぞっとしましたね・・・。

『シン・ゴジラ』

 東京湾の地下を通る、東京アクアトンネルが崩落する事故が発生した。首相官邸では緊急会議が開かれ、内閣官房副長官・矢口蘭堂(長谷川博己)は海中に巨大生物が存在する可能性を提示するが、一笑に付される。しかし、実際に海上に正体不明の生物が出現し、ネット上で動画も確認された。生物は鎌倉に上陸し、街を破壊しつつ移動し続ける。政府の緊急対策本部は自衛隊に防衛出動命令を出すが、「ゴジラ」と名付けられたその生物に、既存の兵器は通用しなかった。監督は樋口真嗣、総監督・脚本は庵野秀明。
 あんまり期待せずに見たら、いやー面白い!私はゴジラシリーズには疎い(初代ゴジラと、ギャレス・エドワーズ監督のハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』(2014)しかちゃんと見たことがないのだが、ゴジラを全く見たことがない人でも大丈夫、と言うかむしろその方が新鮮に楽しめるのではないかと思う(初代に対するオマージュは諸々盛り込んでいるし伊福部昭による音楽をまんま再現したりしているが、それを知らなくても問題ない)。
 冒頭の30分くらい、かなりテンポが速く畳み掛けるように物事が進んで行き、引きが強い。やっていることは官邸その他で行われる会議に次ぐ会議なのだが、妙に面白く引き込まれた。実際に何らかの大災害が起きたら、政府内の動きはこういう風になるんじゃないかなというシュミレーション(と同時にこうであれという希望)的な面白さがあった。台詞の分量がやたらと多く、テロップによる文字情報も多いので、ここで集中力が途切れてしまう人もいるかもしれないが。序盤のテンポやカット数の多さはアニメっぽいなぁという印象も受けた。自分の中で、アニメを見ている時のスイッチと実写映画を見ている時のスイッチが頻繁に切り替わっている感じだった。
 本作が成功している要因は、「やりたい、かつできる」ことのみやった、ということではないかと思う。こういった災害もの、パニックものの映画では、市井の人々のドラマや、中心となる登場人物の恋愛や家族愛、友情が描かれがちだ。本作にはそういう要素は希薄(友情はなくはないが、どちらかというと仕事を介した連帯に近いと思う)。出来なくはなかっただろうが、それをやると冗長になる、労力は他に割きたい、ということではないか。見せるものの優先順位がすごくはっきりしていると思う。いざ大災害に直面した時に必要なのは、愛や絆ではなくとにかく実務能力だという(愛や絆が必要なのは当面切り抜けた後なんだろうなぁ)ことを臆面もなく描くあたりが、最近の日本の大作映画の中では珍しいのではないか。
 なお、出演者はいい。特に、数十秒くらいしか露出がないくらいの端役(というわけではないがとにかく搭乗時間が短い)が皆非常にいい顔つきの人を揃えている。主演の長谷川や石原さとみはつるっとしていて生活感がないのだが、周囲の人たち、特に中高年の顔の造形や背格好の説得力がそれを補っている。大ベテラン役者の顔芸が見られるという点でも面白かった。

『人生は狂詩曲(ラプソディ)」

 吹奏楽の欧州決勝コンクール予選に出場した、ベルギー、フランドル地方の楽団サン・セシリア。ライバルチームであるワロン地方の楽団アンナバンと同点1位を取るが、トランペット奏者のウィリーが急死してしまう。チームの要であるソリストを失い、決勝への出場を諦めかけるサン・セシリオだが、チームのマネージャー役エルケ(アマリリス・アイテルリンデン)は、アンナバンのソリストで、才能はあるが自己中心的なためチームと反りの合わないユーグ(アルテュール・デュポン)をスカウトする。監督・脚本はビンセント・バル。
 話に聞いたことはあったが、同じベルギー内でもフランドル地方とワロン地方だと使われている言語が違う(フランドル地方はフラマン語中心だがフランス語を話せる人も多い。ロワン地方はフランス語。作中でも、「なんでフランス語で話すんだよ!」というセリフがあったりする)。コンクールに限らず何かとライバル心があり張り合っているらしい。本作では、アンナバンにとってはソリストを引き抜かれたという事情もあって、かなりぎすぎすしている。コメディっぽく誇張されてはいるんだろうけど、同じ国の中の地方というよりも、それぞれ別の国みたいな感覚なのかもしれない。なお、神父が黒人だったり楽団内にはアジア系の人もいたり、町にはアラブ系の住民もいたりと、モブで登場する人たちが(アメリカの映画ほど徹底してはいないが)意外と多彩な印象だった。白人であっても顔形や背格好等、あえてバリエーションを広くしている印象だった。わかりやすい美男美女はあまり登場しないように思う。エルケは美人と言う設定だが、「ご町内一の美女」的だし、ユーグはすごくモテるのだが、端正なルックスというわけではない。
 ブラスバンドの映画ということだけ事前に知っていたのだが、いざ見てみると、確かにブラスバンドの演奏シーンはたくさん出てくるが、そもそもミュージカル映画だった!いきなり登場人物が歌いだして驚いた・・・。使われている楽曲は、どうも描き下ろしではなくベルギーやフランスの既存の歌謡曲なのではという気がする。ベルギーの人が見たら、この曲がこんなニュアンスで使われるのかというギャップがわかってより面白いんじゃないだろうか。
 すごく楽しい音楽映画なので上映規模の小ささは残念なのだが、楽しかった故に、難点もより目についてしまった。ストーリーがユーグに都合良すぎて、それでいいの?という気分になる。彼は才能はあるが独りよがりで、自分への批判は大嫌い。アンナバンで指揮者を務める兄に対しても、たまたま彼の楽譜を見たミュージシャンに対しても、相手が自分の期待に添わないからむくれるというのは随分子供っぽい。気分に任せて大きなトラブルを起こしてしまったりもするのだが、あんまり悪いことしたとは思ってなさそうなんだよな・・・。才能で帳消しになるということかもしれないが、いまひとつもやもやが残る。

『めぐりあう日』

 理学療法士のエリザ(セリーヌ・サレット)は幼い頃に養子に出され、生みの親を知らずに育った。今では夫と息子がいるが、自分の出生を調べる為、息子ノエを連れ、パリから港町ダンケルクに引っ越してきたのだ。ある日、ノエが通う学校の職員アネット(アンヌ・ブノワ)が患者としてエリザの診療室に来た。2人はどことなく親密さを感じるようになっていく。監督はウニー・ルコント。
 エリザは育ての親との関係は上手くいっているらしい(電話等ちょっと鬱陶しがっているが、そこがむしろ本当の親子っぽい)が、自分が誰から生まれたのかというのは、どうしても気になるものなのか。彼女が苦しんでいるのは、自分の生が呪わしいものだった(レイプによる妊娠等ではなかったか)のではないかということだ。それを気にするならなおさら知らない方がいい気もするのだが、やっぱり知ろうとせずにはいられないんだろうなぁ。そうではない人もいるんだろうけど、エリザはどうしても知りたく、役所で粘り、当時自分を取り上げた助産婦などにも会いに行く。ただ、事実を知ったら知ったで、それが穏当なものであっても「思っていたのと違う」という気分にもなるかもしれない。自分を手放した母親に会いたい、いや会いたくない、幸福であってほしい、いや幸福なのは許せないといったような、相反する気持ちに苛まれているように見えた。
 ドラマは静かに進み、エリザも口数は多くない。しかし穏やかな表面の下では、様々なわりきれないものが渦巻いており、今にも噴出しそうでひやひやする。その渦をノエが察知してぎこちなく、あるいは不機嫌になる、それを見たエリザが更に不機嫌になるという悪循環。実際、エリザの行動は特に衝動的で、それがノエとのトラブルにつながったりもする。ノエの年齢的なものもあるのだろうが、序盤から母息子の間はぎすぎすしており、そこにもひやひやした。エリザはダメな母親というわけでは全くないのだが、自分の問題が大きすぎて処理できず、ノエに疎外感を感じさせてしまうのかもしれない。問題に光明が見えた後、ノエとの関係も自然と落ち着いていくのだ。
 本作の原題は『Je vous souhaite d'être follement aimée』。アンドレ・ブルトンの『狂気の愛』の最終章に出てくる、娘宛の手紙の最後の一文だそうだ。日本語訳では、「あなたが狂おしいほどに愛されることを、私は願っている」。どんな形であれ、エリザもノエも、そしてエリザの実母もそう思われたのではないだろうか。

『ターザン:REBORN』

 生後間もなくコンゴのジャングルに捨てられ、動物に育てられたターザン(アレクサンダー・スカルスガルド)は、研究者の父親を持つジェーン(マーゴット・ロビー)と出会い、イギリスでジョン・クレイトン3世として暮らしていた。英国政府から、コンゴを植民地とするベルギー国王の動向が気になるので視察に行ってほしいと依頼されたジョンは、妻ジェーンを伴いコンゴへ旅立つ。しかし何者かがジェーンをさらってしまう。監督はデビッド・イェーツ。
 原作はエドガー・ライス・バローズの古典小説で過去に何度も映像化されている『ターザン』だが、原典を映画化、あるいは過去作のリメイクではなく、ターザンの「その後」を描いている。大団円でイギリスに渡り、地位も財産も手に入れたジョンだが、イギリス貴族として暮らす冒頭の彼はどこか憂鬱そうだ。ターザンだけでなくジェーンも、貴族の娘としての暮らしにうんざりしている。舞台となるのはおそらく20世紀初頭(南北戦争を体験した登場人物がいるので、19世紀末かも)なので、女性に対する締め付けも厳しかったろう。元々の『ターザン』で想定されるであろう「めでたしめでたし」が、実際はそうでもなかった、むしろジャングルこそが彼らが生きる場所なのかも、という話にしているのはちょっと面白いが、そこをそれほど深く掘り下げるわけではないので、何だかもったいない気もする。
 本作、ストーリーを練っていないわけではないのだが、話の進め方が妙に平坦で、だらだらとした印象を受けた。この内容だったらもうちょっと短くできたんじゃないかという気もする。過去にさかのぼりターザンとジェーンの出会いも見せているので、余計に冗長さを感じた。ここ、説明しないと若い人はやっぱり「ターザンとは何ぞや」ってところがわからないかしら・・・(最後に映画化されたのは多分ディズニーのアニメーション『ターザン(1999)だもんなぁ)。いちいち説明しなくても何となくわかる設定だとは思うんだが。
 ターザンと言えば蔦をロープ代わりにしてジャングルを飛び回るあのシーンのイメージが強いが、本作でももちろん出てくる。多分3D版ではそこが見所になるんだろうけど、『スパイダーマン』シリーズ(サム・ライミ版)の影響って大きかったんだなと実感した。ただ本作よりも『スパイダーマン』の方が気持ちよさそうなんだよね・・・。ジャングルの中というロケーションの問題もあるのだろうが、画面がごちゃごちゃしすぎで何をしているのかよくわからないところも。
 主演のスカルスガルドは相当体を作りこんでいるし、キラッキラした美形っぷりで、初対面でジェーンが気を許してしまうのも何となく説得力がある。そりゃあつい見ちゃうな!と。

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