3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2016年08月

『秘密 THE TOP SECRET』

 死者の記憶を映像化し、それを手がかりとして犯罪捜査を行う科学警察研究所法医第九研究室、通称「第九」に新任した捜査官・青木一行(岡田将生)は、室長・薪剛(生田斗真)の指示により、妻子を惨殺し死刑になった露口(椎名桔平)の記憶を映像化した。そこには、事件以来行方不明で、既に殺されていると思われていた露口の長女・絹子(織田梨沙)が家族を刺殺する姿があった。原作は清水玲子の同名漫画。監督は大友啓史。
 作りこんだセットに、おそらく本作の為に仕立てられた衣装のスーツ等、ビジュアルには気合が入っている。が、この気合が全て空回りしているように思った。すごく悪くはない、しかし特に良くもないというものすごく微妙かつコメントしにくいところに落ち着いてしまったな・・・。第九のラボはサイバーパンクっぽい雰囲気を意図したのだと思うが、いかにも「SFでござい」的なセットが逆にSF感を削いでいるように思った。原作がそうなのかもしれないけど、大写しの複数モニターってもうやめませんか・・・。更に言うならアジアのスラム的なセットももうやめませんか・・・。いいかげんださいと思う。また、衣装のデザイン自体はいいが、人によっては体格にあっていないような印象を受けた。既成のスーツじゃだめだったの?一応警察ものだから、そのへんの個性はあまり出さない方がそれっぽいと思うのだが。使用車両がやたらお高そうなのもの興を削ぐ。
 おそらく原作の複数エピソードを組み合わせて構成しているのだろうが、上手く融合していないと思う。絹子事件と貝沼(吉川晃司)事件の関連付けが急すぎて、苦し紛れの力技に見えてしまった。絹子と貝沼、どちらもキャラが立っているので、双方うるさすぎてキャラの強さが相殺されていまった気もする。どちらか1エピソードでも映画としては成立しそうだったけど。
 また、映画のオリジナルキャラクターだそうだが、刑事の眞鍋(大森南朋)の行動が支離滅裂すぎる。いくら悪徳刑事とはいえ頭悪すぎるだろう・・・。大森の演技もいつになく雑で、出てくる度にげんなりした。一体なにをやりたかったんだ・・・。
 何より、視覚情報の映像化という設定が徹底されていないことが気になった。これ、ミステリとしてのキモとなる設定なのでゆらいでしまうとストーリーの基盤に支障が出ると思うのだが。

『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』

 脚本家ダルトン・トランボ(ブライアン・クランストン)は『恋愛手帖』で第13回アカデミー賞脚色賞にノミネートされ、売れっ子脚本家として活躍していた。しかし冷戦下に起きた赤狩りの標的の1人として起訴され、下院非米活動委員会への協力を拒否した為に投獄されてしまう。釈放されたが委員会から監視されているトランボは、偽名でB級映画の脚本を大量に生み出していく。そして友人の名前で執筆した『ローマの休日』がアカデミー賞にノミネートされた。監督はジェイ・ローチ。
 赤狩りが猛威を振るったのは1940年代後半から50年代だが、この時代のハリウッドを舞台にした小説や映画等を見ると、えっこんなことで共産主義者扱いなの?!とびっくりするような描写がしばしば出てくる。実際のところどの程度のものだったのかはわからないが、本作のエンドロール前のテロップを見る限りでは、相当数の人が(少なくとも当時のソ連が言うところの)共産主義とはさほど関係がなかったのではと思われる。何か気に食わない所があるからつきだしてやろう、あるいはちょっと風変わりな人は皆共産主義者扱いみたいな、ものすごくきつい同調圧力がはたらいていた、社会の空気が不寛容な方向に激しく傾いていたように見える。
  本作中で描かれるトランボの言動も、さして共産主義的ではないだろう。冒頭、スタジオの従業員の雇用条件について上司と言い合うシーンがあるが、その程度だ。娘に対する「共産主義者」の説明も、子供相手とはいえ大変牧歌的だ。むしろトランボはがっつり稼ぐ功利主義者でそこそこいい家に住んでいる(そのことを共産主義者の脚本家仲間に揶揄される)し、それを恥じたりもしない。もらえるものはもらっておく主義っぽいのだ。
 彼が「アカ」と呼ばれ仕事を奪われても屈しなかったのは、下院非米活動委員会の弾圧の理不尽さや、社会の不寛容さへの反感あってのことだろう。ただ、彼は特別正義漢というわけでもないのではないか。彼が反抗し続けた最大の理由は、「委員会に同調した脚本家たちよりも自分の方が面白い脚本を書けるのに、なぜ書かせないのか」ではないかと思う。偽名を使い、自宅にこもって書き続ける彼の戦いは家族や友人も巻き込んでいき、疲弊させていく。それでも彼が書くことをやめないのは、自分には才能があり、かつそれしかないからであり、書かずにはいられないからだろう。委員会への怒りや正義感よりもまず先に、書きたいという一心だったのではなないかと思う。才能(と多少の経済力)があるが故の傲慢さや、家族にも友人にもそれぞれの事情があるということに思い当たらない(というよりも忘れちゃうんだろうな・・・)あたりに、彼の脚本家としての業が見えた気がした。
 

『愚者たちの棺』

コリン・ワトスン著、直良和美訳
 港町フラックスボローで、地元の名士キャロブリートが死亡、ひっそりと葬儀が行われた。7ヶ月後、葬儀の参列者の1人で新聞会社社主のグウィルが感電死する。遺体には不可解な点があり、更に現場近くでキャロブリートの幽霊を見たという話も出てきた。パーブライト警部は部下のラブと共に捜査を開始する。
 1958年に発行されたイギリスの本格ミステリ。イギリスの田舎町(というほどフラックスボローは田舎ではないみたいだけど)での殺人事件てやっぱり、これぞ伝統芸、みたいな味わいがあっていいわー。ユーモア混じりでのんびりとした雰囲気だが、しっかり本格ミステリ。所々現代の視線で読むと厳しい所もある(こんなうそくさい言い訳するか?みたいな)のだが、大ネタのトリックには、あっ冒頭のあの描写はこの伏線か!と唸った。こういう唸り方をしたいから本格ミステリ読むんだよな。パーブライトの、殺人事件には不慣れながら、地に足のついた捜査と落ち着いた人柄が好ましい。若い、マダムに可愛がられる系部下のラブとのやりとりも微笑ましかった。2人とも、のんきそうでいて実はしっかりとしているしちゃんと仕事をしている所に安心感がある。

『イレブン・ミニッツ』

 さほど売れてなさそうな女優とその夫、彼女と「オーディション」をする映画監督、ホットドッグ屋の主人と常連客の少女と犬、バイク便の男や登山家のカップル等、様々な人々の「11分」を描く。監督・脚本はイエジー・スコリモフスキ。
 相変わらず好き勝手になってるなー監督。安心しました!冒頭の、おそらく女優と夫がスマホで撮影している設定なのだろうが、移動しまくり不安定なカメラが不安感をあおる。その後も、どのショットも妙に不吉で、あっこの人次の瞬間死ぬかも・・・というような嫌な予感が途切れない。平穏な光景があっても、次のショットで何かが起こるのではないかという不安さが途切れないのだ。一貫して、見る側の心を落ち着かせない。ショットのひとつひとつ、編集の仕方のせいなのだろうが、ここに何か(いるべきではないものが)立ち現れるのではないか、と思わせるのだ。実際、壁を奇妙なものが這っていたりするし・・・あれは何だったんだろう。
 また、音の効果も大きい。スコリモフスキ監督の作品では、外界からの音(フレームの中に音源がなく、外側から聞こえてくる類の)が持つ役割はかなり大きいのではないか。音が聞こえすぎる感じなのだ。特に飛行機が飛ぶ音は世界を引き裂くようで恐ろしかった。以前、『アンナと過ごした四日間』の爆音上映を見たことがあるが、確かにこれは爆音で見る意義があると思ったのを思い出した。
 様々な人たちの、それぞれの人生の一瞬が交錯するが、深く交わるわけではない。たまたま居合わせた、という程度で、そこに深い意味は設定されていないと思う。むしろ、「たまたま」こうなってしまうことの滑稽さ、陳腐な言い方だが「一寸先は闇」な生の不確かさを感じる。また、登場する人たち一人一人はさほど個性的というわけでもなく、個を際立たせる見せ方もしていない。もちろん、彼らはそれぞれ異なる存在で、それぞれ異なる人生がある。ただ、それが集積され俯瞰されていくと、TVの砂嵐のようにのっぺりとした、グレーな塊になっていくのかもしれない。色々な色を混ぜると黒になるように。

『ゴースト・バスターズ』

 コロンビア大学に勤める素粒子学者のエリン(クリスティン・ウィグ)は、大学との雇用契約が成立するのを心待ちにしていたが、かつて友人のアビー(メリッサ・マアカーシー)と共著で出版した心霊現象研究書が、大学研究者には不適切だと雇用を打ち切られてしまう。エリンは過去を隠していたが、アビーが勝手に本を再版していたのだ。怒ったエリンはアビーの元に乗り込むが、なりゆきで幽霊を目撃。アビーとその研究仲間のホルツマン、地下鉄職員のパティ(レスリー・ジョーンズ)とで、幽霊退治専門会社「ゴーストバスターズ」を結成する。監督はポール・フェイグ。
 ある世代より上だったら知らない人はいないであろう、1980年代の大ヒット作品『ゴースト・バスターズ』のリメイク。元作品はバスターズは男性たちだったが、本作のバスターズは全員女性。とは言え、過剰に男性だから・女性だからという描き方ではなく、まず第一に「この人はこういう人」という造形になっていると思う。個々のキャラクターとその言動に無理がない感じがした。キャラクターのビジュアルの作り方も、かっこよすぎず悪すぎず、かつ個性は際立たせるというさじ加減がいい。特に衣装の選び方は抜群だと思う。オシャレな服装というのではなく、この人だったらこういう方向性のダサさが出そう、この人はこういう色合いを好みそうといった、あくまで「この人ならどうなるか」という所に注力している。アビーのツイードっぽいスーツはダサ可愛いし(きちんと目の恰好でも部屋着っぽい恰好でも同じ度合いでダサいという調整度が素晴らしい)、アビーは実用性重視のカジュアル、ホルツマンはレトロかつマニッシュ、パティは光物大目でカラフルで、どれもその人に似あっている。
 エリンとアビーは幼馴染ということを前提にしても、バスターズはそこそこ仲良さそうだし、だからこそのクライマックスの盛り上がりだろう。ただ、仲がいいとは言ってもそれほどベタベタしていないし、お互いにプライベートの詮索はあまりしない(少なくとも作中ではあまりそういうやりとりは描かれない)ところがいい。フェイグ監督の作品で私が見たのは『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』(2011)のみなのだが、この作品では(結婚式という背景のせいもあるんだろうけど)仲が良いにしろ悪いにしろ女性同士の関係、コミュニケーションの見せ方が露悪的すぎて辟易とした。本作では、バスターズの間に仕事、そして好きなことを研究している(パティは違うけど)という共通の目的があるので、そのあたりが緩和されているのかもしれない。なんにせよ、好きなことを思いっきりやっている人を眺めるのは気分がいい。
 なお、バスターズに雇われる、イケメンナイスバディだが全く無能な「秘書」をクリス・ヘムズワースが演じている。正直、本編では精彩を欠いている(表情と動きに乏しいからかな・・・)ように思ったが、エンドロールでは大活躍するしキュートなので、最後までご覧ください。それにしても、どんなにルックスがセクシーで美形でも、あまりに頭悪いと人はどん引きするものなのね・・・。メンクイらしいアビーのみ楽しんでいるが、多分彼と付き合おうとかは思っていないのだろう。

『窓の向こうのガーシュウィン』

宮下奈都著
 周囲に馴染めず自分に何かできるという自信もないまま、19歳になった「私」は、ホームヘルパーとして横江先生の家に通うようになる。そこで出会った額装家の男性の、「幸せな風景を切り取る」という言葉にひかれて、ヘルパーの傍ら、額装を手伝うようになる。
 ガーシュウィンの「summertime」がモチーフのひとつとなっている。「私」がこの曲から想像するものは、この曲が意味する所とは大分違うのだが、大事なのは曲そのものというよりも、それに付随する「私」の記憶の方だ。額装が記憶を引き出したことで、「私」は自分の家族との関係、家族のこれまでを少し俯瞰することが出来たのだと思う。
 「私」は未熟児で生まれたにも関わらず保育器に入れられなかったせいで少し耳が悪く(と本人は思っている)、周囲の会話の内容が頭に入ってこなかったり、相手の意図の理解が遅くてずれた会話になってしまったりする。語彙も少なく、要領よく話すことが苦手だ。そういう人の一人称による語りなので、正直、読んでいてかなりまどろっこしい。「私」の世界の見方が変わっていく様を追体験することにはなるが、表現が幼すぎてフラストレーションがたまるところも。

『緑衣の女』

アーナルデュル・インドリダソン著、柳沢由実子訳
 工事現場で人間の骨のかけらが発見された。事件か事故かはわからないが、最近埋めたものとは思えなかった。かつて現場近くにはサマーハウスがあり、戦争末期に駐在していたイギリス軍やアメリカ軍のキャンプもあったらしい。捜査官エーレンデュルは被害者はこの付近に住んでいたのではと仮定し、昔を知る人への聞き込みを続ける。ある住民から、現場近くで緑色の服を着た女を見かけたという証言が得られた。彼女は事件の関係者なのか。
 エーレンデュルたちの捜査に派手さはなく、地道な情報収集を重ねていく「仕事」っぽさがいい。また、捜査官それぞれの仕事外の顔も描かれ、決して模範的とはいえない所も人間味がある。エーレンデュル自身は娘との確執を抱え、立ちすくんでいる状態だ。彼は子供達が幼い頃に離婚し、交流は途絶えていた。自分がなぜ妻子を置いていったのか、自分は娘に対してどんな感情を抱いていたのか、彼が少しずつ自覚していく様が胸を打つ。また、エーレンデュルはアイスランドの失踪者についての本を何冊も読んでいるのだが、その理由がわかる部分は痛切。
 捜査と並列して、ある家庭の様子が描かれるが、これがかなりしんどかった。DVの恐ろしさとそれに対する怒りが深く感じられる。物理的な暴力はもちろんなのだが、相手の尊厳、自己肯定感を奪い、本当に何もできない人にしてしまうところが、より恐ろしい。

『ストリート・オーケストラ』

 ヴァイオリニストのラエルチ(ラザロ・ハーモス)はスランプ中で、サンパウロ交響楽団のオーディションでは手が震え、全く演奏できなかった。家賃の支払いに困ったラザロはスラムの学校の生徒たちが結成しているオーケストラの教師をやることになるが、ろくに音を出せない生徒ばかりで途方にくれる。しかし、徐々に生徒たちは音楽の面白さに目覚め、ラエルチもまた立ち直っていく。監督はセルジオ・マチャド。
 例えばTVドラマだったらここぞとばかりに盛り上げるだろうなというポイントを、本作はあっさりとスルーしていく。ラエルチがなぜスランプなのかは語られないし、生徒達が音楽に目覚めていく過程や、ラエルチと生徒の信頼感が築かれる過程はほぼ省略される。音楽が奏でられるようになるからそれでいいだろう、と言わんばかりだ。音楽に語らせるというよりも、ドラマティックさの為のドラマに対する抵抗、照れがあるように思った。この照れが本作を上品(しかし人によってはあっさりすぎると思うだろう)なものにしていると思う。
 ろくに楽器を鳴らせなかった生徒たちが音楽を見事に奏でるようになっていくのだが、本作は音楽にはこんなに力がある!素晴らしい!と声高に訴えることはない。むしろ、音楽に出来ることはごく限られていると言わんばかりだ。音楽によって生徒たちの家庭環境が良くなるわけではないし、スラムが抱える貧困問題、犯罪問題が解決されるわけでもない。序盤、生徒の一人が音楽家ってどのくらい稼げるの?と興味を示すが、ラエルチが稼げるのはほんの一握りの音楽家だと答えると、あっさり興味を失う。生徒たちにとって、音楽は生活の手段にはならないし、音楽よりもまず生活していかなくてはならない。
 しかし、諸々の問題と直面した個人の心が折れそうな時、絶望的な気持ちになった時、音楽が慰めになったり、支えてくれる、それによって踏みとどまれるということはあるのではないか。音楽を聴くこと、奏でることは、一時ではあれ自分を取り囲む諸々からの避難所にはなるのではないか。音楽が役に立つとしたら、そういう所だろうと本作は示す。生徒のうちの何人かが直截に言及するのだ。練習時間が居場所になる、自分の中の野獣が少し静まるというように。
 それにしても、どこの国のどんな階層であれ、子供であることのしんどさは、どういう親の元に生まれたかで大きく左右されるなとしみじもと思った。本作に登場する生徒たちの殆どは家庭に問題を抱えているようだが(そもそも家庭らしき家庭がないらしい子もいる)、家に居づらいというのは、他に行くところがない子供にとっては致命的かもしれない。自分ではどうしようもない不公平さだよなぁと。
 ラエルチは演奏がろくにできないくらい当初追い込まれているのだが、音楽を教える、つまり他人の音楽にかまけているうちに、自分の音楽を再発見する。これは音楽に限ったことではないかもしれない。

『香港、華麗なるオフィスライフ』

 (若干ネタバレです)高層ビルにオフィスを構える総合商社ジョーンズ&サンは、ホー会長(チョウ・ユンファ)と敏腕女社長チャン(シルヴィア・チャン)の元邁進し続け、とうとう株式公開を目前に控えることに。ホーとチャンは実は愛人同士だが社内では公然の秘密。新入社員のシアンとケイケイは上司や先輩にしごかれ仕事を学んでいく。副社長でチャンとは愛人関係のあるデイヴィッドは、野心に燃え会社の金に手を出していた。それを隠す為に経理担当のソフィに近づくが。監督はジョニー・トー。
 まさかジョニー・トーの新作がミュージカル仕立てだとは。正直歌唱に関してはおぼつかないところもあるし、楽曲が冴えわたっているわけでもない。華麗なダンスがあるわけでもないのだが、本格的なミュージカルではないところが却って魅力になっていると思う。セットも舞台美術を意識したもので、全ての舞台が一つのフロアにあるような見せ方。パイプっぽい素材を多用して抽象化寄りにしたセットや画面の高低構造等、なんとなく幾原邦彦監督のアニメーション作品を連想した。ジョニー・トーが『輪るピングドラム』や『ユリ熊嵐』を見たということはまずないと思うけど。
 邦題には「華麗なる」とあるが、むしろ生臭い。確かに一見華やかだが、一皮むくと社長にしろ社員にしろ、自分の野心と欲望でギラギラしている。とにかく働き上手いことやってのし上がるぞ!という鼻息が荒いのだ。私はこういうギラギラした上昇志向がちょっと苦手なので、正直辟易とした。見ている分には楽しいと言えば楽しいけど、だんだんギラつきにあてられて心が疲弊していくんだよね・・・。映画の良しあしとは関係なく、あーこれは私にフィットする世界ではないわ・・・という気分になる。時代背景はサブプライムショック前後なのだが、ジョニー・トーの2011年の監督作品『奪命金』もまさにサブプライムショックを背景にしていた。投資の麻薬性、ちょっと欲を出したところ自分ではどうしようもないものによってカオス化していく、というシチュエーションが監督の琴線に触れるのだろうか。短時間で転落するからドラマ化しやすいということかもしれないけど。
 チャンは清廉潔白な善人というわけではなく、色々画策し、長年協力してきたパートナーを裏切りそうな動きも見せる。とは言え、彼女は本作の登場人物の中で、唯一かっこよく見えた。彼女には彼女なりのモラルがあり、最後まで筋は通すのだ。最後、エレベーターから出ていく姿はむしろ清々しい。自覚せずに他人を(自業自得とは言え)破滅に追い込んでしますシアンや、結局実家の傀儡に見えてしまうケイケイは、自分の筋みたいなものがまだ出来上がっていないのだろう。とは言え、最後に「君の勝ちだ」と言われる人は・・・。結局金の出元が一番強いということか。

『ブリーダー』

 特集上映「カリテ・ファンタスティック!シネマ・コレクション2016」にて鑑賞。ニコラス・ウィンディング・レフン監督、1999年の作品。レンタルビデオショップで働く映画オタクのレニー(マッツ・ミケルセン)と、恋人と同棲中のレオ(キム・ドボゥニア)は、仲間と集まり深夜にB級映画鑑賞会をするのが習慣だ。レオは恋人の妊娠がしたが、自分が父親になることを受け入れられず、いらだちを募らせていた。
 レフン監督の初期の作品て、ほんとに若気の至り感が強く、時に(というか往々にして)気恥ずかしい。冒頭、登場人物がそれぞれのテーマソングとも言うべき音楽と共に登場するのだが、うーんやってみたかったのはわかるけど結構恥ずかしいな!見ていて変なニマニマ顔になってしまう。とにかく何かと恰好をつけたがり、色々とやりすぎなのだ。ここから『ドライヴ』まで進化したのが奇跡に思える。もっとも、『ドライヴ』は恰好つけの極みみたいな作品だから、ぶれずに邁進したとも言えるが。
 とは言え、描かれる若者たち(見た目はおっさんだが若い設定なのだろう)の所在なさは切実で、現代でもあまりかわらず、時にいたたまれない。年齢は一応重ねていても、社会に「大人」としてフィットしきれない感じが生々しかったし、未だにこういう感じは他人事とは思えない。事態が勝手に進むことについていけず、いらだちを募らせ恋人に暴力をふるってしまうレオはひどいやつだとは思うが、いっぱいいっぱいで自分では処理しきれないという感じはよくわかる。また、女性とのデートをすっぽかしてしまうレニーが、「映画の話しかできない」から女性と付き合うことに踏み切れないというのも、なんだかしみじみとする。対人スキルもない、お金もない状況では、恋愛(だけではなく人づきあい全般)は荷が重いものだろう。ただ、レニーは一歩踏み出す(踏み出した瞬間の演出がロマンティックすぎて笑った)ので、ちょっとほっとする。
 なお、今や大人気のマッツ・ミケルセンだが、本作では実にさえない。この人、ストリート系のファッション、というかお金がなさそうな恰好が本当に似合わないんだな・・・。また、レニーが映画マニアということで、映画マニアがにやついてしまう小ネタが多かった。シネフィルあるあるとでもいうような「有名監督」のチョイスはなかなかにイタい。スピルバーグとか入れてやってよ・・・。

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