チャラい天然・瀬戸(菅田将暉)と、地味でクールな内海(池松壮亮)。2人の高校生が放課後に川沿いでただただ喋る75分。原作は大森立嗣。原作は此元和津谷也の同名漫画。
瀬戸はサッカー部を早々に退部してヒマ、内海は塾に行くまで1時間強の時間をつぶしたい。そんな2人が、たまたま一緒にひまつぶしをするようになる。2人の会話には漫才によくあるシチュエーション「俺~やるからお前~やって」という振りがしばしば入る。これは関西、というか大阪ではスタンダードな日常会話上の振りなのだろうか・・・(本作の舞台は大阪。ロケ地は堺市らしい)。大概瀬戸がボケで内海がしぶしぶの体でツッコミにまわるが、段々内海が(そこはかとなく嬉々として)ボケに回り瀬戸がつっこむシチュエーションも出てくるあたりに、2人の関係性がこなれていく過程が見えてくる。
瀬戸と内海は対称的なキャラクターだ。元サッカー部で人なつこくお調子者の瀬戸と、勉強は出来るらしいが覚めていて周囲に壁を作っている内海は、あまり接 点がなさそう。同じクラスにいても、多分親しい間柄にはならないだろう。彼らが一緒に遊びに行ったり、校内でつるんでいたりという姿は、あまり想像できない。では2人は友達ではないのかというと、やはり友達としか言いようがない。彼らが共有するのは、隙間の時間とでもいうべきものだ。この時間・場所では、クラス内のポジションからも、家庭からも、ちょっと自由になれるのではないか。2人が学校内でどういう様子なのか、どんな家庭環境なのかということは、あまり示されない(瀬戸は家族のことを話すが内海は一切話さない)。しかし、そういう背景を抜きにした友達というのも、成立するのではないかと思う。
いくつかの章にわけられており、通してみると1年が過ぎているのだが、2人が出会う前を描く内海メインの章のみ、ちょっと味わいが違う。内海は他の章では内面をあまり見せないが、ここでは内海のモノローグでストーリーが進む。周囲との間に相当分厚い壁を作っているっぽいこと、瀬戸が指摘するように同級生を小馬鹿にしていることが裏付けられるわけだが、同級生に「壁がある」「小馬鹿にしている」と見抜かれる時点でそれほど大人ではないってことだなと妙に微笑ましくなった。同時に、自分の中にあった「内海的なもの」を思い出し赤面せざるをえない。
瀬戸はサッカー部を早々に退部してヒマ、内海は塾に行くまで1時間強の時間をつぶしたい。そんな2人が、たまたま一緒にひまつぶしをするようになる。2人の会話には漫才によくあるシチュエーション「俺~やるからお前~やって」という振りがしばしば入る。これは関西、というか大阪ではスタンダードな日常会話上の振りなのだろうか・・・(本作の舞台は大阪。ロケ地は堺市らしい)。大概瀬戸がボケで内海がしぶしぶの体でツッコミにまわるが、段々内海が(そこはかとなく嬉々として)ボケに回り瀬戸がつっこむシチュエーションも出てくるあたりに、2人の関係性がこなれていく過程が見えてくる。
瀬戸と内海は対称的なキャラクターだ。元サッカー部で人なつこくお調子者の瀬戸と、勉強は出来るらしいが覚めていて周囲に壁を作っている内海は、あまり接 点がなさそう。同じクラスにいても、多分親しい間柄にはならないだろう。彼らが一緒に遊びに行ったり、校内でつるんでいたりという姿は、あまり想像できない。では2人は友達ではないのかというと、やはり友達としか言いようがない。彼らが共有するのは、隙間の時間とでもいうべきものだ。この時間・場所では、クラス内のポジションからも、家庭からも、ちょっと自由になれるのではないか。2人が学校内でどういう様子なのか、どんな家庭環境なのかということは、あまり示されない(瀬戸は家族のことを話すが内海は一切話さない)。しかし、そういう背景を抜きにした友達というのも、成立するのではないかと思う。
いくつかの章にわけられており、通してみると1年が過ぎているのだが、2人が出会う前を描く内海メインの章のみ、ちょっと味わいが違う。内海は他の章では内面をあまり見せないが、ここでは内海のモノローグでストーリーが進む。周囲との間に相当分厚い壁を作っているっぽいこと、瀬戸が指摘するように同級生を小馬鹿にしていることが裏付けられるわけだが、同級生に「壁がある」「小馬鹿にしている」と見抜かれる時点でそれほど大人ではないってことだなと妙に微笑ましくなった。同時に、自分の中にあった「内海的なもの」を思い出し赤面せざるをえない。