3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2016年07月

『セトウツミ』

 チャラい天然・瀬戸(菅田将暉)と、地味でクールな内海(池松壮亮)。2人の高校生が放課後に川沿いでただただ喋る75分。原作は大森立嗣。原作は此元和津谷也の同名漫画。
 瀬戸はサッカー部を早々に退部してヒマ、内海は塾に行くまで1時間強の時間をつぶしたい。そんな2人が、たまたま一緒にひまつぶしをするようになる。2人の会話には漫才によくあるシチュエーション「俺~やるからお前~やって」という振りがしばしば入る。これは関西、というか大阪ではスタンダードな日常会話上の振りなのだろうか・・・(本作の舞台は大阪。ロケ地は堺市らしい)。大概瀬戸がボケで内海がしぶしぶの体でツッコミにまわるが、段々内海が(そこはかとなく嬉々として)ボケに回り瀬戸がつっこむシチュエーションも出てくるあたりに、2人の関係性がこなれていく過程が見えてくる。
 瀬戸と内海は対称的なキャラクターだ。元サッカー部で人なつこくお調子者の瀬戸と、勉強は出来るらしいが覚めていて周囲に壁を作っている内海は、あまり接 点がなさそう。同じクラスにいても、多分親しい間柄にはならないだろう。彼らが一緒に遊びに行ったり、校内でつるんでいたりという姿は、あまり想像できない。では2人は友達ではないのかというと、やはり友達としか言いようがない。彼らが共有するのは、隙間の時間とでもいうべきものだ。この時間・場所では、クラス内のポジションからも、家庭からも、ちょっと自由になれるのではないか。2人が学校内でどういう様子なのか、どんな家庭環境なのかということは、あまり示されない(瀬戸は家族のことを話すが内海は一切話さない)。しかし、そういう背景を抜きにした友達というのも、成立するのではないかと思う。
 いくつかの章にわけられており、通してみると1年が過ぎているのだが、2人が出会う前を描く内海メインの章のみ、ちょっと味わいが違う。内海は他の章では内面をあまり見せないが、ここでは内海のモノローグでストーリーが進む。周囲との間に相当分厚い壁を作っているっぽいこと、瀬戸が指摘するように同級生を小馬鹿にしていることが裏付けられるわけだが、同級生に「壁がある」「小馬鹿にしている」と見抜かれる時点でそれほど大人ではないってことだなと妙に微笑ましくなった。同時に、自分の中にあった「内海的なもの」を思い出し赤面せざるをえない。

『シング・ストリート 未来へのうた』

 1985年、大不況のさ中のアイルランド、ダブリン。両親、兄、姉と暮らす14歳のコナー(メルディア・ウォルシュ=ピーロ)は、父親が失業した為に公立校に転校するが、校内はひどく荒れており、校長は強権的。更に両親の喧嘩も絶えず、コナーのよりどころは音楽マニアの兄と見るロンドンのミュージックビデオだけだった。そんなある日、学校近くの家の前にたたずむ大人びた少女ラフィーナ(ルーシー・ボーイントン)に心を奪われたコナーは、彼女の気をひきたい一心で「自分達のバンドのPVに出演しないか」と誘ってしまう。コナーはバンド結成の為に、楽器をひける同級生を探し始める。監督はジョン・カーニー。
 直球の音楽映画で青春映画。これまでのカーニー監督作品からも感じたことだが、本当に音楽が好き、かつ音楽に対して誠実な監督だと思う。音楽を好きになった瞬間を忘れていないというか、そこに立ち返ろうという意思が毎回感じられる。本作は80年代のダブリンが舞台で、使われている音楽もDuranDuranやCURE等。コナーが結成したバンド、シングストリートのオリジナル曲もニューロマンティック感漂うものだ。シングストリートの音楽もファッションも、コナーが兄から教えられた音楽に影響されてどんどん変わっていくところが微笑ましい。まずは真似から入るのだ。
 中盤、コナーたちはアメリカの高校のダンスパーティー風のミュージックビデオを撮影しようとする。コナーが想像するミュージックビデオの映像が繰り広げられ、とても楽しいシーンだ。しかし同時に、コナーがなぜ音楽を、バンドを切実に必要としているのかもわかってしまい、どうにも切ない。
 彼はまだ子供で、ままならないことばかりだ。その不自由さや理不尽さからの避難所が音楽なのだろう。本作、子供は不自由なのだという描写がしばしば出てくる。バンドの練習だって両親の許可をとって、あるいは目を盗んでやらないとならない。コナーと兄、姉が、階下での両親のけんかの気配を感じながらレコードを聞いて踊るシーンも、彼らがまだ子供なのだと痛感させられるシーンだった。コナーに何かとつっかかってくるいじめっ子には、コナーにとっての音楽のような逃げ場もないとわかる。コナーが選ぶ道は、困難ではあってもその不自由さをふっ切るための道だ。ラストは少々ファンタジー寄りにも見えるのだが、その道を行くことへの願いが込められていてぐっとくる。

『疑惑のチャンピオン』

 25歳でがんを発症したが奇跡的に回復し、ツール・ド・フランスで7年連続優勝という偉業を達成したランス・アームストロング(ベン・フォスター)。しかし記者のデイビッド・ウォルシュ(クリス・オタウド)は彼のドーピングを疑い取材を続けていた。監督はスティーブン・フリアーズ。
 フリアーズ監督の作品はエピソードの取捨選択の思い切りがいい。不要な部分をスパスパ割愛して、コンパクトにまとめる手際の良さがある。説明をしすぎない、もりあげすぎないのだ。結構なスピードで話が進むのだが、勢いに乗って見ることができた。実話が元になっているのだが、事件(ドーピング発覚)から結構短い期間で映画化されたなーという印象。アームソトロングのキャラの強さもあって実に映画化されそうなネタだが、もうちょっと冷却時間を置くかなと思っていたので。
 ヒーローが実はドーピングをしていた、という話ならそんなにインパクトはない。まあありそうな話だなという程度なのだが、そのドーピングがチームぐるみ、更に業界全体で行われ、隠蔽されたものだったという部分はショッキングだ。チームぐるみでというのは競技の性質を考えれば(1人がやたら強いだけではおそらく成立しないし一緒にいる時間長いし)わかるのだが、アームストロングのドーピングを他チームの選手も知っている、しかし口外しないし、それをいさめた選手はアームストロング本人からこの業界にいられなくなるぞと脅しを受ける。アームストロングは独裁者のようになっていくのだ。
 スター選手というのはここまで権力を持ってしまうものかと恐ろしくなった。多分、当時の自転車競技界に業界全体を牽引するスターが彼しかおらず、彼によって生み出されるお金が相当にあったからなんだろうけど。それにしても一選手に牛耳られる競技界というのは、もう競技の体を成していないように思う。アームストロングは自分を神話に仕立て上げたかった、業界はそれに乗っかり、何より観客が神話を欲した、というところなのだろう。持ちつ持たれつ感が漂うのには笑ってしまう。
 本作、アームストロングもチームメイトもドーピングをしている、それを周囲も知っているということをはっきりと見せているのだが、アームストロング本人の態度の描き方がちょっと面白い。彼は明確にドーピングをしているが、人前では(当然)否定する。ただそれが、隠蔽しようとしているというよりも、自分は潔白だと思い込んでいる人の身振りのように見えてくるのだ。彼の内面が、勝利に飢え自己顕示欲が強いという部分以外は殆ど見えない。自分自身を「こうであれ」という姿にどんどん偽装していくようだった。実の所どういう人なのか、見れば見るほど輪郭が曖昧になってくるような、とらえどころのない造形だった。

『TOO YOUNG TO DIE 若くして死ぬ』

 冴えない男子高校生・大助(神木隆之介)は、修学旅行中のバス事故により死んでしまう。地獄に落ちた大助の前に、地獄専属ロックバンド「地獄図(ヘルズ)」のボーカル&ギターで地獄農業高校の軽音部顧問の鬼・キラーK(長瀬智也)が現れる。現世に転生する方法があると知った大助は、片思い中のクラスメイト・ひろ美(森川葵)に会いたい一心で、キラーKの厳しい指導に耐える。監督・脚本は宮藤官九郎。音楽は向井秀徳。
 クドカン監督映画の中ではベストなのではないか。全然予想していなかったが、音楽映画、バンド映画としていい!長瀬は本職だからもちろん上手いのだが、地獄図のメンバーを演じる桐谷健太と清野菜名は相当練習したのか、演奏姿が様になっているし、演奏は吹替えかと思っていたら、ちゃんと自分達で演奏している。また、地獄のギタリスト鬼たちがやたらと豪華な面子で驚いた。ものすごくバカバカしいシチュエーションなんだが、演奏が本気なのでつい見入ってしまう。
 大助の薄っぺらさといい、あっという間に地獄に落ちる冒頭の展開といい、地獄の情景のウソ臭さ(あえて書割風の美術にしてある)といい、転生したい理由と転生したシチュエーションのしょうもなさといい、基本バカバカしくコメディなのだが、どこかほろ苦い。大助はひろ美に会いたい一心で転生にこぎつけるが、人間に転生できるわけではない。更に、地獄と現世では時間の流れが異なり、ひろ美はどんどん年をとっていく。それでもとにかく会えば彼女の気持ちがわかるだろうと思い込んでいる大助は、大分頭悪そう(実際頭は良くない)なのだが、あまりにブレないので段々清々しく見えてくる。一方、キラーKもまた、とある事情で現生に未練がある。大助はキラーKの心残りを解消しようと奮闘するが、何度やってもうまくいかない。起きてしまったことは変えられず、人生をやり直せるわけではないのだ。
 大助の未練もキラーKの未練も、おそらくタイミングが少し違えば、2人がもう少し思い切りがよければ、生じなかったかもしれないものだ。そういう未練、後悔は生きている限り(2人は死んでるんだけど)なくなることがないんだよなと何だかしみじみしてしまった。しかし、その未練に大助が何度もくいついていく様が、妙に青春映画っぽい。死んでからようやく華々しい青春が始まるみたいな、奇妙な青春映画だと思う。

『白鯨(上、中、下)』

ハーマン・メルヴィル著、八木敏雄訳
 アメリカ東部のナンケットにやってきたイシュメールは、宿屋で同宿した南洋の銛打ちクイークェグと共に、捕鯨船に乗り込む。その船の船長エイハブは、かつて白いマッコウクジラ、モビー・ディックに片足を食いちぎられ、その白鯨への復讐に燃えていた。1851年に発表された作品だが、アメリカ文学を代表する作品であり、世界の十大小説のひとつとも言われている。同時に、日本語訳は文体がかなり読みにくいとも聞いていたので、今まで億劫がって手に取らなかったのだが、ようやく読んでみた。危惧していたよりはずっと読みやすく、それほど込み入った文体ではない。読みにくいと言われるのは、複数の文章表現の形式が混在しているからではないかなと思った。いわゆる「お話」の部分に限っても、イシュメール視点を中心に、各登場人物のモノローグによるパートや、ちょっとミュージカルのような(歌曲のような)パート等、「語り」の形式は複数ある。語りのトーンも、勇壮な叙事詩のようであったり、ホラ話的であったり、怪談のようであったりと次々変化していく(メルヴィルは、冗談好きというか、笑いのセンスがある人だったように思う)。さまざまな文学の形式を本作に全部入れてみたいという試みだったのではないか。
 また、鯨の生態や身体構造、また捕鯨のやり方や捕鯨船の構造に関する博物誌的なパートがやたらと長い。捕鯨に関しては、舞台が捕鯨船だからまあわかるのだが、鯨の品種をひとつひとつ挙げていかれると、ちょっと飛ばさせてもらおうかな・・・という気分にはなる。しかし、この部分が重要なのだと思う。鯨の生態について具体的に説明することで、鯨は鯨という動物(本作が発表された当時は魚の仲間の扱いだが)であり、それ以上でも以下でもないという位置づけがはっきりとする。モビー・ディックの悪魔的な様相は、エイハブがモビー・ディックに対して投影しているイメージ、つまりエイハブの心の中にあるものに過ぎない。悪魔的なのは白鯨ではなくエイハブの執着心なのだということを、より浮彫にする為の博物誌パートなのかなと思った。なお、岩波文庫版は挿絵が掲載されているのでお勧め。

『背信の都(上、下)』

ジェイムズ・エルロイ著、佐々田雅子訳
1941年のアメリカ、LA。日系人一家が惨殺される事件が起きた。日系人鑑識官のヒデオ・アシダは捜査に関わるが、日本による真珠湾攻撃が起き、日系人の立場は悪化していく。LA市警のダドリー・スミスは上層部の意図をくみ、戦時下でも捜査を続け公正さをアピールしつつ、殺人事件は日系人か変態の犯行という「真相」に落とし込もうとする。次期市警候補のウィリアム・パーカーは、アシダに接近しスミスの失脚を狙う。しかしスミスもまたアシダに接近していた。殺人事件の捜査、そして市警内のポジション争いが本筋にあるはずなのだが、読んでいるうちにだんだん何の話かわからなくなってくる。個々の登場人物の欲望や情念が、徐々に暴走していき、正義も真相も二の次になっていくように見えるのだ。真相を追うアシダやパーカーもまた、世間からの圧力や自分自身の中の暴力への衝動から逃れる為、正義を曲げざるを得なくなっていく。しかし、最初から正義も真相もおいてけぼりな話でもある。正義も真相も二の次にしているのは、警察の上部にいるもの、アメリカという国そのものだからだ。政府は世論をコントロールし戦意高揚につながるよう、真相をでっちあげようとする。著者の近年の作品では、度々「偽史」としてのアメリカの側面が描かれるが、本作から始まる新シリーズもそういう様相を見せるのだろうか。本作は著者の「LA四部作」の前日譚にあたる新作シリーズで、四部作の登場人物が若き日の姿で登場する。ダドリー・スミスの怪物性が本作で既に発揮されているところが恐ろしい。人たらしでありつつ非情、しかしもろさもある。完結すると一大クロニクルになるのだろう。どういう形で『ブラック・ダリア』まで辿りつくのか。無事完結することを願う。

『二ツ星の料理人』

 才能はあるものの、トラブルを起こし仕事を失ったシェフ、アダム・ジョーンズ(ブラッドリー・クーパー)は、ロンドンで3年ぶりに再起を図る。自分のトラブルのせいで閉店に追い込んだパリの店のオーナーの息子トニー(ダニエル・ブリュール)から、半ば強引に協力をとりつけ、最高のスタッフを集めて新規店舗をオープンするが。監督はジョン・ウェルズ。
 レストランの厨房の描写はかなり正確らしく、登場する料理もおいしそうだし、最近のいわゆる一流レストランの料理の方向性ってこういう感じなのかな、という雰囲気が味わえて楽しい(ただし、厨房でたばこを吸うというのは今時ありえないんじゃないかという気がするが・・・。あそこで一気に料理がまずそうになった)。そして、「いい(有能な)シェフ」というのは、なにをもって「いい(有能な)」とされるのかな、とアダムのてんやわんやを見て考えた。本作で描かれる厨房の様子を見ているとわかるのだが、ある程度の規模のレストランの場合、当然シェフ一人でその都度全ての料理を作ることはできないので、分業になる。ボスとなるシェフは、レシピを考え料理をするというのはもちろんだが、スタッフを上手く使わないとならない。人的・物理的なマネージメントも「いい(有能な)」シェフの条件になるのだろうか。だとすると、いわゆる料理バカ的な、一点突破型の才能の持ち主には難しいということにならないだろうか。つまり、「天才だから」という言い訳が通用しないのだ。
 アダムは才能も技術も突出しているが、人間としてはかなり問題が多い。パリを離れた経緯は最初はっきりしないのだが、どうやら、泥酔の上自分で招いたトラブルから逃げ出して、後はトニーに丸投げ状態だったということがわかってくる。トニーから協力をとりつけるやりかたも、女性シェフ・エレーヌ(シエナ・ミラー)のスカウトの仕方も強引で、とにかく俺が正しいという態度。スタッフへの叱責の仕方も、これダメな上司タイプの叱り方だな・・・。才能とルックス以外に彼のいい所が見えてこない。こういう状態で組織を引っ張っていく、人心掌握していくのは至難の業だなと思っていたら、案の定しっぺ返しがくる。
 とは言え、彼の自己愛と強気は、不安さの裏返しでもある。彼も自分が問題を抱えているということはわかっている。ただ、それを認めるのは、自分の弱さを認めるということだ。完璧主義の彼がそれを受け入れることができるのか。自分の弱さを認めたくない故にカウンセリングや互助会(断酒会とか)への参加を拒む人物像(往々にして「男らしさ」に拘る男性キャラクターが多い)は、アメリカの小説や映画でよく目にするが、アダムも彼らと同じだ。彼の場合は才能があり、なまじ成功体験がある故に、上手くいかないと余計に辛いのだろう。彼の辛さを受け止めるのが、犬猿の仲のライバルシェフだというところにぐっときた。同じ道を歩んでいないと見えないものもあるのだろう。

『ブルックリン』

 アイルランドの小さな町で、母、姉ローズ(フィオナ・グラスコット)と暮らすエイリシュ(シアーシャ・ローナン)は、ローズの計らいでアメリカへ渡ることになった。単身、ニューヨークのブルックリンで暮らし始め、地元の神父の紹介で百貨店の売り子として働くことになる。監督はジョン・クローリー。原作はコルフ・トビーンの同名小説。脚本は『17歳の肖像』や『わたしに会うまでの1600キロ』のニック・ホーンビィだが、この人は女性が主人公の脚本を書くのが上手いのかもなぁ。
 色合いのとても美しい作品だった。アイルランドと言えば緑色だが、この緑色の効かせ方が気が利いている。アイリシュにとって、緑は故郷の色だ。最初は緑色のコートを着ているが、途中で赤に変わるのが印象に残った。そして最後、緑色の使い方には、彼女にとっての「故郷」がどういうものになったのかが端的に現れていたように思う。使われている緑色の種類、グラデーションも美しかった。
 エイリシュは右も左もわからず、1人きりで見知らぬ環境で生きていかねばならない。が、折々で少しずつ彼女を助けてくれる人たち、特に女性たちがいる。彼女らの姿が、個々の人間としてくっきりと描かれているところがいい。姉ローズを筆頭に、船で同室になった女性や、百貨店の上司、寮母や同寮の女性たち。彼女ら1人1人は決して突出した人たちではないし、ローズ以外はエイリシュと非常に親しいというわけでもない。それでも、彼女らには「後輩」をちょっと手助けしてやろうという気概、あるいは義務感みたいなものがある。上京者や移民者の多い町故、自分達が通った道だからという人もいるだろう。だからエイリシュもまた、「後輩」に同じようなアドバイスが出来るようになったのだし、エイリシュにアドバイスされた人も「後輩」に同じことをするのだろう。
 エイリシュはニューヨークに渡ることを選んだ。姉ローズは、母を思いやってではあるが故郷に残ることを選んだ。生きていくことは選択を続けることだとつくづく思った。正しい選択かどうかより(そもそもどの時点をもって正しい選択と判断できるのか)、自分がなぜそちらを選択したのか、その選択が自分の意思によるものなのか、自分が納得したのかどうかという所が大事なのかもしれない。エイリシュは終盤、ある大きな選択を迫られるが、その時に蘇る「なぜ」の部分が強烈だった。
 また、エイリシュは自分より美人で優秀な姉(ローズは有能な経理担当として働いている)がニューヨークへ渡るべきだったのでは、姉は自分と母の犠牲になったのではと気に病む。が、故郷に残ったローズの人生が不幸だということにはならないだろう。ローズは妹と母を守ることを選んだ。そのことに彼女は納得していたし、満足していたのではないかと思う。


『ダーク・プレイス』

 1985年、カンザスで母親と2人の娘が惨殺される事件が起きた。生き残った8歳の娘ビリーの証言により、15歳の長男が逮捕され、終身刑となった。31歳になったビリー(シャリーズ・セロン)の元に、有名な殺人事件について語りあう「殺人クラブ」から招待状が届く。生活費に困っていたビリーは、謝礼金目当てでクラブに出席し、事件の真相を振り返り始める。監督・脚本はジル・パケ=ブレネール。原作はギリアン・フリンの小説『冥闇』。
 ギリアン・フリン原作映画と言えば、デヴィッド・フィンチャー監督による『ゴーン・ガール』が強烈だったが、本作は(原作は読んでいないのだが)意外とあっさりとした見せ方。予告編の方がおどろおどろしいくらいだ。またミステリとしては、『ゴーン・ガール』よりもフェア、というかストレートで、序盤で真相の半分くらいへの道筋が提示されているし、以降も意外と手掛かりを提示してくる。
 31歳のビリーは職もなくお金もなく、切羽詰まった状況なのだが、ほぼ自業自得で、映画を見る側が共感しにくいキャラクターだというところがちょっと面白い。殺人事件の生き残りになった8歳の彼女は有名人になり、多額の義援金と励ましのメッセージが送られてきた。彼女は長年その義援金で生活しており、働いたことがない。その義援金も尽き、生活は荒れる一方。過去の事件を調べ直すことになったのも、嫌々ながらお金の為(しかも当初の提示額よりも上げさせようと苦心する)だ。殺人事件、しかも家族間の殺人の遺族の心情など想像するしかないが、主人公であるビリーの言動に共感しにくい設計にしてあることで、事件の陰惨さのわりには、見ていて意外とストレスを感じない。ほどよい距離感があるのだ。それが迫力を削いでいる(多分、原作小説はもっとひしひしと怖いのではないかと思うので)とも言えるのだが、ストレートなサスペンス映画としてはちょうどいいかなと思う。逆に言うと、この内容で本気で攻められるとかなりしんどい・・・。
 8歳のビリーの証言は、本作の描写を見る限りでは信憑性はいまひとつで、この証言ひとつで兄を有罪にしてしまったというのはかなりとんでもないように思える。殺人クラブのメンバーも当然同じことを考え、ビリーに記憶の掘り起しを促すのだ。当初は、自分の証言は間違っていないと断言するビリーだが、本当にそれが正しかったのか?自分は実際は何を見たのか?そして他の関係者たちの話の信憑性はどの程度だったのか?と何重もの疑わしさが立ち現れてくる。過去と現在とが交互に描かれるのだが、疑わしさをひとつひとつ確認していくような構成になっているのも、「意外とあっさり」とした口当たりの一因かもしれない。

『リザとキツネと恋する死者たち』

 EUフィルムデーズにて鑑賞。日本人大使未亡人の住込み看護師として働くリザ(モーニカ・ヴァルシャイ)。彼女の傍には、彼女にしか見えない日本人歌手の幽霊・トミー谷(デヴィッド・サクライ)がいた。日本のロマンス小説に憧れるリザは、30歳の誕生日に外出し、小説内のシチュエーション通り、ハンバーガー店に入る。しかしその間に、トミー谷の呪いで未亡人は死亡していた。そしてリザに好意を持った男性は次々に変死していく。監督はウッイ・メーサーローシュ・カーロイ。
 1970年代のハンガリーが舞台の作品なのだが、何とも言えず奇妙な味わい。本作を日本配給した人、よく見付けたな・・・。日本へのオマージュが盛り込まれているが、70年代のハンガリーから見た「なんちゃって日本」なので、キッチュさが増している。九尾の狐とかよく知ってるなーとは思うが、本来の伝説とはまた違うものになっているし、作中で流れる日本語歌謡曲も、日本の歌謡曲のようでそうではないという不思議さ。当然、日本人観客ばかりの環境で見たのだが、おそらく本来は笑い所ではないところで笑いが沸く、そして本来の笑い所でも更に沸くというウケっぷりだった。当初はシネマカリテでのレイトショー上映だけだったように記憶しているが、もうちょっと上映規模広げても大丈夫だったんじゃないかな。 
  リザに好意を持った人は次々に死ぬという、結構ブラック、かつリザにとっては洒落にならないハードな状況なのに、死にっぷりが豪快すぎて笑ってしまう。そして一方では、すごくまっすぐなラブストーリーでもあるのだ。「なかなか死なない男」の粘り強さが素晴らしい。
画面内のディティールの作りこみ方は、ウェス・アンダーソン監督を思わせるところもあるが、アンダーソン作品ほど徹底していない。どこか野暮ったく隙がある。そこがかわいらしさでもある。善悪のジャッジが意外と曖昧で、混沌とした世界観なところがいい。
 ところで、カーテンでドレスを作るというのは、映画においてある種のセオリーなんだろうか。


ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ