3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2016年07月

『神様の思し召し』

 有能な外科医トンマーゾ(マルコ・ジャリーニ)は、仕事は出来るが毒舌で傲慢。妻カルラ(ラウラ・モランテ)との仲は倦怠気味、娘はトンマーゾにとっては期待外れの男と結婚していたが、医大生の長男が後を継ぐのを楽しみにしていた。しかし息子は突然神父になると宣言する。とっさにものわかりのいい父親を演じてしまったトンマーゾだが、納得いかず、息子は話術たくみなピエトロ神父(アレッサンドロ・ガスマン)に洗脳されたと思い込む。ピエトロが前科持ちだと知り、トンマーゾは失業者を装って近づき、尻尾を掴もうとする。監督はエドアルド・ファルコーネ。
 楽しいことは楽しく、それなりにホロリとさせられるコメディなのだが、ちょっと平坦だなぁという印象を受けた。本作を配給するGAGAは、大ヒットしたフランスのコメディ映画『最強のふたり』に連なる路線として売るつもりみたいだけど、『最強のふたり』の方が色々細部まで目が行き届いており、技があったと思う。
 トンマーゾにしろカルラにしろ、登場人物の造形が概ね紋切型にカリカチュアされているのが辛かった。トンマーゾは有能故に傲慢で他人の心の機微に疎い。息子がなぜ信仰の道に惹かれたのか考えてみようともせず、ピエトロのせいだと決めつけてしまう。カルラは経済的には不自由ない「奥様」だが心は満たされずボランティアやチャリティーで気を紛らわし、キッチンドランカー状態。長女は「オツムの軽い(そこそこ)美人」でその夫はボンクラ。あーこういうのどこかで見たなぁという気分が拭えない。よくある設定が悪いというのではなく、紋切型から「その人」として登場人物が立ち上がってくる為の、もう一味が足りないという感じ。カルラが息子に空疎な生活だと指摘され大変身するあたりや、終盤で娘がぶちまけるシーンなど、ちょっと「絵に描いたような」感が強すぎた。間にもう一クッションくらいエピソードが欲しくなっちゃう。細部の雑さで気が削がれるのがもったいない。
 ともすると戯画的なトンマーゾ一家に対し、ピエトロはごくごく普通の人として地に足がついた感じがし、自然体に見えた。彼がどういう人なのかは、あまり言及されない。本作はあくまでトンマーゾと家族の話なのだろう。ピエトロは媒介みたいなものだ。
 ピエトロは神父なので、当然信仰に関する話題も出てくるのだが、そこを強調はしていない。トンマーゾは無神論者だが、ピエトロは彼にカソリックの信仰を強いようとはしない(多分トンマーゾもいきなり信仰に目覚めたりはしないだろう)。彼が話すのは、もっと素朴な、この世界の細部の美しさみたいなものだ。それはトンマーゾが見失っていたものなのだろう。

『テロ』

フェルディナント・フォン・シーラッハ著、酒寄進一訳
 ドイツ上空で旅客機がハイジャックされ、犯人は7万人の観客が集まっているサッカースタジアムに旅客機を墜落させようとしていた。犯行声明を受けて緊急発進した空軍少佐は、独断で旅客機を狙撃、無人の土地に墜落させる。乗客164人は即死だった。164人を殺し7万人を救った彼は英雄か?犯罪者か?参審議裁判所(ドイツでは一般人が審議に参加する参審制度が採用されている)で下される判決とは。
 法廷劇の戯曲仕立てで、検察官の論告、弁護人の最終弁論に加え、結末は「有罪」「無罪」の2パターン用意されている。戯曲の形式をとってはいるが、本作、実際に戯曲として演じても面白くはないだろう。テーマを強調し、読者を巻き込む為にこの形式を採用した、あくまで「読む」用の作品なのだと思う。そしてそのテーマも巻き込み方も、著者の他作品に比べるとかなり直接的。テーマしかないと言ってもいいくらいだ。著者にとっては、そのくらい切羽詰まったテーマだったということだろうか。テロは、多数の被害者を出すというだけでなく、モラルや法律が引き裂かれるジレンマを引き起こす。裁かれるのがテロリストではなく、それを(他の乗客もろとも)狙撃した側だという所がポイント。有罪判決を読んでも無罪判決を読んでも、どちらも一理あると思ってしまう。ただ、著者としては「(中略)しかし憲法はわたしたちよりも賢いのです。わたしたちの感情、怒りや不安よりも賢いのです。私たちが憲法を、そして憲法の原則、人間の尊厳をいついかなる場合でも尊重するかぎり、わたしたちはテロの時代に自由な社会を存続できるのです」という言葉の方により近いのでは。テロリストの襲撃を受け12人の犠牲者をだした『シャルリー・エブド』誌がMサンスーシ・メディア賞を授与された際の、著者による記念スピーチが併録されているのだが、むしろこちらの方が著者渾身の文章という感じがした。著者はいわゆる社会的モラルや良心を(もちろん重要なものだと考えてはいるだろうが)過信していない、それが移ろいやすいものだということを踏まえているんじゃないかと思う。

『ファインディング・ドリー』

 『ファインディング・ニモ』の13年ぶりの続編。吹替2Dで鑑賞マーリンとニモ親子が無事再会してから1年後。何でもすぐに忘れてしまう体質のナンヨウハギ・ドリーは、ずっと忘れていた両親の存在を思い出す。ドリーは両親を探しだすと決意し、唯一覚えていた「カリフォルニア州モロ・ベイの宝石」という言葉を手がかりに、カリフォルニアの海洋生物研究所に辿りつく。監督はアンドリュー・スタントン。
 ピクサー・アニメーション・スタジオの新作だが、さすがに危なげが全くなく、安心して見られる。ビジュアルのクオリティの高さはもちろんだが(ちょっとアトラクション性を盛りすぎかなとは思ったが)、しっかりしたストーリーテリングや全方位への配慮はさすが。ニモがちょっと成長して、若干毒舌になっているところがかわいい。いずれ反抗期に突入するのだろうか・・・。
 本作の主人公はもちろんドリーなのだが、ドリーが出会う魚や動物が皆印象に残った。彼女を手助けしてくれる海洋生物研究所のジンベイザメやシロイルカは、自分にいまひとつ自信がない。極端な近視であったり、体に故障があったりして、一人で海で生きていくなんて出来ないのではと思っている。そんな彼らが、ドリーの楽天性、行動力に誘発されてなんとかやってみようとする。また、一見チートキャラなのに海での生活を拒むタコのハンクが、ドリーの為に奮闘する姿には思わずぐっときた。まさか自分の人生でタコがイケメンに見える日が来るとは。
 とは言え、ドリーだって自信満々というわけではない。すぐに物事を忘れてしまう彼女にとって、世界は更におぼつかないものだろうし、自分一人では無理だという発言もしばしばある。冒頭、幼いドリーが迷子になるが、徐々に自分が迷子なことも両親を探していることも忘れていく様は少々ホラーっぽくもあった。
 それでもドリーがなんとかなると思えるのは、両親の尽力の賜物だろう。彼女の「すぐ忘れる」という特徴をふまえつつ、生きる為の彼女なりのやり方を何とか考えだし、工夫を重ねて教えていく。その上で、「一人でもやれる」という自信を持たせようとするのだ。本作、楽しい冒険映画ではあるのだが、子供を持つ人にはより切実に見られるのではないだろうか。親が子供に残せるものって、どのくらいあるんだろうとしみじみしてしまった。
 なお吹替え版で見たが、概ねいい出来だったと思う。八城亜紀の登場にはなぜ?と思ったが(英語版だとシガニー・ウィーバーなので、似たポジションの人を起用したというわけでもなさそう)、慣れてくるとあの声が癖になってくる。ちなみにエンドロール曲は前作を踏襲してスタンダードナンバーだが、今作の方がよりユーモアがきいており、かつ泣けると思う。

『アナザー』

 カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション2016にて鑑賞。自分達を車で空港まで送り、その後車を回送してほしいと職場の社長夫婦に頼まれたダニー(フレイア・メーバー)は、ふとした思いつきで車に乗ったまま南へ海を見に行く。しかし立ち寄る先々で、初めて出会うはずの人々が彼女を死っていると言うのだ。原作はセバスチアン・ジャプリゾの『新車の中の女』。監督はジュアン・スファール。
 編集の仕方がちょっと目まぐるしく酩酊感も醸し出すのだが、ダニーの精神は確かにこのくらいグラグラしているのかもしれない。本作、ミステリとしてのトリックはちゃんとある(冷静に考えると突っ込み所は多いがトリックとしてはちゃんと機能している)のだが、むしろ主人公であるダニーの内面に入り彼女の精神の混乱を体感していく面がある。デビッド・リンチ監督『マルホランド・ドライブ』を思い出した。
 『マルホランド~』公開時のキャッチコピーは「私の頭は、どうかしている」だったが、ダニーはまさにそういう状態になっていく。自分の正気に確信が持てなくなっていくのだ。自分は狂っていないと思う一方で、もしかしたらもう一人の自分が存在するのでは、自分はおかしくなっているのではという自身への不信感に引き裂かれていくのだ。ミステリとしての真相よりも、ダニーの心理状態の方がスリリングだ。ただ、そこもまたトリックに対するフェイクとも言えるのだが。
 いい車に乗って、ちょっと大胆な服とメイクにするだけで、ダニーの振る舞いも「いい女」風になっていく。彼女はかつての同僚だった社長の妻におそらく憧れ、同時に嫉妬している。ダニーは彼女のような「いい女」「裕福な女」の姿になるチャンスを得たのだ。彼女がその道を進み続けるのか、引き返して元の自分に戻るのかという部分もまたスリリングだった。
 なお本作のフライヤーのビジュアルは、本編の雰囲気と全く違う。それ以前にこんなショットなかったしこんな銃も出てこなかったよ!すごい適当に作ったのだろうか。

『ふきげんな過去』

 高校生の果子(二階堂ふみ)は両親、赤ん坊の妹、祖母と暮らしている。ある日18年前に死んだはずの伯母、未来子(小泉今日子)が訪ねてきた。未来子はある事件を起こして前科持ちになり、方々をふらふらしていたと言うのだ。未来子は果子の部屋に寝泊まりすることになり、彼女のふてぶてしい振る舞いに果子は苛立つ。監督・脚本は前田司郎。
 劇作家である監督の癖なのか、セリフが時に意味合いの強すぎるもので、作品の雰囲気から浮く。果子が未来子の言葉に「いいこと言ったみたいにしないで」と言う旨のツッコミを入れるシーンがあり、そういう意図ならいいのだが、ツッコミ不在でこのポエムどう処理すればいいの?と落ち着かなくなる所も。セリフがよくないというのではなく、この映画の緩めなトーンにこのセリフだと、ちょっと強すぎ・意味合いを持ちすぎるなという印象。
 果子は毎日変わり映えしなくてつまらない、未来のことなんて簡単に予測がつく(「私、未来が見えるの」というセリフが何回か出てくる)と言う。だから、ここではないどこかに行きたい、連れて行ってほしいと願っている。しかし、仮にここではないどこかに行ったとしても、彼女はすぐに退屈するのではないか。果子の日常は、客観的には(映画を見ている側にとっては)なかなか奇妙で、そこそこ色々なことが起きて面白い。当事者と傍観者では全然感じ方が違うとはいえ、面白さを探していない、気づいていないだけなんじゃないかなと思う。当人が愉快さ(不愉快さも)を見つける目を持っていないと、どこに行っても大して状況は変わらないんじゃないだろうか。見ようとしない人の前に「ワニ」は現れない。おそらく未来子はそれに気づいており、だから果子を連れて行かなかったのではないか。
 未来子と果子が、ちょっとしたナイトクルージングに出るエピソードがあるが、(硝石採掘という目的があるとはいえ)近所の川で小船に乗るというだけの行為が、幻想的で冒険みたいに見える。日常の隙間にも非日常的な楽しさはあるのだ。
 果子の家は蕎麦屋を改装した豆料理店(中近東の豆料理らしい)をやっているのだが、案外流行っているらしいあたりが妙におかしかった。全然洒落ていない古い店なのだが、ちょっと『ことりっぷ』とかに隠れ家レストランとして載っていそうな雰囲気。果子が未来子に持っていくカレーがおいしそうだった。

『夏を殺す少女』

アンドレアス・グルーバー著、酒寄進一訳
弁護士のエヴァリーンは、寄った元小児科医がマンホールで溺死するという事件に関わる。調べるうちにエヴァリーンは、、一見無関係に見えた市会議員の交通事故死等複数の事件との関連を疑い始める。同じころ、ライプツィヒ警察の刑事ヴァルターは、病院での少女の変死を捜査していたが、類似の事件が最近起きていたことに気づく。2つの捜査線が交互に語られ、この2線がいつ交わるのかとドキドキしながら一気読みした。読んでいるとどんどん引っ張られていく上手い構成だった。事件の背景はかなりおぞましいものなのだが、エヴァリーンもヴァルターも、それに対してちゃんと怒れる人なので、物語のトーンが陰惨な方向に行きすぎない。「それは絶対に間違っている」という指針がはっきりとしているのだ。そして2人とも諦めない、タフな人だ。どちらもいいキャラクターなので、続編が読みたくなる。

『森山中教習所』

 自動車免許を取ろうと思い立った大学生の佐藤清高(野村周平)は、ヤクザ見習いの轟木信夫(賀来賢人)が運転する車にひかれる。清高が死んだと思った組長らは事故を揉み消す為に清高をトランクに押し込め、非公認の自動車教習所に連れて行く。轟木はそこで自動車教習を受けることになっていたのだ。そして、清高と轟木は高校の同級生だった。事故の口止め料として、清高も轟木と一緒に教習を受けさせてもらうことになる。原作は真造圭伍の同名漫画。監督は豊島圭介。
 清高と轟木は高校の同級生ではあるが、言葉を交わしたのは1度だけだ。お互いのことは名前くらいしか知らない。能天気な清高とクールな轟木では、そもそも接点がないのだ。本来友達になれそうもない2人が、なりゆきで時間を共にし何となく友達のようになっていく。この「友達」感には、先日見た『セトウツミ』を思い出した。『セトウツミ』は現役高校生、本作は元高校生の話だが、いわゆる別ジャンルの2人が、日常からほんのちょっと離れた、隙間的な時間を共にすることで友達(らしきもの)になっていく。
 本作での隙間的な時間は、自動車教習所に通っている期間だ。教習所なので当然、試験に合格して免許を取得すれば終了する。終わりが最初から決まっている時間なのだ。この終わりが既に決まっているということは、特に轟木にとってきついことでもある。轟木は組長の運転手として正式に働く為に免許を取れと指示されているので、免許を取る=正式にヤクザになり後戻りできなくなるということだ。轟木は身よりがなく、生活の為に組の世話になっていたので、学生生活は高校中退で中断している。彼にとっては教習所での日々が、青春のやり直しのようでもあったのだろう。免許取得は、彼にとっては青春、モラトリアムの終了でもある。
 一方、能天気に見える清高だが、彼は彼なりの息苦しさを抱えている。父親が失職中で時に母親に暴力も振るい、家に居辛いのだ。彼は概ね空気を読まない(特に清高に思いを寄せる松田さんに対する態度はひどい)が、家庭内では両親の空気を窺いぴりぴりしていて、ちょっといたたまれない。清高が免許を取りたがっているのは、とにかく家から出て遠くへ行きたいからだ。
 清高にとっても轟木にとっても、教習所での時間は、自分が否応なしに所属している場から逃れることが出来る、避難所のようなものだったのだろう。そこを出たら、2人はそれぞれの生活に立ち向かわなくてはならない。でも、避難所での思い出があるから乗り越えられることもある。この先2人が会うことがなくても、あの時自分には友達がいてとても楽しかったという記憶は、ずっと彼らを支えるのではないだろうか。ラストシーンを見てそんなことを思った。

『とにかくうちに帰ります』

津村記久子著
豪雨で交通手段が途切れる中、職場から家へ帰ろうとする人々を描く表題作と、とある中小企業で働く女性の視線で職場の人々を描く連作「職場の作法」。どちらも職場あるあるとでも言うか、働く人のリアリティ、特に熱心でも不真面目でもなく「普通」に働き、日々の困難もやりすごしていく人たちの姿の、リアリティの掴み方が相変わらず素晴らしい。同僚に感じるちょっとした違和感や反発、仕事の愚痴や達成感等、大きくはないが、当人にとっては捨て置けない事柄に満ちている。近すぎず遠すぎず、自分の内面は明かしすぎずという、職場での人と人との距離感ってこういう感じだよなぁという部分の描き方が上手い。同僚にしろ取引先にしろ、仲がいい人もいるだろうが、素の自分を見せるということは、お互いにあまりないと思う。だからこそ、素を垣間見る/見せてしまう瞬間にはつい心揺さぶられるのだ。そして、本作に登場する人たちは、大なり小なり難点や癖はあるが、基本的に皆大人だ。成熟しているというよりも、大人として振舞うべき時はそう偽装できる程度には大人なのだ。表題作に登場する会社員サカキは、共に帰宅難民となった小学生ミツグの為に、最後にある行為をするのだが、そこになんだか泣けてしまった。いわゆる「いい話」だからというより、サカキはサカキで色々事情があり本当はそれどころではないかもしれないけど、なにはともあれ大人はこういう時こうしなければ、という矜持のようなものを感じた。

『増山超能力師事務所』

誉田哲也著
超能力の存在が公式に認められ、一定の試験に合格した超能力者は「超能力師」としてその能力を仕事に使えるようになった日本。有能な超能力師・増山が所長を務める増山超能力事務所は、能力の種類も質もバラバラな所員を抱え、浮気調査、家出人探しや企業の面接等に奔走する。ヘタレな新入所員や、気は優しいが押しが弱い中堅、能力も性格もルックスもキレ味抜群なエース、どっしり構える事務員ら、個性はバラバラな所員それぞれが主人公を務める連作短篇集。超能力と言っても、その言葉のイメージと比べて、出来ることは結構限定されており不自由だという所が、地に足ついた設定。最終的には人対人でどうにかしなければならない話になる。そこで解決できないことは、多分超能力を使っても解決できない。新人の「明美」を巡って、ちょっとこの表現セクハラっぽいなと思った部分が、後の「明美」主人公回でリカバリーされる等、連作ならではの話が広がっていく面白さがある。終盤、急にシリアスになって次回へ続く!的な引きを持ってくるのは、ちょっとずるいが。超能力師事務所の営業形態は探偵事務所や興信所がモデルなのだろうが、序盤に出てくる契約書のくだりなど結構説得力あって、ちゃんと取材しているんだろうなという感じがする。こういう部分を書くか書かないかで、お話としての手応えって随分変わってくると思う。そのへんの目配りは職人的。

『宇宙ヴァンパイアー』

コリン・ウィルソン著、中村保男訳
 新潮文庫"村上・柴田翻訳堂”シリーズより。地球の宇宙船ヘルメス号により、難破した巨大な宇宙船が発見され、中に置いてあった美女の遺体が地球に持ち帰られた。しかしその生命体は、他の生命体のエネルギーを吸収する宇宙ヴァンパイアとでも言うべき存在だった。ヘルメス号の船長カールセンは、生命体が人間の体に憑りつき、さらにその体を乗り換えていると気づく。  コリン・ウィルソンといえば『アウトサイダー』くらいしか知らなかったが、こういう作品も書いていたのか。ただ本作、既出の"村上・柴田翻訳堂”シリーズの中では一番読むのがきつかった・・・。SFとしてはかなり古さを感じる。また、古さをカバーできるほど小説として上手くない(笑。しかし巻末に収録された村上春樹と柴田元幸の対談でも、上手い小説ではないって言われてたもんなぁ)。話の流れがとっちらかっている印象があるのと、宇宙ヴァインパイアの存在の仕方や行動原理が今一つ統一されていない、後から一気に解説される内容とちぐはぐになっているように思った。著者の興味は、そういう部分にはないんだろうな。多分、男女間でのエネルギーのやりとりとかそっちの方に力が入っているんだろうけど、そのへんも今となっては時代遅れっぽいのが辛い。カールソンたちが生命体への対策を考え出すあたりまで、相当努力して読み進めないとならなかった。本作のような形での人類に対する高次元の存在って、最近のSFではあまり見なくなった気がする(最近は高低というより存在の在り方を相対的に見せるものが多いのかなと)。

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