3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2016年05月

『ヘイル・シーザー!』

 1950年代のハリウッド。超大作映画『ヘイル・シーザー!』の撮影中、主演スターのウィットロック(ジョージ・クルーニー)が誘拐された。スタジオの何でも屋(ジョシュ・ブローリン)は事件解決に奔走する。監督・脚本はジョエル&イーサン・コーエン。
 予告編だと何でも屋が個性豊かなスターたちの力を借りて事件解決に乗り出す、みたいな話のようだが、実際は何でも屋が1人で奔走しており、スターたちはむしろちょっとしたトラブルを上乗せしていくような存在。ユルーい群像劇みたいな感じで、キャストが豪華な割にはそれぞれの見せ場はそれほどない。ヒロインぽく見える(というか通常ならヒロインであろうスカーレット・ヨハンソンの出演時間が意外と短くてびっくりした。逆に、華を添えるという意図なのかと思っていたチャニング・テイタムが、フレッド・アステアばりのニュージカルシーンを見せるわ、まさかの大活躍(?)だわで、なかなか意表を突かれた。また、全くノーマークだったアルデン・エーレンライクが大変チャーミング。アクションはピカイチだがそれ以外はとんでもなく大根というカウボーイ俳優役なのだが、一見とっぽいのに実は結構常識人で聡明という、おいしい役どころだった。他のキャストがいわゆるスターばかりなのだが、彼が一番印象に残っているというのは、やっぱりすごいのではないか。
 何でも屋が誘拐事件を解決するという本筋よりも、撮影所内で製作されている映画の製作現場の様子や、撮影されたワンシーンの方がインパクトがあり魅力的。この撮影中の映画、全編見てみたいなと思わせるのだ。大根役者の箸にも棒にもかからない演技が、フィルムを編集すると何となくそれなりに見えるようになる、という映画のマジックも垣間見られる。当時のハリウッド映画に詳しい人なら、この映画の元ネタはこれでは、この監督のモデルはあの人ではみたいな部分がわかるのかもしれない。全てのシーンが「こんな映画あった気がする」ものに見える。映画撮影のセットのセットを作って映画を撮っている映画を撮る、というメタ映画なので、映画好きならより楽しめるだろう。きつい仕事に不満たらたらで他業界からのスカウト話に揺れる何でも屋も、結局は映画が好きで、映画製作に誇りを持っているのだ。
 ただ、映画愛に満ちた映画ではあるが、映画やハリウッドを絶賛しているわけではない。ハリウッドの人たちは俳優も監督も記者たちもどこかうさんくさく、品行方正とは程遠い。ウィットロックが誘拐された理由も真面目は真面目だけどどこかマヌケだし、犯人たちの描写も、真面目なんだかふざけているんだか(コーエン兄弟が脚本家としても活躍していることを考えると、かなり自虐的というかふざけていると思う)。一見華やかな世界だが、その実滑稽だったりあくどかったりする。でも、そういう素地の上に何か美しいものが出来上がっていくという所が、映画を作る側にとっての醍醐味であり矜持なのか。
 なお、前述したチャニング・テイタムによるミュージカルシーンで、「海の上には女がいない」と歌う部分があるのだが、テイタムの歌と踊りを見ていると、女はいないけどテイタムがいるからいいじゃん!って気になってくる。これ、終盤の展開を考えるとかなり意図的にそうしているのではないかと思う。

『誠実な詐欺師』

トーベ・ヤンソン著、冨原眞弓訳
海辺の小さな村。ベストセラー絵本を何冊も出しており親の遺産も持つ、裕福な画家アンナは、「兎屋敷」と呼ばれる屋敷で1人暮らしている。弟マッツと暮らすカトリは数字を扱った事務処理が得意で、村人が苦手とする税金や相続の問題にアドバイスし頼りにされていたが、普段は周囲から煙たがられていた。カトリは自分の望みをかなえる為にアンナに近づき、彼女の生活に入り込む。ムーミンシリーズで知られる著者による、子供向けではない小説だが、真骨頂はこちらだったか。簡潔な文体で切り込んでくる。曖昧さを許さないカトリの性格にもどこか似ている。カトリは狡猾でもあるがある種の誠実さをもっており、人間関係の円滑剤としての欺瞞や偽善を解せず、非常に公正だ。彼女の話は正論・正直だが、それゆえに村人同士に疑心暗鬼を生み、関係をぎこちなくさせてしまったりもする。大してアンナは人を疑うことを知らず、損得にも無頓着。そこにカトリが介入することで、アンナはお金のことを考えざるを得なくなり猜疑心が生まれ、無邪気ではいられなくなってしまう。しかし、カトリもまたアンナに影響されていく。徐々にアンナに振り回され、冷静な計算にもほころびが生じていくのだ。女性2人が相互に支配しあうような息苦しさが、冬の北欧の陰鬱な気候と響きあい、大変どんよりとして寒々しい。その関係の根底にあるのがお金だというのも辛い。豊かではないカトリにとって、お金に無頓着なアンナは苛立たしい存在。お金がないと心も世界も縮こまっていく感じ、身にしみる・・・が、多少損しても人を疑いたくないし諸々頓着したくないというアンナのスタンスもわかる。その間で読んでいる方も引っ張り合われ揺れる。

『ルーム』

 5歳のジャック(ジェイコブ・トレンブレイ)は、母親のジョイ(ブリー・ラーソン)と「部屋」で暮らしている。ジャックは「部屋」から出たことがなく、外に世界があることも理解できずにいる。「部屋」に来るのは、オールド・ニック(ジョーン・ブリジャーズ)だけ。ジョイはオールド・ジャックに誘拐され、7年間「部屋」に閉じ込められていたのだ。ジョイはジャックに外の世界を教え、自分も脱出するために賭けに出る。原作はエマ・ドナヒューの小説『部屋』。監督はレニー・アブラハムソン。
 ジャックが置かれてきた状況は、客観的には異常で悲惨と言われるだろう。しかし、ジャックは「部屋」しか知らない。彼にとっては「部屋」が世界で、それがおかしいとか可哀そうだとかいう発想はない。ジャックは「部屋」に戻りたがったり、「部屋」での体験を話したりして、ジョイはその度に傷つく。しかしジャックにとっては、それが正しいのかどうかは別として、子供にとっては親=世界くらい存在が大きく、幼いうちは他を求めないし知らないものだろう。母親と常に緊密な世界は、ジャックにとってはそれなりに満ち足りて平和だったのかもしれない。それは、当事者であるジャックにしかわからないことなのだが。
 当事者しかわからない、というのはジョイにとっても同様だ。テレビのインタビュアーは、彼女に逃げようとは思わなかったのか、ジャックの処遇に他の道がないか考えなかったのかと問う。外野だから言えることで、当事者にとってはそんなところまで考えが及ばないだろう。実際の所、あの状況でジャックの健康も情緒も健やかであるよう配慮し育て(「部屋の中で運動させたり文字を教えたり、ビタミン剤を要求したりと、ジョイの努力は涙ぐましいものがある)、脱出させたということは、ジョイは相当タフだし聡明だということだと思うが・・・。後からこうだったんじゃないか、ああすればよかったんじゃないかと周囲が(これは当人もだろうけど)言うのは、言ってしまいがちだけど無神経だし意味がないなとしみじみ。ジョイもまた、「部屋」での暮らしと自由になってからの暮らしのギャップや、自分が閉じ込められていた間の家族や世の中の変化、そして何よりなぜ自分だったのかということで苦しむ。ジャックは子供なだけに変化もすぐに吸収・適応していくが、元々「部屋」の外にいたジョイはそうはいかないのだ。
 ジャックにとって「部屋」の外の世界はまさしく別世界。初めて世界を体験するというのはこういう感じかと、ジャックの目を借りて追体験するようだった。ただ、彼にとってなぜ何もかもが新鮮なのかという原因を考えると、新鮮さの見せ方としてこれが正しいのか(倫理的に問題はないのか)わからなくなってくるのだが。

『山河ノスタルジア』

 1999年、山西省・汾陽(フェンヤン)に暮らすタオ(チャオ・タオ)は、炭鉱で働くリャンズー(チャン・ジンドン)とつきあっていた。しかしリャンの友人で実業家のジンシェン(チャン・イー)もタオに思いを寄せ、タオはジェンシンと結婚。傷ついたリャンは別の町の炭鉱へ。タオとジンシェンの間には男の子が誕生し、子どもはダラーと名 づけられた。2014年、離婚したタオは親権もジェンシンに渡し、汾陽で一人暮らしをしていた。数年ぶりに戻ってきたダラーからは、オーストラリアに移住することを知らされる。そして2025年、オーストラリアの地で中国語をほとんど話さない生活を送っていたダラーは、 年上の中国語教師ミア(シルビア・チャン)と出会う。監督はジャ・ジャンクー。
 題名が出るまで、アバンと呼ぶには長すぎるくらいに長い。ここで出るのか!と唸った。ここまでで結構なイベントが満載だったのに、そこは「これまで」の出来事。本筋は、クライマックス(であるかのような輝かしい時間)が終わってしまった後の物語なのだ。題名が出るまでの1999年のパートでは、タオの顔が中心にあるショットが印象に残った。話している相手の姿は画面上から見きれており、声だけが聴こえる。その場面の中心にいるのはあくまでタオで、これは彼女の、彼女の主観による物語、彼女がヒロインなのだと強く感じさせる。
 しかし2014年のパートになると、カメラは彼女からやや離れているように見える。このパートでも主要な登場人物はタオとダラーなのだが、彼女はもはや、若い頃のようには自分をヒロインだとは思えなくなっているのではないか。自分が物語の中心だと思うには、ままならないことが多すぎるのだ。タオはそれなりに裕福で、仕事も充実しているようだ。それでも、子供をジンシェンに取られたことに後悔がある。とはいえいざダラーと再会しても、既に2人は違う文化で生きていると思い知らされる結果になる。
 そして2025年になると、焦点はオーストラリアで成長したダラーに移る。彼は大学に通いながらも、自分の人生に迷っている。自分の故郷がオーストラリアなのか中国なのかも曖昧だ。彼もまた自分の物語を見失いつつあり、それを取り戻そうともがいているようにも見えた。ただ2025年の終盤、1人で踊るタオの姿は、若い頃と同じくまたヒロインであると感じさせる。彼女はここまでちゃんと生きてきたしこれからもそうだと思えるのだ。
時は多くのものを変えるが、「全てではない」という言葉が作中出てくる。踊るタオの姿は、その「全てではない」もののひとつだろう。


『そばかすの少年』

ジーン・ポーター著、花岡花子訳
片手のない、孤児院育ちの少年「そばかす」は、木材会社の社長マックリーンに見込まれ、リンバロストの森の番人として働き始めた。植物や鳥や獣たちを観察するうち、そばかすは物事を学ぶ喜びを知っていく。ある日、森で富豪の娘エンゼルと出合ったそばかすは、彼女に深い思いを寄せるようになる。1957年に日本で翻訳出版された作品なので、さすがに翻訳文の古さは目立つし、ここは誤訳では?という部分も。しかしその古風な感じが味わいになっている。もし新訳で出たら、却って良さが失われるような気もする。というのも、そばかすもエンゼルもマックリーンもとにかく清く正しい人で、「善き人」の全部盛りみたい(それはそれで、安心できていいんだけど)。また、お話も多分にご都合主義的に展開するので、現代の目で読むとちょっと辛いところがある。特にそばかすの生い立ちの真相など、あーあそうかーって感じ。乗り越えるべきものなどないんじゃん・・・ロマンスとしては退屈だなー。でもこれが当時の限界だったんだろうとはわかる。とはいえ、森の描写は生き生きとしており、世界の広さにそばかすが目を開いていく瞬間などもはっとする。なおマックリーンがそばかすを好きすぎて、エンゼルとの仲よりもむしろ気になってしまった。

『下り坂をそろそろと下る』

平田オリザ著
”まことに小さな国が、衰退期をむかえようとしている。”という、司馬遼太郎『坂の上の雲』のパロディ文から始まる本著。著者が関わった地方自治体や大学のプロジェクトを切り口として、日本のこれからの社会のあり方を探る。とはいえ、著者はもう日本がいわゆる「経済成長」するとは考えていない。また、もはや工業国ではなく、アジア一の先進国でもない(なくなる)と考えている。つまり、題名の通り下り坂をそろそろと下る状態なのだと言う。物質的にはこれ以上豊かになるとは考えにくい、そんな中で著者が提案するのはソフト面への注力。つまり魅力的な地域性と人材の育成だ。そのために何が必要かと言うと文化。劇作家である著者が文化が重要と言うのは当然ではあるし、なぜ文化かという主張は一見理想論的だが、内容を読むと納得する。若者が地方を離れるのはそこに若者を引き留める魅力がない、魅力がないのはセンスがないから、センスを磨くには文化が必要(この点で、小豆島や豊岡の町おこしはとても興味深かった)だという実も蓋もない論旨だが、スベっている町おこしを見ると説得力を感じざるを得ない。そもそも地域による文化格差では東京が圧倒的に有利だ。著者は子育て中の親や生活保護を受けている人が映画や演劇やコンサートに行っても非難されない、後ろめたく感じない社会にしたいと言う。そういう世の中だと(文化という側面だけでなく)息苦しくなくて生きやすそうだ。

『太陽』

 21世紀初頭、ウイルス感染により人口が激減した世界。生き残った人類は、心身共に進化しウイルスへの耐性を持ったが、太陽の光に弱くなり夜しか外出できなくなった「ノクス」と、ノクスに管理されながら貧しく旧来の生活を続ける「キュリオ」に二分された。ノクスとキュリオは住む地区も異なり、行き来も管理されていた。キュリオとして生まれた鉄彦(神木隆之介)はノクスの世界に憧れ、鉄彦の幼馴染の結(門脇麦)はノクスに反感を覚えキュリオとして村の復興を目指していた。ある日、2人の住む村でノクスからの経済制裁が解かれ、20歳以下の若者が抽選で1人、ノクスになれると知らされる。原作は劇作家・演出家である大川知大の戯曲。監督は入江悠。
 前半、そこから出られない、しかもそこにいても未来がないという閉塞感が、日本の寒村をそのまま転用したような舞台と意外と合っている。予算が限られているから有り物で出来るだけやってみようということだったのかもしれないが、ディストピアSFの舞台としては盲点で、面白いなと思った。廃れた田舎はディストピアなのかと少々辛い気持ちにもなるが。
 また、鉄彦たちの村は過去に起こした事件が原因でノクスから経済制裁を受けており、金も文化も入ってこない(他の集落は貧しいながらももうちょっと文化的らしい)。それだけが原因というわけではなさそうだが、文化的な資源に乏しく、村人、特に若い層は語彙が少ないらしい。鉄彦は元々ちょっと頭が足りないらしく自分の考えていることを説明することが極端に苦手だし、教師の父親を持ち比較的文字文化に触れてきたと思われる結も、やはり自分の思いの言語化や説明は得意ではなさそう。対してノクスは語彙が多く話し方も機能的で流暢(お役所的な言葉ではあるが)。作中でノクスは言葉で操ると言及されているが、言葉の量が経済的水準と比例している世界なのだ。
 ディストピアSFとしての舞台背景を見せていく前半は、撮影の素晴らしさもあり面白かったのだが、後半になると色々と難点が目立ってくる。まず役者の演技が大仰でうるさい。原作が舞台劇なので舞台的な演技の方向に引っ張られているのかもしれないが、誰もかれも大声でわめくので、何だか全員あまり頭のよくない人たちに見えてしまう。前述の通り、キュリオは全般的に語彙が少ないようなのですぐに泣く、叫ぶとなりがちということなのかもしれないが、別に誰もが怒れば怒鳴り哀しければ号泣するわけじゃないからなー。
 また、女性達の「不幸」がアイコン的な「不幸」すぎるところも、他の部分との描写の濃度の差が出てしまっているように思った。鉄彦の母にしろ結にしろ、どういう人なのかという部分が男性たちほど見えてこないので勿体ない。同時に、レイプシーンは結構延々と見せており、そこだけ詳しくやるの?という気にもなった。描写の濃度の差という部分では、ノクス社会の描写はとってつけたような感じで具体的な生活描写があまりないというのも惜しい(これは予算的なものかなーとも思ったが)。
 ディストピアSFの定番の流れとして、この社会の仕組と戦う!革命を起こす!みたいなものがあると思うが、本作中ではそういった試みは全て頓挫する。またノクス側の社会も出生率は下がる一方で、今のままでは終焉を迎えることが目に見えている。旧人類にとって新人類にとっても人間社会は尻すぼみで滅びつつある。そこから抜け出すには個人として共同体を捨てるしかないが、それもまた(一個の生命としては)勝率は低そうだ。ラストは一見長閑だがどこか道行のようでもある。

『ザ・カルテル(上、下)』

ドン・ウィンズロウ著、峯村利哉訳
麻薬王アダン・バレーラは脱獄し、自分を刑務所に送り込んだDEA捜査官アート・ケラーの首に賞金をかける。バレーラは抗争を続けるカルテルを纏めあげ自身の王国を拡大しようと動き出すが、アメリカもバレーラ打倒すべく動き出す。カルテルから身を隠し続けてきたケラーも戦場の最前線に復帰する。『犬の力』の続編だが、本作のみを読んでも、本作を読んでから『犬の力』を読んでもいいと思う(私は『犬の力』は読んだが細部を殆ど覚えていない・・・)。質量共に一大叙事詩のようだ。カルテルとアメリカとの戦い、カルテル間の戦いは凄まじく情け容赦がない。カルテルが強大になっていくにつれ、その組織だけではなく、地域や国家ぐるみで麻薬抗争に巻き込まれていく、その地に生まれたというだけでもう逃れられなくなっていく様が悪夢か悪い冗談のよう。悪夢というには惨状が生々しすぎるが。カルテルが生み出す悪夢の連鎖に呑みこまれまいとする人たちもわずかにおり、その姿勢は清々しいが、死と隣り合わせであり、彼ら/彼女らの顛末もまたやりきれない。バレーラとケラーの奇妙な結びつきは、おそらくこれ(ないしは類似したもの)しか落としどころがないだろうというところに落ちるが、その因縁もカルテルが生み出す混沌と破壊を垣間見た後では、ささやかなものに見えてしまう。彼らは各陣営の有力者だが、一部に過ぎないのだ。本作はフィクションだが、最近相次いで公開されているカルテル関係のフィクション、ノンフィクションと合わせて読むと説得力が増すかもしれない。私は数年前に見た映画『ゴモラ』(原作は同名のノンフィクション)を思い出した。『ゴモラ』はナポリのマフィアを取り上げており麻薬取引が主業というわけではないのだが、マフィアやカルテルの金が世界の金融・不動産に流れ込んでおり最早どうしようもない(カルテル/マフィアの金を引き上げてしまうと世界経済に多大な影響が出る)ということに暗鬱とした。本作中でも、カルテルの金は世界を駆け巡り影響を与え続けている。

『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』

 様々な脅威から世界を守るアベンジャーズだが、戦いに伴う被害は大きく、一般人が多数死んだことへの非難の声は大きかった。これを受けて世界各国はアベンジャーズを国連の管理下に置き、国連の承認がないと活動できないという「ソコヴィア協定」を提案。自責の念に駆られていたアイアンマンことトニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr.)は同意する。しかし自分の行動は自分で責任を持つべきだと考えるキャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャース(クリス・エバンス)は同意を拒む。同意書への署名式典が爆破テロに遭い、容疑者としてウィンター・ソルジャーことバッキー・バーンズ(セバスチャン・スタン)が浮上。ロジャースがバーンズを庇ったことで、アベンジャーズ内の亀裂はさらに広がっていく。監督はアンソニー・ルッソ&ジョー・ルッソ。字幕版、吹替版、どちらもお勧め。
 『アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン』では作中の物的人的被害が甚大すぎて(小国滅んでるよな・・・)これ絶対非難されるだろ!と思っていたらやっぱりされていた。このあたりDCコミック陣営の『バットマンvs.スーパーマン』と似ている。『ウルトロン』後の物語となり、アベンジャーズのメンバーもソーとハルク以外は出演。更にアントマンとスパイダーマン、日本ではまだなじみが薄いブラック・パンサーまで駆り出されており、大変賑やか。1本の映画としてちゃんとまとまるのか?アベンジャーズシリーズだって結構ぐたぐただったのに・・・と心配していたら意外とちゃんとまとまっていて驚いた。『アベンジャーズ』『アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン』よりも格段に締りがいいし作中の伏線もしっかりしていると思う。ルッソ兄弟恐るべし。
 ロジャースはキャプテン・アメリカの名の通りアメリカを背負ったヒーローでそもそも軍人体質と思っていたので、協定に反対するというのはちょっと意外。同時に、企業家、発明家として独立独歩なはずのスタークが協定に応じるというのも捻っている。もっとも、 ロジャースは大戦を実体験して組織の移ろいやすさを痛感しており、スタークは「ウルトロン」での失敗により気弱になっているという、一応納得できる背景はあるが。アベンジャーズの他のメンバーに関しても、この人がこっち側につくのはこういう背景があるからだろうなと思え、さほど違和感はなかった。なんとか双方の落としどころを見つけようとするナターシャ(スカーレット・ヨハンソン)の奔走には、「皆のお姉さん」的な趣があってぐっときた。キャプテン・アメリカのことを一番理解しているのは彼女かもしれない。
 アベンジャーズ内の分裂を描くが、どちらの側が悪いという話ではなく、ロジャースにもスタークにもそれぞれ言い分があり、それぞれ納得が出来るものではある。更に、「敵」にもちゃんと理由があり、単なる悪役ではないのだ。本作の「敵」はこれまでのような超人や悪の組織といったものではない(今までアベンジャーズないしはキャプテン・アメリカが対峙した敵の中では一番頭良くて努力家な気もするが)。動機は非常に人間的で、誰の心の中にもあるものだ。だからこそロジャースもスタークも敵の思惑に乗せられてしまうし、ある点においては敵に反論できない。それぞれにそれぞれの「正義」があり、それ故に折りあいを付けられない。手放しにどちらかを応援できないあたり、上手い作り方だと思う。私はキャップ派ではあるが、本作のスタークの処遇を見るとそりゃあ怒るし許せないわ!って納得しちゃうもんなー。
 アベンジャーズの面々、特にスタークが占める分量がかなり多いので、実質上アベンジャーズ3なんじゃないの?なぜキャプテン・アメリカのタイトルなのかなとちょっと思ったが、最後まで見るとやはり本作はキャプテン・アメリカ=スティーブ・ロジャースという人の物語だったんだなと腑に落ちた。終盤、キャプテンはある物を置いていくのだが、これが重い。それって今までの何もかもを捨てていくことじゃないのかとも思う。ロジャースは「自分が信じるのは(国や組織ではなく)個人だ」と言うが、自ら個としての戦いを選ぶということか。昔の西部劇やハードボイルド映画のヒーローみたいで、アメリカという国が理想とする正義の一つの姿なのかもしれないが、何だか格段に孤独だよなぁ・・・。
 なお、ロジャースがスタークに手紙を送るのだが、その内容がずるい!スタークはロジャースのことを許せないと思うのだが、こんな手紙もらったら許すと言わざるを得ないだろうし、ロジャースもそれをわかって出してるよな・・・。キャップ、案外狡猾かも。

『スポットライト 世紀のスクープ』

 アメリカ、ボストンの地元紙「The Bostoin Globe」には、独自の極秘取材による特集連載「スポットライト」があった。2001年、新任の編集局長マーティ・バロン(リーヴ・シュレイバー)は、ある神父による児童の性的虐待事件を「スポットライト」で掘り下げる方針を打ち出す。デスクのウォルター“ロビー”ロビンソン(マイケル・キートン)を筆頭に4人の記者は被害者や弁護士らへの取材を続け、同様の罪を犯した神父が他にも大勢いること、その背後に教会の隠蔽体質と巨大なシステムがあることを突き止める。しかしカトリック教会が深く根付いた土地柄故に、様々な妨害が生じる。監督はトム・マッカーシー。
 被害者達は、一様に口を閉ざす。ただでさえ口にすることに抵抗があるだろうが、加害者は地域からの信頼が厚い聖職者で、子供である被害者の証言は往々にして信じてもらえなかった。家族に信じてもらえても、地域ぐるみで家族にプレッシャーが掛けられ事件が揉み消され、犯人は野放し、被害者へのケアもない。バロンらに情報を持ちこむ被害者互助団体の代表は、成人した被害者たちを「サバイバー」と呼ぶ。被害の傷の深さに耐えきれず自殺、自滅してしまう人が多数いるからだと言う。互助会代表にしろ一人で教会と戦い続けてきた弁護士にしろ、記者たちに心を開かない。彼らは自分たちの話を真剣に聞く人がいないことに絶望しているのだ。
 記者たち、特にマイク・レゼンデス(マーク・ラファロ)とサーシャ・ファイファー(レイチェル・マクアダムス)の姿勢を見ていて、人の話を聞くってどういうことなんだろうとふと考えた。レゼンデスは精力的で相手の懐にどんどん突っ込んでいく。衝突も辞さず、スクープを取ろうという野心も隠さない。しかし、徐々に相手に寄り添うようになっていく。その時、取材相手は口を開くのだ。また、ファイファーは被害者取材を地道に続けるが、また自分達を見捨てるのではと疑う相手に、決して見捨てないと言い切る。彼らを見捨てないということは、教会と全面的に戦うことで、カソリック信者が半数を占める新聞購読者や地域社会との軋轢は避けられない。また、被害の話を真剣に聞き続けることで、話す側と同じく、聞く側も無傷ではいられない。それくらい本気でないと、相手は心を開いて話してはくれないのだ。ファイファーの、全身を傾けるような真摯な姿が胸を打つ。ラスト、電話がかかりまくってくるのも、そういうことなのだと思う。真剣に聞いてくれる人がいるとわかれば、人は話し出すのだ。
 記者たちは新聞社の命運、自分たちの身の安全まで賭けて記事を書く。それは、彼らにとってはそうすることが職業倫理だからだろう。作中でも言及されるが、「では、記事にしない場合の責任は?」と考えるのだ。対して、神父たちにもカトリック教会にも職業倫理はあったはずだ。彼らの職業倫理は、加害者神父を匿うことだったのだろうか。カトリック教会組織の闇が深すぎて、エンドロール前に提示される字幕の内容はちょっと引くレベル。ただ、新聞記者たちも無罪というわけではない。複数の人が資料を送ったのにと口にする時の、バロンの表情は苦い。気づかなかった、本気で取り合わなかったという点では、当時の記者も他の人たちと同じだった。真剣に見る、聞くことの何と難しいことか。

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