3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2016年05月

『カルテル・ランド』

 麻薬カルテル“テンプル騎士団”による抗争と犯罪、市民からの上納金の取り立てが横行する、メキシコ・ミチョアカン州。政府も警察もあてにならない中、ドクター・ホセ・ミレレスは水から銃を持って立ち向かおうと、市民に呼びかけ自警団を結成。やがて自警団は各地でカルテルを追い出し、ミレレスは英雄視されるようになる。しかし大きくなった組織は、徐々に暴走し始める。監督はマシュー・ハイネマン。
 メキシコ麻薬戦争の最前線に乗り込んで撮影されたドキュメンタリー。しかし話が出来すぎていて、これ小説やドラマ映画じゃないの?!と唖然とする。中心人物であるミレレスがなかなかハンサムで、確かにカリスマ性があるだろうなという雰囲気の人物なので、余計に出来すぎな感じがするのだ。そして自警団の顛末もドラマティックすぎる。ドキュメンタリーとしては、正に「当たりが出た」感じの素材の揃い方だろう。
 おそらく監督も、撮影当初はこういう展開になるとは思わなかったのではないか。かなり危険な状況での撮影と思われるが、なりゆきでこうなっちゃった、みたいな感じもするのだ。作中、明らかに(直接の映像はさすがに撮っていないが)拷問しているよなという現場や、普通に麻薬製造している現場も出てくるし、そもそも自衛の為とはいえ、自警団のやっていることは概ね違法だ。撮影されている側も意外と呑気といえば呑気。本作が公開されたくらいでは自分達に被害は出ないという自信なのか、それほど大事と思っていないのか。アメリカとメキシコの国境付近で、メキシコからの密入国者を自主的に捕まえる自警団のように、むしろ積極的に撮影してもらって、自分達がやっていることの正当性を訴えたいという人も登場する。
 ミレレスが結成した自警団は、カルテルに苦しまされてた地域では歓迎されるが、歓迎一辺倒ではなくなってくる。元々警察や自治体が機能している地域では、自警団の必然性はもちろん薄くなる。また、街中で公然と銃を持ち歩き、捜査と称して他人の家に乗り込むような行為は、いくら自警団と言っても反感を買うだろう。また、武器で一般人を脅したり女性を無理矢理口説いたりという、素行不良な団員も出てきて、どんどん雲行きが怪しくなるのだ。カルテルは当然そこを突いてくる。
 自警団の顛末を見ていると、カルテルの脅威云々以前に、人間は力(暴力)を手にし、それを行使する旨味を知ってしまうと、病みつきになって止められなくなるのではないかと言う怖さがあった。人間の性のやりきれなさが強烈だ。暴走する自警団だけではなく、ミレレスもまた自分の力を手放そうとはしないのだ(手放したら即殺されるレベルの話になっているという事情もあるのだろうが)。出口が見えそうかと思ったら、更に深い闇のなかに突き進んでいくみたい。

『ひそひそ星』

 大災害や度重なる失敗により、人間が激減し、人口の8割を人工知能を持ったロボットが占めるようになった世界。アンドロイドの鈴木洋子(神楽坂恵)は、コンピューター機械6.7.マーMを搭載した宇宙船で、宇宙宅配便の仕事をしている。監督は園子温。
 冒頭から曜日が繰り返し表示されるが、時によっては日付が変わったこともわからないくらい、変わり映えがしない。何しろ宇宙を延々と旅しているので、鈴木の毎日は概ねそういう風(アンドロイドだから外見も変わらないのだろう)た。宅配便を届ける時だけ、ある特定の1日ということが明瞭になる。宇宙船の中はなぜか昭和っぽい古びた内装で、外が見えなければ宇宙船だということもわからない。ここはどこなのか、いつなのかということは、だんだん曖昧になっていく。宇宙船の中が畳敷きでタンスにつっかえ棒(地震対策用のやつ)をしているという、更に音声録音には大型のテープレコーダーという、宇宙船にはそぐわないちぐはぐな古めかしさも、いつ、どこなのか、曖昧にしていく要素の一つだろう。さすがに宇宙船が昭和内装仕様だとは考えにくいので、鈴木の趣味なのかな・・・。
 鈴木と配達先の受取人たちに深い交流があるわけではない。わずかに言葉を交わすだけだ。アンドロイドである鈴木が人間と同じような情緒を持つのかもわからない。それでも、宅配先を去る彼女は少しだけ寂しそうに見える。宅配先の人間とはおそらく二度と会うことはないだろうし、人間自体が徐々にいなくなっていくだろう。鈴木はいなくなっていく人間に対する観察者のようだ。
 全編モノクロの静かな作品だが、一か所だけカラーになる部分がある。この土地もこんなに鮮やかだったかとはっとする。東日本大震災の被災地である福島県の富岡町、浪江町、南相馬がロケ地になっている。言うまでもなく震災の被害が(形はそれぞれだが)非常に大きかった地域だ。そこを人間がいなくなった廃墟のような町として撮っているのだが、人のいない世界は静かで穏やかでもある。人間の世界が終了する気配が漂っているのだ。被災地を安易にこういう素材として扱っていいのか?という疑問は、園監督の『ヒミズ』を見た時は強く感じたのだが、今回はなぜかそれほど感じない。監督の中でも、被災地にどう向き合いどう撮影するかという、考えの整理がついたのかなとも思った(『ヒミズ』は反射的に撮りに行ったというか、とにかくスピード重視で理由後付という感じだったので。そもそも震災を盛り込む理由があまりない作品だったと思う)。

『なんらかの事情』

岸本佐知子著
ニュースでよく言われる「なんらかの事情」って結局何?へんてつもない日常の事柄からふと生まれ、止まらなくなる妄想。翻訳家である著者による、『ねにもつタイプ』に続くエッセイともショートショートともつかない短篇集。著者が手掛ける翻訳小説はちょっと不思議な、奇想とも言いたくなるタイプのものが多いが、本作も奇想と言っていいのでは。いきなり明後日の方向に飛躍する展開が、短い文章にまとまっている。冴えている翻訳家は自作も冴えているのか。どこか不気味、そして物悲しさが漂う傾向は、前作よりも強まっているように思う。

『ディストラクション・ベイビーズ』

 愛媛県の小さな漁港に暮らす芦原泰良(柳良優弥)と将太(村上虹郎)兄弟。けんかにあけくれる泰良は、ある日姿を消す。しばらく後、松山市の繁華街で泰良は強そうな相手に次々とけんかを売っていた。泰良に興味を持った高校生・北原裕也(菅田将暉)は彼に「おもしろいこと」をしようと声をかけ、車を盗む。たまたま車に乗っていたキャバ嬢の那奈(小松菜奈)をさらい、2人は逃亡する。監督・脚本は真利子哲也。
 真利子監督の東京藝術大学大学院の修了制作作品であり長編デビュー作『イエローキッド』を見て、修了作品がこれってすごいなと唸ったのだが、中編の『NINIFUNI』を経てのメジャー作品デビューで、なんだか感無量。しかも好き嫌いは分かれそうだが、緊張感が途切れずインパクトがある。出演者も皆好演だった。
 暴力への指向が一貫して描かれているが、泰良のそれと裕也のそれは大きく違う。泰良は呼吸をするように暴力をふるい、その善悪や相手については考えないように見える。そもそも、暴力を暴力と認識しているのかどうかも微妙だ。自分がそうするのが自然だからやる、という風なのだ。大して裕也は、暴力が振るわれる様を面白がるが、自分よりも弱い女性や老人にしか暴力を振るわない。泰良の欲望にただ乗りしているに過ぎず、かといって暴力で楽しんだらその後どういうことになるか考える思慮深さもない(そもそも犯行現場の動画をネットに流している時点で逮捕してくれと言っているようなものだが)。泰良は言葉の通じない動物のようだが、裕也は頭の悪い(だからたちが悪い)人間といったところか。また、那奈もまた一線を越えていくが、彼女は裕也よりもずっと「その先」を考えているように見える。
 ただ、他人の欲望にただ乗りするという点では、泰良が暴力をふるっている動画をネットで再生し、拡散し、SNSでコメントをつけ勝手にストーリーを作っていく世間も同様だ。泰良が暴れる様を見かけた人々が、次々にスマホをかざして撮影し始める光景は、こういうシチュエーションが実際にあったら、やっぱりこうなるんだろうなと思いつつも、何だか不気味。SNSのコメントがあふれるという映像上の演出は少々古臭い感じはしたが、この拡散されていく感じを出したかったんだろうな。
 人の中にある暴力への指向が次々に表出していく中で、踏み越えつつも呑みこまれない(引き留めてくれる人がいてこそだが)将太の姿が、ささやかな希望になっている。

『ガルム・ウォーズ』

 吹替版で鑑賞。創造主ダナンが作った戦士「ガルム」が複数部族に分かれて暮らす惑星アンヌン。ダナンが去った後、長年にわたり3つの部族が抗争を続けていた。戦士カラ(メラニー・サンピエール)は部族の違うスケリグ(ケビン・デュランド)、ウィド(ランス・ヘンリクセン)と出会い、クローンとして生まれ延々と戦い続ける存在の、ガルムの真実を求め旅に出る。監督・原作は押井守。押井作品の常連である川井憲次が本作でも音楽を手掛けている。それほど主張が激しいわけではないのにあっ川井旋律だ!とすぐわかるあたりがすごい(手癖が毎回同じということなのか)。
 壮大な年代記の一部を抜粋し、更にダイジェスト化したような印象を受けた。押井監督が長年温めつつ頓挫してきた企画だそうだが、多分、監督のそもそもの構想の中ではもっと長大な物語なんだろうな。一応章立てしてあるのだが、これにより更にダイジェストっぽくなった気がする。分けるほどのボリュームはないのだ。尺が短めなのに固有名詞や背景設定をどんどん突っ込んでくるのも、「要約」っぽく感じられた一因かもしれない。
 実写映像を加工したビジュアルにしろ、設定にしろ、押井印とでもいいたくなるフェティッシュに満ちている。もちろんバセットハウンドも登場し、重要な役割(とうとうバセットが精霊や妖精級に・・・)を担う。本作の構想はだいぶ以前からあったようなので、押井監督のエッセンスがかなり原石的な状態のまま残っているのだろう。本作は、むしろ押井監督が若い頃に作った作品という雰囲気がある。企画が暖まりすぎて、時系列が逆転しているみたいだ。
 企画を暖め過ぎた弊害は、やはり既視感が強いという点に尽きるだろう。こういうのもう見たことあるな、という情景が延々と続く。これまでのフィルモグラフィでやりつくした感のある押井的な要素についてもそうだが、ファンタジーとしてもかなりオーソドックスでレトロ。今わざわざこれをやる意義が、今一つ感じられないのだ。実写によるファンタジー作品としても、今となってはもっとすごいのあるしなぁ・・・という思いが拭えない。監督がどうしてもやりたかったからやった、監督とそのファン向けの、かなり内向きな作品という印象だ。私は一応、新作が出たら見るという程度には押井守監督作品は好きなのだが、本作を見るとしたら、もっと以前に見て見たかった。
 なお、押井監督は、(本人の志向はさておき)やっぱり実写よりはアニメーションに向いているんじゃないかなと思う。アニメーションだと間が持つのに実写だと持たない。この差異は何なんだろう。単に予算とか役者(正直、本作の出演者の演技は頂けない。字幕版だとまた印象が違うのかもしれないけど)のスキルの問題ではなく、絵コンテの段階での向き不向きがあるんだろうか。本作は見るからに予算足りなかったんだな(それでも大分超過したみたいだけど)という感じだけど、予算がつけばもっとすごくなるかというと、そうでもなさそうなんだよな・・・。

『夏の黄昏』

カーソン・マッカラーズ著、加島祥造訳
最近、『結婚式のメンバー』として村上春樹による新訳が出た、マッカラーズの代表作。本著は1990年に福武文庫から出たバージョンになるが、ご厚意により読み比べることが出来た。作品の印象はそれほど変わらない。ただ、村上版の方がより乾いており、主人公であるフランキーと周囲の「ずれ」が際立っていたと思う。また、特にベレニスの言葉や彼女に関する表現は村上訳の方が生き生きとしている気がする。対して加島訳の本著は、夏のねばっこい暑さやけだるさ等、フランキーを取り巻く空気感がより感じられた。ただ、文章上には表れていないが、訳者解説で言及されている加島の本作に対する解釈は、ちょっと違うんじゃないかなと思った。加島は本作を、フランキーが大人になる一夏の物語としてとらえている。それは間違いではないのだが、本作は「一夏」ではなく、おそらくフランキーがこの先ずっと、大人になっても抱えていく如何ともし難さを描いているように思う。大人になっても住むところが変わっても、フランキーはフランキーでそれ以外になれない、というところに苦しさがあるのではないか。「(中略)あたしはどこまでいってもあたしでしかないし、あんたはどこまでいってもあんたでしかない。こういうこと今まで考えたことない?変だと思わなかった?」

『海よりもまだ深く』

 15年前に文学賞を受賞したことがある良多(阿部寛)は、その後泣かず飛ばずだったが小説家の道を諦めきれず、「取材」と称して探偵事務所で働いている。常に金欠で母・淑子(樹木希林)が不在のうちに実家を家探ししたり、姉(小林聡美)にたかったり。良多は離婚した元妻の響子(真木よう子)に未練があり、息子の真悟(吉澤太陽)から響子の近況を聞き出すだけでは飽き足らず、彼女を尾行し新しく恋人が出来たことを知ってショックを受ける。監督は是枝裕和。
 良多の情けなさがなかなか堂に入っている。阿部寛がちゃんと貧乏くさく見えるから相当のものだ。父親の遺品や母親のへそくりを探し回ったり、元妻への執着を断ち切れず嫉妬丸出しにするのはともかく、高校生に対する脅迫まがいは、完全にアウトだろう。戯画的なのでユーモラスに見えるが、やっていることは結構ひどい。熱意の方向が間違っている。嵐の夜になりゆきで淑子の家に泊まることになった響子へのある行為も、ああこの人本当にわかってないし色々とダメなんだなと呆れるようなもの。
 良多は文学賞受賞以来、まともに作品を完成させていないようだが、作家としての道はあきらめておらず、ネタになりそうな言葉を書き留め続けている。しかし、マンガ原作をやらないかという出版社の申し出は見栄を張って断ってしまう(後で後悔しているみたいだが)。形はどうあれ、作家として生計を立てていくという道の方が現実的だが、その覚悟がないというか、見切りが付けられないのだ。見切りが付けられないというのは、響子との関係も同様だ。客観的に見て響子の心はもう良多にはないのだが、もしかしたらという思いを捨てられない。どこか、よりを戻せるのではと思っているふしがある。ならばせめてギャンブルを絶ち父親として養育費をちゃんと払い、息子を育てることに協力できるのかというと、それも出来ない。万事が中途半端だ。
 良多の中途半端さは、自分はこんなものじゃない、という思いから生じているように見える。作家としてもうちょっとやれるはずだから、家族としてもう一度やり直せるはずだからという思い込みだ。探偵事務所での仕事がいつまでもアルバイト感覚で、あっさりとルール違反をするのも、それが腰かけのつもりだからだろう。今の自分はかつて思い描いた未来の姿ではないから、なんとか気持ちの上だけでも底上げがしたいという思いは、滑稽と割り切れず痛切だ。淑子があこがれるクラシック音楽の「先生」にも、そういう傾向が見えて痛痒いような気持ちになった。何者にもなれなかった自分を受け入れるのは、なかなか苦しい。
 セリフがかなり饒舌でちょっとうるさい(作中で「ドリフじゃないんだから」とちゃんとツッコミがはいる)くらいだし、少々戯画的すぎるんじゃないかという気がしたが、良多のダメな大人加減が切実で他人事とは思えなかった。ただ、探偵事務所の後輩・町田(池松壮亮)は良多に妙に懐き、何かと彼を助ける。町田によると「恩があるから」だそうだが、良多には心当たりがないし、作中でそれが説明されることもない。淑子のセリフに「(役に立たなさそうでも)どこかで役に立っているのよ」という言葉があるが、そういうことなのだろうか。それに自分では気づかないというのは皮肉でもあるが。終盤に明かされる父親に関するエピソードにしろ、かつての響子との関係にしろ、良多は自分の身近なことには諸々気付かない人なのかもしれない。 気付いた時は、いつも相手は去っているのだ。

『ズートピア』

 様々な動物が、肉食・草食の垣根を越えて共存するようになった世界。ウサギのジュディ(ジニファー・グッドウィン)は大型動物に交じって警察学校をトップの成績で卒業し、史上初のウサギの警察官になった。田舎を出て大都会ズートピアにやってきたジュディだが、与えられた仕事は駐車違反の取り締まり。何とか認められたいジュディは、とある事情からキツネの詐欺師ニック(ジェイソン・ベイトマン)と共にカワウソの失踪事件を捜査することに。監督はバイロン・ハワード&リッチ・ムーア。
 ジュディは田舎町とは違い、ズートピアでなら「ウサギ」に対する先入観から逃れ、なりたいものになれると喜び勇むが、その夢は早々に出鼻をくじかれる。一方、ズートピア育ちのニックは、ズートピアは決して楽園ではなく、偏見や差別に満ちていることを知っている。ニックはどうせキツネ=ずるがしこいという先入観から逃れられないのなら、いっそイメージそのままに生きようと割り切ってしまうのだ。またジュディはウサギである自分がか弱い、かわいいといったステレオタイプで見られることに怒り、自分は偏見のない目で相手を見られるはずだと考えている。が、彼女もやはり思い込みや偏見から自由ではなく、それによって大変な事態を引き起こしてしまう。ジュディに悪意はないが、意識的な悪意ですらないくらいの自然なレベルでの思い込みだということだから、より問題は根深い。ズートピアは一見平和で平等だが、それは危ういバランスの上に成り立っており、実はもろい。
 ズートピアは言うまでもなく人間社会の写し絵であり、その危うさもまた同様だ。本作、非常に直球かつ剛速球に、危うい世界ではあるがこれを維持するしかない(何しろ「進化」したのだから)、間違いはやりなおしもっと良くできるはずだと提示していく。それを言い切ってしまう、しかもど真ん中のエンターテイメントに落とし込めるところに、ディズニーの剛腕を見た。ちょっとした思い込みが差別やハラスメントに繋がる、それは誰でも当事者(被害者にも加害者にも)になりうるということを、きめこまかく描いていると思う。ジュディが職場でかわいいねと言われた時、「ウサギ同士でならともかく、別の種類の動物に言われるのはちょっと・・・」と返すのだが、このニュアンスをちゃんと映画内で描写しているって、よく配慮されているなぁ・・・。全世界向けにマスを狙うというのはこういうことか。
 ズートピアは「誰でもなりたいものになれる」世界だと言う。が、実際の所、例えばキツネがゾウになれるわけではない。ウサギであるジュディが水牛やライオンと同じスペックを持ちたいと思っても、それはやはり(本作中に出てくるテクノロジー水準を見る限りでは)無理だろう。それは本作を作っている側も重々承知だろう。その上で、それでもなりたいものになれるはずだ、という所に本作の覚悟を見た。ウサギがライオンになることはできなくても、「世間が思っているようなウサギではなくて、自分がこうなりたいというウサギ」にはなれるかもしれない。これまたかなり危ういバランスではあるのだが、そこ言っとかないとだめだろ!という腹のくくり方なのだと思う。
 ビジュアルの作りこみと賑やかさ(これだけ細部まで詰め込んであるのに見やすいというのはすごい)、基本がバディムービーでハードボイルドの味わいすらあることで緩和されている。ジュディとニックの間に恋愛が生まれないところもいい(そもそも異種動物カップルが存在する世界なのかわからないけど・・・)

『環八イレギュラーズ』

佐伯瑠伽著
人と話すのが極端に苦手でオタクの高校2年生・喚子の体に、何かが新入してきた。それは他の宇宙から「脱獄囚」を追ってきた「刑事」で、地球で活動するために人間の体を必要としていた。30分以内に同級生・邦治の自閉症の弟・泰弘に触れないと喚子の人格が消えると「刑事」は通達。なんとか泰弘に触れると「刑事」は彼の体に異動し、泰弘の人格が喚子の体に異動し、喚子は泰弘と体を共有する羽目になってしまう。邦治と、同じく同級生の茜は事態を知り、「脱獄囚」を捕らえ泰弘を元の体に戻そうとする。設定は面白いのだが、小説としては難点が多い。「刑事」と「脱獄囚」の行動規範や出来ることの範囲等の設定が多すぎ、ルールブックと事例を読んでいるような気がした。また、「刑事」と喚子たちのコミュニケーション方法は、「刑事」が提示する複数のカード状のものを読み説くというものだが、ルール上クリアな部分と曖昧な部分が混在していていかようにも解釈できそうなので、これを正しく読み解くのは至難の業ではないかと思う。また、登場人物の「キャラ」度の階層とでもいうものが個々の登場人物や場面によってまちまちで統一されていない。読んでいてすごくちぐはぐな印象を受けた。もっとも、とてもよく書けている部分もある。自閉症の人の特性や、自閉症の人を家族に持つということがどういう風なのか、実感がこもっていると思う。邦治が感情を表に出す(ように見える)泰弘(の肉体)を見て心を揺さぶられるという件は痛切だった。邦治自身も、もし泰弘が「普通」だったらと想像してもせんないこととわかっているけど、いざその「もし」を目にしてしまったら平常心ではいられないのだ。なお舞台が自分にとってなじみの深い場所ばかりで、おおあの古本屋が出ている!等という楽しさもあった。

『追憶の森』

 青木ヶ原の樹海を訪れたアーサー・ブレナン(マシュー・マコノヒー)は自殺しようとしていた。森の奥で睡眠薬を取り出したところ、1人の日本人男性(渡辺謙)がさまよっているのを発見する。その男ナカムラ・タクミに「ここから出られない、助けてくれ」と訴えられたブレナンは彼をほおっておくことが出来ず、共に森をさまよう羽目に。森の出口を探す中で、ブレナンは妻ジョーン(ナオミ・ワッツ)のことを思い出していた。2人の結婚生活は破綻しそうになっていたのだ。監督はガス・ヴァン・サント。
 ヴァン・サント監督は、ゆるふわメルヘンな作品とウェルメイドな作品を交互にリリースする傾向にあるのか。本作はかなりゆるふわ。監督の作品の中では『永遠の僕たち』に連なるような雰囲気がある。もっとも、かわいい男子女子が主演だった前作に対して、本作はおっさん2人なわけだが。日本人キャストが登場すると言う点でも共通なのだが、ヴァン・サントの中での日本のイメージがなんとなく窺える。監督流の幽霊譚のような作品だと思う。とは言え、オリエンタリズムが強烈というわけでもなく、(おそらく樹海のシーンは日本で撮影していないのではと思うが)「なんちゃって日本」感も比較的薄い。こういう役に渡辺を起用するのか、というところでちょっと笑っちゃうといえば笑っちゃうんだけど・・・。日本人である必然性があまりないからなぁ。ただ、ゆるい映画ではあるのだが、嫌いにはなれない。
 冒頭から、くどいくらいにわかりやすい演出がされている。ブレナンがもう自宅に戻る気はない、そもそもアメリカに戻る気がないが、長い旅行に出たと言うわけでもない、というシチュエーションをいちいち見せていく。今どうなっているのか、という部分の見せ方は新設設計なのだが、なぜこういうことになったのかという過去の回想はちょっととっちらかっている。フラッシュバック的に見せたいという意図なのかもしれないし、実際記憶のよみがえりというのは一見文脈がないものだが、ナオミ・ワッツが好演しているだけに、ジョーンがどういう背景を持つ女性だったのかという部分はもうちょっと見たかった(ブレナンがそういうことに無頓着なままだったってことかな)。2人が水面下で争っている感じとか、ちょっとしたことですごく気まずい雰囲気になる瞬間とか、細かい部分は生々しいのだが。かなり「カップルあるある」な感じがした。生々しいだけに、その記憶がブレナンを苛むというのはよくわかる。

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