3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2016年04月

『オマールの壁』

 占領状態が続くパレスチナに住む、パン職人のオマール(アダム・バクリ)。監視塔の目を盗み、時に銃撃を避けつつ、分離壁の向こう側に住む恋人ナディア(リーム・リューバニ)とその兄タレク(エヤド・ホーラーニ)、友人アムジャド(サメール・ビシャラット)に会いに通っていた。オマールはリーダー格のタレクと共に占領に対する反対運動に立ち上がったが、イスラエル兵殺害容疑をかけられ秘密警察に捕えられてしまう。拷問を受け、自由になりたければ仲間の情報を渡しスパイになれと迫られるが。監督はハニ・アブ・アサド。
 パレスチナという政治的な背景に目が行きがちだが、誰がオマールをはめたのかというミステリとして、そしてスパイものとして大変スリリングで面白い。また、フランス映画『憎しみ』(マシュー・カソヴィッツ)をどことなく思い出した。もちろん背景は全然違うのだが、社会の中で抑圧された青年たちの疑心暗鬼と青春の終りの予感という部分で、なんとなく似通った空気があるような気がした。
 特に、スパイの悲哀や泥沼感を感じさせるのは意外だった。スパイは職業ではなく生き方だなんて言葉をどこかで聞いたことがあるが、こういうことなのか。一度スパイになったら敵からも見方からもスパイとして見続けられ、止めることができない。「足抜け」は出来ないし、させてくれないのだ。止めようと思ったら、ラストのようなことをせざるを得ない。これを、スパイ映画の主人公ではなく、ごく普通の青年であるオマールがやるので、余計にやりきれない。
 オマールはパン屋で働く、素行が特にいいわけでも悪いわけでもない、ちょっとハンサムなくらいの普通の青年だ。そういう人が「スパイ」を強制される世界なのだが、彼らにとっては日常の延長線上のことで、おそらく「普通」の範疇なのだろう。「普通」って、当たり前だけど個人によっても国や環境によっても大きく違うのだ。

『モヒカン故郷に帰る』

 売れないデスメタルバンドのボーカリスト・田村永吉(松田龍平)は、同棲相手の由佳(前田敦子)が妊娠したことをきっかけに、結婚報告の為、瀬戸内海の故郷に7年ぶりに帰省。父・治(柄本明)、母・春子(もたいまさこ)、そして故郷を離れたはずがなぜか帰ってきていた弟の浩二(千葉雄大)と久しぶりに対面する。しかし治が末期がんに侵されているいることがわかる。監督・脚本は沖田修一。
 沖田監督、本当に手堅く、かつ毎回何かしら前進しているいい監督になったなぁとしみじみとした。以前は構成に少々中だるみを感じたが、それもなくなってきている。ストーリーテリングのペースが速いわけではなく、むしろのんびりとしているのだが、省略する所の思い切りがいい。普通だったらエピソードとして使いそうな所をあっさり省略し、その前のフリ部分や後の余韻で経緯が感じられる。また、絵的にも、とあるシーンで柄本のつま先だけが画面の隅から出ているのだが、このつま先だけでどういう気分なのかわかってぐっとくる。こういうさらっとした、見せすぎない・説明しすぎない見せ方が上手くなったんだろうなぁ。
 父親が末期がんだと知った永吉が、わかってはいたけれど親が本当に死ぬとなるとどうすればいいかわからない、という意味合いの言葉をこぼす。これ本当にそうだなぁと心に刺さった。自分がいい大人になっていたとしても、親が自分より弱っており世話が必要である、親が自分より先に死ぬということに、いちいちびっくりして、動揺してしまう。永吉もおたおたするばかりで、実際的な役にはあまり立たない。そんな彼でも、ふと気づくと父親に対するケアの手際が良くなっているということに、なんだかしんみりとした。心情はともかく、生活しているうちにだんだんそうなっていくのかと。
 永吉は治とさほど仲が良かったわけでもないし、治も永吉を目立って可愛がっていたわけでもなさそうだ。しかし浜辺での会話にはほろりとする。この時の治は少々呆けも入り、永吉が中学生だった頃に戻ってしまっている。つまり、中学生の永吉に話しかけるのだ。永吉にとっては後追いで親の真意がわかることになる。しかし永吉は最早中学生ではなく、治の言葉がうれしくても取り返しがつかないことではある。同時に、当時の永吉には、治の気持ちはおそらくわからなかっただろう。そのすれ違いが、暖かくも非常に痛切なシーンだった。

『うつくしい人』

西加奈子著
他人の目を気にし、空気を読みまくって生きることに疲れ果てた百合は、ちょっとしたことで勤務していた会社を辞め、発作的に離島のリゾートホテルを訪れる。そこで出会ったのは風変わりでデリカシーのないバーテン・坂崎と美形だがセクシャルな臭いのしないドイツ人・マティアスだった。そんなに凝った構成ではないし、小説としての読み応えもいまひとつなのだが、百合の周囲に対する気の回し方、過剰に周囲の動きを気にしてしまう感じの描き方は、こういう人なんだな、こういう人いるんだろうなという説得力がある。百合は、たとえ直接的に自分に関わることでなくても、周囲の人の気分を損ねたくないのだ。それは気がきくとか優しいとかではなく、極端な臆病さのようでもある。彼女のそういう態度には、「うつくしい」姉への反感とコンプレックスがあるのだが、姉のうつくしさとある種の鈍感さへの苛立ちも、ああそういうことってあるだろうなと思わせるもの。姉は自分の世界だけで生きているが、周囲からの見られ方ばかり気にしている百合には、自分の世界というものがおそらくないのだ。

『映画なしでは生きられない』

真魚八重子著
洋画も邦画も、過去の名作も最近の作品も、広く扱う映画コラム。前作『映画系女子がゆく!』は題名の通り女性の生き方を映画の中に見るというものだったが、本作はもっと広く、男女関係なく人生のある局面と映画のシーンとをリンクさせていく。『マッドマックス 怒りのデスロード』から始まることに早くもぐっとくるし、その中で言及されているのが「鉄馬の女たち」だというのにもぐっとくる。早くも1章から目頭熱くなってしまった。自分語りにならず、あくまで映画を「見る」行為が主体(なので、映画のストーリーの説明分量が結構多いし、出演している俳優や監督等スタッフに関する言及は意外と少なめ)であるところに、映画に対する折り目正しさみたいなものを感じる。私が映画を見る時のスタンスも、本作に割と近いかな。何より最終章の最後の段落、なぜ映画を見ずにはいられないのか、そうだよそうなんだよ!私だけじゃなかった!と本当に泣きそうに。映画を見るからかろうじて生きてけるのだ。

『ホテル1222』

アンネ・ホルト著、枇谷玲子訳
雪嵐の中で列車が脱線する事故が起き、運転手が死亡。近くのホテルに乗客たちは避難した。幸いホテルの設備も備蓄も十分あり、救援を待てば全員助かるはずだった。しかし翌朝、乗客の1人が死体で発見される。乗客の1人である車椅子の元警察官ハンネは、ホテルの支配人に頼まれ事件を調査する。いわゆる雪の密室での殺人事件だが、密室内の人が多すぎる(160人以上)のであまり密室ものの醍醐味はないかも。また、あやしい集団が人目を避けて行動しているが、それっぽいフリはあるものの本筋にそれほど絡んでこないので拍子抜け。シリーズ作品だそうなので、前後の流れを知らないと盛り上がらないのかな。訳者あとがきによると、乗客の顔ぶれや言動はノルウェー社会の縮図を戯画化する意図があるそうだが、ノルウェーでは宗教の占めるウェイトって意外と大きいのかな。殺害になかなか懐かしい凶器が使用されていたり、舞台やディティールも戯画的な要素が大きいように思った。

『孤独のススメ』

 オランダの田舎町で、妻を亡くして以来、規則正しく静かな生活を送っているフレッド(トン・カス)。ある日、正体不明の男テオ(ルネ・ファント・ホフ)が現れる。なりゆきでテオを自宅に泊めたフレッドだが、杓子定規だった彼の日常は徐々に変わり始める。監督はディーデリク・エビンデ。
 邦題やポスターの雰囲気から予想されるものとは、だいぶ違う境地に連れて行かれる気がする。しかし見て良かった。クライマックスにカタルシスがある。シャーリー・バッシーの名曲『This is My Life』が切々と迫ってきた。フレッドの少々珍妙にも思える行動の理由がようやく腑に落ちるのだ。そうか、ここに至りたかったのか!と。邦題『孤独のススメ』は作品の意味合いからちょっとずれているように思うが、逆説的な意味合いで付けたのかな。原題が「マッターホルン」なので、直訳だとこれまた何のことかわからないだろうしなぁ。
 フレッドの生活は起床時間、食事の時間、曜日ごとのスケジュールまできっちりと決まっている。しかし言葉を持たず、意思疎通も困難なテオが現れることで、彼の規則正しい毎日にはズレが生じる。そのズレや予想のつかなさにいら立つフレッドだが、徐々に許容するようになり、なりゆきでテオと子供向けの余興巡業までするようになる。奇妙な闖入者により日常が引っ掻き回され、主人公の心境に変化が生じるというのは一つのストーリーの定型だろうが、闖入者が特に美形でもない中年男性で、しかも主人公(男性)がその人物に強い愛着を持つようになるというパターンは珍しい気がする。フレッドのテオに対する態度は、最初のうちは犬や猫、あるいは子供に対するいらだちと親しみに近いような気もするが、テオと共に生活するうち、そういう人として受け入れていくし、彼に対する自分の愛情を認めるようになる。型はずれであっても友情も愛情もあり得るのだ。テオはフレッドにとっていわゆる「マレビト」的な存在なのかもしれず、だとすると、隣人が彼に執着し始めるのも頷ける。
 フレッドが住む町は宗教的に非常に厳格なのだが、オランダの田舎ってこういう感じなのかな?かなり誇張されているのだろうか。「日曜日(休息日)だから遊びや仕事は慎む」という習慣は、最近では減っているのではないかと思うが。


『獣は月夜に夢を見る』

 デンマークの小さな港町。少女マリー(ソニア・ズー)は雑貨店を営む父親(ラース・ミケルセン)、口がきけず、体も不自由で車椅子生活の母親(ソニア・リクター)と暮らしている。水産工場で働くようになったマリーは、青年ダニエル(ヤーコブ・オフテブロ)と恋に落ちるが、同時に体に異変を感じるようになる。往診に来た医師のカバンから資料を盗み出した彼女は、自分と母親の「病気」の真実を知る。監督・原案・脚本はヨナス・アレクサンダー・アーンビー。
 北欧発のモンスター・ホラー映画だが、モンスターの露出は少なく、決定的なシーンは映さずに怖さを演出していく、控えめかつ上品な造り。予算の兼ね合いもあるのかもしれないが、作品の雰囲気には合った演出法だったと思う。モンスターそのものよりも、自分が何者なのかというマリーの葛藤が中心にある。
 マリーは自分の異変を恐れ、ダニエルを傷つけるのではと危惧はするが、罪悪感や悲壮感とはちょっと違う。ここが面白いなと思った。モンスター化する自分を強く否定はしないのだ。むしろ、父親が母親の身に起こったこと、マリー自身の身に起こるであろうことを隠し、変化の兆しが見えたらそれを薬で抑えようとしたことに怒る。他人が彼女の本性を隠す・抑えることに反発するのだ。マリーは職場で嫌がらせを受ける(彼女と母親が異質であることは町でも知られているのだ)が、冗談として流すことも出来そうなところ、反感を隠さない。異質なものを周囲と無理矢理同化させようとするもの、共同体の「お約束」みたいなものへの疑問があるのだ。本作、いわゆる村社会の陰湿さが節々で見られるが、こういう状況での「異物」の息苦しさは、モンスター云々よりも切実で怖い。マリーが戦うのは、村社会そのものでもある。その為には、むしろモンスターであり続けなくてはならない。ラストは、彼女が彼女のままでありながら、生きる場所も愛も手にする可能性があるのではと示唆するものだと思う。
 監督はラース・フォン・トリアー作品で美術アシスタントを務めた人だそうだ。確かに本作の映像は冷ややかで美しく、端正。特にロケ地の力にも助けられた風景の数々が素晴らしい。怖いくらいさびしい、荒涼とした海や浜辺なのだが、とても魅力がある。特に空の表情や、夜の海の木版画のような質感が印象に残った。

『リップヴァンウィンクルの花嫁』

お見合いサイトで知り合った鶴岡鉄也(地曳豪)と結婚することになった皆川七海(黒木華)。結婚式で自分側の親族が足りず、SNS上の知り合いから紹介された何でも屋の安室(綾野剛)に、「親戚役」の手配を頼む。結婚式は無事終わったが、新婚早々鉄也に浮気疑惑が発覚、それを確かめようとした七海も、義母から浮気の疑いをかけられ、離婚を突きつけられてしまう。行くところがなくなり途方に暮れた七海に、安室は様々なバイトを紹介する。バイト先で知り合った女優の里中真白(Cocco)と七海は意気投合する。監督・原作・脚本は岩井俊二。
 映画が始まるなり、あー岩井俊二作品だわーという何とも言えない感慨に襲われた。透明感があってキラキラした映像、同じく透明感があってキラキラした音楽(本作はクラシックのピアノ曲を多用しているのだが、使い方がいい)、当然透明感があってキラキラしてチャーミングな女性達。見るの久々なんで忘れてたけど、そういえば岩井俊二作品てこんな感じだったわーという雰囲気を再確認した。
 ただ本作、これまでの岩井監督作品の中でもとりわけフェティッシュ、かつ変態性の高い作品に仕上がっていると思う。中盤までの七海の少々過剰な翻弄されやすさ・流されやすさや、意思表明が苦手な感じにはかなりイライラさせられるし、キャラクターとしての手応えをあまり感じないが(七海がすごく頭が悪いように見えてしまう)、こういうのが好きなんだろうなぁ。観客をイライラさせる、かつヒロインに反感感じさせるリスクを犯してもこう撮りたい!みたいな妙な情熱を感じた。また、真白と知り合ってからの女子2人のいちゃいちゃ感や身体の伸びやかさを感じさせるシークエンスは、さすが岩井俊二といった感じ。愛着がだだ漏れである。そして今回唸ったのが、これだけフェティッシュ全開でも下品にはならず、しかも180分という長尺なのにダレないし飽きない。映像美先行の人というイメージがあったが、(作風の好き嫌いは別として)監督としてのスキルやっぱり高かったんだなと改めて感心した。
 七海は、最初からある人の操りの下におり、翻弄され続ける。しかし不思議なことに、操りの下にあるはずなのに、彼女は翻弄されて自分を取り巻く環境が変わっていくにつれて、どんどん自由になっていくように見える。大声も出せる嫌なことは嫌だとごねることもできるようになる。自分の意思で結婚(ここにはさすがにある人の介入はないと思われる)したはずの新婚当初が、一番枠にはめられているように見えるのだ。
 主演の黒木は、作品によって動き方にしろ声にしろ、全然別のタイプの人に見える。やっぱりいい役者なんだなと実感した。また、何でも屋役の綾野の、愛想はいいが心がない感じ、本当に「何でも」やってしまいそうな振舞いが上手い。そしてCoccoのインパクトにはちょっと驚いた。本作、裏返すとは真白の物語とも言えるが、Coccoが演じたからこそ、そこに説得力が出たように思う。


『カラスの教科書』

松原始著
ゴミを散らかしたり鳴き声がうるさかったり、そこそこの大きさで妙に威圧感があったりで、賢いと言われつつ何となく嫌われがちなカラス。しかし彼らの生態を丹念に観察していくと、そのユニークさや愛らしさが分かってくる。動物行動学者である著者によるカラスの生態解説本、まさに教科書。カラスが車道にクルミを落として、走ってくる車を利用して殻を割るという話や、自分をいじめた人間はいつまでも忘れずに攻撃してくるという話は聞いたことがあったが、本作中でも言及がある。確かに車にクルミをひかせようとするが、効率と回収に伴う危険(車道に降りるわけだし)を考えると、果たして「賢い」やり方と言えるのか?とのこと。生物にとっての「賢さ」とは、人間が言う所の頭の良さと全くの同意ではないという言及が印象に残った。もっとも、車にクルミを牽かせることを趣味や娯楽と考えるなら、それはそれで賢さなのかもしれないが。私は元々カラスが結構好きなのだが、本作を読んでより愛着が沸いてきた。ハシブトカラスとハシボソカラスの分布のがいかに変わってきたのか等、(カラスに限ったことではないだろうが)人間の生態が現在のカラスの生態を作ったという側面も大きいのだ。人間が嫌がるカラスの行動も、カラス側にとってはそれなりの理由があるし、人間が誘発している部分もある。そこを理解すると、カラスが苦手だと言う人の苦手意識も薄れるんじゃないかな。ユーモアたっぷりで楽しく、気楽に読める1冊。

『おんなのこきらい』

 23歳のOLキリコ(森川葵)の取り柄は「可愛い」こと。男性たちはちやほやするが、同僚の女性達には概ね嫌われている。女の子の価値は可愛さだと信じるキリコは気にしないが、自分を特別扱いしない雑貨デザイナーの幸太(木口健太)と出会う。監督・脚本は加藤綾佳。音楽をてがけたふぇのたすが作中でも本人たち出演で曲を披露しており、時々ミュージカルっぽくなるのが楽しい。
 登場する男性たちがつまらないことばかり言うので辟易した。つまらない造形しかできないというより、あえて月並みでつまらないことを言わせている演出だとは思う(キリコの先輩社員の女性が言うこともさして面白くない)。キリコと衝突する幸太にしても、彼女の外面だけの「可愛さ」を指摘する言葉は、まあそういうことを言うでしょうねという退屈なもの。キリコはそういうことを散々言われてそうなものなのだが、一見もっさりした幸太に言われるとやはりショックなのだろうか。しかし表層の「可愛さ」を評価しない幸太の前では取り繕う必要がないので、キリコと幸太は徐々に打ち解けていく。
 キリコはすったもんだの末「変身」するが、実は彼女のスタンスは変わっていない。「可愛い」の演出方法が変わっただけで、やっていることは同じなのだ。これは救われないし危うい・・・と思っていたらさもありなんな展開で笑ってしまった。しかしこうならないと、キリコは無限ループから抜け出せないだろう。
 キリコは「可愛い」ものが大好きだし「可愛い」自分であろうとするが、その「可愛い」は彼女本人の為ではなく、相手の気を引く為の「可愛い」だ。キリコ本人が何を可愛いと思っていて何が好きなのかは、作中では言及されない。ラストの肯定の言葉が、今までとは違う何かを匂わせるが、彼女がどうなるのかはっきりとは提示されない。
 キリコが最後まで見た目しか可愛いくなく、性格が悪いままというところは潔かった。他人に対する想像力に欠けているので、これは好かれない(ターゲット以外には好かれる努力もしない)だろうなぁと納得できるのだ。また、可愛さで世間を渡ろうとしている割には可愛さ演出が雑で、専門学校時代に既に「可愛いが性格が悪い」と学内でバレていたというエピソードには笑った。脇が甘い!オフィスでも女性社員との険悪なやりとりを男性社員にばっちり聞かれているので、これはもはやモテないだろうと思うのだが・・・。

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