3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2016年03月

『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』

 両親が目の前で殺害されたことがトラウマになり、犯罪者一層の為バットマンとして活躍する富豪ブルース・ウェイン(ベン・アフレック)。一方、他の星で生まれた生命体で超人的な能力を持つスーパーマンことクラーク・ケントは人類の為に力を尽くしていた。しかし強大すぎる力は闘いに巻き込まれる人も生み、世間からはバッシングされるようになっていく。ウェインもスーパーマンの力は人類に対する脅威だと見なすようになる。監督はザック・スナイダー。
 スナイダー監督が『スーパーマン』をリメイクした、『マン・オブ・スティール』から直接時系列が続いている。『マン~』で随分派手に破壊活動にいそしんでいるなースーパーマン批判されちゃうんじゃないかな大丈夫なのかなーと思っていたら、やっぱり大丈夫ではなかった。神の子として英雄扱いされると同時に危険視されており、そりゃそうですよね!と妙に納得した。
 本作、アメコミの2大キャラクターの共演ということでもっとお祭り感があるのかと思っていたらそうでもない。やたらと重苦しいのは、(作中の)世間では必ずしもスーパーマンが是とされていないこと、バットマンの正義感がかなり病んだ感じになっていることが影響しているように思った。スーパーマンは基本善意の人なんだけど(力が強すぎるのに個人的レベルのつもりで善行するのではた迷惑かもしれんけど)、バットマンの正義感は強迫観念みたいになっているし、肉体的には普通の人間なので頑張りが痛々しい。ベン・アフレックの非常に鍛えられて肥大気味にすら見える肉体も、痛々しさ、バランスの危うさを強めていたと思う。もっとも、重苦しいのは、単に画面が概ね暗いからという単純な理由もあるだろう。スナイダー監督の趣味なんだと思うが、3Dだとかなり見難かったんじゃないだろうか(私は2Dで見た)。
 やたらと長い割にはストーリー展開は大雑把で、エピソードごとの繋がりが悪い。シチュエーションをいちいち説明しないというのはいいのだが、ここ1章分抜けてないか?という唐突な展開も。敵対し合っていたスーパーマンとバットマンがいきなり和解するのには、えっそんな理由で?!と突っ込みたくなる。ウェイン単純すぎるよ!また、今作の悪役レックス・ルーサー(ジェシー・アイゼンバーグ)の情報収集能力が優秀すぎて、これまたウェイン何やってんだよ!って感じにもなる。あまりユーモアが発揮されない(シリアスなのが悪いというのではなく、力の抜き所を見失っている感じ)のも少々辛い。
 本作、あまり「ドラマ」を作ることには興味がない作品なんだなという印象。見せたいのは絵、しかも実写映画というよりも、アニメの作画感覚で作られた絵の感覚に近いように思った。これを生身の俳優にさせるのは結構酷だなという気もするが・・・。また、スーパーマンの見せ方に関してはあからさまに宗教画を意識しているが、これはスーパーマン原作を踏まえている人には言うまでもないことなのかな。そもそも一見客は相手にしておらず、アメコミの知識をある程度持っている、かつ『マン・オブ・スティール』を見ている層でないとわからない部分がかなり大きいと思う。逆に言うと、狙った層に対してはハマるのではないだろうか。

『分解された男』

アルフレッド・ベスター著、沼沢洽治訳
24世紀、人の心を透視するエスパーの出現により、犯罪の隠ぺいはおろか、計画すら不可能になった世界。王国(モナーク)物産のニューヨーク本社社長ベン・ライクは、ライバルである巨大コングロマリットの社長ド・コートニー殺害を目論み成功する。刑事部長パウエルは不可能と思われていた犯罪の真相解明に乗り出す。第1回ヒューゴー賞受賞作。1953年の作品なのだが、意外と古びていない。心や記憶を読まれてしまう世界で、犯罪の計画や記憶をいかに隠ぺいするかという部分は案外大雑把だなという気もしたのだが、犯罪の記憶を「読んで」もそれだけでは有罪扱いできず、物理的に立証しなければならないというミステリとしてのロジック上の縛りがあるところが面白い。終盤まで、この点は意外とブレないのだ。SF設定だけど雰囲気は悪漢小説(あくどいがどこか筋が通っているライクのキャラクターは魅力的だ)とか警察小説に近く、SFとしてのスケール感は終盤にまとめて襲ってくる。ここは確かに圧巻なのだが、ぎりぎりでこのネタ出すんですか・・・。何だか希望に満ちた雰囲気のラストのように見えるが、これって結構なディストピアなのではないだろうか。

『ことり』

小川洋子著
「ことりの小父さん」と呼ばれる男には、人間の言葉は話せないが小鳥のさえずりを理解する兄がいた。兄の行動範囲は限られており、2人は小さな世界でひっそりと生きていたが、静かで満ち足りたものだった。やがて兄はなくなり、「ことりの小父さん」は幼稚園の鳥小屋の掃除を日課にするようになる。世界の片隅でつつましく生きる兄弟の一生を美しく描いている。自分に必要なものをわきまえ、多くを求めない。しかし同時に、どこか物悲しくさみしくも見える。彼らの生活がさびしいからではなく、世間が彼らの価値観を理解しないから、誤解されやすいからだ。世界に彼らのような人たちが安住できる場所は、だんだん小さくなってきているようにも思える。著者の描き方が優しいだけに、より辛くなる。なお、小野正嗣による文庫版解説が良い。

『残り全部バケーション』

伊坂幸太郎著
当たり屋、恐喝などあくどい仕事を生業とする溝口と部下の岡田。ある日岡田は、足を洗いたいと打ち明ける。溝口は「適当な携帯電話の番号に電話し、出た相手と友達になれたら許す」という条件を出す。岡田がかけた番号に出たのは、離婚寸前の男。岡田はその男と、なぜか男の妻子も一緒にドライブする羽目になる。表題作を含む中編5編から成る連作集。いやー上手い!いつもの伊坂といえばいつもの伊坂だが伏線と構成のあざとさには唸る。しかも、収録中1~4章は別々の媒体に掲載されていたもの(つまり初出は連作ではない)で、書き下ろしの5章を加えることで連作として完成し、物語が円環するのだ。本作に限ったことではないが、人のちょっとした善意が(誰かにとっての)世界をちょっと良くするという希望が底辺にあると思う。そういう描き方は愚直に見えるかもしれないが、そこに徹するところが作品の強さ(著者の意志の強さでもある)になっていると思う。後味もいい。題名もいい。人生の残りは全部バケーション、おまけみたいなものだと思えば、ちょっとは生きるのが楽になるかな。

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『母よ、』

 入院中の母、アーダ(ジュリア・ラッツァリーニ)の看病を兄ジョヴァンニ(ナンニ・モレッティ)と共にしつつ、新作を撮影中の映画監督マルゲリータ(マルゲリータ・ブイ)。アメリカ人俳優バリー(ジョン・タトゥーロ)を迎えて撮影を進めようとするものの、バリーのセリフ覚えが悪くなかなか進まない。加えて病院から母親の余命宣告をされ、マルゲリータはショックを隠せない。監督はナンイ・モレッティ。
 マルゲリータは母親の余命宣告を受けるものの、母親の寿命が尽きようとしていることと直面できず、回復する可能性(そんなものはもうないのだが)にすがるばかり。親というのは順当にいけば子供より先に死ぬものだ。しかし子供にとって、自分が大人になっても親はいつまでも親で、そこにいてくれる気がしてしまう(親にとっての子もそういうものかもしれないが)。マルゲリータの受け入れられなさは身に染みるものがあった。同時に、マルゲリータとアーダとの関係はどういうものだったのかが気になってきた。2人はとりあえず仲は良さそうだし双方思いやりを持っている。ただ、すごく親密なのかというと、微妙な気もする。
 冒頭、マルゲリータが入院中の母親に差し入れをするエピソードがあるのだが、デリショップで惣菜を買っていったらジョヴァンニが手作りの食事を持ちこんで いて、つい出しそびれてしまう。マルゲリータの兄に対する遠慮から、おそらくジョヴァンニの方が母親の好みを熟知した「良い息子」だったのではないかと窺 えるのだ。ジョヴァンニは母親の介護の為に仕事を休職し、果ては(これは母親の為とだけいうわけでもなさそうだが)辞めてしまう。マルゲリータは自分が母親にとって「良い娘」であったかどうか今一つ自信がないし、母親に自分の仕事を(完全には)理解してもらえていない、という不満、あるいは諦めもあるだろ う。娘が母(娘にとっては祖母)にしていた打ち明け話を自分にはしていなかったとショックを受けるシーンもある。
 マルゲリータの夢の中のシーンが度々挿入される。夢に登場する人たちが何かと話しかけるが、マルゲリータはそれに対応することが出来ない。彼女は現実でも、相手との対話が得意ではないようだ。元恋人に傲慢だと非難されるシーンがあるが、自分が見ているように対象を解釈する、見たいように見る傾向がある人なのかなと思った。対象の実像よりも、自分がどう見るかということの方が大事なのだろう。彼女が労働問題や社会闘争を映画の題材にし続けるのも、彼女にとって社会とはそういうものだからだ。映画監督という仕事上はそれは強みなのかもしれないが、何で戦う映画ばかり撮るんだとか、「(ピアスや長髪のエキストラたちを指して)これが今の労働者ですよ」なんて指摘されてしまったりもする。そういう部分に変化があるわけではないところが生っぽい。成長するとかではないのだ。

『ふむふむ おしえて、お仕事!』

三浦しをん著
作家である著者が、15職業16人の女性に、その仕事についてインタビュー。靴職人、染色家、漫画家アシスタントやビール開発、動物園の飼育係等、様々な職業の人が登場する。聞き手である著者の姿勢が、素直に好奇心が現れているもので、意外と聞き上手なのかもしれない。子供の頃からこの職業になりたかった人もいるし、紆余曲折あってこの職業に辿りついたという人もいるが、仕事への姿勢は皆真摯で、追求心があるという点では共通している。うーん、私は一つのことを追求するのが苦手なので、というかそもそも働くのが嫌いなので何だかうらやましい・・・。仕事を好きと言えるというのは、姿勢の問題というより資質の問題のような気がしてきた。一番面白いなと思ったのは、鎌倉のお土産屋さん。何でお土産屋さん?というところからして、あまり肩に力が入っていなくていい。文庫版では登場してくれた人たちのその後にも言及されている(仕事だから、当然転職とか配置換えとかがあるし、結婚や出産もある)ところも、それぞれの人生が続いているなとうれしくなる。なお、文庫版には解説(著者によるものではない)がついているのだが、これがどうにも的外れだった。男性へのインタビュー/男性のインタビュアーはつまらないという言及があるのだが、それは男女関係なく下手なインタビューだったというだけでは・・・。
 

『ロブスター』

 独身者は強制的にとあるホテルに送り込まれ、45日以内にパートナーを見つけなければ動物に変えられ森に放たれるという社会。妻と別れたデビッド(コリン・ファレル)はかつて犬に変えられた兄同伴でホテルに送られたが、ある出来事に耐えられず森へ逃げ出す。そこでは独身者たちがゲリラ組織を結成しており、デビッドは彼らの保護を受ける。組織の1人である近視の女(レイチェル・ワイズ)と恋に落ちるが、独身者のゲリラでは、恋愛は禁止されていた。監督はヨルゴス・ランティモス。
 監督の前作『籠の中の乙女』は、独自のルールが敷かれている家庭という密室を描いた奇妙な作品だったが、本作もまた、特殊ルール下の奇妙な世界。独身者には社会的な価値がなく、カップル(異性同性は問わない)として社会を構成しなければならないというのは、個人的にはまあそこそこ死にたくなる世界である。かと言って、独身者ゲリラに入ったら入ったで、カップルであること、特定の個人と恋愛をすることは許されない。どちらの社会も生き方を規定されているという意味では同じなのだ。滑稽だが、そのルールの極端さはどうにも怖い。
 デビッドがホテルに送られる際に色々問診を受けるのだが、その際にセクシャリティも聞かれる。ヘテロセクシャルかホモセクシャルかの選択は出来るが、バイセクシャルという選択肢はない(数年前に廃止されたというセリフがある)。また、靴のサイズを聞かれるのだが、端数のサイズはない。中途半端、曖昧なものは排除していく、あれかこれか、という世界なのだ。カップルが成立するかどうかという基準も、何となく好感が持てるといったものではなく、客観的に明らかな共通項(近視だとか鼻血が出やすいだとか)がないと、カップルだということにならないらしい。一方、独身者ゲリラの中では、セックスはもちろん、2人でダンスをすることも禁止されている。とにかく極端なのだ。人間はそもそもあっちかこっちかで割り切ることが出来ない、曖昧な存在だと思うのだが、本作ではその人間独特の曖昧な部分が否定されている。こういう社会だったら、人間やめて動物になる方がまだしも気楽っていう人もいるだろう。
 奇妙で笑ってしまうシーンも多々あるのだが、笑った直後にぞわりと寒気がする。デビッドが最後に直面する事態も、それやるの?!どうなの?!と迫ってくる。でもそれをやってしまうと、結局逃げ出した社会における「こうであれ」というものにまた従うことになるのでは。

『マジカル・ガール』

 白血病で余命わずかの少女アリシアは、日本のアニメ「魔法少女ユキコ」が大好きで、ユキコのコスチュームを着たいと願っていた。アリシアの父ルイス(ルイス・ベルメホ)は失業中で金がないが、娘の願いを叶えようと決意する。その行動は謎めいた女性バルバラ(バルバラ・レニー)や、元教師のダミアン(ホセ・サクリスタン)を巻き込んでいく。監督はカルロス・ベルムト。本作が長編初監督になるそうだ。スペインのサン・セバスチャン国際映画祭でグランプリ&観客賞受賞。
 スペインの映画というと強烈な光、鮮やかな色彩というイメージがあるが、本作は常にどんよりした曇り空の下で展開されている雰囲気だし、色合いも地味。そして奇妙な味わいがある。冒頭の展開と題名からとでは、ちょっと予測がつかない転がり方をしていくのだ。最初、アリシアとルイスの物語かと思っていると、えっそっちに行くの?!という方向にリレーされていく。
 物語の中心に置かれた人物は交代していくものの、その人物の行動原理は共通している。それは愛だ。ルイスはアリシアへの愛から、ある行為に踏み切る。バルバラにしても、ダミアンにしても同じだ。ただ、彼らの行動は、本来愛を向ける対象である人の望みからは、どこかずれていく。アリシアがルイスを引き留めた時、金の工面で頭がいっぱいのルイスはそのまま出かけてしまうが、アリシアは彼に(ある事情から)一緒にラジオを聴いてほしかったのだ。彼女はもちろんユキコのコスチュームを欲しいのだろうが、ルイスに求めているのはまた別のことで、そちらの方がより切実だったのではないか。ルイスがアリシアの為にしようとしていることは、彼が勝手に思い込んでいる「良かれ」という行為なのだ。これはむしろエゴイスティックな行為にも(何しろ目的達成の手段がアレだから・・・)思える。本作に登場する人たちは、確かに誰かを愛してはいるのだが、行動自体は自分本位で、その誰かを理解しようとしているとは言いにくい。
 誰かへの愛により行動を起こす、というのは、その誰からの影響下にいる(支配されている、というとちょっと言葉が強すぎるか)、とも言える。そして自分に影響力があるとわかったら、それを使いたくなることもあるだろう。本作はその影響の連鎖を描いているとも言えるのだが、相手を操ろうとした力が、自分に跳ね返ってくることもある。そこに愛は残っているのだろうかと、ラストシーンを見てふと思った。

『インサイダーズ 内部者たち』

 チンピラから表向きは実業家に成り上がったアン・サング(イ・ビョンホン)は、兄貴分で新聞社社長のイ・ガンヒ(ペク・ユンシク)の指示で、裏の仕事を代行していた。財閥企業であるミライ自動車が大統領候補チャン・ピル(イ・ギョンスン)へ裏金を渡していた証拠を入手したアン・サングはミライ自動車をゆすろうとするが、バレて片腕を切り落とされ追放される。一方、本来その証拠を入手するはずだった検事ウ・ジャンフン(チョ・スンウ)は責任を取らされ左遷。しかしジャンフンは密かにサングに接触し、協力を仰ぐ。監督はウ・ミンホ。
 映画としての見得を思い切り切っている感じで、冒頭からぐいぐい飛ばしていく。ちょっと話の展開が粗く(最後の“逆襲”とか、これをやるならもっと早くに同じことができたんじゃないか?って思ってしまう)突っ込みたくなるところはあるが、ここがクライマックスなのか?と思ったらそれを反復するように更にクライマックスが、というボリューム感とサービスの良さ。スターを起用した娯楽大作、かつ韓国社会の世相を反映している。作中で描かれる“悪”の姿があまりに画一的、絵にかいたような悪の悪役すぎという面はあるが、後半の展開からも、見ている側をスカっとさせることが目的の作品とわかるので、これはこれでいいと思う。
 韓国はコネ社会である、コネがないと有能でも出世できないという話は韓国映画を見ているとしばしば出てくるが、本作でも嫌と言うほど出てくる。ジャンフンは有能な検事だが、元警察官で有力なコネもなく、「コネなし検事」としてバカにされている。ここまで「コネなし」が世間的にマイナス要素として打ち出されている登場人物は初めて見たかもしれない。コネで出世という方がむしろマイナスイメージな気がするが、韓国社会ではコネもないなんて人望がない、くらいの感覚なのだろうか。またコネの一つになるであろう先輩後輩関係の強固さもお馴染み。フィクションとしてかなり誇張した描写になっていると思うのだが、それにしても窮屈そうな社会だ。日本でもコネや先輩後輩関係は少なからずあるだろうが、それによって個人の人生が決定されてしまうという絶望感みたいなものが、韓国ではもっと強いのかな。大企業や財閥に対する嫌悪感も、日本における大企業に向けたものとは、ちょっと感覚が違う感じ。

『エラリイ・クイーンの世界』

フランシス M.ネヴィンズ.Jr著、秋津知子訳
著名なミステリー作家であり、『エラリー・クイーンズ・ミステリマガジン』の創刊者でもあるエラリイ・クイーンの、数少ない評伝。エラリイ・クイーンはフレデリック・ダネイとマンフレッド・ベニントン・リーの従弟による共作のペンネームだが、具体的にどのように作品を作っていたのかは殆ど伏せられており、評伝の類もわずか。本作はリーの死後に発行されており、晩年のダネイには取材できたようだ。それでも、評伝と言うにふさわしいかというと何とも言えない。生い立ちや作家を志したきっかけについては具体的なエピソードが得られているものの、クイーン名義で活躍してからの2人の人物像には今一つ迫れていないように思う。一方で、クイーンが手がけた長編、短編、アンソロジー、ラジオドラマ・テレビドラマ・映画脚本についてはほぼ網羅しコメントをしているところは力作と言えるだろう。特にラジオドラマについては、本作が執筆された当時ですら資料が乏しかっただろうところ、貴重な資料になっていると思う。個々の作品に対する著者の評論が妥当かどうかはよくわからない(私は一部のクイーン作品しか読んでいないので。ただ、既読の作品に限ってだが、そうかな?と首をひねった部分は結構ある)のだが。そしていまいちな作品に対してはかなり辛辣だ。辛辣な方向に冗長な文体なので、批評としてはちょっと感情的だなと思ったところも。また、作品の中でしばしば政府のプロパガンダ的な要素が発揮されている(政府に協力的というよりも、政治的な主義主張に関して無頓着に時代の空気に乗っかっていく傾向があるということでは)という指摘にはなるほどと思った。当時の感覚がわからないと、何を意味しているのか読んでいてぴんとこないところがあるので。

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