3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2016年02月

『同級生』

 草壁光(神谷浩史)と佐条利人(野島健児)は高校の同級生。バンド活動をしていて賑やかな人気者の草壁と、真面目で物静かな秀才の佐条に接点はなかったが、合唱祭の練習がきっかけで接近していく。原作は仲村明日美子の同名漫画。監督は中村章子。製作スタジオはA1Pictures。
 原作はBL漫画の名作(と言っていいだろう)だが、BL漫画を劇場アニメ化ということよりも、中村明日美子作品を、ということにびっくりした。というのも、中村作品を読んだことがある人はお分かりだろうが、細く細やかな線と、手足がひょろっと伸びたフォルム、黒目部分の小ささ(か、逆に極端な大きさ)に特徴があり、アニメーションとしてバランスよく動かすのはかなり難しそうな、アニメ映えしない絵柄に見えるからだ。佐条の髪の毛の跳ね具合やふよふよ感なんて、これをそれらしく動かすのはかなり大変なんじゃないかな。
 が、本作は予想以上にキャラクターデザインを原作に寄せている。もうちょっと動かしやすい方向にアレンジしてくるのかなと思ったが、まんま原作通りと言っていいくらいの忠実さ。さらに、水彩画のような淡くてグラデーションのある色彩の雰囲気も再現(さすがにそのまんまという感じではないが)。かといってアニメーションとして動いた時の違和感はない。いやーよくこの微妙な所に落とし込んだな・・・。キャラクターデザイン(林明美)頑張ったなー。
 ストーリーは原作の、最初の夏から次の夏までの1年間を描く。60分という中篇の尺だが、もう少し先まで見てみたくなった。これは製作サイドの意図通りなんだろうな(笑)。原作のおいしい部分を選りすぐって余すところなく見せるぞ!という意欲が感じられた。少女漫画的なモノローグがしばしば挿入されるが、これは大体草壁のもので、本作は基本的に草壁の視点で進む。草壁は佐条よりもアクティブなのだが、特に走るシーンが印象に残った。感情が高ぶった時、感情に思考が追い付かずにわーって感じになった時に走り出すのだが、これこそ青春だよ!って感じがして、見ている側もぶわーっと何かがこみ上げる。この、何だかわからないが感情が揺さぶられる、という感じがよく演出されているなぁとしみじみ思った。草壁と佐条は性格も家庭環境も交友関係も全然違い(「別ジャンル」と草壁の友人は称する)、共通項は同級生だということくらい。それでも、2人の関係は大きく動くのだ。
 青春の一番きれいな部分の、更にうわずみの部分を抽出したようなキラキラ感と透明感に満ちたアニメーション。水彩絵の具のような淡くて透明感のある色味が美しい。A1Picturesが手がけた作品は、背景美術に透明感があるものが多いという印象があったが、本作も背景が良かった。なお、BLとしてはリリカルの極みかつ淡いので、普段BLを読みつけない人でも大丈夫かなとは思う。

『ポップスで精神医学 大衆音楽を“診る”ための18の断章』

山登敬之斎藤環松本俊彦井上祐紀井原裕・春日武彦
6人の精神医学者が、中森明菜や忌野清志郎、神聖かまってちゃんまで、ポップスをモチーフに精神疾患や臨床心理について語る。なかなか豪華、というか華のある執筆陣。もともとは臨床心理の専門誌に連載されていたものだそうだが、素人が読んでも問題なく理解できる内容だと思う。取り上げられている楽曲と典型的な症状との絡め型はもちろん勉強になるし、疾患の理解の手助けにもなりそう。ただ、それ以上に執筆陣の、取り上げた曲や音楽家に対する思い入れがどんどん加速していく感じが非常に面白かった。それぞれ、自分が好きな曲、あるいは音楽家を取り上げて執筆しているのだが、人間、好きなもの、思い入れの深いものについて語り始めるとついつい筆が滑るものなんだな~。特に「ステップUP↑」を取り上げた松本俊彦の岡村靖幸愛は泣けるレベル。また、井上祐紀が「Get Wild」を取り上げた章は、臨床云々は置き去りにされもはや単なる小室哲哉ヒストリーである(妙にとつとつとした文章が、井上と曲との距離感を感じさせるのも味わい深い)。筆者たちの個人的な思いがだだ漏れになっていく、不思議な連載だったんじゃないか。

『ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る』

 ウィーン・フィル、ベルリン・フィルと並ぶ世界三大オーケストラである、オランダのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(以下、RCO)。2013年、RCO創立125周年のワールドツアーを追ったドキュメンタリー・RCO初の公式記録映画でもある。監督はエディ・ホニグマン。
 ワールドツアーは1年間でヨーロッパ、北米、南米、アフリカ、アジア、オーストラリアの六大州を巡り、50公演を行うという大規模なもの(この他に通常の公演もある)。オーケストラだからそれなりの人数がおり、更に人数分の楽器が加わるという、大所帯での移動となる。楽団員たちは移動に慣れている様子ではあるが、心身ともにタフでないとこれはきつそうだなぁ。楽器に“パジャマ”(楽器ケースを覆う保冷パックのようなもの)を着せて温度と湿度をコントロールする等、作業のひとつひとつが物珍しくて面白かった。オーケストラが演奏しているシーンと、機内や空港、ホテルでのシーンが同じくらいの分量だった気がするが、移動することも仕事のうちなんだなと妙に納得した。これは、有名オーケストラのチケットが高い(日本では特になのかもしれないけど)のも納得せざるを得ない・・・。
 個々の楽団員が自分の楽器、演奏や好きな曲について語るシーンがある。この曲のここが好き!等という話題だと、皆一様にすごくいい顔をする。好きなものについて話すのってやっぱり楽しいよなぁ。打楽器、特にシンバル等、出番ではない時間帯は何をやっているんだろう、眠くなったりしないんだろうかという私の子供の頃からの疑問に回答が得られて満足。やっぱり意識飛んだりするんだな。
 また、楽団員ではない、鑑賞者側の一般人へのインタビューもある。アルゼンチンのタクシー運転手、アフリカの少女や、音楽教師。ロシアの老人など。彼らの佇まいや、音楽との向き合い方もいい。生活の一部として音楽がそこにあるという感じがすごくするのだ。彼らからは音楽だけでなく、仕事やこれまでどういう生活をしてきたか等の話も出てくるのだが、その人の人生の一部が垣間見える。特にロシアの老人の、楽ではなかった人生前半(当時のロシアでは同じような体験をした人は少なくなかったのかもしれないが)の話は、一見そんな雰囲気を漂わせない人物だけに、染みる。

『スティーブ・ジョブズ』

 1984年、アップル社の共同設立者スティーブ・ジョブズ(マイケル・ファスベンダー)は新商品Macintoshの発表会を控えていたが、マシンは誤作動を起こし暗雲が立ち込め、更に控室には元妻と幼い娘が養育費の請求に来ているがジョブズは自分が実父であることを認めない。1988年、アップル社を解雇されたジョブズは新会社を立ち上げ、新商品NeXT Cubeの発表会を控えていた。アップル社CEOのジョン・スカリー(ジェフ・ダニエルズ)や共同開発車だったスティーブ・ウォズニアック(セス・ローゲン)との関係はこじれていた。1998年、アップルに返り咲いたジョブズは、iMacの新作発表を控えていた。リハーサルは順調、市場の期待も大きかったが、ジョブズと娘リサとの関係は更にこじれていた。監督はダニー・ボイル。原作はウォルター・アイザックソンによるジョブズの伝記『スティーブ・ジョブズ』
 アップルの共同設立者であるスティーブ・ジョブズの伝記映画。とは言え、彼の半生を時系列に沿って追うのではなく、3回の新作発表会(の楽屋)のみに舞台を絞った所が面白い。ジョブズがアップルを設立するまでや新作の開発過程等、普通なら描きそうな所は全部割愛、更に発表会本番すら映されないのに、ジョブズを良く知らなくてもどういう経緯があったのか何となくわかるし、ちゃんと楽しめる。脚本がよっぽど上手いことまとまっているんだろうなぁ。
 ただ、映画としては面白いが、ジョブズ(作中のジョブズ。本物がどういう人だったかはさておき)が相当問題のある人、ありていに言うと見ていて立ち居振る舞いが不愉快な人なので、面白く映画を見ているが一貫して不愉快、という微妙な体験だった。ジョブズの片腕であるジョアンナ・ホフマン(ケイト・ウィンスレット)は彼に、あなたの視界は歪曲しているんだと言う。自分が見たものが正しいと信じているが、視界自体がゆがんでいるんだから正しいとは言えないと。自分が信じたもの、自分のビジョンを曲げずにやり通す特性は、仕事上は強みだったし、だからこそ大成したのだろう。ただ、そういう特性は身近な人を傷つけ、摩耗させる。一緒にアップルを盛り立てた人たちが段々離れていった(というかジョブズが切ってしまう)のは、能力的なものや時代の流れもあるだろうが、ジョブズがトップにいたからというのも大きいんだろうなと思わせるエピソードだった。
 そして子供にとっては、ジョブズはとうていいい父親とは言えない(そもそも認知していない)。大きな才能によって大きな欠点が相殺されるということはあるが、その才能によって利益を得るわけではない人、特にごく身近な人にとっては、「天才だから大目に見よう」って理屈は通じないだろうなぁ・・・。自分が父親であるということを受け入れない、とある言い訳には笑ってしまうのだが、本人は大真面目なところが空恐ろしくもある。でも迷惑被るのは子供だから、金くらい出せと言いたくはなるな。なお、親子の問題に収束させていくところがつまらないという人もいるようだが、企業家ジョブズに興味のない人にとっては、むしろ家族問題を投入することでとっつきやすくなったんじゃないかなと思った。

『ディーパンの戦い』

 内戦下のスリランカからフランスへ亡命する為、兵士のディーパン(アントニーターサン・ジェスターサン)は若い女性ヤリニ(カレアスワリ・スリニバサン)と少女イラヤル(カラウタヤニ・ビナシタンビ)と偽装家族を作る。パリ郊外の団地で管理人として働き、つつましい生活を始めるが、団地内には地元のギャングたちがたむろしていた。監督はジャック・オディアール。2015年、第68回カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作品。
 オディアール監督の作品を見るたび、無駄がなくて機能的という印象を受ける。かといって無味乾燥というわけではない。映画の筋肉がばっきばきに発達しているといった感じなのだ。映画が始まるなり、すぐにディーパンは行動を始め、物事は進んで行く。作中時間は結構経っている(団地に移るまでに数か月は経っている)であろうことに気付くが、その経過した時間は描かない。端折り方があっさりとしている。
 所々、(おそらく実際にこういうシチュエーションなら聞こえるだろう音よりも)やたらと音が大きく聞こえてどきっとするが、これはディーオアン達にとってのショックさ、過去の災害を思い出させるものということなのだろう。ヤリニの“外”に対する怯え方、取り残されたと勘違いしたイラヤルのパニックには、彼女らの深い傷が垣間見える。ディーパンは冷静に振る舞い、団地での生活の基盤を一つ一つ積んでいるように見える。ヤリニやイラヤルにも言うように、努めてフランス社会や団地での生活に同化しようとしている。しかしだからといって、彼に傷がないというわけではない。何かの拍子で過去の記憶は噴出し、彼を団地での生活から彼をはみ出させる。地下室で一人大声で歌うシーンは見ていて辛かった。
 ディーパンが自分の道具入れや写真立てを作ったり、エレベーターまで直したりと、DIYのベテランぶりを見せる。手先が器用だし機械に詳しい人なんだなとわかるし、その能力は管理人という仕事で発揮される。しかし一方では、母国では自分で何とかするしかなかったから上手くなったこと、おそらくその能力は「作る・直す」だけに発揮されたわけではないことが垣間見えてはっとした。
 本作のフライヤーには、クライマックスが『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ監督)に似ているという感想がいくつか掲載されているが、私はぴんとこなかった。『タクシードライバー』の主人公トラヴィスとディーパンとは、やった行為は似ているかもしれないが、その背景が全く違うからだ。そもそもディーパンはこういう行為のプロとして生きてきた人で、そういう自分と決別するためにフランスに来た。しかし、やむなく元の自分、捨てたはずの自分に引き戻されてしまう。確かに爽快感を感じてしまうが、人間は過去から逃れられないというとても苦いクライマックスでもある。しかしエンドロール、それでもなお彼を救い慰めようとする手があるところに、ほのかな希望が感じられる。

『霊の棲む島 エリカ&パトリック事件簿』

カミラ・レックバリ著、富山クラーソン陽子訳
初夏の夜、1人の女性が血まみれの手で何かから逃げるように、フェイルバッカ沖のグローシャール島を目指していた。女性の連れは幼い息子1人。島には古い家と灯台だけがあり、幽霊が住みついているという伝説があった。数日後、自治体の大きなリゾート・プロジェクトに関わっていた経理担当者が、自宅で銃殺された。男は死ぬ直前にグローシャール島を訪れていたらしい。刑事パトリックと、その妻で作家のエリカは捜査に乗り出す。エリカ&パトリックシリーズ7作目。2人の間に双子が生まれているが、その直前には大きな悲劇があり、エリカの妹アンナは立ち直れず、エリカも罪悪感にさいなまれている。家族内の大きな問題と、殺人事件の捜査が平行していく、更に事件の背後にいる人物の立ち回り、加えて19世紀のある女性の運命が並走する。いくつもの筋が並走していく構成だ。本作では、女性のDV被害が大きな要素になっている。北欧のミステリを読むと、男女平等に社会参加をし福祉が充実しているという北欧諸国のイメージって何なの?というくらい、DV問題や極端な女性差別が描かれている。差別的というよりも、もっと根深いところでの憎悪(相手が女性だったり異民族だったりする)があるような雰囲気で、なかなかげっそりさせてくれる。19世紀のエピソードにおける女性嫌悪は、その原因の設定にちょっと問題がある(というか、嫌悪するようになるというのはわかるが、原因としてイコールではないというフォローがないと、また別の嫌悪につながるのではないかと)思うが・・・。パトリックら地元の警官たちは、無能ではないが極めて有能というわけでもない(というよりも、田舎なので大きな事件に慣れていない)。しばしば聞き逃し、チェックし忘れをする。それでもシリーズ開始時から比べると、各段に仕事のできる人たちになっている!成長しているなぁ。

『俳優 亀岡拓次』

 37歳、独身の亀岡拓次(安田顕)は、脇役専門の俳優。映画にドラマに様々な役柄で引き合いがあり、仕事はまずまず順調だ。しかしプライベートでは浮いた話もなく至って地味。ある日亀岡は、ロケ先で入った居酒屋の女将・安曇(麻生久美子)に一目ぼれする。原作は戌井昭人の小説。監督は横浜聡子。
 横浜監督、やったなー!とまずは喝采したくなる。(亀岡のように)決して派手な作品ではないが、今までの作品からしたらまさかの豪華キャスト。まさか横浜作品に三田佳子とか山崎努とか出演すると思わないもんなぁ。特に三田は、結構な「やりきった」感のある振り切れ方で貫録がある。監督側も、ベテラン相手にも腰が引けておらず堂々と渡り合っている感じがした。更に、奇妙な持ち味はそのまま、間口がぐっと広がってエンターテイメントとして成立している。音楽の使い方が奇妙なところは相変わらずだ。
 亀岡は主演俳優ではなく、毎回脇役なので、様々な人の人生の断片を渡り歩いているように見える。もちろんそれは「俳優」としての亀岡であって、一人の人間・亀岡とイコールではないのだが、そう見えてしまう。亀岡が俳優業を離れた部分の生活を(作中では)見せないし、あまり積極的でもないから、よけいにそう見えるのかもしれない。そんな彼が安曇に恋をする。これはプライベートど真ん中、大変個人的なことで、自分の人生の出来事としか言いようがないだろう。だが、俳優の人生は、演じた役の中に存在するものなのかもしれないなぁと、ラストを見て思った。俳優だって人の子だからそんなことないはずなのだが、そう見えてしまうところがほろ苦い(出世したってことではあるんだけど)。
 主演の安田は、亀岡同様にバイプレイヤーとして活躍する機会が多いが、毎回ちょっとやりすぎ・考えすぎというか、型をがっちり作ってきているなぁという印象だった。しかし今回は力の抜けた(ように見える)好演。また、安曇役の麻生は、「田舎に出戻ってきた若女将」としての仕上がりが完璧すぎて、逆にうさんくさく見える。あまりによく出来すぎていて、亀岡が見た夢なんじゃないかと勘繰っちゃうくらい。これは確かに好きになっちゃうだろうという説得力はあった。

『踊る骸 エリカ&パトリック事件簿』

カミラ・レックバリ著、富山クラーソン陽子訳
長女が生まれ、育児に追われるエリカとパトリック。パトリックは育児休暇を取っているが、職場である警察署の様子が何かと気になり、エリカは執筆に専念できずにいた。自宅の屋根裏で母親の古い日記とナチスの勲章を見つけたエリカは、地元の歴史家エーリックに勲章を預けた。しかしエーリックは殺されてしまう。エリカは母の日記を読み始めるが、冷淡だった母が書いたとは思えない情感豊かなものだった。しかし日記には戦争の影が落ちるようになり、ある日を境に途切れてしまう。スウェーデンの人気ミステリシリーズ5作目。第二次世界大戦中の出来事が現在に影響する歴史ミステリとしての側面と、エリカ姉妹の母親はなぜ娘たちに冷淡だったのかという、家族のミステリとの2本柱だ。北欧のミステリを読んでいると、ネオナチや過激な右翼が度々登場するが、本作にも移民排斥を訴える右翼団体が登場する。労働問題や国の財政問題との関わりが深いのだろうが、この偏狭さ、違うものを排除したいという欲望は何なんだろうなと毎回考えてしまう。ただ、一方で新しい価値観に目を開く人物もいる。毎回厄介者扱いされていた警察署長メルバリに、まさかの転機が訪れる。これには、人間何歳になっても変われるのかも、捨てたもんじゃないなって気分に。そして愛は人を変えるのかと(笑)。語弊があるかもしれないが、ミステリ以外の部分にとても読み所がある。「育児あるある」「夫婦あるある」が満載で、夫婦間で感じる不公平感や親子のわだかまり等、細かいニュアンスがよく書けていて、恋人から夫婦へ、家族へ(あるいはその逆)と生活が変わるにつれて、登場人物たちどのように変わっていくのかという点で、とても楽しめるシリーズだと思う。

『キャロル』

 1952年、冬のマンハッタン。デパートのおもちゃ売り場で働くテレーズ(ルーニー・マーラ)は、娘のプレゼントを買いに来たエレガントな女性・キャロル(ケイト・ブランシェット)に強く惹きつけられる。キャロルが忘れた手袋を送り届けたことがきっかけで、2人は度々会うようになる。キャロルは夫と離婚訴訟中、テレーズにはボーイフレンドがいたが結婚に踏み切れずにいた。いざこざから逃れるように、2人は自動車で旅行に出る。原作はパトリシア・ハイスミスの同名小説。監督はトッド・ヘインズ。
 ビジュアル、特に質感が素晴らしい。昔の映画のような、エドワード・ホッパーの絵画(終盤、キャロルがダイナーにいるシーンなどはあからさまに意識していると思う)のような柔らかく、手ざわりが良さそうな色合いだ。特に赤の色がアクセントになっている。キャロルにしろテレーズにしろ、赤をまとうことでその意思がより際立つように思った。また、オープニング部分のクレジットのフォントや位置も一昔前の映画のよう。衣装については言うまでもない。明らかに上流階級だがゴージャスすぎないキャロルの出で立ちはエレガント。テレーズの服装はまだ少女めいている。チェックの帽子やジャンパースカート、縁取りの入ったウールのコートなど、どこかノスタルジックだ。服装で2人が所属する階級がありありとわかるという面もある。
 メロドラマを基調にしつつ、2人の女性が自分を偽らない生き方、自分自身の人生を選び取るまでの苦悩・格闘が描かれている。2人の顔の切り替えしの多さが印象に残ったが、視線がまっすぐにやり取りされているということか。まだ若いテレーズは、そもそも自分が何をしたいのか、どう生きたいのか無自覚で、ボーイフレンドや周囲の人たちに「そういうもの」だと流されがちだった。だが、キャロルと親密になるうちに、自分は何を選びたいのか、自分にとって大切なのはどういうことか目覚めていく。
 一方、既に家族があり、一旦は生き方を選んでしまったキャロルは、再度選び直すという困難に直面している。彼女が今までと変わらず、美しい妻・母の「ふり」をしていれば、ことは丸く収まるだろう。しかし、それは彼女を苛むし、何より彼女が思う所の誠実さが損なわれることだ。終盤、弁護士事務所で言葉を絞り出すように語るキャロルの姿には打たれた。これは原作にはないシーンだが、このシーンがあるから、現代の映画になっているのではないかと思う。キャロルにとっての誠実さとはどういうものかが端的に語られていた。大切な相手の前で自分を偽ることよりも、相手を傷つけても自分の本当の姿を見せることの方が、彼女にとっては誠実な態度なのだ。
 キャロルとテレーズ以外の人の出番は少ないが、少ないながらもそれぞれ存在感がある。特にキャロルのかつてのパートナーであるアビー(サラ・ポールソン)がいい。キャロルとは恋人としての関係は終わったが、深い友情がある。原作ではテレーズに対してもう少し辛辣な印象だったが、映画では年少者に対するそれとない配慮と「先輩」感が強まっている。
 そして、アビーを疎ましく思うキャロルの夫・ハージ(カイル・チャンドラー)。ハージはキャロルのことを彼なりに愛しており、彼女に「良かれ」と思って行動する。しかし彼の愛も「良かれ」という思いも、キャロルにとっては的外れで応じられるものではない。悪気がないだけに(ハージがキャロルのことを心配しているのはわかるし、娘を愛しているのも見ていてわかるのだ)厄介。映画では割愛されていたが、原作でのリチャード(テレーズのボーイフレンド)の独善的な振る舞いを思い出した。彼らは「こうであろう、こうであれ」という概念が強すぎて、そこにはまらないものを見ようとしないのだ。

『観察する男 映画を一本撮るときに、監督が考えること』

相田和弘著
 “観察映画”と称された優れたドキュメンタリー作品を撮り続けている著者。新作『牡蠣工場』が2月20日に公開される。その製作過程、またなぜドキュメンタリーの道に入ったのかを、本著の出版元であるミシマ社のインタビュー、そして自身のコラムにより綴る。『牡蠣工場』を楽しみにしているので、予習として読んだ。著者の作品は一般的なドキュメンタリー映画とは少々作り方が異なる(事前に脚本を考えない、事前の取材をしない、テロップを出さない、ナレーションを入れない等)のだが、そういう方法で製作するのはどんな感じでどんな段取りになっているのか、自身の説明によりよくわかる。そして、著者が相当に体力のある人だということもわかる。でないと、時間・情報量的に膨大な編集作業に耐えられそうもない!撮影自体も、過去作を見ていても体力的・物理的に大変そう(全部自分でやらないとならないので)だなと思ったが、圧倒的に編集の方が大変そう。しかも結構な長編ばかりなので、3時間かけて全編チェックして再度編集してまた3時間チェック・・・というような作業になる。私は映像制作の知識がないので、ログを書く(映像の中で起きていることを全部書き出す)という時点で、言われてみれば当然なのだが茫然とした。意外だったのは、“観察映画”というスタイルが著者のメンタリティや生まれ持っての特性から生まれたものではなく、自分に対する縛りとして発生したものだということだ。本来は説明したいタイプ、むしろ説明しすぎるタイプの人だというのだ。映像だけで説明するのは考えているよりはるかに難しい(これも、映像を作らない人にとっては指摘されて初めて気づくことだった)。しかし縛りをつけないと説明しすぎのつまらない作品になる。行間がないと、想像したり考えたりという鑑賞者のアクションが起こりにくいのだろう。説明したがりな人が“観察映画”を作っていてフラストレーション感じないのかな?と思ったが、映像を作るのと言葉を駆使するのとはまた違うんだろうなぁ。

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