3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2016年01月

『クリムソン・ピーク』

(若干終盤の展開に触れています)
 10歳で母親を亡くしたイーディス(ミア・ワシコウスカ)は、死んだ母親を筆頭に幽霊の姿を見ることができる。彼女は父親の死をきっかけに、イギリスの貴族であるトーマス(トム・ヒドルストン)と結婚して、彼の姉ルシール(ジェシカ・チャステイン)と共に姉弟の故郷であるイングランドの屋敷で暮らし始める。その土地は冬になると、地表の赤粘土が雪を染めることから、クリムゾン・ピークと呼ばれていた。しかしイーディスは亡霊に「クリムゾン・ピークに気をつけろ」と警告されていた。監督はギレルモ・デル・トロ。
 ビジュアルにしろ物語にしろ、とてもクラシカルなゴシックホラー。特に衣装と屋敷の造形等の美術面のクオリティは素晴らしい。これぞギレルモ・デル・トロ監督の真骨頂!って感じだ。天井の穴から雪が舞い落ちる屋敷の中とか、蛾がうごめく屋根裏の壁(これは虫嫌いにとってはぞっとするが・・・)等強いインパクトがある。一方で主人公であるイーディスの、幽霊話を書く作家志望で、裕福な家の育ちだが独立心がある理知的なキャラクターは現代的。読容貌よりも自分の能力や作品、内面に関わる部分を評価されることを望む(それ故ちょろいとも言えるのだが・・・)あたりも的を突いている感じ。ただ「こういう感じでしょ?こういうの好きでしょ?」というくすぐりをやりすぎで鼻につくように思ったが(読み書きする時だけ眼鏡かけるのもあざとい・・・)
 対して、ルシールは古典的なファム・ファタール。情愛深く情念に満ち、それにより相手を絡めとる。チャステインはあまり肉感的なルックスではないしルシールの振る舞いはクールなので、それほどねっとり感は出てないが、それにより終盤の怖さが冴えていた。
新しいタイプの女性と古いタイプの女性の対決とも見られるクライマックスは、男性そっちのけで双方強い強い!いわゆる「王子様」的ポジションかと見えた男性が、その役割を途中で放棄・断念してしまうというところもちょっとおもしろかった。
 レトロなルックスが楽しい作品だったが、幽霊のビジュアルだけはいただけない。それ幽霊じゃなくてゾンビじゃないかなー。クリーチャー寄りの造形なのだ。幽霊って人の生前の念が現れたもので肉体(が腐敗していく様)は反映されないと思うんだけど・・・。

『ディーン、君がいた瞬間』

 1955年、マグナム・フォトの若手カメラマン、デニス・ストック(ロバート・パティンソン)は名前を売るきっかけとなる作品を撮ろうとしていたが、回される仕事はスターのスチール写真ばかり。あるパーティーで新人俳優ジェームズ・ディーン(デイン・デハーン)に出会ったストックは、彼のスター性を確信し、密着取材を頼み込む。彼の故郷インディアナにまで同行するが、なかなか納得のいく撮影はできない。監督はアントン・コービン。オーウェン・パレットによる50年代のジャズをベースにした音楽がとてもよかった。
 デハーンはそれほどジェームズ・ディーンには似ていないし、本作のディーンをはじめ実在の人物の造形が、実際のその人たちに近いのかというと何とも分からない。本作はディーンという実在のスターの姿というよりも、むしろカメラマンと被写体との関係に焦点を当てたもののように思う。カメラマンであるコービン監督の体験も反映されているのだろうか。
 ストックはディーンに何かを感じて被写体に選ぶ。一方、ディーンもストックを拒むわけではない。しかし、ストックが写真を撮り続けてもディーンが心を開いたようには見えない。むしろ、一度ストックに失望した風でもある。ストックは最初のうち、「こういう写真を撮りたい」感が強すぎる。被写体よりも自分の作品の方が先にきているのだ。もっと相手を良く見る、相手の内面に歩み寄る必要があるのだろう。この姿勢は自分の息子に対しても同じだ。ストックには別れた妻との間に幼い息子がいるが、会うのも世話するのも億劫そうで、息子との約束も破ってばかり。相手の目線に合わせていくのが彼には荷が重いのだろう。相手との距離の測り方での粘りが足りないというか、辛抱が足りないというか。
 ストックとディーンの間には、それほど共通点はない。ディーンの行きつけのバーはストックは行かないようなところだし、ディーンの故郷の農場で、都会育ちのストックが浮いてしまう様子などはユーモラスでもある。農場にスーツ着ていかないもんなぁ。そんな2人が徐々に近づいていく。2人ともまだ自分の路を模索している段階というところは共通しているのだ。ただ、2人がお互いの中に何かを見出すタイミングはずれており、2人が並走する距離はわずかだとういところが、寂しくもある。

『ダイナー』

平山夢明著
闇サイトで募集していたわけありのバイトに手を出したオオバカナコは、拷問に遭遇し、会員制のダイナーにウェイトレスとして売り飛ばされた。ダイナーの客は全員殺し屋。マスター兼シェフのボンベロも料理の腕は絶品だが凄腕の殺し屋らしい。かろうじて命拾いしたオオバカナコだが、はたして生きてダイナーを出られるのか。バイオレンスがっつり盛りで殺し方もグロテスク。しかし出てくる料理は実にジューシーで(ご遺体もジューシーだけど・・・)おいしそう。何と言っても「ダイナー」だからハンバーガーがメインメニューなのだが、このパテは肉汁たっぷりなんだろうなぁ、かといって油っぽくはなく肉のがつんとした味わいに満ちているんだろうなぁ、ジビエ使ってパテとか贅沢!とよだれがわきそう。サイドメニューのスフレなども美味しそう。殺し屋たちも美味しい物の前では、一人の人間として素を垣間見させる。しかし稼業が身にしみついており、素の垣間見させ方がむしろ物悲しくもある。オオバカナコのセリフの語尾がちょっと不自然(いわゆる女言葉で今時これはないかなと)なのだが、彼女の意外なしぶとさ、ギリギリの線で普通の人としての感覚を失わないところが、ボンベロや殺し屋たちに化学反応を起こし、彼女を思わぬ境地に連れていく。

『ヴィオレット ある作家の肖像』

 ヴィオレット・ルデュック(エマニュエル・ドゥヴォス)は、母にも夫にも愛されないという想いを抱き続け、徐々にそれを書き記すようになる。憧れていたシモーヌ・ボーヴォワール(サンドリーヌ・キベルラン)に原稿を見せたところ文才を認められ、1946年に処女作『窒息』を出版。サルトル、カミュ、ジュネらに賞賛されたが、女性が生と性を赤裸々に書いたことで社会には受け入れられず、ヴィオレットは焦りを募らせていく。監督はマルタン・プロヴォ。
 表現することでしか救済されない、それをやらずにいられない人と言う点で、監督の前作『セラフィーヌの庭』と通ずるものがある。ただ、セラフィーヌの作品作りはアウトサイダーアートに近く、彼女は「世間」へはそれほど目を向けていない。生活も世間とは距離を置いた、ある種の世捨て人みたいなところもあった。しかし本作のヴィオレットは「世間」の中で生きる人(小説家になる前は戦時中なので闇屋をやって金を稼いでいた)で、加えて世の中、ことに母親に認められたくてしかたがない。私生児として生まれた彼女は、母親に望まれなかったという傷が癒えず、ずっと母親からの愛情を求め続けているのだ。しかし、自身の体験と向き合いそれを赤裸々に綴っていく彼女の文学は、世間にとって口当たりのいいものではないし、もちろん母親が彼女の文学を認めることはない。女性としての彼女は、世間が求める女性像とは異なる。かといって、世間の口に合うような表現は彼女にはできない。
 ヴィオレットはボーヴォワールを愛する、というよりも執着するのだが、それは母親や男/女たちから得られなかった愛情を求めているようにも見えた。ボーヴォワールがヴィオレットの思いに応えることはない。しかし、共感と理解はある。本作の裏面には、ボーヴォワールの思いがあるとも見られる。ボーヴォワールは言うまでもなく文壇で高い評価を得ており、著作も売れ、しかも見るからに知的で洗練されている。ヴィオレットとの共通点はないかのように見える。ただ、2人の間にあるものは愛情や友情ではないかもしれないが、文学を書くもの/読み批評するものとしての絆がある。ボーヴォワールはヴィオレットにとっての読者であり文学の理解者であり、指導者・支援者に最後まで徹する。その一線を越えることはない。それが彼女が通す筋なのだろう。
 ボーヴォワールが母親の死に対する思いを漏らすと、ヴィオレットはそれに共感を示す。自分も母親がいなくなったらどうすればいいかわからないと。ボーヴォワールはヴィオレットのその言葉を聞き、なんとも言えない表情をする。母親に対する恨みつらみを綴ってきた彼女でもそういうことを言うのか、あるいは、彼女と自分とに共通の感情があったということにか。終盤、ヴィオレットはついにベストセラーを出版する。ラジオでボーヴォワールは「私は(世間に)受け入れられなかったが彼女の作品は世の中に受けいれられた」と言う。この時のボーヴォワールはどういう心情だったのかと、ずっと考えてしまった。

『美術館の舞台裏 魅せる展覧会を作るには』

高橋明也著
美術館の運営、展覧会の企画開催は具体的にどのような内容なのか、日本の展覧会開催の特徴とは?学芸員、キュレーターの仕事はどのよう なものなのか、三菱一号館美術館の初代館長である著者による、「美術館の仕事」の紹介とでもいうべき新書。美術館に行くことは度々あっても、その内情につ いてはそれほど知らなかったので、なるほどなーと色々興味深かった。美術館内での業務ってほんと幅広くて諸々だ。これを学芸員が全部担うのって(向き不向 きもあるし)大変。研究職的な側面のイメージが強い職種だと思うが、実際は企画広報とか営業に近い業務の占める割合が大きいんじゃないかな。海外における 美術館のトップに求められる資質の違いの比較が面白い。アメリカの場合、マダム受けの良さが必要だとか。なぜなら資金の多くを寄付金が占めているからだと か。イタリアでは政治的な側面が強いというのも面白い。地方ごとの独立性が高くてその地方の政治と結びついた人材がトップに立つことが多いんだとか。だか ら日本でイタリアの美術館から作品を借り受ける時、複数の地方(ミラノとローマ両方みたいに)と交渉するのは難しいそうだ。これは新鮮だった。これらに比 べると日本の美術館の地位は著しく低いな・・・。なお、一番びっくりしたのは海外から作品を運搬する時の費用。イヤー大変!

『真昼の不思議な物体』

 特集上映「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」にて鑑賞。2001年山形国際ドキュメンタリー映画祭インターナショナルコンペティション部門優秀賞&NETPAC特別賞受賞作品。監督はアピチャッポン・ウィーラセタクン。
 タイ北部の田舎町。撮影クルーは行商人に物語を話してほしいと頼む。行商人は即興で物語を語り、その続きを象使いの少年、伝統芸能の劇団員、食堂の店員やろう学校の生徒ら、様々な人たちがリレー式に即興で語り継ぐ。
 本作が山形国際ドキュメンタリー映画祭に出品されていたというのは、何だか不思議でもある。ごく普通の人たちが話す様子を記録しているという意味ではドキュメンタリーと言えるのだが、撮影されている彼らがやっていることは、「物語」を語るという行為であり、そういう意味ではフィクションを記録しているとも言える。更に、彼らが語る物語に合わせて、再現ドラマを挿入したり、イメージを膨らませる映像を挿入したりと、「物語」としての肉付けに積極的なのだ。物語を作る様をドキュメンタリーとして記録しているとも言えるのだが、はたしてフィクションとノンフィクションの境目はどこにあるのか、ドキュメンタリーとはそもそもどういうものなのか、考えさせられる。本作は、かなり恣意的に「物語」へ接近したドキュメンタリーなのだ。撮影した映像と既存の映像(多分過去の報道やTV番組など)との組み合わせが巧みで、構成力の高さが垣間見られる。
 本作に登場して物語をリレーしていく人たちは、語り手としては素人。物語の展開も、予想もつかない素っ頓狂な方向に転がっていく。出来あがった「物語」としてはいびつでへんてこなのだが、語り手の年齢や性別、おかれた環境が少しずつ反映されているように見え、そこが面白い。子供のお話はそれまでの文脈をほぼ無視してくるので、その唐突感がユーモラス。全く別のものを
 なお、終盤延々と校庭や水辺で遊ぶ子供たちの姿が映される。他作品でも似た傾向があったけど、最後を遊びや運動など、遊戯性の高い映像で締めるのは監督の趣味なのかな。

『世紀の光』

 特集上映「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」にて鑑賞。緑豊かな田舎の病院。新人の男性スタッフは女医に恋心を抱いている。一方、現代的な都会の病院。田舎の病院と同じような出来事が、同じ人たちによって繰り返される。監督・脚本はアピチャッポン・ウィーラセタクン。
 前半と後半で、同じようなことを舞台を変えてやっているような、過去と未来のような、あるいはパラレルワールドのような、なんとも不思議な作品。アピチャッポン監督の前作『ブンミおじさんの森』では、この世とあの世の地続き感が濃厚だったが、本作ではこの世がいくつもあると言ったほうがいいだろう。異界ではなく、どちらもこの世界、ただ位相が違うという感じだ。パラレルワールドなのか過去と未来なのかわからないが、同じような(しかし細部は異なる)人の営みが繰り返され続いていく。そういう意味では、いきなり異界とドッキングしてくる『ブンミおじさんの森』よりも、大分穏やかかもしれない。
 同じ夢のバリエーション違いを見ているような感覚に陥った。私は同じ町が舞台になる夢を度々見るのだが、その感じに似ている。実際、見ているとすごくいい気持ちで眠くなるんだけど・・・。
 光にあふれ穏やかに見えるが、所々、異界に引き込まれるような不穏な気配を感じた。特に終盤、建物の取り壊しが行われているシーンと、それに続く、謎の空調パイプみたいなもの(これに限らず後半の病院の設備は色々と謎だ・・・)に煙が吸い込まれていくシーンは、ビジュアルよりも先に音がフレームの外、ないしは次のショットから時間を越えて聴こえてくるような感じがする。人工物の方が、本作では得体のしれない不気味さを放っていた。そして、そこから脱力させる最後の公園のシーン。ニール&イライザの音楽のポップさも際立っていて笑っちゃう。

『火星の人』

アンディ・ウィアー著、小野田和子訳
NASAによる3度目の有人火星探査は、猛烈な砂嵐により6日で中止、クルーは火星を離脱することになった。しかし離脱寸前に嵐による事故が起き、クルーの1人であるマーク・ワトニーが吹き飛ばされた。クルーは彼の遺体を回収できずに離脱、地球へと向かう。しかしワトニーは奇跡的に生きており、残された物資と自らの知恵で生き延びる道を探り始めた。読み始めからいきなり面白い!本気で手に汗握ってはらはらする小説を久しぶりに読んだ。火星に1人取り残される、物資にも限りがあるという絶望的な状況でのサバイバルなのだが、トーンはからっとしてユーモラスですらある。本作はワトニーの一人称による音声記録(現状を記録する作業日記みたいなもの)と、NASA関係者らの第三者視点のパートとに分かれているのだが、ワトニーの一人称パートが圧倒的に面白い。「もし火星にいたらこんなことが起きる」シュミレーションであり、手元にあるものを使っての命をかけたD.I.Yの工程なのだ。彼はとにかく具体的に今何ができてどうすればいいか、を考察、シュミレートし順番に実地していく。これが科学者メンタリティか!また、(この状況下においても)軽妙な語りと言葉の選び方がいい。生き延びるにはユーモアが必要なのだ。これは翻訳の的確さもあるのだろう。特に語尾の処理のニュアンスの出し方が上手い。そして終盤、「めっちゃクールだろ?」と彼が言うところの、クールが指すもの。やはりこれに泣かされる。世の中にはちゃんとこれがあるぞ!大丈夫!と著者自身が信じているのだろうし、その姿勢が本作の芯になっていると思う。なお本作、リドリー・スコット監督、マット・デイモン主演で映画化された(映画題名は『オデッセイ』)。日本では2月5日公開予定。もう絶対見ます。

『ストレイト・アウタ・コンプトン』

 1986年、カリフォルニア州コンプトンで、地元の若者ドクター・ドレー(コーリー・ホーキンス)はドラッグ売人だったイージー・E(ジェイソン・ミッチェル)に出資を頼み、アイス・キューブ(オシェア・ジャクソン・Jr)、MCレン(オルディス・ホッジ)、DJイェラ(ニール・ブラウン・Jr)とヒップホップグループ「N.W.A」を結成してレコードをリリースする。そのレコードは音楽マネージャーのジェリー・ヘラー(ポール・ジアマッティ)の目に留まり、彼らはヒップホップスターとしてのし上がっていく。しかし過激なリリックは熱狂と共に反発も呼び、特に警察の横暴に対する強いメッセージが含まれていることで、警察やFBIからも目を付けられる。監督はF・ゲイリー・グレイ。
 後にスターとなるN.W.Aの伝記的な作品であり、当然実話が元になっているが、ヒップホップに詳しくなくても楽しめる。故郷からの旅立ち、社会的な成功、仲間との絆と不和という、青春、そして青春の終りを描いたオーソドックスな物語になっている。ただ、題材的にもうちょっとはじけるかなと思ったら、自分にとってはそうでもなかった。予想以上に予定調和(実話がそうなっているんだからしょうがないといえばしょうがないが)で、ストーリーの運びが順当すぎるくらいなのだ。ないものねだりかもしれないが、収まりが良すぎて拍子抜けした。
 また、「この最低な町から出ていく」というところは青春ぽいのだが、いざ町から出て大成功しても、N.W.Aの面々のやっていること、彼らのノリは、町にいたころとあまり変わらない。良くも悪くも「出て行くに伴い何かを捨てた」という旅立ち感があまりないのだ。それが仲間との絆があるということなのかもしれないが、取り巻く世界の狭苦しさも感じた。「仲間」ノリがこうじて、イージー・Eに関してはジェリーとの慣れあいの末のトラブルになってしまうわけだしなぁ・・・。
 一番印象に残ったのは、'89年当時の(いわゆるあまり土地柄のよくないエリアでの)黒人に対する警官の横暴さ。この時代でもこんな感じだったのか!と。場所が違えば訴訟問題になりかねないレベルの無茶さ(映画、加えてN.W.A側から見たストーリーだから誇張はあるのかもしれないが)がまかり通っていたのかと思うとびっくりする。もうちょっと何とかなっているのかと思っていた・・・。イージー・Eがジェリーを信じ続けてしまったのは、自分たちが警官に不当に取り調べられた時、彼が「それは不当だ」とまともに抗議したからというのも一つの要因だったんじゃないかな。

『あの頃エッフェル塔の下で』

 長い海外生活を終えた文化人類学者のポール(マチュー・アマルリック)は、パスポートに問題があると言われ空港で引き止められてしまう。同姓同名、同じ生年月日のパスポートを持った男にスパイ容疑が掛けられていたのだ。ポールは青年時代に旅行したソ連で、1人の青年にパスポートを貸したことを思い出す。更に、周囲の憧れだった少女エステル(ルー・ロワ=ルコリネ)との恋の思い出を辿る。当時ポール(カンタン・ドルメール)はパリの大学に進学しており、高校生だったエステルと大量の手紙をやりとりしていた。監督はアルノー・デプレシャン。
 予告編だと、青春時代のほろ苦いラブストーリーという雰囲気だが、本作の序盤はその印象を裏切ってくる。ポールが空港でいきなり身柄確保されちゃうし、別人が同じパスポートを持っているなんて言われたり、過去の回想も政治活動団体の支援みたいなものだったりとサスペンス映画のようだ。加えてポールの生い立ち、家庭環境も母親に問題があり何かと深刻そう。しかし、これだけ尺取ったんだから後々伏線になってくるのかしらと思ったら全くなっていない。えっスルーなの?!エステルの思い出につなげる為ならもうちょっと穏当なエピソードあったんじゃないの?!とまずはびっくりした。デプレシャンて、ちょいちょい不思議なことやるなぁ。
 恋愛、特に青春時代の恋愛の勢いというのは、つくづく恐ろしいものだ。ポールとエステルは大恋愛中なのだが、携帯電話もインターネットもない時代なので、遠距離恋愛の道具は電話と手紙になる。お金がないので当然手紙が主になるのだが、2人でやりとりしている手紙の内容って、後々見直したら黒歴史だよな!そういう視点が全く生まれないところが、恋愛の勢いなのだろう。私だったら送った手紙の処遇が気になっちゃっておちおち寝ていられないよ・・・。
 ポールはデプレシャンの代表作『そして僕は恋をする』の主人公でもあり、やはりアマルリックが演じている(『そして~』には10年来の恋人としてエステルも登場している)。日本で公開された当時に見た記憶はあるのだが、本作を見ると大分イメージが違うような・・・。ポールってこんなにいけすかない、踏ん切りのつかない奴だったかな?わりとモテて恋愛強者、というイメージは当時からあったのだが、エステルに対しては自分の気持ちばかり先に立ってしまって、相手の事情を考えない感じなのだ。惰性で遠距離恋愛を続けているようにも見える。エステルがポールとは別れて彼の友人と付き合おうとすると激怒する(大人になってからも蒸し返して激怒する)が、そもそも付き合いが続いていると言えるのか?前々からお互い浮気していたんだしもういいんじゃないの?って気分になってくる。お互いにどういうモチベーションで関係を続けているのか、双方の愛情がどういうものなのか周囲にはわからないだろうし、多分当人にもわからないのだろう。
 むしろ恋愛関係ではなく、恩師である人類学の教授に対するポールの態度の方に、率直な愛情が垣間見られる。ポールは教授の正式なゼミ生ではなく半ば「弟子」みたいな形で押しかけるのだが、教授は面白がってそれを受け入れる。2人の関係には課題を与える/応えるというキャッチボールが成立しており、お互いに敬意があって、安心して見ていられた。どこか自己憐憫を含むエステルを失った悲しみよりも、教授を失った悲しみの方が、ポールにとってはクリティカルだったのではないだろうか。

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