3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2016年01月

『失われた時を求めて④ 第二篇「花咲く乙女たちのかげにⅡ』

マルセル・プルースト著、高遠弘美訳
避暑地バルベックを訪れた「私」は、貴族階級の人々や高名な画家と交流を深め、サン・ルー侯爵とは親友のような関係になる。とりわけ「私」の心をとらえたのは、避暑に訪れていた少女たち、特にアルベルチーヌという活発な少女だった。光文社古典新訳文庫版で読んでいるのだが、ようやく4冊目。全14巻だそうなのであと何年かかるんだろう・・・。今回は避暑地でのひと夏が舞台ということで、夏休みのような浮き立った気分に包まれている。予想外に青春小説ぽさを感じた。年長の才人や、にぎやかな少女たちへの憧れに彩られているのも、青春ぽさを強めている一因だろう。特に少女たちの描写は、最初は「少女たち」という群れとしての認識だったのが、徐々に個々の個性が見えてくるところが楽しい。「私」が勝手にこうであろう、と少女たちの姿を夢想していたところ、画家に紹介されて実際に顔を合わせる羽目になり焦るところなども、いかにも若くてユーモラスでもある。今回、これは青春の黒歴史だな!と笑ってしまう部分が多いのも意外だった。「私」は自分が見たいように他人や物事を見るところがあるが、段々見方が変わっていく。「私」がどんどん変化していく様がわかる、流れるようなパートでもあった。そこもまた青春ぽい。

『サウルの息子』

 1944年10月、アウシュビッツ=ビルケナウ収容所でゾンダーコマンド(ユダヤ人収容者による、ユダヤ人の死体処理を行う特殊部隊)をしているユダヤ系ハンガリー人サウル(ルーリグ・ゲーザ)は、1人の少年の遺体を見つける。その遺体を手厚く葬ろうとするが。監督はネメシュ・ラースロー。
 カメラはサウルに密着しており、周囲のピントはぼやけている。ハンディカメラ風の映像なので画面は安定せずチラチラするし、目が疲れる。それでも背後で死体が山になっているのとか、人々が銃殺されているのとかはわかる。全容が分からず部分的に分かるというのは却って怖い。カメラのピントが合っている部分を極端に狭めているのは、サウルの視野と映画を見ている側とを同調させる為だろう。サウルにとって、自分を取り巻く状況の中で認識できる部分はわずかだ。逆に、周囲がよく見えたら発狂してしまうかもしれない。そんな状況を体験するような作品だ。収容所の中はせわしなく、極端に緊張を強いられるので、よけいに視野が狭まっていく。画面サイズがスタンダード・サイズなのも、狭さをより強調する為か。観客体感型の映画としてはすごく良く出来ていると思う。それは、内容が内容だけに非常に緊張を強いられるということなのだが。選んだ手法と、表現しようとしていることががっちりと噛みあっている作品だ。
 アウシュビッツで、一般の収容者でなくゾンダーコマンドがどういう生活をしていたかを追体験するという映画はなかなかないのではないだろうか。ホロコーストの生き残りへのインタビューから成るドキュメンタリー『SHOAH ショア』(クロード・ランズマン監督)の中に、やはりゾンダーコマンドだった人の話が出てくるのだが、それを思い出した。彼が話していた体験を、本作では映像で確認するわけだが、やはりきつい。「使用後」のガス室の掃除とか、収容者がどんどん増えて収拾つかなくなるのとか、『ショア』でも聞いた話ではあるが、フィクションであれノンフィクションであれ映像の力というのは良くも悪くも強い。
 サウルがやろうとしていることは、彼を取り巻く状況下では、リスクが高すぎ、自分だけではなく周囲の人の命も奪いかねないし、現実的とも思えないだろう。他人から見たら狂っているようにも見えるかもしれない。それでも、サウルにとっては、自分の正気を保つためには切実にやらねばならないことなのだ。

『階段通りの人々』

 特集上映「永遠のオリヴェイラ」で鑑賞。リスボンの貧民街、通称「階段通り」。盲目の老人(ルイス=ミゲル・シントラ)が、通行人からお恵みの小銭を集める「恵みの箱」を手に入れたことに、周囲の住人はやっかみ混じりで興味津々だった。洗濯女をしている老人の娘(ベアトリス・バタルダ)と娘婿(フィリペ・コシュフェル)は老人を厄介者扱いしつつも「恵の箱」による収入を当てにしている。孫と住む近所の老女(フリニシア・クァルティン)は妬みを隠さず不満たらたらだ。居酒屋の主人(ルイ・デ・カルヴァリョ)が店を開き、豆売り(イザベル・ルス)が路上に店を構え、階段通りの1日が始まる。監督・脚本はマノエル・ド・オリヴェイラ。1994年の作品。
 舞台が階段通りの路面と居酒屋の中に限られており、登場人物はそこに出たり入ったりする。人物の登場・退場が舞台劇のようだなと思った。雑多なようでいて、きっちり管理されている感じがするのだ。実際、元々はプリスタ・モンテイロによる演劇の戯曲だったものを、映画向きと判断したオリヴェイラが脚色したのだそうだ。また、ミュージカルというわけではないが、音楽が使われるシーンも印象に残った。サウンドトラックというのではなく、しばしば音楽(居酒屋でギタリストが演奏したり、豆売りが歌ったり)が挿入されるのだが、これが幕間というか、時に場面転換のような機能も果たしており、そこも舞台劇っぽい。
 冒頭で、これは寓話だという趣旨の字幕が出る。終盤でなぜか「演舞」があるのも、舞台劇っぽさと同時に寓話、おとぎ話っぽさを醸し出している。とは言え、寓話だけれど貧しさ故のぎすぎす感は結構生々しい。貧しいけれど心豊か、あるいは清貧という概念は多分本作にはないんじゃないだろうか。豊かなら豊かなりの、貧しければ貧しいなりの妬み嫉みやご近所トラブルが生まれるのだ。人間はそういうものだ、という諦念が滲み、ラストのある人物のちゃっかりした「その後」も、大分シニカルではある。
 貧しい人々に対する暖かいまなざし、みたいなものはここにはない。ただ、暖かいまなざしというのは時に(当事者ではないからこその)上から目線の憐みになりかねない。本作の視線は、階段通りの人々と同じ位置にあり、だからこそ彼らの嫉妬や情けなさと容赦なく向き合う。オリヴェイラの近年の監督作『家族の灯り』に通じるものを感じた。多分、富裕層の人たちの話だったとしても、同じように描かれるのではないだろうか。

『パディントン』

 ペルーの奥地からロンドンにやってきた小熊は、駅で出会ったブラウン一家に助けられ、パディントンと名付けられた。ブラウン家に居候することになったパディントン(ベン・ウィショー)は、昔おじさんとおばさんが会った探検家の居所、そして自分の「家」を探していた。原作は1958年に第一作が出版されてから世界中で愛され続けているイギリスの児童文学。監督はポール・キング。
 老若男女で楽しめる楽しい、かつ目配りがよくきいた作品だと思う。パディントンの造形が意外としっかり「熊」。擬人化されてはいるものの人間に近すぎず、かわいすぎず、かといって不気味ではないというバランスの取れたデザインと動きだ。話す時は紳士なのに食べる時はいきなり獣っぽくなるという、本能に逆らえない感じ(ちゃんとグルグルガウガウ音をたてるし)もユーモラス。パディントンはブラウン一家の友達であり家族だけれど、人間ではなく熊だという所はブレない。それでもなお、友人だし家族なのだ。自分達と違う存在と一緒にやっていく、しかも、お互い愉快にやっていくことができるという所が本作のいいところだろう。
 パディントンがイギリスにやってくる理由は、原作ではあまり具体的に説明されていなかった記憶があるが、この映画でははっきりと、その理由を描いている。これがかなりシリアスなものだ。パディントンはロンドンへの憧れは持っているが、憧れというよりもやむを得ずやってきたという方向付けだ。だからこそ、ロンドンでペルーで撮影されたフィルムを見た時のパディントンの気持ちが、よりしみじみと伝わってくる。パディントンは「家」を手に入れるが、「家」と「故郷」は同じものではないし、「故郷」の代替品にはならないんだなと。もちろん「めでたしめでたし」的な物語ではあるが、ほのかに寂しさがにじむのはそのせいか。
 ブラウン夫妻の造形がいい。「子供ができると女性は変わる」という言い回しはよく聞かれるが、本作で変わるのは夫であるブラウン氏(ヒュー・ボネビル)。子供が心配なあまり、頭が固く慎重すぎるくらい慎重で融通がきかなくなってしまう。一方、ブラウン夫人(サリー・ホーキンス)は柔軟な自由人。子供たちにとっては両親どちらも変わり者で同級生に知られたりするとちょっと嫌だな・・・って素振りはなかなか子供心わかってるなーと思った。大人から見た「素敵なご両親」と子供にとっての「素敵なご両親」てちょっと違うよな。
 ブラウン家の内装がとてもかわいい。玄関ホールの壁の絵とか、うらやましい!こんな風に壁塗りたい!って思っちゃう。ドールハウス風に家の断面図が出てくるのも嬉しい。こういうショットがあるとウキウキしちゃう。

『白の迷路』

ジェイムズ・トンプソン著、高里ひろ訳
ヘルシンキ警察の警部だったカリ・ヴァーラは、フィンランド国家捜査局で特殊部隊を指揮することになる。しかしその業務は超法規的なものだった。ある日、移民擁護派の政治家が殺害され、東武を切断される事件が起きる。さらにそれに対する報復殺人と見られる事件がおき、国内の空気は一気に不穏なものに。そんな中、フランス政府に雇われたという男がカリの前に現れる。『極夜』『凍氷』に続くシリーズ第3弾。これまではフィンランドの風土・文化を交えたダークな刑事小説という感じだったのだが、ここにきていきなり方向性が変わってきた。カリは正義感が強いが、正義の為なら手段を選ばない、ダークヒーローのようになっていく。完全に「あちら側」に行ってしまうのだ。正義の為と言いつつやっていることは盗みや殺人といった犯罪行為だ。更に脳腫瘍の手術の後遺症のせいで感情がマヒし、白か黒かという極端な考え方になっていく。さらにカリは妻のケイトまで巻き込んでしまうのだ。事件と調査の進展の仕方はちょっと強引なのだが、カリが何かを失っていく様、それでも自分の正義漢に突き動かされ進み続けてしまう様が読ませる、というか「そこまで行ったらもう戻れないぞ!」とハラハラしつつ読まないといけない気がしてしまう。それにしても本作で描かれるフィンランドの移民憎悪はリアルなものなのだろうか。だとするときついなぁ。更に本作の表紙、雪かと思ったらこれは・・・。

『きょうだいコンプレックス』

岡田尊司著
かけがえのない同胞であると同時に、永遠のライバルでもあるきょうだい。一歩間違うと親の愛情の奪い合いや遺産争いといった問題に発展し、双方の人生を狂わせてしまうこともある。なぜ「きょうだいコンプレックス」は生じるのか、どういった影響があるのかを解説した入門書的新書。ごくごく平易でわかりやすく、実在の人物の事例(トーマス・マンやドストエフスキーのエピソードはなかなか強烈である)も引き合いに出していて、さらりと読める。きょうだいコンプレックスがこじれるか否かは親との関係、更に言うと親の自己愛の在り方により大きく左右されるそうだ。特定の子供を贔屓する、あるいは冷たくせずにはいられない親がおり、その態度はゆがんだ自己愛によるものだと言う。これだと子供側から出来ることってあんまりないよなぁ、そもそも自分のせいではなく親に原因があること自体に気付かないんじゃ・・・と思っていたら、実際、自分と親との関係がおかしいと大人になるまで気づかず(他の家庭との比較って案外できないので)、拗れてしまうケースが多いようだ。親との関係、兄弟との関係の在り方を家族以外の人との関係にも投影してしまい人間関係に失敗することも多々あるそうだ。解決の糸口は自分の育ち方や両親、きょうだいとの関係を見つめなおすほかないというが、それもしんどいだろう。自分や家族の病気、不幸が契機になって関係を再構築できることがあるというのは、そのくらい追い詰められないと難しい(著者はもっと気持ちが優しい言い方をしているけど(笑))んじゃないだろうか。

『知らない、ふたり』

 過去のある出来事により、周囲との関わりを最小限にとどめ、ひっそりとくらしている靴職人見習いのキム・レオン(レン)は、ある日、公園のベンチで酔っぱらっていた女性ソナ(韓英恵)に絡まれるが、彼女のことが忘れられずこっそりと尾行してしまう。レオンの同僚・小風秋子(青柳文子)はレオンに片思いしていた。一方、ソナの友人で彼女の靴を修理するために来店したナム・サンス(ミンヒョン)は小風に一目ぼれし、ソナの恋人ユ・ジウ(JR)は語学教師の幸田加奈子(木南晴夏)に好意を寄せる。監督・脚本は今泉力哉。
 なんだかホン・サンス監督の作品に少女漫画テイストを投入したような雰囲気だなーと思っていたら、今泉監督は本当に「日本のホン・サンス」って言われていたのか・・・。今泉監督の作品を見るのは初めて、かつ本作に関する事前情報は予告編のみという状態で見たんだけど、予想以上に面白かった。最初にレオンの状況を字幕で説明しちゃうのには、えっこの先大丈夫かな?と心配になったけれど、徐々に「映画」っぽさが増していく。レオン、サンス、ジウの韓国人男性3人が大変美形で、アイドルかモデル系の人たちなのかな?と思ったら、韓国アーティストグループNU'ESTのメンバーだそうだ。映画の作風はいわゆるインディペンデント系の匂いがするもので、他の出演者もその系統の映画で良く見かける面子なのに、この3人だけがキラキラしていて不思議な雰囲気。ただ、他から浮いているということはなく、お芝居も悪くない。特にミンヒョンは間の取り方がしっかりていて、コメディのセンスがあるんじゃないかなと思った。
 片思いが連鎖していくような群像劇だが、妙なおかしみもあり、客席からも笑いが沸いていた。おかしみは主に会話から生じている。人と人との会話は、必ずしも受け答えに筋が通っているわけではなく、キャッチボールになっていない双方投げっぱなしの時もあるし、いきなり文脈が脱線したりもする。そういうちぐはぐな部分の作り方が上手い。そして、そういう部分がある方が会話って面白いのかなと思わせる。
 コミュニケーションが一方通行というシチュエーションが、本作には度々出てくる。彼らは、自分が想うあの人が何をしているのか、何者であるのか知らない。誰が自分を想っているのかも。なるほど「知らない、ふたり」なのだ。ソナは酔って「一目ぼれは、だめだよ」と言う。あまりに相手を「知らない」からだろう。自分は、あの人はなぜ好きになったのか、根拠がわからないのだから。しかし知らないってことは、知りたいと思う余地がいっぱいあるということだ。本作に登場する人たちは、知ろうとするのだ。最後にある人が、恋をした、と言うのはそういうことかも。

『ブリッジ・オブ・スパイ』

 米ソ冷戦下のアメリカ。保険分野で経験を積んできた弁護士のジェームズ・ドノヴァン(トム・ハンクス)は、政府からある依頼を受ける。ソ連のスパイとして逮捕されたルドルフ・アベル(マーク・ライランス)の弁護をしてほしいというのだ。依頼を受け裁判に臨むドノヴァンだが、敵国のスパイを弁護したと世間から非難され、家族にも危害が加えられそうになる。それでも弁護士としての職務を全うしようとするドノヴァンとアベルの間には、一種の敬意が生まれ、裁判はなんとか死刑判決を回避し懲役30年の判決を得る。5年後、ソ連を偵察飛行中だったアメリカ機が爆撃され、パイロットのフランシス・ゲイリー・パワーズ(オースティン・ストウェル)がソ連に捕えられた。同時に東ドイツではアメリカ人学生フレデリック・プライヤー(ウィル・ロジャース)が逮捕される。交渉人に任命されたドノヴァンは、アベルと2人のアメリカ人を交換するという奇策に挑戦する。監督はスティーブン・スピルバーグ。脚本はジョエル&イーサン・コーエン。1960年に実際に起きた事件を元にしている。
 実在の人物をモデルにしている物語そのものはもちろん面白かったが、建設途中のベルリンの壁が出てくるという、時代背景も見所。壁が未完成(それにしても短時間でよくこんなもの作ったな!冗談かと思いそう)で穴があるので、東から西へ人が次々と逃げていくのだ。東ベルリンはまだ廃墟が多く残っている状態で実に寒々しいのだが、廃墟や荒廃度合いの作りこみにやたらと気合が入っていて、当たり障りのないアメリカのシーンのセットは何だったんだ!と突っ込みたくなった。スピルバーグは根本的に廃墟・塹壕好きなんだろうな・・・。ともあれ、時代描写の面でも面白い作品。
 ドノヴァンは自分にメリットはほぼないと承知でアベルの弁護を引き受け、死刑を回避するのに奔走し、果ては無実を勝ち取ろうとする。周囲はそれを理解できず、なぜアメリカの敵を守ろうとするのかと問う。ドノヴァンにとっては弁護しないという選択はないのだろうが、アメリカには憲法があるからということを言う。被告が悪人であろうが国の敵であろうが「それはそれ、これはこれ」で、人としての権利は守らなくてはならない、フェアな裁判を受ける権利があるわけだ。アメリカが立憲国家である以上、ここをおろそかにしたら国の根幹を損なう、それこそ本当に国益に反するのでは?ということだろう。自分たちを守っていたものをおろそかにすることになるのだから。
 ドノヴァンは、頭脳と交渉力を駆使するが、いわゆるヒーロー的な華やかな人物ではない。一つ一つ出来ることをやっていく地味な仕事ぶりだ。FBIの監視を振り切ったと思ったら全然振り切れてなかったり、ベルリンのチンピラにコートをまきあげられたりもする。ただ、アベルが「不屈の男」と評するように、彼は自分の信念を曲げない。そこがかっこいいし、こうであれ、という願いも込められているように思った。ハンクスはスター俳優だが、むしろ本作のような地味な役の方が嫌みがなくていい。
 アベルの造形がとてもいい。演じるライランスの演技も素晴らしいのだが、国に忠実かつ飄々と不運を受け流していく感じが印象に残った。不安じゃないのか、怖くないのかと聞かれて「何の役に立つ?」と答えるところは、脚本を手がけたコーエン兄弟の作品ぽいかも。

『消えた声が、その名を呼ぶ』

 第一次大戦中の1915年、オスマン帝国のマルディンに住むアルメニア人のナザレット(タハール・ラヒム)は、憲兵によって家族と引き離され、砂漠に強制連行された。強制労働の果てに殺されそうになるが、声を失うものの奇跡的に生き延びたナザレットは、生き別れた双子の娘と再会する為、旅を続ける。監督・脚本はファティ・アキン。
 100年前に多くのアルメニア人がオスマン帝国で犠牲になったという歴史が背景にあるそうだが、本作は歴史というよりもむしろ神話のような雰囲気があった。オスマン帝国から南米へ、さらにアメリカへという延々と伸びていく旅、娘たちの手がかりをつかんだかと思うとまた立ち消えるというおぼつかなさ、ナザレットが死にそうになると誰かしらが手を差し伸べるという、見方によっては大分都合が良すぎる展開だが、神話や寓話、おとぎ話と思うと腑に落ちる。
 敬虔なクリスチャンだったナザレットは、生き延びるために盗みや暴力も辞さなくなり、理不尽な運命の前にやがて信仰を捨てたと言う。しかし地球を半周するような旅の中でも、教会は常に彼の近くにある(暗喩的な意味以前に、そのくらいキリスト教教会の数が多いということだろうが)。ナザレット自身も非情になりきったわけではなく、死にゆく人を捨て置けなかったり、暴力に見て見ぬふりをできず自分がズタボロにされたりもする。そこに彼の人間性が見えると同時に、信仰を「捨てる」というのは実は非常に難しいのではないかと思った。彼が最後に辿りつく土地にも教会はある。が、その土地は教会の神とはまた違った神の住む所のように見えた。人間がいなさすぎるってこういうことかなと思わせる景色にインパクトがある。
 私はファティ・アキン監督の映画は大概好きなのだが、どこが好きなのかなと考えてみると、主人公が何かに駆り立てられている、走り続けている感じがするからかもしれない。彼らを突き動かすものは往々にして(対人じゃないとしても)愛だ。ナザレットも、娘たちへの愛だけを支えに、再会できると信じて歩み続ける。その愛は彼を休ませない呪いのようでもあるが、彼を生かすただ一つのものでもあるのだ。この、リアリズムというには少々極端なナザレットのモチベーションも、本作を神話、寓話のように見せている要因の一つだと思う。
 なお本作、アレクサンダー・ハッケによる音楽がすごくいい!アキンとはドキュメンタリー作品『トラブゾン狂騒曲 小さな村の大きなゴミ騒動』でも組んでいるそうだ。

『フランス組曲』

 1940年、ドイツ軍がパリを占領し、市民は田舎へ大移動していた。ある田舎町にも大勢の避難民がやってくるが、ほどなく町はドイツ軍の占領下になる。出征中の夫の帰りを姑のアンジェリエ夫人(クリスティン・スコット・トーマス)と待つリュシル(ミシェル・ウィリアムズ)は、厳格なアンジェリエ夫人に委縮しつつ暮らしていた。アンジェリエ家の屋敷にドイツ軍中尉・ブルーノ(マティアス・スーナールツ)が泊ることになる。最初は警戒していたものの、音楽好きという共通点があったリュシルとブルーノは徐々に親しくなっていく。監督はソウル・ディブ。原作はイレーネ・ネミロフスキーの未完の小説。
 戦時下メロドラマとして悪くはなく、それなりに面白く見たのだが、原作の素晴らしさを知っていると、なんとも勿体ない。原作には様々な境遇の人たちの複数の声が重層的に響いていたのだが、この映画はリュシルとブルーノの恋愛にスポットをあてており、他のエピソードは省略されている。そのせいで、かなり平面的・直線的な構成になってしまった。2時間の映画としてはこうするのが妥当というのはわかるが、それだったら『フランス組曲』を原作に使う必要がなくなっちゃうんじゃないかな・・・。映画と原作は別物というのは重々承知しているが、もったいない。
 リュシルはアンジェリエ夫人の厳しい監視下にあり、貞淑な人妻、従順な嫁としての態度を強いられている。彼女が感じている閉塞感、不自由さは、ドイツ軍に支配された町の空気とも重なってくる。彼女はブルーノと接することで音楽の楽しみや一人の女性としてふるまう歓びを取り戻していくが、それは町の住民から白い目で見られ、姑を激怒させるものだ。また、ドイツ軍が到着するやいなや、ブルーノの元には町民を密告する手紙が次々と舞い込む。不自由・不安な戦時下で皆がふつふつと抱えていたものが、気に入らない誰かをつるし上げるという形で噴き出すのだ。町の人たちの多くは気のいい、ごく普通の人たちだろう。でも誰の中にもちょっとした悪意や嫉妬、暴力性があり、きっかけがあれば膨れ上がり噴出する。こういった負の感情のコントロールはそんなに難しいのだろうかとげんなりとさせられる。
 またこういった行動は、ドイツ兵達についても同じだ。おそらく彼らは特に悪辣ではない、普通の若者たちだろう。しかし戦時下、そして占領する側・勝者の側に立った時、相手を蹂躙することにさほどのためらいを見せなくなる。横暴・乱暴であるのが当然のように振舞うようになるのだ。人間はやってもいいという大義名分があれば、責任を問われないと保証されていれば、ひどいこともさらっとやってしまう。そこに戦争の怖さがある。
 とは言え、非常時下でも空気に呑まれない、自分の中の指針を見失わない人たちがいる。アンジェリエ夫人の言いなりだったリュシルも、ドイツ兵として振舞うしかなかったブルーノも、それを持っているのだ。アンジェリエ夫人のある変化は、ほのかな希望でもある。だが、その発露が唐突に見えるあたり、やはりちょっと残念な映画化だった。

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