3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2015年12月

『ノックス・マシン』

法月綸太郎著
2058年、小説はプログラムにより自動生成されるようになった世界。20世紀の探偵小説の研究者ユアン・チンルウは、国家科学技術局から呼び出された。「ノックスの十戒」第5項について彼が立てた仮説が、史上初の双方向タイムトラベル成功の鍵になるというのだ。本格ミステリ作家である著者によるSF、だがやはり本格ミステリ。そもそもノックスを持ちだす時点で(知らなくても楽しめるように書いてはあるけど)本格ミステリ読者以外は食いつきにくいそう。しかし本格ミステリが好きな人は、やるなぁ!と唸らせられるのではないだろうか。SFとしてちょっと懐かしい味わいもありつつ、ミステリに関するペダントリィとパロディ精神に満ちている。表題作の「ノックス・マシン」 、その続編「論理蒸発 ノックス・マシン2」は、著者の本格ミステリに対する愛と敬意を感じさせ目がしら熱くなる。更に、小説というもの、そのものへの愛と敬意が詰まっているのだ。法月先生、実は熱い人だよな!と改めて感じる。

『メニルモンタン 2つの秋と3つの冬』

 ボルドーの美大を卒業したアルマン(ヴァンサン・マケーニュ)は、職を転々とし、学生時代からの友人のバンジャマン(バスティアン・ブイヨン)とつるみつつ、パリのはずれのメニルモンタンで暮らし続けていた。33歳の誕生日に、思い立ってタバコをやめジョギングを始めた彼は、同じく公園でジョギングをしていた27歳のアメリ(モード・ウィラー)に恋をする。監督はセバスチャン・ベベデール。
 冒頭、アルマンによるナレーション内に「33歳の青年」という言葉が出てくるのだが、ああフランスでもか・・・!としみじみし、一気に親近感がわいてきた。今の33歳は社会的には立派な成人だが、当人はまだ「大人」であることに自信が持てない人も多いのではないか(それを言ったら40歳になっても50歳になっても私は自身が持てそうにないけど・・・)。パリといえば昔からおしゃれで恋の都でパリジャンたちは皆シュッとしていて・・・というイメージだが、本作にはおしゃれでシュっとしている人は出てこないし、恋多き人たちでもないし、恋愛の手練れでもない。人生に迷いつつ地味に生きている、ごく普通の人たちだ。
 アルマンとアメリはドラマティックな事件により近づくが、2人はヒーローにもヒロインにも見えない。なんとなくぱっとしないままだし、かっこつかないのだ。アルマンの友人(作中主人公というわけではない)バンジャマンとその恋人の方が、まだしも「主人公カップル」的な属性があるように見える。本作は主にアルマンとアメリのモノローグで進行するのだが、2人ともメタ視線というか、自分たちに対して距離を置いた語りをする。それがまた、あんまり主人公ぽくないのだ。でも、そういう人たちも、自分の人生の上では主人公だし、自分たちでなんとかやっていくしかない。
 アメリが、とある状況に泣いてしまい、あることでアルマンとの関係がこじれてしまうのだが、この感じ、自分で処理しなければいけないが処理しきれない感じはすごくよくわかるなと思った。ドラマみたいにかっこよくはできないのだ。それでも、関係を築き直したかったら相手に働きかけるしかない。アルマンとアメリが話し合おうとする時、彼らがまた少し大人になっていくように見えた。

『写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』

 1940年代から活動するカラー写真の先駆者であり、ファッション誌の表紙も飾った写真家ソール・ライター。しかし1980年代には表舞台から姿を消し、2006年にシュタイデル社から作品集が出版されたことで“再発見”された。80歳を超えた彼に迫るドキュメンタリー。監督はトーマス・リーチ。日本語字幕は翻訳家の柴田元幸。なおライターは2013年に亡くなった。
 私はライターのことは全く知らなかったのだが、予告編に登場する彼と彼の写真がいい雰囲気だったこと、字幕を手掛けたのが英米文学でなじみのある柴田元幸だったことで、本作に興味を持った。高齢のライターにインタビューをしてぐいぐい言葉を引き出すというのではなく、彼の隣に立ってその佇まいを記録し続ける(もちろんインタビューもしているのだろうが、強引なものではなく、さりげない)といった雰囲気の作品。サブタイトル通り、13のパートにわかれているのだが、元々そんなに尺の長い作品ではないので、小分けにすることで窮屈になってしまった気がする。
 ライターの作品は、ごくごく普通の町の路上が主な舞台だ。しかし、その普通さのなかにきらっと輝く瞬間があり、そこを捉えている。写真というのは、撮影者が何を見たか、どういう目を持っているということなんだなとすごく強く感じた。いい写真家は、いい目を持っていて、かつ瞬発力が高いのだと思う。「いまここ」の瞬間をさっと掴み取っている感じがするのだ。ライターは特に人づきあいが好きという風ではないが、基本的にこの世界とそこに生きる人たちが好きなんじゃないかと思う。だからこの世をよく見ているんじゃないかなと。
 そして、ライターという人物の雰囲気がいい。変化することに積極的ではなく、自分のペースで生きているが、頑固というほどではない。自宅にやたらと物をため込んでいるが、物欲が強いわけでもない。世俗的な成功にはさほど興味がなく、同じような暮らしを同じ場所で続け、写真の被写体も近所の情景ばかりだ。ユダヤ系である彼の父親は非常に厳しく、何かを「成し遂げる」ことこそが人生で重要だという考え方だったそうだが、それとはまったく異なる人生を歩んだことになる。「成し遂げる」ことと縁のない自分はちょっと親近感湧いてしまった。
 そんなライターだが、パートナーのことを話すときは、自分が商業的に成功しなかったことを悔いているように見える。彼女にもっといい暮らしをさせられなくて申し訳ないというのだ。そこは「これでいい」とは開き直れないのかと(彼女の方も彼の性格をわかって一緒に居続けたと思うのだが)意外でもあるし、「成し遂げる」ことを良しとする価値観から完全に自由ってわけではないんだなと。

『Re:LIFE』

 アカデミー賞を受賞したものの、その後15年間泣かず飛ばずで食い詰めていた脚本家キース(ヒュー・グラント)。エージェントのコネで、田舎町の大学でシナリオコースの講師をすることになったが、着任早々女子学生に手を出すわ、休講にするわでやる気を見せない。しかし、受講生の1人でシングルマザーのホリー(マリサ・トメイ)ら学生たちの熱心さや、学科長ラーナー(J・K・シモンズ)の誠意に触れるにつれ、徐々にやる気を取り戻していく。監督・脚本はマーク・ローレンス。
 主人公のキースは、ヒュー・グラントだから許されるキャラクターだなとつくづく思う。来て早々に自分が担任する予定の女子学生と寝ちゃうあたり、授業やる前にクビかよ!と突っ込みたくなるし、懇親会での時代錯誤も甚だしいセクハラ発言の数々は、他の人がやったら単に腹が立つだけなんだけど、ヒュー・グラントだと、そういう人だよなーという説得力の方に力が働くみたい。キースはこういう感覚で生きてきた人だから、そりゃあ脚本売れなくなるよなって納得するのだ。彼は良くも悪くも、15年前から変わっていない。15年前のアカデミー賞授賞式でジョークを放つ自分の映像を見る姿はもの悲しくもある。彼は外の世界の変化に目を向けず、自身もアップデートされていなかったのだろう。
 そんな彼が、学生たちと接する中でだんだん変わっていく。相変わらず情けない人ではあるのだが、本気で「物語」を書くことを教えようとするのだ。ちょっとアホだけど、基本的に素直なのだ。将来有望な学生をエージェントに紹介するあたりでも、「面白いものは面白い」という素直さがあるんだなとわかる。自分がいっちょ噛みできそうなシチュエーションなのにそうはしないのは、キースが若者を導く立場、自分が「主役」ではなくてもいいという立場に移行することができたから、そして誰の作品であっても面白い映画が好きだからだと思う。
 再出発に年齢は関係ないという側面もあるが、年の功、というものについて考えた作品でもあった。キースはいわゆる年の功がない人だろう。一方、ホリーの言動からは、年の功というものをしみじみと感じた。彼女の彼女の受け答えは機知に富んだ、かつ良識のあるもので、周囲への配慮が細やかでとてもいい。元々の素質もあるんだろうけど、ある程度経験積んでいないととっさの気のまわし方とか、周囲への思いやりとかってうまく発揮できないものだと思う。

『叛逆航路』

アン・レッキー著、赤尾秀子訳
ある事情により、辺境の惑星で暮らすデレクは、宇宙戦艦”トーレンの正義”のAIだった。かつては人格を4000体の肉体に転写して共有する“属躰(アンシラリー)”を操っていたが、今は1人だけだ。デレクはある目的の為、行き倒れていたところを助けたかつて”トーレンの正義”戦艦の副官だったセイヴァーデンを連れ、旅を続ける。ヒューゴー賞、ネビュラ賞受賞作品だそうだが、とんがったというよりも、オーソドックスなSFではないのかな。AIであり、その成り立ち故に「個」の概念が人間とは異なるデレクが、自分はなぜあることをやろうとしているのか、それをやろうとしている自分とは何なのか模索し続ける、ビルドゥクスロマンのようでもあった。また、社会的な役割や言語上の人称に性差が存在しない社会が舞台の中心なので、三人称が常に「彼女」。こういうふうに描かれると、自分が小説を読む上で、登場人物が男性なのか女性なのかということに意識を左右されていたんだなと、改めてわかる。気にしていないようでいて、結構状況判断の材料にしていたんだな。それだけに、日本語訳上で性別を示唆する一人称が使われているのがちょっと気になるんだけど・・・。原語だとどうなってたのかな。辺境の星だと性差がまだ残っているので、「彼」と言うべきなのか「彼女」と言うべきなのかデレクが迷う等という場面も。

『黄金のアデーレ 名画の帰還』

 アメリカに暮らす82歳のマリア・アルトマン(ヘレン・ミレン)は、友人の息子である弁護士のランディ(ライアン・レイノルズ)にある依頼をする。マリアの伯母がモデルとなったクリムトの名作「黄金の女」の返還を求め、オーストリア政府に訴訟を起こしたいというのだ。「黄金の女」はユダヤ系であったマリアの一族が所有していたが、第二次大戦中にナチスに略奪され、マリアと夫はアメリカへ亡命したのだ。監督はサイモン・カーティス。
 マリアは元気で魅力のある女性ではあるが、「出来た」人というわけではない。ランディへの依頼は最初は強引なものだし、意外と言葉が辛辣だし、気分にもムラがある。一方ランディも、“いい人”ではあるが、マリアには辟易している向きもあり、大金が手に入るかもという打算がないわけでもない。そんな2人が徐々にチームとして噛み合っていく。その契機は、マリアが自分の過去と祖国に対してどういう思いを抱いてきたのかに、ランディの思いが及んだ所にあるのだろう。ランディもユダヤ系でオーストリアからの亡命者の家系なのだが、戦中のことはよく知らない。マリアの話を聞き、オーストリア政府と対面して、ようやく自分たちの祖父母の代がどのような思いを抱いてきたか、想像するのだ。
 祖国から見捨てられたと感じているマリアは、祖国と縁を切り、そこで味わった屈辱や苦しみを封印したのだろう。だからオーストリアに戻ることを強く嫌がるのだ。しかし過去に蓋をするということは、そこで生きていた家族の記憶、幸せだった記憶にも蓋をするということにもなる。マリアはアデーレの肖像を取り戻そうとすることで、過去ともう一度関係を作り直すのだ。終盤、過去の一番輝いていた時間がマリアの前にありありと現れる。これにはぐっときた。
 ナチス、そしてそれに加担した人たちの蛮行は、マリアたちから祖国を奪うだけではなく、それまでの一族の過去、個人の思い出まで奪うことになった。それはとても残酷なことなんだと、具体的に暴力的なシーンは少ないながらも実感させる、スマートな演出だったと思う。

『ローマに消えた男』

 国内最大野党の党首であるエンリコ(トニ・セルヴィッロ)は、統一選挙を前に支持率低迷に悩んでいた。世間からの批判高まる中、エンリコは突然姿を消す。部下のアンドレア(ヴァレリオ・マスタンドレア)は苦肉の策として、エンリコの双子の兄弟ジョヴァンニ(トニ・セルヴィッロ)を替え玉にする。ジョヴァンニは哲学の教授だったが心を病み入院、最近退院したばかりだった。ユーモアと機知にとんだジョヴァンニの言葉は大衆の心をとらえ、支持率は持ち直していく。一方エンリコは、元恋人のダニエル(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)の元に身を隠していた。監督・脚本はロベルト・アンドー。
 ユーモラスでどこか幻想的でもある、不思議な味わいの作品だった。エンリコとジョヴァンニは双子だが、1人の人物の異なる面のようでもある。兄弟は、お互いの「あったかもしれない人生」を生きているようでもあるのだ。セルヴィッロが1人2役を演じているが、対称的な兄弟なのに、顔が同じという点を別としても、立ち居振る舞いのどこかが繋がっている雰囲気が出ている。
 ジョヴァンニの言葉が大衆を魅了していく様は、巻き返しの勢いが楽しいものの、ちょっと怖くもある。ジョヴァンニは実は(少なくとも作中では)具体的なことは何も話さない。そんなに大したことは言っていないのだ。ただ、彼の言葉はその解釈を聞き手にゆだね、言葉の向こう側に、実際にあるかどうかはさておき、言葉以上のものがあると感じさせる。相手の想像力にゆだねるというのは政治家としてはちょっとずるいんじゃないかと思うけど、こういう言葉が今のイタリアでは受けそうなのかな。だとすると、待望されているのは政治の言葉ではなく、文学や哲学が用いる言葉ではないかと思うけど。
 ところで、欧米文化では「(相手をリードして)踊れる男はモテる」という文化が昔からあるんだなぁと妙に感心した。全然違うタイプの映画だけど『パレードへようこそ』でも踊る男はモテてたもんな。

『恋人たち』

 通り魔に妻を殺され、悲しみから立ち上がれないアツシ(篠原篤)。夫・姑と暮らす平凡でぱっとしない日々の中、1人の男の出現に心が揺れる瞳子(成嶋瞳子)。親友への思いを秘めたままエリート弁護士として生きる四ノ宮(池田良)。苦しみを抱え生きる人たちの姿を描く。監督は橋口亮輔。
 冒頭、俳優の演技なのか素なのかわからなくなってくるアツシの独白からして、ただ事ではない緊迫感なのだが、この密度が最後まで持続するあたりが恐ろしい。主演の3人はオーディションで選ばれた無名の新人俳優で、役柄は彼らに合わせてアテ書きされたそうだ。この人がここにいるという説得力が強烈だった。しかも、「こういう人」という型にはまらない曖昧さ、はみ出てくる感じを維持している。俳優の力もすごいのだが、橋口監督は演技をよくこここまで引き出したなと唸るしかない。本作、監督の今までの作品より一段と、生の感情を加工せずそのままフィルムに焼き付けられないかという実験をやっているようにも見えた。
 愛する人を理不尽に奪われたアツシはもちろんのこと、辛さや悲痛さがそこかしこに噴出する。一見変わり映えのしない毎日を送っている瞳子の、美しいものへの憧れ(この人の場合はこういう風に表出するのかという所を含め)に何だか泣けてくるし、大体に置いてテンプレな「いけすかないエリート」である四ノ宮の思わぬナイーブさにはっとする。苦しみや傲慢さ等で隠されているが、その下には、その人が本来持っている柔らかい部分、優しい部分が隠されているのだ。柔らかい部分があるからこそ、よけいに傷は深くなり、それを覆う鎧が熱くなることもあるだろう。人間の一様でなさ、多面的で矛盾している様が描き出されている。そこが人間の面白さであり、今ここにある辛さを越えていく手がかりになるのではないかと思った。辛い中でもおなかはすくし笑っちゃうようなこともある。100%が辛さで出来ているわけではない。
 実際、辛いシーンが多いのだが、そんな中にもユーモラスなやりとりや、当事者は大真面目だけど客観的には笑ってしまうシチュエーションが多々あって、悲壮過ぎないところがとてもいいし、誠実だと思う。日常って、こういう、色々な感情がまぜこぜになっているものだろう。そのまぜこぜを再現しようとした作品でもあると思う。
 脇役に光石光や安藤玉恵など、これは間違いないなという面子を揃えている。光石の胡乱さ、安藤のうさんくささともに素晴らしい。また、アツシの職場の先輩である黒田を演じた黒田大輔が深く印象に残る。先輩の黒田は、いつもニコニコしていて人の話もわかってるんだかわかってないんだか、という不思議な人だ。しかし、「あなたと話したいよ」という彼の言葉の、何ということはないのに非常に的確な選び方にはっとする。俳優・黒田のぼそぼそした喋り方だからまた説得力あるのだ。

『007 スペクター』

 MI6の諜報員ジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)は生家「スカイフォール」で焼け残った写真を受け取る。その写真に隠された謎を追い、ボンドはメキシコからローマへ。死んだ犯罪者の妻ルチア・スキアラ(モニカ・ベルッチ)の言葉から、悪の組織スペクターの存在を確信する。一方、ロンドンでは国家安全保障局のトップに就任したデンビ(アンドリュー・スコット)が組織改革を進め、MI6の存在が危うくなりM(レイフ・ファインズ)は窮地に追い込まれていた。ボンドは密かにマネーペニー(ナオミ・ハリス)やQ(ベン・ウィショー)の助けを得て、スペクターを追う手がかりを握る、Mr.ホワイト(イェスパー・クリステンセン)の娘マドレーヌ・スワン(レア・セドゥ)に会いに行く。監督は前作に引き続きサム・メンデス。
 冒頭いきなり、「007ですよー!」という体で始まるクレイグ版ボンドって初めてじゃないかな。本作は、ジェームズ・ボンドという人間個人がフォーカスされた前作『スカイフォール』からストーリーの流れは汲んでいるものの、方向としてはむしろ、旧来のいわゆる「007」のイメージに寄せてきているように思う。特に少々影をひそめていた小物使いの007ぽさを今回は多少押し出してきている。ボンドカーが久々にちょっとバカっぽい仕掛けだった(『カジノロワイヤル』なんて多機能かつ速い車、くらいの感じだったもんなぁ)のには笑ってしまったが、往年のシリーズファンにとっては「それそれ!」と頷きたくなるような部分が増えていたのではないかと思う。何しろ今回の敵は堂々と「悪の組織」だ。クリストフ・ヴァルツがペルシャ猫なでてるだけでおかしくってたまらないのだが・・・。私はピアース・ブロスナンのボンドから見始めたのだが正直過去の007には今一つ乗れず、『カジノロワイヤル』で心つかまれたクチなので、ちょっと微妙な気分ではある。
 ただ、本作のラストは今までの007、今までのジェームズ・ボンドではありえなかった選択なのではないかなとは思う。007ではなく、ボンドという1人の人間としての旅立ちを描き切りたかったのだろう。これは、ダニエル・クレイグが演じてきたボンドだからこそ成立したのではないかと思う。同時にこれを見ると、ダニエル・クレイグのボンドは(名残惜しくはあるが)もうないな、と納得せざるを得ない。
 また本作、そもそも現代において007の使命って何だ?現代において諜報員をわざわざ抱えているってどういうことだ?という、前作から引き継がれた疑問への回答でもある。007というファンタジー性の高いフォーマットの中でこういうことをちゃんとやるところが面白い。これはメンデス監督の志向なのか、MI6がイギリスの機関だから(アメリカの諜報機関だとちょっと違う感じがする)こういう方向性になったのか(ハリウッド映画だけど)。私たちが考える民主主義とは、古臭いかもしれないけどこういうことですよ、という意思表明がさりげなく見えて、なかなか面白かった。
 なお、皆大好きであろうQは今回もキュートかつ翻弄されているし、マネーペニーの有能さも盤石だが、なによりMが大活躍する。ただの管理職じゃないんです!という現役感を見せてくれて大変うれしい。こういう人たちが背後にいるからボンドは自由に動けるんだよねという納得感も。

『さようなら』

 原子力発電施設で爆発が相次ぎ、国土の大半が放射線物質に汚染され、国民が「難民」として海外に逃れていく日本。在日外国人として長年日本で暮らすターニャ(ブライアリー・ロング)は、子供の頃に父親が購入してくれたサポート用アンドロイドのレオナと暮らしていた。田舎町でも、周囲の人たちはどんどん避難し、ターニャとレオナは取り残されていく。原作は劇作家の平田オリザと、ロボット研究者の石黒浩とのコラボレーション企画として2010年に発表された、俳優とロボットが共演する舞台劇。監督・脚本は深田晃司。
 「終わっていく世界」ものSFとして結構味がある(もっとも、日本国内から人がいなくなるというだけで世界自体は終わらないのだが・・・)。ターニャは病弱で、自身の死を予感している。二重の意味での終わっていく世界なのだ。ひたひたと死の予感が忍び寄る、冷ややかなタッチだった。ロケ地は霧ヶ峰中心のようだが、山の風景がとても美しい(撮影がすごくいい)。こういう所に住んでいたら、このままひっそり消えていこうという気持ちになりやすいんじゃないかなと言う気がしてくる。
 ターニャは「終わり」を受け入れていくが、アンドロイドのレオナには「終わり」が当面訪れない。ターニャとレオナは一緒に生活しているが、違う時間を生きていると言える。レオナには心はない(ように描写されている)が、ラストには彼女なりに思う所があったように見える。ターニャの心を理解しようとしているように見えるのだ。
作中、古今東西の著名な詩が引用されている(レオナには朗読するためのデータベースがあるらしい)。どれも選び方がよかったが、これは平田オリザの原作でも引用されているのだろうか。谷川俊太郎の2作品は、読むといつもちょっと泣きそうになる。そういう意味ではちょっと卑怯な引用の仕方だなとも思うが。
 時間の経過を表す表現に力を注いでいるなという印象なのだが、これがちょっとくどくて辟易した。そこまでやらなくてもわかるんで・・・と言いたくなるが、逆にうんざりするような感じを引き出そうとしていたのかな。

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