3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2015年12月

『幽霊ピアニスト事件』

フレドゥン・キアンプール著、酒寄進一訳
ピアニストのアルトゥルは死んでから50年後の1990年代の世界になぜか蘇った。生きている人たちにも彼の姿は見えるし話も出来る。音楽大学の学生ベックの助けを得て、風変わりな学生たちと同居生活を始めるが、奇妙な出来事が相次ぎ、ついに殺人事件が起きる。自分と同じような死者が関わっていると気づいたアルトゥルは、犯人を探し始める。死者も生者も順応力がありすぎる!蘇ったアルトゥルが現状を理解するのはともかく、アルトゥルに自分は実は死者なんだと打ち明けられたベックがあっさり受け入れ、しかも住処を提供して友情が芽生えるまでの展開が速い!頭柔らかいなぁ。奇妙な味わいのミステリだが、現代のパートと、アルトゥルが生きていた第二次大戦中、ナチスの侵略が始まりつつあったフランスでのエピソードが交互に配置されており、徐々にアルトゥルがなぜ死んだのか、彼は何に負い目を感じているのかが明らかになる。これはアルトゥルだけでなく、あの時代の多くの人たちが負った負い目なのだろう。そして犯人が抱えた怒りも、あの時代に生きた一部の人たちが抱えていたもの(だからといって犯人の行動は正当化されないが)だろう。一見コミカルなのだが、ある時代の悲劇が背後にあり、色濃く影を落としている。最後、あっけなく終わるようにも見えるのだが、アルトゥルが蘇った理由はここにあったという潔さもある。

『独裁者と小さな孫』

 独裁政権によって国を牛耳ってきた大統領(ミシャ・ゴミアシュウィリ)には可愛がっている孫息子(ダチ・オルウェラシュウィリ)がおり、いずれ国を継がせるつもりだった。しかしクーデターが起こり、政権は完全に崩壊。大統領は孫を連れてかろうじて逃げるものの、賞金がかけられてしまう。旅芸人に変装し、大統領は孫と共に海の向こうを目指す。監督はモフセン・マフマルバフ。
 マフマルバフ監督にしては随分と折り目正しく寓話に落とし込んだなという印象を受けた。「どこかの国」という設定を徹底しており、ちゃんとおとぎ話的な雰囲気を維持している。祖父と孫が変装して逃げる、祖父がギター弾きになるという所で既におとぎ話っぽい。しかし、やはり現実の世界から地続きで、実際の(あまりありがたくない)色々な出来事が反映されている。
 独裁下の世界は、大統領の指示ひとつで人命が奪われインフラが遮断される、整然としつつも1人の人間の暴力にさらされている世界だ。しかし独裁政権が崩壊したらしたで、民衆は暴徒化し、軍は好き勝手に略奪を始め、混沌とした世界が立ち現れる。一つの地獄が終わるとまた新しい地獄が出現するという救いのなさにぐったりとした。ちょうどいい塩梅に社会集団を形成する、自分たちをコントロールするというのは、こんなに難しいものだったっけ?と愕然とするのだ。軍の駐屯地を新婚の夫婦が通りかかるエピソードなど、夫婦が現れた時点でその後の展開が読めすぎて辛い。終盤、理性的な発言をする元政治犯が登場するが、彼の言葉は正しいが、正しい故に群集の耳には入らない。
 大統領は逃亡の道のりで、自分の政治のせいで不幸になった人達に出会っていく。彼がそれらの出会いにより変化したのかどうかは、正直分からない。昔なじみのあった娼婦が、今でも自分を助けてくれるだろうとあてにしているくらいなので、意外とおめでたいところもある。ただ、孫にこの状況や自分の過去について尋ねられると、やはり躊躇する。彼の純真だった部分が、孫に映し出されているようだった。それによって何かが償われるわけではないのだが。

『野原をゆく』

西脇順三郎著
詩人であり英文学者でもあった著者の、随筆集。題名の通り、野山の散策や、専門である英文学についての話が多い。著者は旅行というよりもハイキングのような散策が好きだったようで、特に多摩川近辺は度々登場する。当時は多摩川越えれば東京の別荘地、みたいな感覚だったようだ。わかりやすく華やかな花よりも野の花を好むが、かといっていわゆる「侘び寂び」は金持ちの道楽だ、貧乏と簡素は違う、みたいな身も蓋もない話も出てきて、時に辛辣。著者はオックスフォード大学に留学しており当然英語堪能であり、帰国後はシュルレアリスム運動を代表する詩人として著名になったが、本作に収録されている話によると、子供の頃は読書は苦手で、全然日本語の文字を読む意欲がわかなかったそうで、とても意外だった。英語に触れるようになってから、言語としての構造や文学に関心が生まれたそうだ。文学というよりもむしろ言語というシステムの方からこの世界に入ってきた人なのだが、文学者でこういうタイプの人は珍しい気がする。

『アンジェリカの微笑み』

 ドロウ河流域の小さな町。ある日の真夜中、下宿に暮らす青年イザク(リカルド・トレパ)は、町の有力者であるポルタシュ館の執事から、急ぎの写真撮影を依頼される。ポルタシュ家の娘アンジェリカ(ピラール・ロペス・デ・アジャラ)が急逝した為、その遺影を撮りたいというのだ。イザクは美しいアンジェリカに心奪われる。監督・脚本はマノエル・ド。オリヴェイラ。
 色が本当に美しい!眠るようなアンジェリカが横たわるソファーの青の色の鮮やかさ、イザクの部屋の緑がかった深みのある色合いなど、室内の色調への拘りを強烈に感じる。フレームの隅々まで計算されている。眺めていてとても満足感がある作品だと思う。
 ただ、本作はその計算されきったものをぶん投げるような、勢いというか、ある種の乱暴さもあって、そのバランスがとても面白い(オリヴェイラ監督の近年の作品はわりとそういう傾向があるように思う)。アンジェリカの「微笑み」の現れ方や出現の仕方にしろ、臆面もなくこれやっちゃいますか!って思い切りの良さ。また、フレームの外から聞こえる音の生々しさとえっこれありなの?!という驚きと、映画って自由だな!という瑞々しさを感じる。キャリアを重ねに重ねてこういう瑞々しい境地に至るっていうのがすごい。
 イザクはアンジェリカに魅了され、焦がれていくが、それは彼岸に向かうことでもある。強烈な憧れは、人を異界へ向かわせるのだ。ただ、イザクは最初からこの世にいまひとつ足がついていない、魂が肉体に密着していない感じもする。朝食を勧められて、農夫の写真を撮りに行くからと断ってしまうのだが、心ばかりがはやっているような人に見える。そういう彼の資質が、よりアンジェリカの方向に向かわせたのではないだろうか。この世には彼の居場所としての要素が元々希薄なのだ。オリヴェイラ監督は1952年に脚本を書いたそうだが、当初、ホロコーストを逃れてポルトガルに逃れたというイザクの背景が強調されていたそうだ。ここではないどこかに惹かれる資質のある人物という造形は、当初の設定から引き継がれたものなのだろう。

『キャパの十字架』

沢木耕太郎著
カメラが発明されて以降、最も有名な戦場カメラマンと言えるロバート・キャパ。彼の代表作であり、彼を著名にした傑作「崩れ落ちる兵士」は、その見事さ故に長く真贋論争が続いていた。若い頃からキャパの著作『ちょっとピンぼけ』を愛読していた著者は、写真の真相に迫るべく、写真の現場となったスペイン南部を4度に渡って旅する。地道な取材と検証から、著者はある仮説に至る。地道な仮説・検証の繰り返しには、ノンフィクションを書くとはこういうことかと納得。NHKで特集番組も組まれた内容だが、作品自体は決して華やかではない。一つずつ、トライ&エラーの積み重ねで構成され、むしろ地味もいいところだ。しかし、それを一つ一つちゃんとやるというのが、本当に大事なんだろうな。正直、著者の仮説は、真相と断定するには弱い感じもあるのだが、今までわからなかった部分が色々と明らかになったのは確かだろう。著者のキャパに対するまなざしはどこか優しい。キャパが背負った「十字架」が、ノンフィクションに従事するものは多かれ少なかれ背負う類のものではないだろうか。むしろ、そこに十字架があると感じない人は、ノンフィクションをやるべきではないのかも。

『ハイ☆スピード! Free! Starting Days』

 中学校に進学した七瀬遥(島崎信長)と橘真琴(鈴木達央)は、スイミングスクールでの経験を買われ、水泳部部長の桐嶋夏也(野島健児)に勧誘されて、同級生の椎名旭(豊永利行)、夏也の弟の桐嶋郁弥(内山昴輝)と共に水泳部に入部。しかし、小学生最後大会で出場した、メドレーリレーのチームが最高だったと感じている遥は、部活に積極的になれない。一方、郁弥はスイミングスクールに比べれば部活は遊びみたいだと、やはり本気で取り組めずにいた。1年生でメドレーリレーを組むことになるが、チームワークはバラバラだった。原作はおおじこうじの同名小説。小説を原案とし、高校生になった遥たちを描いたテレビアニメ『Free!』の前日譚にあたる、完全新作。監督は武本康弘。
 TVシリーズを見ていなくても、青春部活ものとして気持ちよく見られる作品ではないかと思う。作画の華やかさ、美術の手堅さはさすが京都アニメーション製作作品といったところで、ビジュアルの安定感も高い。むしろTVシリーズ知らずに見た方が素直に楽しいんじゃないかなとも思った。
 というのは、遥と真琴の水泳に対するモチベーション、そして2人の関係性が、既視感のあるものだからだ。TVシリーズでもこの流れあった気がするのだが・・・。TVシリーズ開始時には映画版の話はなかったろうから、中学校が舞台である原作の要素をそのまま高校に移行させた(遥と真琴の関係をおさえておく上で重要な要素なので、言及しないわけにもいかなかっただろうし)のだろうが、この問題後々また反復するの?という、高校編との摺合せにちょっと苦労したのかなという印象は残った。
 ともあれ、TVシリーズのキャラクターもちょっとづつ登場し、一見さんにも作品ファンにも楽しめる作品になっていると思う。なお、遥と真琴のこじらせた仲良し感もさることながら、出演時間は少ないものの、凛の宗介に対する仕打ちがむごすぎて個人的に震撼した。それは・・・それはやってはいけないやつ!宗介は、同じ土俵に立っているとは見なしてもらえないのか・・・。TVシリーズでも片鱗は窺えたが、他人が自分に向ける感情には無頓着というか、鈍感な人なんだなとしみじみするエピソードだった。遥の方がまだしも察しがいい(その代り遥は自分自身の感情には鈍いが)。
 なお主人公が中学生男子の場合、演じる声優を男性にするか女性にするか結構微妙なところだなと改めて感じた。本作は『Free!』のシリーズという位置づけだから既に馴染んでいる声で統一、ということなんだろうけど、中学生だと本当にまだ子供声の男子も多いから、不自然に聞こえる時もあるんだよなー。作中時間では小学生の渚はさすがに女性声優が演じていたので、小学生か中学生か、で分けてみたってことなのだろう。

『リトルプリンス 星の王子さまと私』

 母親の“人生設計”の通りに必死で勉強する少女(マッケンジー・フォイ)。ある日、隣家の老人(ジェフ・ブリッジス)と知り合う。若い頃飛行士だったという老人は、不時着した砂漠で出会った不思議な男の子の物語を語りだした。監督はマーク・オズボーン。
 サン=テグジュペリ作『星の王子さま』を下敷きにした作品。老人は、小説に登場した飛行士の晩年の姿らしい。『星の王子さま』って、センシティブかつ種のアイコン的な作品であるだけに、原作にしたりオマージュにしたりというのは難しいという印象を持っていた(どうしても説教臭くなりがちだと思う)のだが、本作は『星の王子さま』の要素を上手に使っている(後半、王子の扱いについて一部ひっかかるところはあるが、基本的に出来がいいのでまあよしとする)。原作云々はおいておいても、モチーフの使い方、後半での伏線の回収の仕方がきちんとしており、手堅い良作という印象だ。脚本にしても映像にしても、情報の整理と提示の仕方が的確で気持ちが良かった。
 少女は母親の方針で、有名校への入学を目指し、勉強に励むが、毎日のスケジュールは分刻みできっちりと決められている。母親にとっては、この“人生設計”は完璧なのだ。かなりカリカチュアされてはいるが、多かれ少なかれこういう親はいるんだろう。不測の事態が起きたらどうするの?と不思議になるが、そもそも彼女が思う”人生設計”に不測の事態はないことになっているんだろうな。少女は賢い、いわゆるいい子なので母親に協力し(両親は離婚しているらしい)期待に応えようとするし、実際、順調に課題をこなしていく。しかし彼女が全く平気というわけではないことが、冒頭の入学試験の様子でわかるのだ。ただ、彼女は自分が大丈夫ではないという自覚はあまりないように見える。今まで大丈夫じゃなかったと自分でわかってくるのは、老人と、彼の物語に触れてからだ。
 自覚があるにしろないにしろ、人が「大丈夫じゃない」時に物語が手助けしてくれるというのは、実感としてすごくよくわかる。物語は具体的に何かの役にたつわけではない。それでも、自分の苦しさを相対化したり、もやもやに風穴を開けるような効果がある。そして、今(あるいはこの先)の苦しさが自分にとってどういうものなのかという、道筋をつける手助けになるのだ。後半、少女の現実とファンタジーとが入り混じった展開になるが、これは彼女が自分をとりまくものを物語として消化しようとしてるということだろう。彼女には近い将来、哀しい別れが訪れるかもしれない。でも、物語を生きることは、それを飲み込んでいく手助けになるのではないか。

『キャロル』

パトリシア・ハイスミス著、柿沼瑛子訳
デパートの店員テレーズは、クリスマス前でにぎわう店頭で、娘の為に人形を買いに来た1人の女性客と出会う。その女性キャロルに惹きつけられたテレーズは、思わず彼女にクリスマスカードを送るが、キャロルは返事を返し、2人は親しくなっていく。キャロルはテレーズを自動車旅行に誘うが、彼女は夫と離婚訴訟中で、子供の親権を争っていた。ハイスミスといえばいわゆる“イヤミス”の名手というイメージだったので、恋愛小説を書いたらどんなふうになるのかと思っていたら、やっぱり読んでいると陰鬱になるな・・・。テレーズの心理に沿った描き方なのだが、テレーズは若く、孤児という身の上もあって足元が定まらない。何者かでありたいが何者にもなれないかもしれないと恐れ、ボーイフレンドとの関係もあやふやといったように、常に揺らいでいる人物なのだ。テレーズの思い悩み方は目まぐるしく、キャロルと出会ってからは彼女の一挙一動に翻弄される。それでも、キャロルが自分の想像していたような完璧な存在ではないとわかっていくにつれ、テレーズはキャロルのことも、自分のことも、より真剣に考えていく。それはおそらく(ともすると身勝手にも見える)キャロルも同じだろう。誰かを深く愛することで(その結末はどうあれ)成長する、というと大変陳腐だが、やはりそういうことなんだろうなと余韻を噛みしめた。「着古すまで着る」という言葉の意味合いが深く印象に残った。

『明日と明日』

トマス・スウェターリッチ著、日暮雅通訳
自爆テロによりピッツバーグが<終末>を迎えて10年。仮想現実空間上に再現された街アーカイヴでの保険調査を行っているドミニクは、<終末>により亡くなった妻の記憶をアーカイヴ上で再現し続けていた。だが保険調査対象の女性が殺されている映像、そしてそれを何者かが修正した痕跡を発見する。女性の死の真相を探ろうとしたドミニクは、謀略に巻き込まれていく。ソニー・ピクチャーズにより映画化決定したそうだが、確かに映像化に向いていそう(コンセプトの一部が、ちょっとクリストファー・ノーラン監督『インセプション』に似ているなと思った)。殆どの人々が脳に「アドウェア」という装置を搭載し、物理的な現実世界に仮想現実を重ねて見ているという世界観は、ビジュアル化されると賑やかそうだ。重なり過ぎていて読んでいると混乱していくるくらい。作中世界では様々な情報が映像として重複して再現されており、その場所の過去の映像も、アーカイヴとして再現することができる。ドミニクは妻への愛ゆえに彼女の死を乗り越えることができず、ずっと妻との記憶の中に生きている。ただでさえ忘れられない記憶なのに、なまじ生々しく再体験できる装置があるので、いよいよ過去から離れることができないのだ。その過去の記憶がデータとして書き換えられ改竄されうるものだとしても。その忘れられない、忘れたくないというドミニクの思いがあまりに重く痛切。だからこそ、題名の意味合いがより響く。

『彼女が灰になる日まで』

浦賀和宏著
事件に巻き込まれ昏睡状態になっていたライターの銀次郎が目覚めると、1人の男が訪ねてきた。男は「この病院で昏睡から目覚めた患者は自殺する」と告げる。自分は自殺した患者の遺族だというその男は、銀次郎に真相の取材を依頼した。銀次郎が取材を進めるうち、自殺は霊の仕業だというオカルト話も出てくるのだった。連続死はオカルトなのか医療ミスなのか。ライター銀次郎シリーズ新作・・・だけど続いてたのかよ!という突っ込みが最シリーズ読者として最初に出たよね(笑)。本作、本格ミステリで「偶然」という要素をどう扱うかという所では、結構きわきわだった。成功「しなくてもいい」犯罪って、本気度のあいまいさゆえにたちが悪い。そのたちの悪さに犯人の悪意が。こんなラスボス感出しちゃって、このシリーズ続くの?完結なの?気になってしまう。

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