3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2015年12月

『ベテラン』

 特殊強力事件担当の広域捜査隊のベテラン刑事ドチョル(ファン・ジョンミン)は、悪人逮捕の為には手段を選ばず、人を殴る為に刑事になったとまで言われている。あるパーティーで財閥の跡取り息子であるテオ(ユ・アイン)と出会うが、後日、財閥の関連企業の社員が自殺を図る。自殺の裏にテオが絡んでいるのではと直感したドチョルは独自に調べ始めるが、財閥の息がかかった警察上層部によって捜査の打ち切りが命じられる。それにも負けずドチョルは事件を調べ続けるが、テオは次々と妨害工作を仕込んでくる。監督はリュ・スンワン。
 韓国の娯楽大作って、盛って盛ってまた盛って!くらいのハイカロリーなイメージがあったのだが、本作はサービス精神旺盛ながらも見せ方はスマート。一見泥臭いのだが、切り上げどころがいいというか、洗練されていて見やすい。個人的にはもっとローカロリーでもいいくらいだが。
 ドチョルは豪快かつ暴力的、頭は切れるもののそれ以上に腕に物を言わせる、いわゆるマッチョなタイプと言えるだろう。こういうタイプの主人公だと往々にしてセクハラ的発言が出やすいものだが、ドチョルは意外なほどにそういう振る舞いをしない。紳士という雰囲気ではないが、仲間である以上は男女関係なくフラットな接し方だ。同僚に女性刑事はいるが、いわゆるマスコット的な存在ではなくしっかりと戦力だし、女性としての立ち位置をどうこう言われることもさほどない。このあたり、時代に即して韓国の娯楽映画が成熟してきているということじゃないかなと、何だか新鮮だった。
 時代に即してと言えば、作中で「大企業は聖域」(捜査できない)と警官たちが揶揄するシーンがあるのだが、これは現代の韓国社会内での感覚を反映しているのだろうか。とすると、大企業の恩恵にあずかれない一般人にとっては、大分絶望感深いんじゃないかと思うが・・・。そんな中だからこそ、ドチョルの「金よりも(刑事としての)プライド」という譲らない態度によりぐっとくるのでは。敵であるテオが清々しくクズな悪役なので、思う存分広域捜査隊の面々を応援できるという側面もある。ちょっとキャラクターとして出来すぎな感じもするのだが、いい悪役がいる物語はやはり盛りあがる。
 ドチョルとテオの戦いが、最後はなぜかガチンコ勝負に持ち込まれるというのは、非常に少年漫画的で笑ってしまうところもあるのだが、こういうやり方でないと身柄を確保するだけの罪状を作れない、というシチュエーションでもある。ああいう場に引っ張り出して多数の証人を作り、言い逃れできなくするしかないということだろう。それもまた複雑な気持ちになる。一歩間違うと、冷静な捜査からは外れてしまいそう。ポピュリズム至上主義や密告社会になりかねないのではと。

『クリード チャンプを継ぐ男』

 ボクシングのヘビー級チャンピオンだったアポロ・クリードの息子、アドニス・ジョンソン(マイケル・B・ジョーダン)は、生まれた時には父親は既に死亡しており、父親のことは映像でしか知らなかった。母親は、アポロが若くして死んだのはボクシングが原因だとして、アドニスがボクシングに興味を持つのにいい顔はしなかったのだ。しかしどうしてもプロボクサーの路を進みたいアドニスは仕事を辞めて家を出る。向かった先はアポロのライバルで親友だったロッキー(シルヴェスター・スタローン)の店。アドニスはロッキーにトレーナーになってほしいと頼む。監督・脚本はライアン・クーグラー。
 アポロの息子がアドニスって、すごいネーミングセンスだな・・・。それはさておき、秘められた才能はあるがチャンスをつかめずにいる若者が特訓に特訓を重ね強くなる、という王道スポ根少年漫画のような物語で正直なところ新鮮味はないし、そもそもロッキーシリーズである必然性があるのか?と言われるとシリーズのファンでない自分には何とも言えない。しかし、王道・ベタにはベタ故の良さがある。本作は良くできたベタ。盛り上がるぞ盛り上がるぞ・・・盛り上がったー!みたいな、定番だからこその気持ちよさがある。試合シーンの迫力もあって、エンターテイメントとしてのちょうど良さを感じた。
 アドニスには、実母を亡くして以降、里親の元や施設を転々として、素行が荒れていたという過去がある。そこから立ち直らせたのが、彼を引き取って息子として育てたアポロの妻だった。アドニスは成長し大学を出て投資会社に就職、そこそこ順調にキャリアを積んでいた様子なので、子供時代のキレやすさは克服したのかな?と思いきや、ちょっとしたことでキレてしまう。一見、あれ?唐突な展開だなと思ったのだが、彼がキレるのは父・アポロに絡めてからかわれた時だ。
 アドニスはアポロが父親だということはもちろん知っているのだが、直に会ったことはないし、アポロが息子である自分のことをどう思っていたかも知らない。父親との距離感や父親にとって自分がどういう存在か掴みあぐねているからこそ、アポロを引き合いに出されると混乱するしムカつくのだろう。本作はアドニスがボクサーとして路を切り開き成長していく物語であると同時に、彼が父親との関係を結びなおす物語でもある。彼は、父親が(隠し子である)自分を恥じていたのではと、ずっと恐れていたのだ。
 アドニスは会社員からボクサーに転身し、人生を再挑戦する。これはロッキーについても同じだ。彼もまた、難しい局面を迎える。その局面を乗り越えよう、挑戦しようと決意させるのはアドニスだ。また、アドニスの恋人ビアンカ(テッサ・トンプソン)もまた、ある難局と戦い、自分の人生を生きようとしている。加えて、アドニスと対決することになる現チャンピオンのコンラン(アンソニー・ベリュー)もまた、後がない状況だ。主要な登場人物が皆、人生を賭けた戦いをしている。手持ちの札が限られている中でどう生きるか、何を選ぶかという側面が彼らには色濃く、興味深かった。本作のもうひとつのモチーフなのかなと。

『神様なんてくそくらえ』

 19歳の少女ハーリー(アリエル・ホームズ)はニューヨークの路上で生活するホームレス。同じくホームレスの恋人イリヤ(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)はエキセントリックな言動で彼女を振り回す。死んで自分への愛を証明しろと強要され、ハーリーは手首を切ってしまう。仲間に説得されてイリヤと別れたものの、彼を追い求め、ハーリーのドラッグ依存は悪化していく。監督はジョシュア&ベニー・サフディ。
 ハーリーはイリヤを深く愛し、それこそ彼のためなら死ねる!くらいのテンションなのだが、客観的にはその愛が彼女を幸せにするとは思えない。イリヤはトラブルメーカーで、ハーリーを振り回し、試し続けるだろう。仲間が彼女を止めるのも無理もない。しかし、彼女はそもそも客観的な幸福など求めていないのだろう。彼女自身でもイリヤがろくでもないということはわかっている。ハーリーの友人であるドラッグの売人は、いつも与太話ばかりやっているのだが、唯一まともな忠告をするのがイリヤに関することだ。そのくらい自明のことなわけだが、それでも彼女が愛するのはイリヤだし、どうしても彼と一緒にいたい。忠告や心配などそれこそ「くそくらえ」というわけだ。
 ハーリーの行動は共感を拒むものなので、そこで観客の本作に対する好き嫌いが分かれそうな気がする。私は登場人物に共感しにくくてもまあ面白く見られる方だが、本作は登場する人たちが皆落ち着きなくて辟易した。その落ち着きのなさは、主にドラッグ依存症のせいかもしれないが・・・。ハーリーもドラッグが欲しくなると我慢がきかないので、言動が行き当たりばったりになるし感情も押さえておけなくなる。シラフの人から見ると、そういう様子って友達のものでも(友達だからこそか)見たくないものだろうな。ハーリーはドラッグとイリヤと両方に依存しているから、周囲はシラフじゃない様子を延々と見せられてるわけだし、一緒にいるだけで色々ときつそうではある。

『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』

 エンドアの戦いから約30年後、銀河帝国の残党は「ファースト・オーダー」という組織を作り、再び銀河を制圧しようとしていた。レイア・オーガナ将軍(キャリー・フィッシャー)はレジスタンスを結成し、新共和国の支援を受けながらファースト・オーダーに対抗するべく、姿を消した最後のジュダイ、ルーク・スカイウォーカーを探していた。そんな折、レジスタンスのポー・ダメロン(オスカー・アイザック)は砂漠の惑星ジャクーでファースト・オーダーに捕まる。彼が連れていたドロイドBB-8はジャクーの少女レイ(デイジー・リドリー)に助けられる。一方、ファースト・オーダーのストーム・トルーパの1人フィン(ジョン・ボイエガ)はジャクーでの殺戮を目の当たりにし自分たちの存在に疑問を持つ。フィンはボーを助け脱走するが、機体が攻撃されジャクーに不時着する。監督はJ.J.エイブラムス。
 スター・ウォーズシリーズ全体としてはエピソード7。ルークたちの戦いの「その後」ということになる。私は一応全作品見ているがスター・ウォーズのファンというほどではないし、知識も乏しく、正直エピソード4、5、6あたりはかなり記憶が曖昧。そういう立ち位置の自分が見ても、本作は楽しめた。事前知識全くなくても一応大丈夫だと思う。ただ、すごく面白いかというと、やっぱりファンでない人には厳しいんじゃないかなと思う。ファン向けに盛り込まれた諸々のファービス、小ネタはわからないし、次作を見ざるを得ない終わり方なのも正直厳しい。スター・ウォーズはやはり、なにはなくともスター・ウォーズの新作が出たらチェックするという人に向けて作られているんだろうなぁ。
 とは言え、旧作の世界観を引き継ぎつつ(作中テクノロジーの進み具体が、「あの当時のSF」感強くてなるほどなーと)、現代的な味もあって面白い。特に、ストーム・トルーパーだった人が主人公格の1人というのは新鮮味があった。私はストーム・トルーパーに個別差はない(個人としての人格は薄い)んだと思い込んでいたもので、フィンという「中の人」が登場してちょっとびっくり。しかも何かイイ奴!今のところそんなにかっこいい見せ場がないのだが、いい「普通の男子」感があって微笑ましい。ストーム・トルーパーも人それぞれ、そりゃあ戦闘に不向きな性格の人もいるかーという妙な納得感もある。
 そして、中心的な主人公であろうレイもいいキャラクター。スター・ウォーズシリーズ内で初めて、私にとっては好ましい女性キャラクターが登場した。女性ではあるが、キャラクター付けがあまり「女性」性に頼っておらずニュートラル。自分のことは自分でてきぱきやっていくので見ていてイライラしない。フィンとの関係も、いきなりロマンスが生まれたりしないし何だったら男女逆でも同性同士でも成立しそうなところがいい(フィンの方はレイを気にしているがレイはそうでもない)。そもそもこの2人、今までまともな友人いなかったんじゃないかなというところも含め。

『PLAYBACK~アレクセイ・ゲルマンの惑星』

 ロシア・ソ連映画最後の巨匠と言われるアレクセイ・ゲルマン監督の遺作『神々のたそがれ』の撮影現場を追ったドキュメンタリー。監督はアントワーヌ・カタン&パヴェル・コストマロフ。
 『神々のたそがれ』は製作期間なんと15年。本作で見られるのはそのうちのわずかな時間(70分)だが、監督も主演俳優もスタッフも確実に加齢しているのがわかる。15年同じ作品を作り続けるのって、小説や絵画等単独で作るものならわかるのだが、チームとして作る映画では例外もいいところだろう。、実は本作が終わった時点(2013年)ではまだ『神々のたそがれ』は完成しておらず、完成を待たずにゲルマンは亡くなった。よく完成した、かつ日本で公開されたなと呆れてしまう。普通何らかの形で頓挫しそうなところだが、それをやりとげちゃうのは監督の力だったのか、プロデューサーらの力だったのか。
 単体のドキュメンタリー映画としては、正直な所さほど突出した所はない。ナレーションが気の利いたことを言おうとし過ぎていて少々に鼻につくところもある。しかし、『神々のたそがれ』の撮影現場がどんな雰囲気だったのか、セットや衣装が実際はどんな配色(『神々のたそがれ』はモノクロ作品)だったのか垣間見えるところは面白い。一つの世界をまるまる作ったかのように見える『神々の~』だが、実際のセット、衣装、小道具もかなり凝っており、美術面の力の入り方がわかる。そこに拘るの?!みたいな部分もあるのだが。また、ロシア映画ではエキストラとして軍の兵士が重宝されるというミニ知識も。撮影現場に軍の上官が同行し、若い兵士たちをどなりつけているのがおかしかった。周囲の出演者は中世ヨーロッパのような服装なので、迷彩服の軍人がいると違和感が相当ある。
 何より、ゲルマンの肉声、本人の『神々~』に関する言及を聞くことができるという所は大きい。『神々の~』は色々な意味で破格、怪物的な作品なのだが、ゲルマン本人もまた映画モンスターみたいな人なのではないだろうか。現場ではよく怒鳴るし暴言も言うし、共同脚本家であり妻であるスヴェトラーナ・カルマリータともしょっちゅうやりあい、「スタッフの気持ちに配慮しろ」とたしなめられたりする。主演俳優のレオニード・ヤルモルニクも何度も嫌気がさしている様子。それでもスタッフもキャストもついてくるのは、それだけの何かが監督にあるからだろう。ゲルマン本人によると、カルマリータは自分よりも映画が好きで、映画を撮り続けているから家から追い出されないんだと言うが。
 なお『神々の~』は出演者の顔つき、体つきの個性が強烈で、本当に中世(のように見える他の惑星)のような説得力がある。出演者の3分の2は、地下鉄の駅に通りかかる人たちの中からそれらしい外見の人をスカウトしたそうだ。演技はもちろん素人。それは撮影すすまないわ・・・。

『あなたたちはあちら、わたしはこちら』

大野左紀子著
映画に登場する様々な女性たち。しかし、その女性達の多くは若く、人生も半ばを過ぎた「おばさん」が主人公の映画は意外と少ない。映画の中の彼女らの姿を見つめ、彼女らを通して女性の生き方を見つめるエッセイ集。こういう本で、自分が見たことある映画ばかり登場するというのは嬉しいものだな。ちゃんと「そうそう!」って思いながら読める。自分が映画を見て漠然と思っていたことを、ちゃんと言語化してもらったという感じがした。本著がいわゆる映画批評ではなく、主人公である女性1人1人がどういう人であるのか、彼女がどういう生き方をする人なのかという、寄り添うような視点で書かれているからかもしれない。私は映画を見る時にあまり感情移入はしない(共感するところがなくても面白いものは面白い)方だが、それでも見ていて身につまされることはある。女性として生きるのって面倒くさい(男性は男性で面倒くさいだろうがそれは実体験としてはわからんのでな・・・)が、その面倒くささを読み説くための支えになるのだ。一番思う所多かった章は、「「承認」を捨てる女/『めぐりあう時間たち』」と「病む女/『ピアニスト』」。『ピアニスト』は見た当初はどう受け止めればいいかつかみあぐねたが、今だとそういうことかと胸に迫ってくる。

『禁じられた歌声』

 西アフリカ、マリ共和国のティンブクトゥに暮らす少女トヤ。町はイスラム過激派のジハーディストに占拠され、彼らが作った法で音楽や笑い声、サッカーも禁止されていく。町はずれに暮らすトヤ一家にも、ジハーディストは陰を落とすようになる。ある日、父・ギダンが事件を起こし、ジハーディストに逮捕されてしまう。監督はアブデラマン・シサコ。
 町中でジハーディスト達が、様々な禁止事項を複数言語でアナウンスしている。自由や娯楽を奪われ、人々は常に怯えるようになり、萎縮していく。冒頭、インパラを追う兵士たちが、「殺すな、疲れさせろ」と言うのだが、まさしく町の人々は疲れていく。疲れると、不条理に疑問をもつことも反抗することも、当然戦うこともできなくなってしまう。一見穏やかで美しい世界なのだが、少しずつ腐食されていくような不穏さがある。
 そんな中で、ユーモラスな光景も見られ、したたかに生を楽しむ人たちがいる。サッカーを禁止しているのにジハーディストたちはサッカーの話題で大盛り上がりしている。子供達はサッカーボールなしのサッカーをするが、何かのダンスのような美しい光景だ(見回りの兵士が通りかかるとすぐに体操しているふりをするのがおかしい)。また、密かに音楽を奏で、歌を歌う人たちがいる。ジハーディストが禁じたもので幸福を得ることは、彼らに対するカウンターでもある。そんなささやかな輝きも、暴力的に奪われてしまうというのが辛い。
 町の人たちも、イスラム過激派も、同じくイスラム教徒のはずだ。しかし会話の噛み合わなさは何だろう。不条理の国の出来事のようでどこかおとぎ話のようにも見えてくるが、これ現実の世界が舞台なんだよな・・・。どっと徒労感に襲われる。
 直接的な暴力の描写は少ないが、暴力の気配みたいなものが漂っていて、いつ発火するのかとひやりとする。銃を手に持っている人の姿が、例えばハリウッドのアクション映画で見るのとは(当然のことながら)全然意味合いが違うんだなと痛感した。ラストも、様々な受け取り方はあるだろうが、私は嫌な終わり方だなと思った。走り続ければいつかは倒れてしまうのだから。

『ひつじ村の兄弟』

 アイスランドの田舎町。弟グミー(シグルヅル・シグルヨンソン)と兄キディー(テオドル・ユーリウソン)の老兄弟は、先祖代々この土地で羊牧をしている。2人は犬猿の仲で、隣同士に住んではいるが40年間口をきいていない。ある時、キディーの羊が疫病にかかっていることがわかり、村中の羊が処分されることになる。キディーは荒れるが、グミーはある秘密を持っていた。監督・脚本はグリームル・ハゥコーナルソン。
 同じくアイスランドの映画『馬々と人間たち』を思い出した。家畜と人間が登場する、アイスランドの田舎が舞台、というだけでなく、人間と自然の在り方が同じように見える。人間はもちろん自然の中で生きているのだが、共存しているなんて生ぬるいものじゃなくて、振り落とされそうになりつつもしがみついているという感じ。人間に対して、自然は圧倒的な他者で断絶しているように見えるのだ。アイスランドの風土が日本のものと比べると厳しく荒々しく見えるというのも一因だ。その荒々しい風土が本作の魅力の一つではあるのだが、実際に住んではいないから簡単に魅力だなんて言えるわけだけど・・・。本作、主に冬が舞台なので更に寒々しい。この寒さの中生活していくのは大変だぞ!ということがぱっと見すぐにわかる。酔っぱらって屋外で寝てしまうキディーはよく死なないな(一回死にかけるけど)!と感心してしまったりも。
 グミーとキディーは言動も暮らし方も対称的だ。グミーはシャイで物静か。自宅はきれいに片づけており、伝票類の処理も几帳面でパソコンも使いこなしている。対するキディーは昔ながらの羊飼いといった雰囲気で、豪快でおおらか、いわゆるジャイアンタイプでもある。羊牧家としては優秀なので村人からの人気はあるが、正直、キディーみたいな兄がいたら揉め事ばかり起きそう。2人の不仲は相続問題という要因もあるのだが、言いたい放題の人と何も言えない人との組み合わせは色々こじれやすいということもあるのだろう。周囲に何もないし会う人も限られているから、余計に2人の関係が煮詰まってしまいそうだ。
 グミーもキディーも、羊を愛している。彼らの羊はこの土地の固有種で、今生きている羊たちが死んでしまったら、その血統は途絶えてしまう。羊が原因で仲違いしていた2人が、羊の為に関係を(なりゆきとは言え)築き直すことになる。羊は彼らを繋ぐある種の絆ではある。ただ同時に羊は、彼らを絡み取る呪いであるようにも見えた。2人はもちろん羊牧の仕事を愛している。しかし、それ故にこの土地から離れられない、そして2人とも羊牧家である以上、(冒頭の品評会のように)兄弟で比べられることからは逃げられないのだ。農場を離れ、羊をなくして初めて、2人はそれぞれ個人として向きあい、自分が相手をどう思っているのか、見つめ直すことが出来たように思う。

『ハッピーアワー』

 30代後半のあかり(田中幸恵)、桜子(菊池葉月)、芙美(三原麻衣子)、純(川村りら)は仕事も家庭環境も違うが、一緒に食事や旅行に行く仲のいい友人同士だ。しかし純が1年にわたって離婚協議をしており、原因は自身の浮気だったという告白をしたことで、4人の間には動揺が広がる。監督は濱口竜介。スイスの第68回ロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞を主演の4人が受賞。4人は演技経験は特になく、濱口監督主催のワークショップに参加していた人たちだそうだ。
 何と317分という超大作。私が見た時は3部に分割されての上映だったが、正直な所、1部の中盤まではこの先どれだけ続くんだ・・・と大分うんざりしていた。しかし、1部後半、体感時間ががっと速くなる感覚を覚えた。その先は長さがあまり苦痛にならない。長尺だから成立する作品なんだということもよくわかる。長さの原因として、1シークエンスが妙に長いということがあるだろう。特に会話のやりとりが、普通のいわゆる娯楽映画だったら省略するんじゃないかな(というか省略した方がまとまりがよくなるであろう)という部分も全部映し出される。それが見ていて面倒くさくもあるのだが、むしろその省略しても文脈は通じるであろう部分に、その場にいる人それぞれの性格とか方向性、価値観みたいなものが色濃く表れている気がした。ぐだぐだ話している部分の方が、「その人」らしさを感じさせるのかな。彼女らが抱える問題や悩みは割と月並みというか、よくある話と言えばよくある話だ。しかし、こういうった「余分な部分」を丹念に描く、演じることで、「よくある話」であっても人それぞれやはり違う、同じ話はないということが浮き上がっていくのだ。プロ俳優ではない演者を起用しているので、会話の流れを変に分断せずに演じ続ける方が、いい演技が引き出せるという事情もあるのかもしれないが。
 序盤(3部分割版だと第1部)、芙美が勤める公共施設でワークショップが開かれ、あかり、桜子、純が参加するというエピソードがある。最初、この部分やたらと長いなーそんなに必要かなーと思っていた(正直すごく眠かった)のだが、その後の展開を見ていると、このワークショップの内容は物語の重要な要素の要素を象徴していたのだとわかる。ワークショップは自分の重心のありか、人との距離感、人との(肉体的な)接触を体感していくものなのだが、主人公である4人の関係にさざ波を立て、彼女らを悩ますのは、この人との距離感、人とどう接するのかということなのだ。人それぞれのその差異が一貫して描かれていく作品だと思う。ワークショップに(主催者サイドなので)参加していない芙美が、他の3人よりももう少し人と距離を保ちたがる(温泉旅行の様子からすると肉体的な接触もあまり得意ではないっぽい)タイプであるというのも、なんとなく腑に落ちる。あかりは友人同士なのになぜ大事なことを言ってくれないのか、嘘をつく人とは友人ではいられないと純をなじる。それが彼女にとっての人との距離感なのだ。しかし、相手との距離感、何を持って友人と言えるのかというのは人によって違うだろう。秘密にしていることがあるからといって、純や芙美があかりや桜子のことを大事に思っていないわけではない。それでもなお友人だという関係も当然あるのだ。
 また、純の夫、芙美の夫が持つ愛情の距離感もまた、印象に残った。純の夫は真面目な善人だが、人間関係のニュアンスに少々乏しい(あかりに言わせると、離婚も無理ない)。しかし、一貫して純を愛していると言い続け彼女を追い続ける。それが純にとっての幸福かどうかは、彼にはもはや関係ないのかもしれない。一方、芙美の夫は妻と共働きで家事も分担し、情熱的ではないが理性的かつ円満な夫婦関係に見える。しかし今一歩相手に踏み込まない/踏み込ませない部分がお互いにあり、芙美にとってはそれが負担になっていく。友人なら、夫婦なら、どこまで立ち入っていいのか、相手のどの部分にまで「私」が属するのか、そういうことを考えながら見た。

『マイ・ファニー・レディ』

 1人の若手スターが、自身がブレイクするまでを振り返るインタビューを受けている。その女性・イジー(イモージェン・プーツ)はデビュー前はコールガールをしていた。仕事で出会った演出家アーノルド(オーウェン・ウィルソン)から、コールガールをやめて新しい人生を始めるなら3万ドルをプレゼントするという申し出を受け、そのお金を元手に、ブロードウェイを夢見てある舞台オーディションを受けたイジーだが、その舞台の演出家はアーノルド、主演女優のデルタ(キャスリーン・ハーン)はアーノルドの妻だった。共演俳優セス(リス・エヴァンス)はデルタの昔馴染み、脚本家ジョシュ(ウィル・フォーテ)はイジーに一目ぼれするが、彼の恋人ジェーン(ジェニファー・アニストン)はイジーのセラピスト、そしてイジーにストーカーまがいの執着をする元客も現れ、ひと悶着どころではないのだった。監督はピーター・ボグダノヴィッチ。
 物語はイジーが記者からインタビューを受け、自分のキャリアを振り返るという形式で語られる。語り手はイジーで、彼女は昔ながらのハッピーエンドのハリウッド映画愛好者、ハッピーエンドじゃないと意味がないという主義だ。インタビュアーが、彼女の過去の行動に後ろ暗いところはないのかとちょっと意地悪な質問をしても、なんとなくはぐらかしてしまう。都合の悪い質問には答えないし、「いい話」しか話さない。そんな彼女の語る物語なので、これ全部イジーの妄想なんじゃないかな?という疑問も頭を横切る。ただ、彼女が「信用できない語り手」であるというよりも、映画はこのくらい強引にハッピーエンドでいいんだよ!ハッピーエンド以外見たくないんだよ!という監督の心が代弁されていたようにも思った。クラシカルなハッピーエンドの映画が見たい、という気分に乗れる人には楽しいと思うが、そこに乗れないと色々とひっかかるところが多いかもしれない。イジー以外の登場人物が若干うるさすぎる。特にジェーンは、場をひっかきまぜるためだけに登場するような雑な造形で気になった。
クラシカルなハリウッドのラブコメを意識し、あえてのレトロさなのだろうが、女性に対する言及はちょっとレトロすぎやしないか・・・。古代娼婦は~みたいな言及、さすがに今は使わないし言われても全然ぐっとこないだろ!って。イジーは、そういう部分含め「レトロ」な女性という設定なのか。
 イモージェン・プーツの出演作を見るのは多分初めてなのだが、イジーの歩き方があまりエレガントでない(なんかドタドタした歩き方でヒール靴がさまになっていない)あたりに役作りのうまさを感じた。

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