3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2015年11月

『放浪の画家ピロスマニ』

 19世紀後半、グルジアのチフリス(トビリシ)に暮らすニコロズ・ピロスマナシュヴィリ(アヴタンディル・ヴァラジ)、通称ニコ・ピロスマニは、幼くして両親を亡くし、知人の家で育った。長年世話になった家を離れたピロスマニは、町に出て友人と乳製品店を始めるが、仲たがいをして破綻。やがて居酒屋に飾る絵や看板を描いて生活するようになる。彼の絵は町を訪れた芸術家の目に留まり、中央の画壇に紹介されるようになるが。監督はギオルギ・シェンゲラヤ。
 ピロスマニの作品は本作を見て初めて知ったのだが、映画のショットのひとつひとつがピロスマニの絵に似た雰囲気だ。平面的で輪郭がくっきりとしており、どこかイコンのようでもある。ピロスマニの作品はどこかルソーを思わせる素朴かつ独特な作風。魅力があるが、いわゆる古典的な技法からは程遠いので、当時の画壇では確かに異端扱いされそうだ。映画の序盤、なぜか南国風な観葉植物やカラフルな色合い、真正面を向いた人物たちはそれこそルソーの絵のようだった。
 ピロスマニが、注文主の言うとおりに絵に物を描き加えるのにはあっさりと応じるのに、牛の色が注文と違うと言われると、この色じゃないとダメなんだと自分のやり方を曲げないあたりに、独自の基準が見える。独自のこだわりはあるが、彼は社会に適応できないというわけではない(実際、商売をやっていた当時はそれなりに繁盛している)。自分の中のある一線に触れられることを許さないという感じなのだ。途中、「人生の喉に自分がひっかかっている」と言うのだが、これは上手い言い方だなと思った。周囲の流れとちょっと異質になってしまってスムーズに動けない感じなのだろう。異質になる要素の大部分はおそらく彼の芸術に反映されたろうから、人生の喉が彼を飲み込んだら作品は残らなかったかもしれない。
 ピロスマニは、無名の頃の方が「町の画家」として周囲に素直に受け入れられていたように思うし、彼の作品もそれなりに大事にされている。中央の画壇が評価しなかった、それが新聞記事になったことで周囲が一斉に彼に背を向けるというのが何とも悲しい。それまで彼の絵に対して持っていた感情は何だったんだろうと。


『ムーン・ウォーカーズ』

 1969年、アポロ計画の失敗を危ぶむアメリカ政府は、スタンリー・キューブリック監督に月面着陸成功映像のねつ造を依頼しようとする。CIAの諜報員キッドマン(ロン・パールマン)はこの極秘任務の担当になりロンドンを訪れた。一方、泣かず飛ばずのバンドのマネージャー・ジョニー(ルパート・グリント)は金策に困り、大手エージェントオフィスを経営する従弟を訪ねる。そこでたまたま鉢合わせしたのがキッドマンだった。ジョニーをエージェントと勘違いしたキッドマンから大金を騙し取ったが当然のごとくバレ、逆にキッドマンの任務に巻き込まれていく。監督・原案はアントワーヌ・バルドー=ジャケ。
 月面着陸の映像がねつ造されたものだという昔ながらの都市伝説を映画化してしまった本作。キューブリックが見たらなんて言うかななどとニヤニヤしてしまった。(一応)映画を作る話の一種と言えるのだが、映画作り映画に付き物の、映画に対する暑っ苦しいくらいの愛はあまり感じられない。作中で月面着陸映像を作っているスタッフたちはそれなりに楽しそうなのだが、ギャラを積まれたらあっさりポリシー捨てて方向転換する等、映画と心中しそうな気配は全くない。そのあたりが気軽でよかった。映画に対する情熱見せられるとちょっと「いい話」的な感触になっちゃいそうだけど、本作全然「いい話」に着地しようとしないのだ。
 どんどん話が転がっていくタイプのコメディーで強引かつ大雑把なのだが、コメディとしてこれはやっておこう、みたいな所をちゃんと押さえていくので案外安定感がある。バカバカしいことをいちいちちゃんとやるなぁと妙に感心した。クライマックスの大惨事など、確かにそうでもしないと話の収集つかないけど、ちゃんとやるんだな!と。主演のパールマンの有無を言わせない顔力と、グリントのひょろひょろした風体がまた対称的。特にグリントは好演。口から出まかせばかりでいい加減な約束を重ねていくジョニーを、それでも憎めないキャラクターに見せている。
 画面内に登場する人たちのうち、大体1人は常にラリっているというジャンキー映画でもあるのだが、60年代のロンドンってそんなにジャンキーばっかりってイメージだったんだろうか。あと、ジョニーと同居人とが「バカップル」と呼ばれているのだが、この2人の関係が親友なのかカップルなのか、最後までよくわからない(わかる人にはわかるのかも知れないが)ところがちょっと面白かった。

『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂想曲』

 ブタペストに住む13歳の少女リリ(ジョーフィア・プショッタ)は、母親の出張中、離婚した父親ダニエル(シャーンドル・ジョーテール)に預けられる。愛犬のハーゲンも一緒だったが、雑種犬に重税が課せられることを知り、ダニエルはハーゲンを捨ててしまう。ハーゲンはリリの元へ帰ろうと町をさまようが、とうとう保護施設に捕獲される。一方リリも、ハーゲンを探し回っていた。監督はコーネル・ムンドルッツォ。第67回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリとパルムドッグ賞受賞作品。
 これが「ある視点」部門かと思うと、なにかカンヌに対する見方が新鮮になるな(笑)。自分にとっては珍作の類なのだが、面白いことは面白い。なにしろ犬が皆名演なので、パルムドッグ賞には納得。というか、本作以上にパルムドッグ賞にふさわしい映画はなかなかないだろう。特に主演のハーゲン役の犬(2頭で演じているそうだ)はすごく表情豊かで真に迫った動きを見せる。ハーゲンをちょっと擬人化して描きすぎな気がしたのだが、これだけ「演技」してくれたらつい感情移入するように演出したくなっちゃうだろう。
 動物が襲ってくる系パニック映画ではあるが、犬たちは無差別に人間を襲ってくるわけではない(犬の集団が町を駆け抜けるが、持ち物を奪ったりぶつかったりという行為はあっても、噛みつく行為は殆ど描かれない)。彼らは自分たちを虐待した個々の人間に対して復讐していくのだ。ハーゲンはリリのことを恨んでいるのか、それとも慕い続けているのか、というクライマックスに向けて、犬たちが走り続ける終盤は圧巻(よくこれだけの数の犬をトレーニングしそれぞれに演技させたな!という驚きも含み)だ。
 リリとハーゲンの関係に比べると、父親や音楽教師らとの関係は、同じ言語を使っているのにどこかよそよそしい。ハーゲンはリリに最も近い、自分の魂の一部のような存在でもある。ただ、ハーゲンと親密だからこそ父親との関係が冷ややかであるようにも見えるのだ。ハーゲンが姿を消すと、リリは激怒するものの、ある事件を契機に徐々に父親とお互いに理解しようとするようになる。自分の内面とのつながりと、自分をとりまく社会的なものとのつながり、リリがその間でゆらぐ様を表しているようでもあった。

『グラスホッパー』

 教師の鈴木(生田斗真)は、自動車の暴走事件で死亡した恋人の仇を取る為、裏社会のドン・寺原(石橋蓮司)の組織に潜入していた。しかし事件の裏にいた寺原の息子が、押し屋と呼ばれる殺し屋に目の前で殺されてしまう。組織に命じられて押し屋を尾行する鈴木。一方、若手の殺し屋・蝉(山田涼介)は、ターゲットを自殺に追い込むという殺し屋・鯨(浅野忠信)を消せという依頼を受ける。鯨は死ぬ間際のターゲットの告白を耳にする為、寺原の組織の秘密を知りすぎたというのだ。原作は伊坂幸太郎の同名小説。監督は瀧本智行。
 原作は読んだが内容をほとんど覚えていない。本作を見るにはむしろそれでよかったのかもしれない。一昔前の「クール」なセンスで、懐かしさも感じつつ楽しめた。監督の前作『脳男』を見た時も思ったのだが、美術のセンスが90年代っぽい。こういうのが一つの記号(目的不明の廃工場とかバーやライブハウスっぽいアジトとか、ビルの屋上に根城があるとか)として成立するようになったんだろうけど、なんだか様式美の世界みたいだなと思った。浅野忠信が殺し屋役だったり、村上淳が蝉のマネージャー的存在である岩西役だったりするのも、あの頃の「クール」さの名残のように思った。この感慨深さはは現在の10代20代に通じるんだろうか・・・。
 生田演じる鈴木はごくごく普通の人。『脳男』で見せたアクションやヒーローっぽさは今回全く見せず、そのあたりは浅野や山田が担当している。特に山田演じる蝉はナイフが武器で近距離戦が主体。若干ぎこちないシーンもあるが、結構キレのいいアクションを見せてくれてうれしい。そういえば、蝉が仕事前におそらく血飛沫避けにレインコートを着るのだが、前をちゃんと閉めないので全然血飛沫避けになっていないあたりも様式美っぽいなと思った。
 原作よりも、ストーリーラインがおそらくすっきりわかりやすく構成されている。最後は若干説明過剰な気もしたが、普通の人の善意に対する希望が掲げられており、後味は悪くない。善意や良心は大きな力の前に無力かもしれないが、それでも、そういうものがちょっとだけ世の中を良くするのだ。

『殺人者たちの王』

バリー・ライガー著、満園真木訳
“ものまね師”事件解決の2ヶ月後、ジャスパー、通称ジャズのもとをニューヨーク市警の刑事が訪ねてきた。ニューヨークで起きている連続殺人事件の捜査を手伝ってほしいというのだ。刑事に同行したジャズは事件現場をめぐるが、新たに発見された被害者の遺体には、「ゲームにようこそ、ジャスパー」というメッセージが遺されていた。21世紀最悪の殺人犯を父親に持つ高校生・ジャズが、持ち前の知識を活かして殺人事件を追う、『さよなら、シリアルキラー』に続くシリーズ2作目。父親のようになりたくないジャズは殺人から距離を置き、父親が仕掛けたゲームを無視しようとするが、否応なくひきこまれていく。父親のようにはなるまいと思いつつも、父親がしていたようなやり方で人の心をコントロールしてしまう所は危うくヒヤヒヤする。私はこういう人の心をコントロールしようという行為がすごく嫌いなんだなということに改めて気づいた(笑)。もう読んでてぞわーっとするもんね。ジャズは自分で思っているよりも危なっかしい。その危なっかしさをジャズ自身よりも察知しているのはガールフレンドのコニーと親友のハウイーだろう。今回は2人が大活躍するし、ジャズへの思いやりにはほろりとさせられる。が、こちらはこちらでより危なっかしいので読んでいて心臓に悪いのだが・・・。なお、本作は間tく持って3作目へのつなぎでええっここで終わるの!?ってところで終わるので、そういう締めが苦手な人は3作目が発行されてからまとめて読むことをお勧めする。なお来年5月発行予定だそうです。

『老首長の国 ドリス・レッシングアフリカ小説集』

ドリス・ドレッシング著、青柳伸子訳
アフリカで育った経験を持つ著者による中編集。1964年に出版された(1973年に再編集版を出版、日本では2008年出版)とアフリカの風土、そして(当時は)植民地であるという背景が色濃い作品集だ。エキゾチズムが前面に出ているのかなと思ったら、確かにそういう側面もあるにはあるのだが、心をガツンと殴ってくるような暴力的なものをはらんでいる。今までなじんでいた世界から隔絶しているような状況、あるいは、その土地に長年暮らしてきたはずなのに、その土地のものとして真には受け入れられないという感覚がある。白人女性と地人の使用人少年のすれ違いを描く「リトル・テンピ」は、2人の間に決して相互理解は生まれない、女性は少年が望んだものが何なのかわからないままだろうとやりきれない気持ちにさせる。女性にとって少年は同じ土俵に立っている相手ではないのだ。この、入植者たちは原住民を別の動物として見ているということがどの作品でも前提としてある。しかしそうではない世代も出てきて、彼らはおぼろげながらも新しい世界の為に戦おうとする「アリ塚」のような作品も。一方、植民地の白人たちは、土地の広さとは対称的に狭い世界で生きており、それが息苦しさをつのらせる。少女の目からそれを描いた「ジョン爺さんの屋敷」や、愛し合っていたのは誰と誰だったのかと茫然とする「七月の冬」が印象に残った。

『ジョニー&ルー 掟破りの男たち』

ジャック・ソレン著、仁嶋いずる訳
ニューヨークで猟奇殺人事件が起きた。遺体に残された蝶のマークは、かつて“君主”と呼ばれた美術品専門泥棒のトレードマークだった。FBIは5年前に消えた“君主”の行方を探し始める。しがないカメラマンとして娘と暮らしている元スパイのジョナサンは、かつての相棒で元特殊部隊員のルーと再会し、自分達の名前をかたって人殺しを続ける犯人をつきとめる為、“君主”を再結成する。大味で突っ込みどころは結構あるのだが(その殺害方法可能なの?とか、敵のやりくちが回りくどくて採算あっていないんじゃないかとか、ルーのコートの設定は伏線なしかよとか、全員意外とうかつだぞとか)、派手で楽しい。ハリウッド映画のような爆発や銃撃戦やアクションてんこもりで、ちょっとやりすぎじゃないかという気もするが。犯人の真の目的がスケール大きすぎるのもハリウッド映画っぽい。何より、ジョニーとルーのコンビの息の合ったやりとりが楽しい。


『午後3時の女たち』

 専業主婦のレイチェル(キャスリン・ハーン)は友人に誘われ、夫同伴でストリップクラブに出かけた。そこで踊っていたストリッパーのマッケナ(ジュノー・テンプル)に興味をひかれたレイチェルは、彼女が住む場所をなくして困っていると知り、自宅に寝泊まりさせることにする。しかしマッケナは娼婦としても働いていた。監督・脚本はジル・ソロウェイ。
 レイチェルは近所の主婦友達との付き合いにはいまひとつ及び腰で、何かと理由をつけてボランティアやチャリティパーティーからも逃げ出している。かといって家庭にいる方が楽しいというわけでもなく、夫とはセックスレス気味。単調な日々に飽きており、自分とは違う世界の住人に見えるマッケナに飛びついてしまう。レイチェルにとってマッケナは非日常の象徴みたいなものなのだろう。マッケナがストリップや売春をやめて独り立ちできるようにと先走るのも、彼女の人生に自分も参加したい、非日常に乗っかりたいからなのかなと思った。レイチェルがやることは、マッケナが言うところの「ストリップなんてやってちゃだめだ!俺が幸せにする!」と言う男性客と同じようなおせっかいなのだが、レイチェル自身にその自覚はない。
 ただ、マッケナがそんなレイチェルを疎ましがったり見下したりしているかというと、そういうわけでもないところがちょっと面白かった。マッケナはストリッパーとしても娼婦としても「プロ」としてしっかり働いているように見える。でも、レイチェルの主婦友達からなりゆきで小さい女の子たちのシッターを頼まれると、女の子用のアクセサリー類を買い込んだりして結構乗り気だ。だからこそその顛末がいたたまれないのだが。マッケナはマッケナで、レイチェルが属する世界を面白がっているようであもる。ただ、マッケナはレイチェルや主婦友達の生活を(たとえ本心ではバカにしていたとしても)見下していないが、レイチェルは土壇場でマッケナを庇えなかった。えー!そこもうちょっとフォローするやり方が・・・と思っちゃうくらい、本心はどうあれ掌返すような態度をとってしまう。だったら泊めるなよ!という突っ込みももっともなのだ。面白半分で他人の人生の尻馬に乗ろうとした付けが回ったみたい。
 レイチェルは毎日が退屈でしょうがない、夫との関係もなんとかしたいと言う。ただ、はたから見ている分には、彼女の日常はそんなに退屈なようには見えない。何がそんなに物足りないのか、ちょっとぴんとこなかった。主婦友達との付き合いにうんざりしているのはわかるが、だったら付き合わなくてもいいんじゃないかなとか。夫との関係も、ロマンティックさは皆無だが決して仲が悪い感じではないし、むしろ気楽そうでいいなと思うのだが・・・。彼女が日常に何を求めているのかがいまひとつ見えてこない(マンネリでなくセックスしたいという点はわかりやすいのだが)。本人にもよくわかっていないからイライラしているんだろうけど。

『サヨナラの代わりに』

 弁護士の夫エヴァン(ジョシュ・デュアメル)とごくごく幸せに暮らしていた35歳のケイト(ヒラリー・スワンク)は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断された。病状は進み、診断の1年半後には車椅子生活になる。自分を病人として扱う介護士に嫌気がさしたケイトは、エヴァンの反対を押し切り、素人同然の大学生ベック(エミー・ロッサム)を雇う。いい加減で雑なベックとの衝突は絶えなかったが、エヴァンの浮気に気付いたケイトが家出したことをきっかけに、2人は徐々に理解しあっていく。監督はジョージ・C・ウルフ。
 ケイトは手足が十分に動かないので、着替えもメイクも人に手伝ってもらわないとならないが、車椅子生活になっても服装はおしゃれだしメイクもきちんとしている(冒頭、発病前のケイトがメイクするシーンがあるが、メイクってこんなにちゃんとやるものだったんだ・・・そういえばマスカラって上下塗るとかいいますよね・・・と遠い目をしてしまった)。彼女にとってはそれが普通の日常ということなのだ。よく「病気になっても/障害があっても自分らしくいたい」と言われるし、そのような願いはごく当然のことだ。ただ、そのように生きるにはアシストが必要で、アシストを受ける為の知識と経済力、そして「してくれ」と言うことに萎縮しない気力が必要になってくるのだろう。ケイトは相当意思の強い人ではあるが、萎縮しない自分を保つのはやはり大変だと思う。夫であるエヴァンに対しては愛情があるからこそ介護されるのが辛いということもあるだろう。そういう点では雇われたプロに丸投げしてしまった方が気楽と言えるのだが、そういったプロは彼女を「ケイト」ではなく「病人」として扱う。そこがケイトにとっては我慢ならないのだろう。
 ケイトがベックを雇うのは、彼女が介護のルールを知らず無遠慮だからだ。自分を慮る態度ではなく、(相性がいいにしろ悪いにしろ)一個人として接する態度が欲しいのだ。2人が親しくなっていくきっかけがケイトの夫の浮気という、そこから難病設定を抜いても成立するありふれたものだという所にも、ケイトが何を求めていたかが現れている。ただ、より親密になれば、親密故のトラブルも生じる。親友同士ではあるが、介護者・被介護者という関係からは逃れられないのだ。親密な人に自分の生を任せるというのは、相手に対する信頼度の問題ではあるのだが、相手にどの程度までなら重荷を背負わせられるかということでもある。お互いに相当強靭でないと成立しないようにも思うのだ。
 ベックは最初から強かったわけではなく、ケイトとの友情ゆえに強くなっていく。元々ケイトの中にあったものが引き出されていくのだ。ケイトはベックと真っ向から向き合って信頼していくが、それはベックの周囲の人たちが与えられなかったものだ。ケイトが遺したものの大きさが、ラストシーンに象徴される。

『コードネームU.N.C.L.E』

 東西冷戦下の1960年代。CIAエージェントのナポレオン・ソロ(ヘンリー・カヴィル)は核兵器開発に関わっている科学者の娘であるギャビー(アリシア・ヴィカンダー)に東ベルリン接触する。彼女を西ベルリンへ脱出させ、父親と接触する手がかりにりようというのだ。しかしKGBエージェントのイリヤ・クリヤキン(アーミー・ハマー)が2人を追っていた。核兵器の脅威を懸念した米ソはソロとイリヤに手を組ませる。考え方も手段も真逆の2人はちぐはぐながらもギャビーと協力しつつ、犯罪組織を追う。監督はガイ・リッチー。1960年代の人気テレビドラマ『001ナポレオン・ソロ』のリメイクになる。
 びっくりするくらいストレスフリーな娯楽作だった。映画のリズムが自分と相性がよかったというのもあるのだろうが、余計なひっかかりを感じさせず一気に楽しめる。ストーリーは緩いことは緩いのだが、「そういうものだから」というエクスキューズを使えるような雰囲気に仕上げているので突っ込もうという気にならないし、女性に対する言及もセクハラ的な扱いにならないように配慮されている(多分元ネタでは多々あったんじゃないかな・・・)。映像もレトロ感出していていい感じだった。ガイ・リッチーはいつの間にこんなに出来る子になったの・・・うれしい・・・。『シャーロック・ホームズ』シリーズでは余計な遊びをしすぎなところがちょっと気になったが、本作はそのへん調整していて、今までのリッチー監督作の中では一番洗練されていると思う。そして相変わらず音楽の選曲と使い方の趣味がいい。
 ヘンリー・カヴィルとアーミー・ハマーのどハンサムコンビのやりとりはもちろん見ていて楽しいのだが、意外なことに、世間できゃっきゃ盛り上がっているほどには自分のツボにはまってこなかった。そして予想外だったのだが、女性2人の造形がとても魅力的だった。ギャビーのコケティッシュさと60年代(イリヤが「ソ連の建築家の妻はこういう感じだ」って衣装を選ぶのだが、あれは妥当なのか?そのへんのニュアンスがよくわからない・・・)のポップ寄りファッションはすごく生き生きとしていてチャーミング。更に、犯罪組織の重鎮であるヴィクトリア(エリザベス・デビッキ)の長身(ヒール含めるとソロより長身)とゴージャス感、手段の選ばなさが素晴らしい。2人とも意志がはっきりとしていて勇気があるのだ。こういうキャラクターは、敵であれ見方であれ好感が持てる。


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