19世紀後半、グルジアのチフリス(トビリシ)に暮らすニコロズ・ピロスマナシュヴィリ(アヴタンディル・ヴァラジ)、通称ニコ・ピロスマニは、幼くして両親を亡くし、知人の家で育った。長年世話になった家を離れたピロスマニは、町に出て友人と乳製品店を始めるが、仲たがいをして破綻。やがて居酒屋に飾る絵や看板を描いて生活するようになる。彼の絵は町を訪れた芸術家の目に留まり、中央の画壇に紹介されるようになるが。監督はギオルギ・シェンゲラヤ。
ピロスマニの作品は本作を見て初めて知ったのだが、映画のショットのひとつひとつがピロスマニの絵に似た雰囲気だ。平面的で輪郭がくっきりとしており、どこかイコンのようでもある。ピロスマニの作品はどこかルソーを思わせる素朴かつ独特な作風。魅力があるが、いわゆる古典的な技法からは程遠いので、当時の画壇では確かに異端扱いされそうだ。映画の序盤、なぜか南国風な観葉植物やカラフルな色合い、真正面を向いた人物たちはそれこそルソーの絵のようだった。
ピロスマニが、注文主の言うとおりに絵に物を描き加えるのにはあっさりと応じるのに、牛の色が注文と違うと言われると、この色じゃないとダメなんだと自分のやり方を曲げないあたりに、独自の基準が見える。独自のこだわりはあるが、彼は社会に適応できないというわけではない(実際、商売をやっていた当時はそれなりに繁盛している)。自分の中のある一線に触れられることを許さないという感じなのだ。途中、「人生の喉に自分がひっかかっている」と言うのだが、これは上手い言い方だなと思った。周囲の流れとちょっと異質になってしまってスムーズに動けない感じなのだろう。異質になる要素の大部分はおそらく彼の芸術に反映されたろうから、人生の喉が彼を飲み込んだら作品は残らなかったかもしれない。
ピロスマニは、無名の頃の方が「町の画家」として周囲に素直に受け入れられていたように思うし、彼の作品もそれなりに大事にされている。中央の画壇が評価しなかった、それが新聞記事になったことで周囲が一斉に彼に背を向けるというのが何とも悲しい。それまで彼の絵に対して持っていた感情は何だったんだろうと。
ピロスマニの作品は本作を見て初めて知ったのだが、映画のショットのひとつひとつがピロスマニの絵に似た雰囲気だ。平面的で輪郭がくっきりとしており、どこかイコンのようでもある。ピロスマニの作品はどこかルソーを思わせる素朴かつ独特な作風。魅力があるが、いわゆる古典的な技法からは程遠いので、当時の画壇では確かに異端扱いされそうだ。映画の序盤、なぜか南国風な観葉植物やカラフルな色合い、真正面を向いた人物たちはそれこそルソーの絵のようだった。
ピロスマニが、注文主の言うとおりに絵に物を描き加えるのにはあっさりと応じるのに、牛の色が注文と違うと言われると、この色じゃないとダメなんだと自分のやり方を曲げないあたりに、独自の基準が見える。独自のこだわりはあるが、彼は社会に適応できないというわけではない(実際、商売をやっていた当時はそれなりに繁盛している)。自分の中のある一線に触れられることを許さないという感じなのだ。途中、「人生の喉に自分がひっかかっている」と言うのだが、これは上手い言い方だなと思った。周囲の流れとちょっと異質になってしまってスムーズに動けない感じなのだろう。異質になる要素の大部分はおそらく彼の芸術に反映されたろうから、人生の喉が彼を飲み込んだら作品は残らなかったかもしれない。
ピロスマニは、無名の頃の方が「町の画家」として周囲に素直に受け入れられていたように思うし、彼の作品もそれなりに大事にされている。中央の画壇が評価しなかった、それが新聞記事になったことで周囲が一斉に彼に背を向けるというのが何とも悲しい。それまで彼の絵に対して持っていた感情は何だったんだろうと。