3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2015年10月

『シンデレラたちの罪』

クリスティーナ・オルソン著、ヘレンハルメ美穂訳
電車に乗っていた母親と幼い少女。途中駅で停車した際に母親が一旦下車したが、電車はそのまま発車してしまう。そして少女は姿を消した。ストックホルム市警が捜査を開始するが、手がかりは乏しく捜査は難航する。母親は元夫に暴力を振るわれており、元夫が容疑者として浮上するものの行方をくらまし決め手も欠けていた。右往左往する警察パートの間に、犯人側と思われるパートが挿入され、展開が気になり一気に読んでしまった。すごくフックがあるというわけではないが、なかなか面白いし読みやすいのかな。手がかりっぽいものはあるのにどれも決め手に欠けて逆に目くらましになってしまうというもどかしさは、実際の事件の捜査ってこんな感じなんじゃないかなと思わせるものがある。敏腕刑事部長のアレックス、野心家のペーテル、民間から警察に入り周囲から浮いているフレデリカという、メイン3人の警官の描き分けが面白い。解決への突破口となるのが、研究者気質で警察組織に馴染まないフレデリカだというところもさもありなんだが、アレックスやペーテルの視野の狭さに読者がうんざりし始めるタイミングで出てくるエピソードなので小気味いい。

『弁護士の血』

スティーヴ・キャヴァナー著、横山啓明訳
裁判所に泊まり込むほど仕事にのめり込み、家庭を顧みなかった弁護士のエディー・フリンは、妻子に見放され、酒に溺れ失業同然の状態だった。そんな時、ロシアンマフィアの大物が彼を拉致する。突きつけられた要求は、娘を殺されたくなければ自分を弁護し、自分に不利な証言者を爆弾で殺せというものだった。フリンは娘を取り戻すため、かつては凄腕と言われた弁護士のスキル、そして弁護士になる前の「仕事」であった詐欺のスキルを駆使して難題に挑む。面白かった!数日間という限られた時間の中でスピーディーに展開され、かつ派手な見せ場(まさかのアクション要素も)も多いので映画化にも向いていそうだ。テンポがよくぐいぐい読ませる。フリンは弁護士としては有能だが勝つ手段は選ばないくそったれでもあり、元々詐欺師だという後ろ暗さもある。決して「いい人」というわけではないのだが、娘に対する愛だけは本物。その娘を守る為になりふりかまわず戦う姿は、だんだんかっこよく見えてくる。八方塞の中、彼の心を支えるのは娘の存在だけなのだ。折々で娘とのやりとりが回想されるのだが、これがなかなか(ちょっと理想的な娘すぎるんだけど)いい。フリンにとって娘の存在だけがよりどころになっていることがよくわかるのだ。シチュエーションとしてはそれほど斬新ではないと思うが、こういうディティールの作り方と、話のスピード感で読ませる。なお、弁護士としての答弁のコツと詐欺のテクニックが似ており、いい詐欺師はいい弁護士になりうるのかと妙に納得・・・しちゃいかんか(笑)。しかしこういう風に陪審員をコントロールするのか!といった部分の面白さもあった。

『アントマン』

 セキュリティ破りにより服役していたスコット(ポール・ラッド)はようやく出所したが、元妻に娘との面会を断られる。娘の為にまともな職を得て何とか生活を立て直そうとするが、前科持ち故なかなか仕事は見つからず、泥棒仲間の家に居候を続けていた。八方ふさがりの彼がようやく手にしたのは、身長1.5㎝になれるスーツを着てヒーロー“アントマン”になるというものだった。雇い主はスーツの発明者ハンク・ピム博士(マイケル・ダグラス)とその娘ホープ(エヴァンジェリン・リリー)。ピム博士は自分の発明が兵器として弟子のダレン(コリー・ストール)に悪用されることを恐れ、企業側の新作スーツを破壊しようとしていたのだ。監督はペイトン・リード。
 すごく楽しかった!アントマンはアベンジャーズに合流するそうだが、天才科学者だったり大富豪だったり超人だったり神様だったりといわばヒーロー界のセレブみたいな人たちばかりのアベンジャーズに対して、本作のアントマンはいたって庶民。スコットはセキュリティに詳しいという特殊能力はあるが天才でもスーパーマンでもなく、なる気もない。ただ、娘にとってのヒーローでありたい、娘の期待を裏切りたくないという一心でヒーロー業をやるのだ。元泥棒だが意外と良識的、かつ普通の人としての優しさやがあるところも魅力。ピム博士やホープに対する態度も、いわゆるタフガイではないが、ちょっとした機転やユーモア、何より傷ついている人への思いやりがある。頼りがいがあるかというと微妙なのだが、頼れる大人であろうと努力している姿勢は応援したくなる。
 ハンクを動かしているのは娘への思いだが、父と子供の関係が何重にも使われている。ハンクは娘の父親であろうと努力する。次に、ピム博士とホープの関係。博士は父親としては失敗してしまい、娘との関係の修復を願っている。そしてピム博士とダレン。博士はダレンを自分によく似ている息子のような存在として目をかける。しかしダレンが自分に似すぎている、欠点まで似ていることを忌避してダレンを遠ざける。博士はここでも子供との関係に失敗するのだ。そしてピム博士とスコット。博士はスコットの中にも自分に似たものを見出しスカウトする。博士は子供(的なもの)との関係をやり直そうとするのだ。
 ただ、スコットは博士の息子的な立場ではふるまわない。ここがスコットの(おそらく無意識に)聡明なところだ。博士が関係を築きなおすべきなのは、まずは実の娘のホープであり、彼女の代りは誰にもできないのだから。

『夏をゆく人々』

 イタリア中部、トスカーナ地方の村。ジェルソミーナは4人姉妹の長女だ。両親は昔ながらの方法で養蜂を営んでいる。ジェルソミーナは養蜂の筋が良く、父親と一緒に作業に励んでいた。夏、一家は更正プログラムの一環として1人の少年を預かる。少年はドイツ語しか喋れず、ジェルソミーナとのやりとりもぎこちない。一方、村に地方の産業を取り上げるテレビ番組の取材が入り、ジェルソミーナは番組に出たいと願うが、父親は猛反対する。監督はアリーチェ・ロルヴァケル。
 ジェルソミーナはとにかくよく働く。彼女が特に「いい子」というわけではなく、この家ではこれが普通なのだろう。ジェルソミーナもおそらく不平不満があるし、二女である妹の扱いがかなり粗雑(これはそうしてしまう気持ちもわかる・・・半分八つ当たり、半分は妹がとにかくトロいからだろうな)なあたりはまだ子供っぽい。ジェルソミーナはまだ子供でもあるが、大人の世界に半分くらい踏み出している。大人になるというのは、両親の不完全さに気付くということでもある。ジェルソミーナは両親、特に父親に(養蜂を媒介とした)愛着があるので、父親の不完全さを目の当たりにしていく様は、一層切ない。
 ジェルソミーナの目は家族の輪の中から外の世界に向けられていく。しかし、父親にはそれがわからない。父親にとって、彼女はまだ幼い子供のままだ。父親が持ってきた「おみやげ」を見るジェルソミーナの表情が何とも言えない。ここまでくるともう笑っちゃう、情けなくて泣きそうだけど笑うしかないといった雰囲気だ(これを演じた女優は素晴らしい)。一家は喧嘩はするが特に仲が悪いわけではない。しかし、この家族は徐々に、自然に解体していくのではという別れの予感が漂うラストが印象に残った。これは家族の最後の「夏」の物語だったのかなと。
 本作、一見地味なのだが、ちゃんとした大人がほぼ出てこないというなかなかパンチのきいた側面もある。父親の不真面目ではないのに漂うろくでなし感、実生活への疎さがもうやりきれなくてやりきれなくて・・・。父親の妹の生活力のなさにもびっくりする。ずっと少女のような気分でいる人なんだろうけど、子供の前では大人の役割をやってくれないと子供が困るよ・・・。

『ビッグ・シティ』

 特集上映「シーズン・オブ・レイ」にて。1953年のカルカッタ。銀行員のシブトラとアラチ夫妻は、シブトラの両親・妹、幼い息子と暮らしている。家計は苦しく、アラチは働きに出る決意をするが、妻が外で働くことが一般的ではない時代故に、義父母はショックを受ける。それでも営業の仕事を頑張るアラチは実績を重ね、自信を付けていく。妻の変化にシブトラは複雑な思いを隠せずにいた。監督はサタジット・レイ。1963年の作品のデジタルリマスター版。モノクロ作品だ。
 ファーストショット、走る市電のパンタグラフ(多分)を映しているだけだが、大変かっこよくてぶっと引き込まれた。デジタルリマスター版で映像が非常にクリアになっているということもあるだろうが、スタイリッシュさすら感じる。物語は、仕事によって自立していく妻、それに焦る夫という少々古めかしい(と思ったけどよくよく考えると現代でもわりとよくある話だな・・・。40年以上たってもこんなもんか・・・)ものだが、人間の感情のディティールがしっかりしているから、古さを感じない。シブトラが焦るのも、家族を十分に養えないと一人前の男とは言えないという社会からのプレッシャーが強いからだ。銀行員というと日本では高給取りというイメージだが、当時のインドではそうでもないらしく、シブトラは本業の他にアルバイトも探している。
 また、シブトラとアラチ夫婦の場合は、どうもアラチの実家の方が家柄がいいらしい(途中でアラチの父親が少しだけ登場するが身なりが良いインテリ風で、娘の家庭の窮状を嘆く。アラチは途中退学したとはいえ大学にまで進学しているし、経済的にも恵まれた教養のある家庭だったのでは)。妻の実家に対する微妙な感情も、シブトラを焦らせるのかもしれない。
 アラチは最初、働くことに積極的ではない。経済的にやむにやまれずで、自分で仕事を探したり履歴書を書いたり等とてもできず、どちらもシブトラに代りにやってもらう。訪問販売もおっかなびっくりだし、営業トークもつたない。しかし、だんだん自分で考え工夫するようになってくる。自分で考え、自分の言葉で話すようになってくるのだ。そして、働く中で自分にとって、人としてより大切だと思えるものを選ぶ。この選択を夫も肯定するラストが美しい。
 しかしとにもかくにも、お金がなくなると心の余裕もなくなるという話なので、非常にせちがらい・・・。ハッピーエンドっぽくはあるけど、この先どうするんだろう、まあなんとかなるだろうという感じの心もとなさ。

『水の葬送』

アン・クリーヴス著、玉木亨訳
 シェトランド島の湾岸で、小船に乗せられた死体を地方検察官ローナが発見した。死体はシェトランド出身の若い記者のものだった。本土から派遣された女性警部ウィローは地元警察署のサンディ刑事と調査を開始、病気療養中だったペレス警部も調査に加わる。殺された記者は地元では好かれておらず、加えて彼が島のエネルギー産業問題に興味を示していたことがわかってくる。ペレス警部を主人公とした“シェトランド四重奏”に続く続編シリーズの1作目だそうだ。“シェトランド四重奏”は1作目の『大鴉の啼く冬』しか読んでいない、というのも、『大鴉~』は文章や話の展開がちょっとかったるかったんですよね・・・。しかし間3作飛ばして5作目の本作は面白い!目くらましをふんだんに用意しており、謎解きミステリとしては配分バランスが妙なのだが、その分ラストまで引っ張る。1作目よりも格段にリーダビリティが高いが、ネタがいいというよりも著者が作家として熟練してきたんだろうなぁ。ペレスが前作で見舞われた悲劇に言及されているので、本来は順を追って読んだ方がいいのだろうが、本作1作だけでも十分面白かった。警察官3人の立場や性格の違い、そこから生じる人間関係の描き方が丁寧。特に決して刑事に向いているわけではないと自覚している(警察の仕事が好きなわけでもない)し上司であるペレスからもそう思われているサンディが、不向きなりに少しずつ頑張る姿は応援したくなった。また、死体の第一発見者として事件に関わるローナは、気位が高いと地元では好かれていないのだが、私はこういう人それほど嫌いではない。周囲と交わらない彼女の態度は、気安く付き合うのは難しそうだけど、ちょっと島の中で嫌われすぎじゃないかな。こういうタイプの人が倦厭される村社会って住みにくいそう・・・。

『草原の実験』

 見渡す限りの大草原の中、少女(エレーナ・アン)は父親と2人で暮らしている。訪ねてくるのは少女に思いを寄せる幼馴染の青年くらい。ある日、車が故障して立ち往生していた青い目の青年と知り合い、ほのかな三角関係が生じる。監督はアレクサンドル・コット。
 せりふは一切ないが、ファンタジーないしはSFめいた雰囲気にマッチしていて、寓話感がより高まる。俳優たちのルックス(エレーナ・アンの美少女ぶりもさることながら、父親役の俳優の風貌は強烈な印象を残す)に加え、地平線が見えるほどに真っ平らなロケ地の風景の力も強い。こういう風景あまり見慣れていないというのもあるんだろうけど(日本て本当に山の国なんだなーと実感した)。撮影がとてもよく、詩情に満ちている。タルコフスキーが引き合いに出されるのもよくわかる(ネタから連想するというのもあるだろう)。
 せりふがないことで詩情は高まるが、逆に人と人とのやりとり、交情のありかたがシンプルすぎて、おそらくギャグではないんだろうが笑っちゃうところも。男子2人が取っ組み合うところとか、いまどきそれか!いつの時代の青春ドラマだ!と失笑しそうになった。
 詩情が漂えば漂うほど、ラストのショックは強くなる。ラストで起こる事態は、少女にも青年たちにも少女の父親にも関わりない、全く別の文脈のものだ。その別の文脈によって彼女らの文脈が突然断ち切られてしまうという暴力性に立ちすくんでしまう。

『進撃の巨人 エンドオブザワールド』

 大型巨人により人間の多くが捕食された世界。エレン(三浦春馬)は調査兵団に入り、巨人から生活圏を守る外壁の修復作戦に参加するが、兵団は巨人に襲われる。エレンがアルミン(本郷奏多)をかばい巨人に飲み込まれた直後、黒髪の巨人が出現し、他の巨人を倒し始めた。原作は諌山創の同名漫画。監督は樋口真嗣。本作が後篇となる。
 これは・・・困ったな・・・。後篇をとりあえず処理しないとならないから処理しましたという感じで、前篇ではともかくあった盛り上がりがない。見ているうちに、劇場内の体温がどんどん下がってきて「あー・・・」みたいな空気になっていくのがいたたまれなかった。ものすごく大きな事故が起きているというよりも、小さな事故の積み重ねでどんどん失速していくと言った方がいいのかも。
 ただ、巨人の造形への特撮的なアプローチは面白かったと思うし、怪獣大激突みたいな山場も楽しい。前篇はゾンビとホラー、後篇は怪獣映画という割り振り方なのかな。そのあたりの、巨人をどう見せるかという部分に関しては一応方針がぶれなかったと思われるし、概ね成功しているのではないか。ストーリーの大筋については、まだ完結していない原作とは変えざるを得ないという制限があるから、まあこういう形になるだろうなという予想はついてしまうものの、さほどおかしなことにはなっていない(まあよくある設定になっちゃうけど・・・)。
 問題はやはり、ストーリーや世界観そのものというよりもそれをどう見せていくかという手順、世界観を支える細かい設定、そして人間ドラマの見せ方の下手さにあるのだろう。俳優はなぜか全員オーバーアクトで記号的な演技。見ていて気恥ずかしく、少々きつい。前述した通り、映画を見ている側はだんだん盛り下がってくるので、登場人物ばかりがエキサイトしていると更に気持ちが覚めていくのだ。出演している俳優はもっと出来る人たちのはずなのに、なぜわざわざこれをやらせる?!登場人物同士の関係性の機微みたいなものに乏しい(記号的なら記号的でもっと洗練された記号であってほしい・・・)のもつらい。この人なんでいきなりこういう行動するの?って感じなのだ。行間みたいなものの匂わせ方がうまくいっていないんだろうなぁ。
 それほど長くはないのだが、見ている側の体感では妙に間延びしている。ここは前篇よりも悪化しているように思う。ショットの切り替えがちょっとだけ遅くて、見ている気分が躓く感じ。

『勝手に!文庫解説』

北上次郎著
文庫解説は基本的に依頼がないと書けない。しかし依頼がなくてもどうしても解説を書きたくなる文庫本もある。じゃあ勝手に書いちゃえ!ハードボイルド、家族小説、SFなど幅広く、日本の小説12本、海外の小説16本に描き下ろし2本、そして池上冬樹、大森望、杉江松恋を交えた文庫解説座談会を収録した書評集。正式題名は上記の通りなのだが、つい『北上次郎の勝手に!文庫解説』と呼びたくなる。本作、正直なところ解説対象の作品をそれほど読みたくはならなかった(選書が私の好みと若干ずれているということもある)。が、著者が小説をどう読み、どういう所が好きなのかということがよくわかる。著者は初読の時の思い込みが結構強いらしく、こういうくだりがあったはずなのに再読したらなかった、というシチュエーションがしばしば出てくる。ただ、そこで著者はそこで書評を撤回・修正したりはしない(発行前に判明したらするんだろうけど)。どう思い込んだかという部分が、自分の解説を自分のもの足らしめているかということを良くわかっているからだろう。座談会によると著者はかなりの早書きだそうだが、事実よりもファーストインスピレーションに忠実であるというのもその一因かも。

『オールド・テロリスト』

村上龍著
2018年の東京。渋谷のNHKの社屋で爆発事件が起きた。更に池上の商店街、そして歌舞伎町の映画館で無差別テロが起きる。妻子に去られ廃人寸前だったライターのセキグチは、謎の人物の示唆によりその全てに立ち会い、記事にすることになる。背景に見えてきたのは老人たちのグループ。彼らは皆、旧満州国に縁があるというのだ。中学生たちによる独立国家建国を描く『希望の国のエクソダス』の続編となる作品だっそうだが、『希望~』を読んでいなくても大丈夫(私は読んでいない)。本作は若者たちではなく老人たちが事件の中心にいる。気力にあふれた老人が無気力な若者を実行犯としてテロを起こしていくのだが、読みながらずっと、これはテロって言うのかなと釈然としなかった。テロというと抑圧された者がやむにやまれず暴力的な抗議を起こす、というイメージだけれども、本作のテロの首謀者である老人たちは、不平不満はあるが、抑圧されているというほどでも、危機的な状況にあるわけでもなさそう。この社会をひっくり返したいと思っているが、強い問題意識からというよりも、現状がつまらないからで、こうしなくては、みたいな使命感は薄いように思えた。テロリストというよりも愉快犯ぽい。そもそもあなたたちがひっくり返したがっている社会は少なからずあなたたちが築いてきたんじゃないですか・・・と言いたくなる。そのへん、著者がどのくらい自覚的なのかよくわからない。

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