3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2015年10月

『もう過去はいらない』

ダニエル・フリードマン著、野口百合子訳
88歳のバック・シャッツは元メンフィス署の有名刑事。しかし老齢には勝てず、妻と共に老人ホームに入居することになった。老人扱いされることにもホームの方針にもうんざりしていたバックだが、78歳でバックとは因縁の仲の元銀行強盗イライジャが彼を訪ねてくる。命を狙われている、警察に保護してもらいたいというのだ。バックはイライジャは何かを企んでいると確信するが。『もう年はとれない』に続く、バック・シャッツシリーズ第2作。前作は孫と一緒に右往左往していて、ミステリとしては若干素っ頓狂な印象だったが、今回は謎解きもわりと堅実(笑)。同時に、バックの老いは更に進んでおりしかも満身創痍。バックは長年の経験と人脈を駆使してなんとか立ち向かっていくが、物忘れが頻繁だったり体が自由に動かなかったりともどかしい。老いていく状況のもどかしさがより切実だった。題名は「もう過去はいらない」と勇ましいのだが、バックもイライジャも、形は違えど過去を捨てて生きることはできず、おそらく死ぬまで縛られていく。その哀感も強く感じられた。

『名もなき塀の中の王』

 少年院でトラブルばかり起こしたエリック(ジャック・オコンネル)は、19歳にしてとうとう刑務所に移送されてしまう。そこには彼の父・ネビル(ベン・メンデルスゾーン)も収容されていた。囚人の更生に尽力する心理療法士オリバー・バウマー(ルパート・フレンド)のグループ療法に参加するうち、エリックは徐々に変化していく。しかし彼の行動を問題視する人たちもいた。監督はデヴィッド・マッケンジー。
 マッケンジー監督作品は『猟人日記』『パーフェクト・センス』と見てきたが、毎回方向性は違うが、どこか似た不思議な雰囲気がある。どこか強く緊張させられる、何かに脅かされそうな気配があるのだ。本作の場合、刑務所という荒っぽい舞台と、何をしでかすかわからず爆発しそうなエリック達のぴりぴり感が緊張を強いる。実際、ちょっとしたことで誰もが暴力を爆発させるし、そうしないとこの場では臆病者扱いされてなめられるのだ。しかし彼らの暴力は、周囲を威嚇するものであると同時に、周囲に対する怯えの一つの形でもある。
 バウマーは怒りや恐怖をコントロールする方法をエリックに教えようとする。怒りや暴力に流されないこと、周囲に派生させないことが自分を守ることになるのだ。ただ、バウマーが教える自衛の方法は、出所した後、一般社会の中で最も有効であり、刑務所という特殊な世界の中では必ずしもエリックを守らない。一方ネビルは、刑務所の中の作法をエリックに教え込み、自身もその作法でエリックを守ろうとする。しかしそのやり方は刑務所の中でしか有効ではなく、エリックをその世界に縛り付けること、彼が自立していく力をそぐことになりかねない。
 ネビルとエリックの間には、一般的な父子のような情愛や絆はない。そもそも一緒に生活していたことがあまりないようだ。それでもネビルはエリックのことを彼なりに愛している。その愛は一方的かつ利己的でエリックを自分の所有物のように扱うものでもあるのだが。変わっていく息子の前で狼狽しいらつくネビルの姿は、滑稽でもあるがどこか物悲しくもある。そんな彼が最後に見せる底力が深く記憶に残る。

『カプチーノはお熱いうちに』

 アドリア海に臨むレッチェの街のカフェで働くエレナ(カシア・スムトゥアニク)は、同僚であるシルヴィア(カロリーナ・クレンシェンティーニ)の恋人・アントニオ(フランチェスコ・アルカ)と知り合う。お互いに反感を抱く2人だが、同時に強く惹かれあい、ついに結婚。13年後、親友のファビオ(フィリッポ・シッキターノ)と始めたカフェが成功し、子供2人にも恵まれ、エレナは多忙な日々を送っていた。一方、アントニオは仕事がぱっとせず浮気ばかりで、夫婦関係は円満とは言えなくなっていた。そんな折、エレナはがん検診の結果を聞かされ愕然とする。監督・原案・脚本はフェルザン・オズペテク。
 監督の過去作『あしたのパスタはアルデンテ』がとてもよかったので、本作も見てみた。色々な人がいて、色々な考え方や生き方があるという作品の雰囲気は両作品ともに共通していて、そこにほっとする。風通しがいい感じがするのだ。そして月並みではあるが、人生山あり谷ありだということも。ただ、本作の方がそこがもっと切実だ。エレナの身に起こることが深刻だし、彼女も家族も全く予想しなかったことだからだ。しかし人生における喜ばしいこともまた、予測できるわけではなく突然起こる。苦しみと歓びのどちらものが、本作の中ではカラフルで輪郭がはっきりとしている。そういうものの連続で人生は続いていくし、人生はカラフルなものだと感じられるのだ。
 カラフルで輪郭がはっきりとしているというのは、登場人物それぞれも同様だ。この人はどういう人なのか、よくわかる見せ方だし、個々の登場人物が自分をどんどん押し出していくる。コメディリリーフの叔母はもちろん、子供2人のキャラの立ち方など笑ってしまう。笑ってしまうだけでなく、この人には(傍から見たら奇妙かもしれないけど)この人独自の考え方と人生があるのだと感じられるのだ。
 エレナとアントニオは、周囲から見るとなぜ結婚したのか不思議に思える不釣り合いなカップルだ。リベラルで知的なエレナに対して、アントニオはマッチョで保守的。しかしお互いにしかわからない良さがある。それがカップルというものなのかもしれないが、個人的にはアントニオとデートはしても一緒に生活はしたくないが・・・。彼はあからさまに差別的な発言をするのだが、それを覆せるほどの美点でどういうものだろう。

『屍者の帝国』

 19世紀末。かつてヴィクター・フランケンシュタイン博士が生み出した、死体に新たな生命を吹き込む技術は世界中に広まり、労働者として兵力として、大量の「屍者」が社会を支えていた。ロンドン大学の医大生ジョン・H・ワトソン(細谷佳正)は、親友で共同研究者だったフライデー(村瀬歩)の死体を使い、違法に屍者化する。その技術を見込まれ、政府の諜報組織にスカウトされたワトソンは、フランケンシュタインが作った生者のように意思を持つ屍者=ザ・ワンを生み出す技術が記された「ヴィクターの手記」を入手するという任務を与えられる。原作は伊藤計劃・円城塔。監督は牧原亮太朗。
 原作をうまく2時間にまとめようとすごく頑張っているなというのはわかるし、作画は安定、エフェクト(特に煙・霧がいい)、背景美術は美しい。力作なのは十分わかるが、あーあとちょっと・・・という惜しさを感じたのも事実だ。その惜しさは、主に脚本によるものではないかと思う。本作、原作をかなりアレンジした部分はあるものの、大筋ではそんなにずらしていない。むしろ、沿わせようとしたことで、原作でもかなり展開が急だと感じられた話が、より急展開に見えてしまった。おそらく、エピソードややりとりの省略があまりスムーズでなく、ともすると超展開に見えてしまうのだ。2時間の尺で一気に見せるには不向きな原作小説だったのかな。作中の移動距離が結構あるので、1クール12話のTVシリーズとかのほうが収まりがよかったんだろうか。ただ、一気に見られる満足感というのもあるので、映画でよかったとも言えるのだけど・・・。
 原作に比べると、よりエモーショナルな部分で見る側を引っ張っていこうとしている。死者に対する思い、ワタオソンのフライデーに対する思いが物語を走らせているのだ。ストーリーテリングがちょっと危なっかしくても何とか最後まで乗り切れるのは、この情動の部分がかなり強くなっているからだと思う。
 フライデーはワトソンにとって速記者であり、自分の物語を語る相手でもある。本作が物語を引き継ぐ物語、誰かの物語を引き受けて自分の物として生きる物語だとすると、原作が完成した経緯を含め、何か泣けてくるものがある。その部分を最後のモノローグに詰めちゃったのはこれまた惜しいんだけど・・・。

『心が叫びたがってるんだ』

 夢見がちでおしゃべりな少女成瀬順(水瀬いのり)は、母親にあることを話したせいで家族がバラバラになってしまう。彼女の前に現れた卵の妖精は、二度と人を傷つけないようにと彼女の言葉を封印した。数年後、高校生になった成瀬は、同級生の坂上拓実(内山昇輝)、仁藤菜月(雨宮天)、田崎大樹(細谷佳正)と「地域ふれあい交流会」の実行委員に任命されてしまう。とても無理だと思う成瀬だが、坂上がアコーディオンを弾き口ずさむ姿を見て心揺さぶられる。監督は長井龍雪、脚本は岡田真磨里。
 「お城」ってそれかよー!と冒頭から苦笑させられるのだが、笑ってしまうと同時に痛ましい。彼女自身の自責や傷つき方もなのだが、彼女の両親の弱さがすごく印象に残った。成瀬の言葉が家族がばらばらになるきっかけになったのは事実なのだが、遅かれ早かれこの家族は離れていくなという状況なのだ。そんな中で子供に「お前のせいだ」と言ってしまうのは、いや気持ちはわかるが口にするなよ大人なんだから!と。それを言わずにいられない弱さが見ていていたたまれない。子にしろ親にしろ、言葉をしまっておけない一家だったのか・・・。本作、中心にいるのは10代の少年少女なのだが、その背後に成瀬の両親という至らない大人が見え隠れすることで、より奥行きが出ているのではないかと思う。
 成瀬は言葉によって人を傷つけ、言葉を封印するが、彼女の言葉によって救われる人もいるし、彼女もまた誰かの言葉によって救われているという、言葉の働きの一様ではない面が描かれている。脚本がちゃんと手順を踏んでいる、かつ説明的すぎずにキャラクターの背景をのぞかせるもので、安定感があった。個々のキャラクターにしても、あの人から見たらこんな感じだけど、この人から見たらこんな感じ、という多面性を保った見せ方になっていると思う。クライマックスは本作と同じ監督・脚本タッグの『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』と同じくちょっと盛りすぎだなと思ったけど、この盛り方は実写よりも誇張の許容度が高いアニメーションだから成立するものだろう。そんなに短期間で素人がミュージカル出来るか?と突っ込みたくはなるものの、一応、込み入ったダンスはチアリーダー部員がやっている等の設定フォローはしているんだよな・・・。
 成瀬のキャラクターが、いわゆる内気で繊細な美少女、というわけではないところがいい(そもそも生来内気で繊細だったら「喋りすぎ」にはならないだろう)。どちらかというと、クラスでも浮いている「イタい」子だし、一生懸命な姿を応援したくはなるかもしれないが、反感もかいそう。ただ、そのイタさは坂上も仁藤も、田崎も持っているものだ。そもそも若さは面倒くさくてイタい、という部分を真っ向から描こうとしている。
 本作、いわゆる王子様がお姫様を助けに来てめでたしめでたし、という話ではないところがとてもいい。成瀬にとってまず必要なのは母親との関係の結び直しだし、坂上にとっては父親(の記憶)と向かい合うことだ。カップル成立に関わるエピソードもないわけではないが、それもまずは「あの時(そして今)自分がどんなことを思っていたか、何を言いたかったか」ということを伝えることが重要なのであって、成果はまた別の話なのだ。それぞれの問題が解きほぐされていくのが、(特に恋愛対象との)一対一の関係ではなく、複数名間でのやり取りの中でであるところに、作り手の丁寧さを感じた。

『顔のないヒトラーたち』

 1958年のフランクフルト。第二次世界大戦終戦から10年以上過ぎ、西ドイツでは戦争の記憶は忘れられつつあった。若手検事のヨハン(アレクサンダー・フェーリン)は、かつてアウシュビッツ強制収容所にナチス親衛隊員として配属されていた男が、規則に反して教師になっているというジャーナリスト・グルニカ(アンドレ・シマンスキ)からの訴えを聞く。他の検事は訴えをまともにとりあわなかったが、ヨハンはグルニカと共に調査を開始し、収容所から生き延びた人々の証言や過去の記録を少しずつ収拾、ナチスドイツの犯罪を追及していく。監督はジュリオ・リッチャレッリ。深刻な内容だが、ミステリのような仕立て方でエンターテイメントとして満足感高い(そこがちょっと複雑でもあるけど・・・)
 戦争からの復興を果たそうとしていた西ドイツでは、戦時中のことは忘れたいこととして扱われ、ヨハンがやっていることは「余計なこと」とみなされる。そもそも、多くの人はアウシュビッツのことを忘れる以前に、戦時中からよく知らない(名前と収容所であることは知っていても、どういう目的の施設で何が行われていたのかは知らない)ようなのだ。若者たちがアウシュビッツの名前を終戦からそんなに年数たってないのにそんなもんか、とびっくりしたが、そもそも一般にはさして知らされていなかったんだな。自国の歴史の暗い面は見たくない、一応「禊」は済んだから寝た子を起こしたくないということなのだろう。調査を続けるヨハンは反感を買い、とうとう非国民みたいな言われ方をするようになる。しかし、自国に都合のいい過去だけ覚えているのでは、歴史を改ざんしたことになってしまう。何よりヨハンにとって、そこに犯罪があるのに見逃すことは、法の精神に反することになる。これが徹底されていた。悪く言えば融通がきかないということなのだろうが、融通をきかせてはいけないこともあるのだ。こういう気質は、いい方に働いている時はいいけど、間違った方向に働いたらと思うと危うくもあるのだろうけど。
 ヨハンが「正しい行い」をしていく姿は、時に独善的にも見える。作中でも、彼が若くて世間知らずだから容赦なく地調査が出来るのだとも言われる。基本的に、彼にとって他人事という側面があるからでもあるだろう。しかし本作、他人事のままにはせず、ヨハンを更に追いこんでいく。この徹底ぶり、生真面目さ。そここそが、ナチスのようなものに対峙する糸口になっているのだろう。
 ヨハンが出会うナチス犯罪の容疑者たちは、ごく普通の人たちに見えるし、実際、良き職業人・家庭人として日常を送っている様子が見受けられる。そういう人たちがあっさりと非人道的な行為に手を染めてしまうということが、ナチス犯罪の他人事でなさなのだろう。同じ条件下であれば、誰でもそういうことが出来てしまうのだ。エンドロール前の一文を読んで、更に暗澹たる気持ちになった。命じられてやったこと、許可されてやったことについては悔恨は生じないのか。

『ピクセル』

 かつてはアーケードゲームの名人だったサム・ブレナー(アダム・サンドラー)は、今はしがない電気工事スタッフ。ある日、共にアーケードゲームにあけくれた幼馴染で、今はアメリカ大統領のウィル・クーパー(ケビン・ジェームズ)からホワイトハウスに呼び出される。地球を攻撃してきた謎の物体は、かつてのゲームのキャラクターにそっくりな姿を動きをしていたのだ。30数年前、地球外生命体との交信を願ってNASAが宇宙に向けて発信した映像の中に、当時大流行していたゲームの映像が含まれていたのだが、宇宙人はそれを挑戦状と誤解し、ゲームのルールとキャラクターで地球を侵略しにきたのだ。侵略を止められるのはゲームに精通したかつてのオタクたちだけだった。監督はクリス・コロンバス。
 登場するゲームの数々が、実際にプレイしていなくても懐かしく楽しい。巨大なパックマンに、パックマンの生みの親まで登場するのにはワクワクしてしまう。ゲームで戦うというアイディアはわりと大味なのだが、立体にしたらこんな感じだよな、というニュアンスがなかなかうまく表現されていると思う。クライマックスのドンキーコング戦で、ステージ全体を横から見られる(ちゃんとゲームの画面として見られる)ショットをちゃんといれているのも嬉しい。そして
エンドロールのわかっている感!アダム・サンドラーの頭ってドット絵でも長いのかということも含め、もうここだけでも満足しちゃうなー。大味な作品ではあるのだが、ほどほどに何も考えずに楽しめる作品ってやっぱりいいなと思う。
 ブレナーは「栄光の瞬間」を取り逃がしてしまい、それがずっとトラウマになっている。彼はうだつの上がらない中年男ではあるのだが、彼がダメ男というわけではない。彼のしんどいところは、自分で自分に見切りをつけたまま大人になってしまったということなのだろう(根拠のない自身を持つクーパーは大出世しているだけに)。彼が自分の見切りを撤回する物語でもあるのだ。中年男たちの「再起動」に優しさがある。・・・と思うのは自分も中年になったからだろうなぁ・・・。

『EDEN/エデン』

 1990年代初頭のパリ。エレクトロミュージックがフランスの音楽シーンの中心になりつつあった。大学生のポール(フィリックス・ド・ジブリ)は音楽に夢中になり、親友とDJユニットを結成、瞬く間にミュージックシーンの中心に躍り出る。セレブ気分を味わうポールたちだったが、派手なイベントやツアーは金銭的には必ずしも成功していなかった。やがてミュージックシーンも移り変わり、ポールは徐々に時代においていかれる。監督はミア・ハンセン=ラブ。ミア・ハンセン=ラブ監督の作品は、いつもひとつの季節の終わりを描いているように思う。
 ダフト・パンクを筆頭とするフレンチハウス黎明期を描いた作品で、ダフト・パンクも登場(と言えるのかなあれは・・・)する。監督の兄のスベン・ハンセン=ラブの体験が元になっており、彼は脚本にも参加しているそうだ。時代の流れの切り取り方と省略の仕方の切れがよく、起伏に乏しいわりにはそれほどダレない。
 おかしくて、やがてかなしき。という言葉がまず頭に浮かぶ。ポールがミュージシャンとして油が乗っていた時期は短く、それは一種のお祭りみたいだった。しかしお祭りはいつか終わる。そして祭りが終わった後の人生の方が圧倒的に長いのだ。延々と祭りを続けられる、というか祭りを日常化できる人はほんとうに一握りの人たちなのだ。ポールは自分が一握りだと確信していたわけではないだろう。ただ、音楽の道を諦めるには中途半端に才能があった。才能はないよりあるほうがいい、でも中途半端な才能って、その人にとっては残酷なものなのかもしれない。
 ただ、だからといってポールの人生が失敗だったとは思わない。彼は音楽をやりたくてしょうがなかったのだから、もうしょうがないのだ。たとえ中途半端な成功で、その後の人生がしょぼしょぼだったとしても、選ばないよりはいいじゃないかと思う。それはそれで、ひとつの人生だ。
 ポールはすごくイケメンというわけでもないしマメで気がきくというわけでもないのだが、なぜか女性が途切れない。DJとして売れているときはもちろん、落ち目になってもなんだかんだで女性がかまってくる。こ、これが真のモテというやつか・・・。

『名探偵群像』

シオドー・マシスン著、吉田誠一訳
歴史に名を残した偉人たちなら、生涯のうち1度くらいは難事件に遭遇して推理の腕を披露したに違いない、というアイディアから生まれた短篇集。アレクサンダー大王、レオナルド・ダ・ヴィンチ、クック船長にセルバンテス、ナイチンゲールらが事件を解決する短篇集。当時(1961年)の創元推理文庫だと「セオドー・マシスン」表記なのだが、「セオドア」表記のこともあるのかな?エラリー・クイーンが絶賛したという(序文をクイーンが書いている)だけあって、歴史上の偉人が探偵役というアイディアだけではなく、ミステリとしてロジックの部分も(わりと)きっちり詰めてくる。ただ、歴史ものでもあるので当時の風俗や習慣を思い浮かべにくくてぴんとこないというものもあったが・・・。それだけ時代背景も踏まえているということだろうから、マシスンは多分勉強熱心でよく調べる人だったんじゃないかな。

『ザ・ヴァンパイア 残酷な牙を持つ少女』

 “バッドシティ”と呼ばれるイランのとある町。チャドルを身にまとい夜な夜な町を歩き回る少女(シェイラ・ヴァンド)はギャングやホームレスの血を吸って生きる吸血鬼だった。ある日彼女は薬物依存症の父親に悩まされている青年アラシュ(アラシュ・マランディ)と出会う。監督はアナ・リリー・アマポアー。俳優のイライジャ・ウッドが製作総指揮に参加していることでも話題になった。
 白黒の画面がスタイリッシュ。ただ、スタイリッシュといっても「今」のスタイリッシュではなくて、あの頃これがスタイリッシュだった、みたいなどこかノスタルジーを孕んだものだ。私が世代的にそう思うだけかもしれないけど、、一昔前っぽさはある程度狙っているんじゃないかなー。チャドルを吸血鬼のマントに見立てている(マントの下はボーターカットソーとジーンズにスニーカーというのも素敵)のが大変きまっているのだが、おそらくこのワンアイディアで成立させた作品なのではないかと思う。それでちゃんと1本の作品として立ち上がっている、映画のキャラが立っているところに感心した。下手にドラマを盛ろうとかスケールを広げようとかしないところが良かった。物語の舞台はイランだが、ロケ地はアメリカとのこと。発電所や原油の採掘所らしき施設が点在する、風光明媚とはお世辞にも言えない殺風景な土地だ。しかしモノクロの画面で工業設備や機械を切り取ると、無機質さが妙にスタイリッシュに見える。斜めになるカメラにはやや失笑してしまったが、絵のセンスがいい。アラフが猫を持ち出すファーストショットでぐっと引き込まれた。
 少女が「悪い子」のみ襲うというルールを課しているらしい所には、彼女なりの正義感みたいなものがある。ただ、アラシュを襲わないのはルール違反になるからというわけでもなく、彼との間に何か通じあうものがあったからだ。ヴァンパイアものであり、オーソドックスなボーイミーツガールでもある。最後までボーイミーツガールであることを全うするのはちょっと意外だった。
 なお本作、猫が非常に好演している。えっイラン(ロケ地はアメリカなので多分アメリカ産の猫だと思うけど)の猫ってこんなに大きいの?!とびっくりしたのだが、この大きさってそんなに珍しくもないのかな・・・。猫が出てくる場面は、その表情を追っているだけでも結構楽しい。


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