3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2015年10月

『悲しみのイレーヌ』

ピエール・ルメートル著、橘明美訳
女性2人の惨殺死体が発見された。捜査担当になったカミーユ・ヴェルーヴェン警部は部下らと共に奔走するが、やがて第二の殺人が起こる。ヴェルーヴェン警部は事件の共通点に気付き、恐ろしく入念に計画された連続殺人と判断する。『その女アレックス』が大ヒットしたルメートルのデビュー作にして、カミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズの1作目。これでデビュー作かよ!と思わずうなる面白さ。『~アレックス』とはまた違ったひねり方で魅せてくれる。ある時点で、自分がこれまで読まされてきたものは何だったのかと戦慄させられた。ただ、基本的にものすごくクオリティの高い一発芸的な作風だなとは思う。そもそも、フランスのミステリは割とそういう傾向がある気がする。ミステリとしてあッと言わせられるというだけではなく、カミーユとその部下たちの造形やバックグラウンドの作り方にも味わいがあり、楽しい。先に『~アレックス』を読んでいるので、あの人はこの後こういうことに・・・とほろ苦い気持ちになったり、あの人は実はこうなんだよなぁとニヤリとしたりという、シリーズ作品を遡って読む時ならではの楽しみ方が出来た。プロットの鮮烈さばかりが印象に残りがちだけど、実は人間の造形や関係性の設定の仕方、見せ方に長けているんだよなと再確認。

『リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード』

 幼い頃見た魔女のショーに憧れ、魔女の家系ではないが魔女育成名門校に入学したアッコ(潘めぐみ)。しかし劣等生かつトラブルばかり起こす問題児だった。学内でトラブルを起こしたアッコは、友人のロッテ(折笠富美子)、スーシィ(村瀬迪与)と共に、町のお祭りで毎年定番になっている、魔女の歴史を再現したパレードの企画をすることに。成功しないと落第だが、魔法は幸せなものだと伝えるものにしたいとアッコは張り切る。監督は吉成曜。
 『キルラキル』等インパクトのあるアニメーションを手掛ける気鋭のアニメーションスタジオ、TRIGGERによるオリジナル作品。前作『リトルウィッチアカデミア』(企画「アニメミライ」内で上映)と同時上映だったので、前作未見の人も安心だし、そもそも予備知識なくても楽しめる作品に仕上がっている。TRIGGERといえば『キルラキル』なので、『リトル~』シリーズも過激な方向にとんがってくるのかなと思っていたが、むしろオーソドックスな「まんが映画」的な楽しい作品。作画はもちろん安定しているし、勢いと遊び心があってこれまた楽しい。行き届いているが、見る側に配慮しすぎていないところが逆に気楽でいい。
 また、女性キャラクターが大勢出てくるがセクシャルな要素は極力抑えている(スカートでホウキに乗ってもパンチラ一切なし)ので、安心して見ることが出来た(『キルラキル』はすごく面白いけど、女性キャラクターのコスチュームの露出度の高さはちょっと辛かった・・・)。そんなに込み入った話ではないし、キャラクターの造形もシンプルなので、小さいお子さんと一緒でも楽しいと思う。
 アッコは空気が読めない、押しが強い、人の話を聞かないかつちょっとアホという今時の主人公としてはわりと珍しいタイプ(現代の主人公キャラクターってわりと常識人だしかしこいよね)。一昔前の主人公ぽい単純さだ。今の10代、20代にははなかなか感情移入や共感はしにくいだろう。その分、アッコの友人で皮肉屋のスーシィや、お守り役で気遣い屋のロッテを配置してバランスを取っている。ひょうひょうとしてクールなスーシーィは人気が出そうだし、見ている側の共感を呼びそうなのはロッテだろう。前作にしろ、今作にしろ、ロッテがアッコに振り回されてかわいそうって思う人は結構いるんじゃないかなと思う。なんといっても、今回の裏主人公はロッテとも言えるのだし。

 

『ジョン・ウィック』

 かつて伝説的な殺し屋として、裏社会で知らぬ者はいなかったジョン・ウィック(キアヌ・リーヴス)。愛する女性と巡り合ったことを機に引退し、妻と穏やかな日々を送っていたが妻は若くして病死。彼女が遺したのは1匹の犬だった。しかしその犬がとあるきっかけでロシアン・マフィアのヨセフ(アルフィー・アレン)に殺される。怒りに燃えるウィックは復讐に乗り出すが、ヨセフの父親はウィックのかつての雇い主でロシアン・マフィアのボスであるヴィゴ・タラソフ(ミカエル・ニクヴィスト)だった。監督はチャド・スタエルスキ。
 野暮ったさとかっこよさのぎりぎりのラインを狙っている感じで、大変楽しかった。テレビ東京の午後のロードショー枠をぼんやり見ていてこんな映画が放送されていたら、うれしくてニマニマしちゃうだろう。もちろん、劇場で見る方をお勧めするが、雰囲気としての「午後ロー」感が濃厚なのだ。
 今回、格闘シーンにかなり力が入っており、キアヌの動きのキレもいい。キアヌといえばいまだに『マトリックス』だが、本作のアクションは『マトリックス』のようなファンタジックなものではなく、肉体の重みやきしみを感じさせるもの。ロシアの軍隊で導入されている格闘技がベースになっているそうだ。銃を使いつつ、ちゃんと体を使ったとっくみあいも見せてくれるのが楽しい。カンフー映画大好きなキアヌの意向も大分反映されているのではないかと思う。銃での殺し方も妙に几帳面というか、きちんとしている(ちゃんと複数発使ってとどめをさす)あたりも「仕事」っぽい。
 面白いなと思ったのは、身体を駆使した、リアリティのあるアクションに対し、その背景となる世界観や設定は非常にフィクショナルだということだ。マフィアの組織構成や対抗組織の有無など(リアル寄りだったらないはずないと思うが)具体的には示されない。何より、プロの殺し屋たちの定宿であり中立地帯である「ホテル」の存在や、パーフェクトすぎるホテルのフロント係、また「清掃業者」達など、漫画やアニメの中で親しんできたような造形だ。ぎりぎりやりすぎにならないくらいの所。キアヌはこういうフィクショナルな設定や世界観が似合う俳優だが、本作ではそれに加えて自身の身体性が存分に発揮されるアクションを披露しているという、相反するものの組み合わせが面白いなと思った。『マトリックス』は、絵として面白いアクションシーンを見せていたけど、身体性は(そもそもそういう方向性の話だから)薄いんだよな。
 本作、コンパクトにまとまっているが、序盤の妻とのエピソードが冗長、ゆるいと感じる人もいるかもしれない。ただ、この序盤があるからこそ、ウィックにとって犬がどういう存在で、なぜ復讐に駆り立てられるか見ている側にも納得がいくのだ。単に「犬を殺された」ってことじゃない(犬を殺されたってだけでひどいことだけど)んだよね。

『アメリカン・ドリーマー 理想の代償』

 1981年のニューヨーク。石油販売会社を夫婦で立ち上げたアベル(オスカー・アイザック)とアナ(ジェシカ・チャステイン)夫婦。業界にはつぶしあいや裏取引が蔓延していたが、アベルはクリーンな経営に徹していた。全財産を投入して事業拡大を目指した矢先、自社の石油輸送車が次々と強奪されたり脱税の嫌疑が降りかかったりで、銀行が融資の打ち切りを宣告され、窮地に陥る。監督はJ・C・チャンダー。
 原題は「もっとも暴力的だった年」なのだが、確かに本作の世界は暴力的だ。わりとローカルな石油業界が舞台なのだが、こんなにマフィア、ギャングの世界みたいなの?!とびっくりするくらい。業者間、労働組合や司法、そして地元マフィアとの暗黙の了解と裏金のやりとりで成立しているのだ。新興勢力で、しかも正攻法で業績を伸ばしていくアベルの会社は、既存の業者にとっては目障りなのだろう。アベルがやっているのはまとも、というか普通の商売なのだが、この場所ではむしろ普通ではなくなってしまう。
 ではアデルは清廉潔白なのかというと、そうとも言い切れない。彼は合法的でモラルにのっとったやり方でのし上がってきたと自負しているが、その陰で犠牲にしてきたものはやはりあるのだ。1人の運転手の顛末など、他にもっと道があったのになんでこんなことにとやりきれなくなる。運転手をここまで追い込んだのは、アベルの自分の方針に対する妥協のなさでもあるのだ(ただ、アベルが妥協すれば運転手の別の道があったかというと、ちょっと微妙なんだけど・・・。精神的にはやや楽になったんじゃないかとは思うが)。クリーンな方法にしろダーティな方法にしろ、のし上がろうとすると、どのみち代償は払わなくてはならない世界だということが息苦しかった。邦題のサブタイトルは野暮ったいのだが、結構的を得ている。
 また、アベルはクリーンな経営を目指すが、アナが全く同意しているかというと、そこも微妙だ。アナは実はギャングの娘であり、この土地で商売をやるというのがどういうことか、よくわかっている。理想(前述したように他の場だったら普通のことなんだけど・・・)だけでは物事はすすまない、現実的にはどうすればいいかを彼女は考える。アベルの方針はもちろん尊重するが、夫として父親として一番身近な家族を守ってくれというのが正直なところだろう。2人が車で鹿をひいてしまうエピソードがあるのだが、その後のそれぞれの対処の仕方には唸った。暴力に対するリアリティの持ち方の違いが現れていたように思う。どちらがいいとか悪いとかではないのだが、この2人が夫婦をやっているというのが面白くもあり、破綻しそうで不安でもある。


『ぼくらの家路』

 10歳のジャック(イボ・ピッツカー)は6才の弟マヌエルと、シングルマザーの母親と3人で暮らしている。ある事情で母弟と離れて施設で暮らすようになったジャックは、施設に馴染めず、家族と会える夏休みを心待ちにしていた。しかし夏休み前日、母親から迎えに行けないという電話が入る。ジャックは落胆し、加えてある事件を起こしてしまい、施設を飛び出して家を目指す。監督はエドワード・ベルガー。
 ジャックは10歳にしては実によく働く。弟を起こして着替えさせ、朝食を用意し、買い物に行き、弟の遊び相手をする。施設でも素直に料理の手伝い(野菜を切ったりする)をするのだが、普段からこういうことをやり慣れている子なんだなということがわかる。作中、ジャックは常に動き回っていて落ち着きがないのだが、常に何かに追われているようでもあった。自分がちゃんとしないと、という気持ちがいつも付きまとっているように見え、健気ではあるが、どこか痛々しくもある。
 ジャックはマヌエルを連れて、いなくなった母親を探し回る。仕事場や昔の恋人など、そこら中を訪ねて回るのだが、大人たちはそっけない。そんなものかという気もする(他人の子供だしなぁ)けど、もうちょっとフォローを、と思ってしまう。とはいえ、ジャックにとってそういった(施設のような)フォローは自分と家族とを邪魔するものという認識にもなるのだろう。母の元恋人の判断はまあまあ順当なのだが、ジャックは激怒する。彼にとっては、母親と弟と一緒に暮らすことが何より大事なのだ。
 それだけに、終盤のシーンはぐさりと突き刺さる。ジャックが子供であることを断念したことが、表情にありありと現れているのだ。10歳の子供がこういう判断をせざるをえないのは、やはり残酷なことだと思う。彼はここで子供であることをやめたんだな、ということがはっきりとわかるのだ。
 ただ、彼らの母親を強く責める気にもならなかった(見る人によってはすごく腹が立つかもしれないけど)。幼い子供を放置したのは大問題ではあるのだが、彼女はまるで駄目な母親というわけでもない。自宅の室内もそれなりにきちんとしているし、子供たちのことを可愛がっているのは間違いないのだが・・・。ぽこっと母親としての意識が抜けちゃう時があるって感じなのだが、常に母親で居続けるというのも難しいと思うんだよね・・・。

『バクマン。』

 プロの漫画家だった叔父・川口たろう(宮藤官九郎)を過労で亡くして以来、漫画への思いは封印し、ぼんやりとした毎日を送っていた高校生・真城最高(佐藤健)。ある日、憧れている同級生・亜豆美保(小松菜奈)をこっそりスケッチしたものを、同じく同級生の高木秋人(神木隆之介)に見られてしまう。高木は真城の画力を見込み、2人でチームを組んで漫画を描き、週刊少年ジャンプで連載をしようと誘う。声優志望の亜豆に「もし真城くんの漫画がアニメ化したら主演させて」と言われた真城は、彼女の前で漫画家になると宣言してしまう。原作は大場つぐみ&小畑健による大ヒット同名漫画。監督・脚本は大根仁。
 あまり期待していなかった(私『モテキ』が苦手でして・・・。大根監督のドラマ作品も、世評ほどには自分内で跳ねなくてな・・・)のだが、大変面白かった。私は原作は全話読んでおりとても面白かったが、それほど好きではない。映画化された本作は、私が原作でちょっと苦手だった、作品世界に乗り切れなかった部分をリカバーしており、個人的にはこちら(映画)のテイストの方が好きだ。
 原作は週刊少年ジャンプ連載作品。その中で主人公たちがジャンプで連載を持ち、ヒットさせるために試行錯誤していくという、ジャンプ編集の内幕ものとしてのメタ的な構造を持つ作品だった。映画化された本作でも、もちろんジャンプで連載を持つという設定は変わっておらず、ジャンプ編集室や編集者も登場する。ジャンプ連載漫画への言及も多々ある。が、同時に、藤子不二雄作品のモチーフが多々投入されている。現代版『まんが道』をかなり意識しているのだ。原作漫画にもそういう意図はあったが、「ジャンプで連載」という特殊な要素の方が徐々に強くなり、広い意味での「漫画家青春もの」とはずれていったように思う。
 また、亜豆の扱いが原作とは大きく違うのだが、私は映画版の方が納得がいく。大場つぐみ&小畑健作品の女性キャラクターに全く魅力を感じないからというのも一因だが、映画版の亜豆の方が、彼女は彼女で自分の夢の為に進んでいる、真城のトロフィーではないということがはっきり示される。真城を待っているのではなく、真城の先を行く存在としているのだ。
 亜豆の扱いを変えたことで、真城の漫画に対するスタンスも原作とは少し変わってくる。映画版の真城は、亜豆に高木とのやりとりを聞かれたことで、彼女の気を引くためにとっさに「漫画家になる」と言ってしまう。しかし、ある地点から亜豆は動機や目標ではなくなり、漫画そのものが漫画に取り組む動機と目標になっていく。より「漫画家」として(経済面を含め)生きていこうとする話になっていくのだ。そして彼を支えるのは、憧れの美少女に対する思いではなく、彼と共に戦う漫画家たちになっていく。ジャンプで連載するという特殊性からちょっと離れ、しかし一回転してジャンプのモットーである「友情・努力・勝利」に着地、しかしそこからもっと地に足の着いた地点へほろ苦く着地、という、ジャンプ読者以外への間口の広げ方が上手くいっていたように思う。
 本作、サウンドトラック及びテーマ曲をサカナクションが手がけているということでも気になっていたのだが、これがとても良い。音楽がついているシーンが多い(というよりほぼ音楽がついている)のだが、うるさくない。映画のを駆動させるベース音として常に音楽が鳴っているようなバランスだった。また、エンドロールは曲もいいが映像が素晴らしく、ジャンプ読者は泣くしかないので必見。

『バードピープル』

 ビジネスマンのゲイリー(ジョシュ・チャールズ)は出張でパリに来ていた。重要なプロジェクトを任されており、明日はドバイに飛ばなくてはならない。妻との関係も上手くいかず、多忙な日々に疲れ果てていた。ホテルで客室係のアルバイトをしているオドレー(アナイス・ドゥムースティエ)は、大学を休学中。同じような毎日に行き詰まりを感じていた。その晩、ゲイリーにもオドレーにも大きな変化が訪れる。監督はパスカル・フェラン。
 今までの人生を捨てるのも、鳥に変身するのも、それまでの人生から離脱することで、ある種の自殺のようでもある。オドレーはともかく、ゲイリーの会議での集中力の欠け方、不眠症、突然のパニック状態等は、かなり深刻に見える。彼が仕事を辞めると言い始めた時、同僚にしろ妻にしろ、この人自殺するんじゃないか?と最初に心配しないのが不自然なくらいだ。そのくらい、彼は摩耗しているように見える。彼の辛いところは、摩耗していること自体よりも、その摩耗を周囲がよくわかっていない(同僚は仕事の心配しかしないし、妻は自分に対するあてつけだとなじる)ということだろう。その人の辛さとか限界にきているんじゃないかということは、周囲からはこの程度にしかわからないということかもしれないが。
 ともあれ、ゲイリーとオドレーは日常からしばし離脱し、無事日常へ着地する。無計画そうでもバカバカしそうでも、ちょっとした離脱が人生を長持ちさせるんじゃないかと思う。ただ、ゲイリーとオドレーの人生は、おそらくこの先交わることはないだろうという予感が強く残った。そのはかなさがまた人生だなと。
 とは言ったものの、正直なところ、ゲイリーのパートがちょっと長すぎる感は否めない。彼がおかれているシチュエーションや彼の行動はさほど特異なものではない、むしろありふれたものだと思うのだが、それをただ一つのものに見せる、見せ方の魅力に乏しい(ありふれたことを見せるなというのではない。ありふれたことを描いていても素晴らしい、魅力に満ちた映画はたくさんある)。後半、オドレーのパートのファンタジー要素に魅力があるので勿体ない。オドレーのパートについては、私が小鳥好きだから点が甘くなっているかもしれないけど・・・。
ところで、デヴィッド・ボウイの『スペース・オデッテイ』が作中流れるのだが、この曲、近年映画の中でやたらと聞いている気がする。

『マリワナ・ピープル』

E・R・ブラウン著、真崎義博訳
17歳のテイトはカナダの国境近くのカフェでアルバイトをしている。14歳で大学入学を果たし天才児ともてはやされたが、諸般の事情で退学し、今はガンの闘病中の母親と妹を養っている。ある日、常連客のランドルから仕事の手伝いを頼まれる。怪しみつつも破格の給料にひかれて手伝うテイトだが、ランドルはマリワナの製造・流通業者だった。テイトもその仕組みに徐々に取り込まれていく。テイトにはお金も学歴も腕っぷしも身分も、運転免許証すらなく、頼りになるのは自分の知恵と、一見童顔なので相手が油断するという特徴のみ。テイトは頭はいいのだが、あくまで17歳の少年(しかもどちらかというと世間知らずな)としての聡明さなので、様々な所で危なっかしい。そこをなんとか切り抜けていくという成長物語でもあるのだが、扱っているブツがブツなので、どういう顛末になるかは何となく察しが付く。察しがついちゃうくらいテイトが危なっかしいということなんだけど・・・。聡明なはずの彼がなぜ引き返せなくなるかというと、お金の問題、母親が保護者としての体を成していないという問題があるからだ。親が親をそれなりにやってくれないと子供はほんと困るよなぁ・・・。そしてランドルがテイトの能力を評価したこと、ひとかどの人物として扱ったことが、テイトに一線を越えさせてしまう(もちろんランドルはそのつもりで褒めているし、テイトもそれはわかっているのだが)というのがどこか痛ましい。テイトの評価されたい、何者かでありたいという渇望の裏には、子供の頃から大事な存在としてちゃんと扱われなかったのではという気配が見え隠れしてしまうのだ。


『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』

 2007年、シカゴに住むジョン・マルーフは歴史研究の資料として、大量の古い写真ノネガをオークション入手する。その一部をブログに掲載したところ、大きな反響を呼んだ。撮影者の名前はヴィヴィアン・マイヤー。写真家としては全く無名の人物だ。彼女は一体何者だったのか。マルーフはネガと共に大量に残されたメモや伝票、手紙を手がかりに、彼女の生涯を調べ始める。監督はジョン・マルーフ&チャーリー・シスケル。
 マイヤーの足跡を追うミステリとしても、マイヤーという一人の女性の内面を覗き込むミステリとしても。ともあれ、マイヤーが「捨てられない人」だったからこそ成立した作品だろう。捨てられない癖にもいいところがあるな(笑)。
 マイヤーの写真はどれも魅力的だ。彼女の写真の多くは町にいる人たちのポートレート。これは人が好き、他人に興味がある人でないと撮れない作品だと思う。しかし、マイヤー自身は決して人づきあいが上手くないし、人好きするタイプでもなかったようだ。彼女は長年乳母をして生計を立てていたが、子供たちと遊ぶのが上手く、懐かれていたという話も出るし、彼女を嫌いだったという人もいる。雇い主との距離感や自分の呼ばせ方もまちまちだ。人嫌いというわけではないが、何よりも自分の世界を大事にする人だったんだろう。写真を見てもらいたいけど触れてほしくないという、うらはらな気持ちが彼女の人生からは見え隠れする。
 マイヤーを知る人を探し出し取材を続け、彼女の人生を発掘したマルーフの熱量もまたすごい。マイヤーの生き方は一風変わっていたかもしれないが、マルーフの情熱もまた一風変わっているとも言える。フィルムをブログで公開、まではよくあるかもしれないが、一人の人の人生を掘り起こすまでの粘り強さ(何しろ残された私物が膨大で、整理するだけで力尽きそう)はちょっと常軌を逸していると思う。作品は作品単体で成立しているはずなのに、そこに更にマイヤーの物語を付加せずにいられないというところに、何かの業みたいなものを感じる。マイヤーにとってこういう形で知られることが、本意だったかどうかわからないという側面もあるし。

『鍵のかかった男』

有栖川有栖著
大阪市中之島のプチホテルで、梨田稔という69歳の男性が死亡した。死亡時の状況から警察は自殺と判断するが、ホテルの宿泊客で梨田と交流があった有名作家・景浦浪子はこれに納得できず、ミステリ作家の有栖川有栖とその友人で犯罪学者の火村英生に調査を依頼する。すぐには動けない火村にかわり、有栖川は単身、ホテルに向かう。火村シリーズ久々(なんと13年ぶり。そんなに経ってたか・・・)の書き下ろし長編。しかし渋い!渋いぞ!どのくらい渋いかというと、真犯人を絞り込むある手がかり、解説されても再度再〃度見直さないと気づかなかった。トリック、というかロジカルな絞り込み方がどんどん職人技になってきてるな~。加えて、本作の「謎」は梨田の死の真相だけではなく、彼がどのような人生を送り、なぜこの地に辿りつき、何を思っていたのかという、人間そのものの謎でもあるのだ。所詮他人事、他人の内面はわからないものではあるが、あえてそこを推し量る、というところが人間への好奇心であり(人間嫌いと言われつつも)有栖川の人間への愛着なのだろう。同時に、その好奇心を突き詰めると最後の景浦の表情が浮かび慄然ともするのだ。なお、小説としての文章が、妙な言い方だけどより効率化され、長持ちする文章になってきている気がする。ちなみに作中の時代設定は2015年。スマホもあるし東日本大震災も起こった。しかし火村も有栖川も34歳である。この割り切りに熟練の技を感じる(笑)。

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