3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2015年09月

『岸辺の旅』

 ピアノの個人教師をしている瑞希(深津絵里)の前に、3年前に行方不明になった夫・優介(浅野忠信)が現れた。優介は瑞希に「俺、死んだよ」と告げ、一緒に旅に出ようと言う。瑞希は優介と共に、彼が3年の間に世話になった人達の元を辿る。原作は湯本香樹実の同名小説。監督は黒沢清。第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門監督賞受賞作。
 冒頭、瑞希が白玉を作り始めるシーンから数分間で、もうただごとではない雰囲気が漂う。次の瞬間には何かとんでもないこと、恐ろしいことが起こるのではないかという予兆に満ちているのだ。本作、夫婦の愛情を描いているかのような予告編だったが、何よりも幽霊映画なのだ。ただごとではないという雰囲気は、死者が急速に接近してくるということではないか。急に暗くなる画面やはためくカーテン、室内に吹き込む風は黒沢作品には付き物だが、本作ではそれが異界の気配として更に際立っていたように思う。
 ストーリー自体は直球のメロドラマと言ってもいいくらいだし、音楽がまたびっくりするくらいベタにメロドラマ感をあおるのだが、その見せ方、演出の方向性はホラーに近いような異様な印象だ。黒沢清の映画は、やっぱりホラーがベースにあるんだろうなぁ。
 死者として戻ってきた優介を、瑞希は今までよりも更に身近に感じ、深く愛し合う、しかし、どんなに近くにいると感じられても、やはり既に別の世界の人なのだと随所ではっとした。原作でもそういう部分は描かれているけれど、映画だと、浅野と深津の演技の力、2人のふるまい方の差異によってその感じがより強まっている。2人で旅をし日常的に言葉を交わしていても、優介は別の位相から話している感じがするのだ。おそらく、優介に見えている景色と瑞希に見えている景色は違うのだろう。そこがどうしようもなく寂しいところでもある。夫婦の絆というよりも、(片方が死者ということを置いておいても)全くの他人2人が隣り合っていることを痛感する。
 なお、主演の2人はもちろん素晴らしいのだが、ちょこっとだけ出演している蒼井優がしみじみおそろしく、撮り方に若干悪意を感じるくらいだった。

『天使が消えた街』

 2011年、イタリア・トスカーナ州シエナで、4年前に起きたイギリス人留学生殺人事件の控訴審が始まる。事件を映画化するために現地を訪れた映画監督トーマス(ダニエル・ブリュール)は、スキャンダルとしてもてはやすマスコミに違和感を感じる。監督はマイケル・ウィンターボトム。実際に起きた事件を元にしているそうだ。
 容疑者は被害者のルームメイト。共に美人だが被害者は真面目な清純派、加害者は華やかで奔放というキャラ付けがマスコミによりされていく。その方が世間にはウケるからだ。そして容疑者サイドに対する関心が募り、被害者や遺族のことは忘れられていく。トーマスはそれに反撥を覚え、彼女たちの真実をつきとめ映画に取り入れようとする。
 しかし本作、トーマスによる真相・真犯人の追求メインにしたミステリ仕立てなのかと思っていたら、どんどん意外な方向へ転がっていく。次々と怪しげな人物が現れ、トーマスがダンテ『神曲』を作品に取り入れようとしていることもあり、幻想的な雰囲気になっていく。更に、トーマスが執筆スランプ中かつ薬物依存症という事情も加わり、彼の見聞きしたことが段々信用できなくなっていく。事件についてトーマスが調べたこと全てが彼が見た夢だったのではという気もしてくるのだ。
 とは言え、事件の裁判の結果とはまた別として、真実は当事者にしかわからないことだろう。映画化しようとストーリー付けした時点で、それはフィクションになってしまう。当事者が死んでいる以上、真実はわからないままだ。トーマスは実在の「彼女」を誠実に映画化しようとするが、それは、彼が関わっていない以上、出来事の結末を描けないということなのだ。モデルに誠実であればあるほど、明確なストーリーは消え、結末はあいまいになっていく。
 ウィンターボトム監督は実在の人物や出来事を元にした映画をしばしば製作している。そのウィンターボトムが本作のような作品を撮るというのは意外でもあった。自戒か贖罪みたいなものなのだろうか。

『わたしに会うための1600キロ』

 母親を亡くした喪失感から、麻薬とセックスにのめり込み、結婚生活を破たんさせ何もかも失ったシェリル・ストレイド(リース・ウィザースプーン)。人生を仕切りなおす為に、徒歩による1600キロの旅、パシフィッククレストレイルに出る。実在の女性シェリル・ストレイドの自叙伝を元にした作品。監督はジャン=マルク・バレ。
 シェリルはトレイルの経験もなく、アウトドアが得意なわけでもない。パシフィッククレストレイルに出たのは無謀もいいところなのだが、イタい人、考えの足りない人というわけではない。彼女はトレイルに本とノートを持っていくほど読むこと・書くことに熱心だし、トレイルの名簿に文学作品からの引用を書き添えるくらい教養豊か。生前の母親とのやりとりからも、無鉄砲ではなくむしろ理知的な人なんだろうと察しがつく。彼女がトレイルに出るというのは、相当どうかしていたということなのだ。本作で一番びりびりきたのは、基本ちゃんとしているはずの人がここまでがたがたに崩れてしまうという所だった。
 彼女が生活を破たんさせてしまったのは、母親の死が契機になっている。母親はシェリルと弟を女手一つで育て、シェリルと一緒に大学にも通っていた。シェリルと母親の関係は非常に強く、当然喪失感も強烈だ。母親の死がそんなに堪えるのか、理解ある優しい夫でも支えることができないのかという人もいるかもしれない。だが、個人的には他人事とは思えなかった。親と二人三脚みたいに育ってきちゃうと、いなくなった時に茫然とする(特にシェリルの母親の場合は若くして急激に病状が悪化するという状況だし)と思う。闘病を支えてきたなら、燃え尽き感も強いだろう。私は幸いにもこういう経験はまだないけど、身につまされるわ・・・。
 なお、母親がほぼ成人の弟にいそいそとご飯を作ってあげる姿に、読んでいるもの(大学で勉強していること)とやっていることが違う、とチクリと言ってしまうはすごくよくわかる。弟が母親の病気と直面出来ず逃げてしまうのもわかる。母親はずっと母親でいてくれるものって気がしているんだよなと。だからいなくなるという現実が目の前にくるとパニックになってしまうのだろう。
 本作、シェリルがトレイルをしている現在と、なぜここに至ったかという過去がフラッシュバックのように入り乱れた構成になっている。これがすごく良くできていると思った。記憶のよみがえり方、特に嫌なことを思い出した時の嫌な記憶の連鎖の仕方の再現度がやたら高い。いい記憶は連鎖しないんだけどなぁ・・・。

『キングスマン』

 アパートで母親と年齢の離れた妹と暮らすエグジー(タロン・エガートン)仕事も教養もなく、DVを続ける母親の恋人に怒りを抱いていた。ある日、トラブルを起こして留置所に入れられたエグジーは、幼いころに父親の知り合いだという男から助けが必要な時にかけろと教えられた番号に電話をする。エグジーを迎えに来たハリー(コリン・ファース)は世界の平和を密かにサポートするスパイ組織「キングスマン」の1人で、欠員の補充候補としてエグジーをスカウトする。一方、IT長者のヴァレンタイン(サミュエル・L・ジャクソン)はある計画の為に著名人を次々と誘拐していた。監督はマシュー・ボーン。
 スパイ、ジェントルマン、スーツに秘密兵器という私の好きなものが詰まっているのにこの乗り切れなさは何なんだろう・・・。そういえばマシュー・ボーン監督作品ていつもそんな感じだな。致命的に相性が悪いのか。世間では好評みたいなので、すごくもったいない気がしてきた・・・。
 どこにひっかかるって、多分、ハリーがエグジーに紳士たれ、紳士は格好や立ち居振る舞いでなれるのだと言う割に、何を持って紳士とするのかが本作内でいまひとつ見えてこないというところなんじゃないかと思う。紳士っぽいアイテムは揃えているけれど、紳士ごっこのような感じ。エグジーを紳士に育てる引き合いに『マイ・フェア・レディ』を出してくるのもいただけない。下町育ちを上流階級のように育てる、教育によって人は変わるというコンセプトの部分は確かに共通かもしれないけど、『マイ~』はそれ以上に立ち居振る舞いや服装が変わってもその人の本質は変わらず、そこを見落としたらいかんってところがみそだと思うのだが。
 また、中盤でハリーがある事態に陥るのだが、あれっそういう展開にしちゃうの?という唐突感が否めない。紳士として武装してもそんなもんなのかと。で、ハリーの背中を追うそこをエグジーがどう克服していくのかということには触れられない。どうも片手落ちなんじゃないかという気がした。
 あと、これは個人的な好みなのだが、中盤の部活の合宿みたいなノリがあんまり好きじゃないんだよな・・・。嫌な奴の嫌な奴感もテンプレすぎて、それ人選した人の見る目ないんじゃないの?って思っちゃった。
 そもそも、キングスマンが選ばれし騎士が密かに世界を救う組織だとすると、その「特別」さって敵の趣旨とそんなに変わらなくなっちゃう気がするのだが・・・。自分達の正義を何によって裏付けするのかというところが気になってしまった。

『我が友、イワン・ラプシン』

 特集上映「すべて見せます、アレクセイ・ゲルマン」にて鑑賞。1930年代半ばのロシア。地方都市ウンチャンスクの宿舎に、刑事の父(アレクサンドル・フィリッペンコ)と暮らす少年の「私」。宿舎には父の同僚のイワン・ラプシン(アンドレイ・ボルトネフ)、アコーギシン(アレクセイ・ジャルコフ)も同居していた。ラプシンらは脱獄囚を捕まえようとやっきになっていた。アレクセイ・ゲルマン監督、1984年の作品。
 モノクロでフィルムの痛んだ(意図的なのか実際に痛んじゃったのかわからないが、多分本当に痛んでいるんだと思う)部分もあるので、実際に製作された年代よりももっと昔の、作品の舞台である30年代の映像のように見える。アレクセイ・ゲルマン監督作品は最新作の『神々のたそがれ』しか見たことなかったのだが、『神々~』で見られたような、群衆の中をカメラが登場人物と一緒にぶらつくようなショットは本作でも見られる。作風このころから固まっているのかな。やたらと人が出てきてそれぞれ好き勝手やっているような、騒がしい雰囲気も。
 ただ、騒がしく躁的ではあるのだが、イワンらの生活はどこか不安感を感じさせる。貧しさがひしひしと伝わってきて見ているだけで侘しくなるっていうのもあるのだが、どこか危うく落ち着かないのだ。舞台となった時代はスターリンの粛清が迫っている頃なので、国内の雰囲気が差し迫ったものになっているということなのだろうか。仲間内で騒ぐのも女の子をひかっけるのも、不安を紛らわすために見えてくるのだ。明日も今日と同じような日が来る、代り映えのしない生活が続くようにも見えるラストだが、それが突然崩れさるような予感も孕む。

『黒衣の刺客』

 唐の時代の中国。導師の元で修業し、13年ぶりに両親の元に現れた隠娘(スー・チー)は、凄腕の暗殺者となっていた。標的はかつて彼女の許嫁、今は父の主である田委安(チャン・チェン)。任務中に窮地に追い込まれた彼女は、鏡磨きの青年(妻夫木聡)に助けられる。監督はホウ・シャオシェン。
 とにかく映像が美しく、見入った。景色が素晴らしい(ほぼ中国でのロケだと思うのだが、場面によって植生が違うので結構広範囲で撮影したのでは)し、撮影も素晴らしいのだろう。ただ、美的に素晴らしいと言うだけではなく、淡い表現ではあるのだが、意外と人と人との関係の機微の描き方が細やかだったと思う。登場人物一人一人の言葉はそんなに多くはないし、会話そのものが少ない。しかしそのちょっとした部分で、この人はこういう人である、この人とこの人との間にはこういう経緯があるんだろう、みたいなものがたちあがってくるのだ。
 作中重点が置かれているのは、やはり隠娘と田委安だろう。しかし、2人が直接的に言葉を交わすことはほとんどない(と思う)し、2人がお互いをどう思っているのかも具体的には言及されない。それでも、隠娘の暗殺におけるフェアさ、田委安の妾や子供への対応の仕方で、彼女の思いや人となりが感じられるのだ。彼女のある種のフェアさに貫かれた行動に人柄がにじむ。人間ドラマってこのくらい淡くても、見せるところを見せればちゃんと説得力があるんだなと妙に感心した。
 特に印象に残ったのは隠娘の両親のやりとりだ。娘が暗殺者になって戻ってきたというのは、親からしてみれば相当思うところあると思うのだが、それが強い言葉で表わされるのは1か所だけ。あとは父親の表情が雄弁に語る。俳優の技量も素晴らしい。人間ドラマを語り過ぎない美しさがあると思う。

『ロマンス』

 新宿・箱根を結ぶロマンスカーで、車内販売担当のアテンダントをしている北條鉢子(大島優子)。車内で怪しい万引き未遂男を見つけ追求したところ、男は箱根駅で逃げ出した。すったもんだの末、その男・桜庭洋一(大倉孝二)に破り捨てた母親からの手紙を見られてしまう。桜庭はなぜか、母親を探しに行こうと強引に鉢子を連れ出し、箱根の名所を2人で回る羽目になる。監督・脚本はタナダユキ。
 題名はロマンスだが、男女2人の間にロマンスらしきものが全く生まれないところがいい。男女がいれば恋愛が生まれる、って話ばかりな方が不自然で、本作のようにどうもこうもならない(なりそうになるが甘やかなものは全くない)ことの方が実際は多いだろう。鉢子と桜庭は、あくまで他人、ただの人と人として行動を共にする。その共にする理由も、あんまりしっかりしたものではなく、どこかふらふらしている。鉢子の母親がタイミングよく箱根に来ている可能性はかなり低い。それは双方わかっている。2人に必要なのは、日常と日常の隙間の時間みたいなもので、だからこそ自分の日常にはいないはずの人が同行者として都合がいいのだ。
 鉢子の持つ母親へのわだかまりはさして珍しいものでもないのだが、だからこそ切実だ。そんなことにこだわっている自分、家族で楽しかった瞬間を思い出してしまう自分が更に嫌になる、というのは何かわかる気がする。ショボい悩みだからよりしみじみしてしまうのだ。
 一方、桜庭の抱えている事情もなかなかにしょうもないものなのだが、本人にとってはどん詰まり状態。そういう状態になっている自分が嫌でしょうがない、という部分では2人とも共通している。だから桜庭はちょっとした逃避行に飛び出してしまうし、鉢子も(一見嫌々だが)それに乗っかってしまう。
 逃避行をやってみても、彼らの問題が解決するわけではない。でも少しだけ風通しが良くなる。その「少し」でまた日常をやりくりできるようになっていくんだろうなって思えるところがいい。

『ヨハネスブルグの天使たち』

宮内悠介著
ヨハネスブルグに住む戦災孤児スティーブは、スラム化した高層ビルの上から何年も繰り返し落下し続ける人型ホビーロボットの1体が自分たちを認識していると気づき、捕獲しようとする。NY、ジャララバード、ハドラマウト、東京の5つの都市の荒廃と人の在り方を描く連作短篇集。歌う少女型ロボットが各話を繋ぐ短篇集。描かれる近未来の世界は、戦争や内戦、テロにより荒廃しており、人類は斜陽を迎えている。最終話「北東京の子供たち」では、大人たちは仮想の世界に逃げ込んでいる、あるいは別の世界を見ようと模索しているようでもある。そういう世界の中で生きるしかない、という諦念が作品の底辺に流れているが、これがすごく「今」な感じがする。紛争が続き人類の発展は尻すぼみな世界は、現実の現代に繋がっているのだ。最早SFで希望に満ちた未来というのは描きにくくなっている、あるいは描いても説得力がないのだろう。ただ、本作から過度にペシミスティックという印象は受けなかった。むしろ、そこからどう生きるか、たとえ人間・民族としての形態を変えても、というような先細りではあってもしぶとさも感じさせる。前作『盤上の夜』から小説として格段に冴えていて(『盤上の夜』もよかったが)直木賞ノミネートも納得。

『ピース オブ ケイク』

 仕事も恋愛も周囲に流されがちだった梅宮志乃(多部未華子)は同僚との浮気がばれて恋人の正樹(柄本佑)にふられ、退職することに。心機一転を図り引っ越して新しいバイトを始めるが、バイト先の店長で偶然アパートの隣室の住人だった菅原京志郎(綾野剛)に恋してしまう。しかし京志郎には同棲中の恋人・あかり(光宗薫)がいた。原作はジョージ朝倉の同名漫画。監督は田口トモロヲ。
 特に前半、志乃のモノローグが多くてちょっと辟易とした。多分、原作通りのセリフやモノローグなんだろうけど、漫画としてぐっとくる言葉の使い方と、映画としてぐっとくる言葉の使い方とは違うんだろうな。そのまま持ってきても上手く機能しないのだろう。だったら、もっと大胆にアレンジしてよと思ってしまう。ただ、後半ではそれほど気にならなかった(シチュエーションや登場人物の立ち居振る舞いについてはこれは漫画だから成立するやつだよな、とか思ったけど)。志乃が自分内でぐるぐるしていたものを相手にぶつけていくようになるので、モノローグとして処理される言葉が減ったということもあるかもしれない。
 志乃は決して万人受けするようなヒロインではないだろう。そこそこモテて付き合う相手が途切れない、と言っても本人にすごい魅力があってモテるのではなく、さびしいから手近な相手で手を打ってしまう、相手にとっても、これなら自分でもイケるんじゃないか、というお手軽さからちょっかいだされがちという、微妙にありがたくないモテ方なんじゃないだろうか。こういう流されやすい、フラフラした女性を多部が演じるというのは意外なキャスティングだったが、逆に多部くらい個性がしっかりした俳優じゃないと、存在感が出なかったかもしれない。いわゆるモデルのような典型的な美人が演じたら、嘘くさいかいたたまれなくなるかどちらかだったんじゃないかな。そういう意味では結構ギリギリの人選だと思う。
 田口監督の作品は、主人公の自己愛が強すぎるように感じられる部分があったのだが、本作はこの部分はあまり鼻につかなかった。志乃のキャラクター性もあるだろうし、主人公が女性ということで、監督との間にちょっと距離感が出来たのかなと思う。映画としては色々難があるし、決して自分が好きなタイプの話ではないんだが、それでもそこそこ楽しんだのは、俳優の力によるところが大きい。綾野剛の嘘くさい笑顔と甘える態度のウザさ(これは、ウザく甘えるというシチュエーションだったので演技としては正しいんだろう)には、これに一目ボレできるか?!とは思ったが。あと、自分の地元がちょいちょい出てきてびっくりした。

『ヴィンセントが教えてくれたこと』

 酒とギャンブルに溺れる年配男性ヴィンセント(ビル・マーレイ)は一人暮らし。時々娼婦のダカ(ナオミ・ワッツ)を家に呼ぶくらいで人づきあいは皆無だった。しかしある日、隣にシングルマザー・マギーと12歳の息子オリバー(ジェイデン・リーベラー)が越してくる。病院の技師として残業続きのマギーに、オリバーを預かってほしいと頼まれる。時給をもらう約束をとりつけオリバーを預かったヴィンセントだが、競馬場やパブにオリバーを連れ出してしまう。監督はセオドア・メルフィ。
 原題は『St.Vincent』。なぜ聖人?と思ったが、最後まで見るとなるほどと。これはいい題名だな(邦題は、日本でならこっちの方がわかりやすいだろうなと思うので、これはこれでいい)。ヴィンセントは聖人とは程遠い、「ちょいワル」なんてこじゃれたものじゃない、単なる素行不良でだらしない年配者だ。打つ、買う、飲むの3拍子が揃っていて子供の教育上大変よろしくなさそう。実際、オリバーをパブや競馬場に同伴させて、マギーの立場を難しいものにしてしまう。しかしオリバーはヴィンセントと接するうちに、彼なりの優しさや責任感があり、愛すべき部分があるとわかっていく。単なるダメ男ではなく、ヴィンセントという一人の人間としての人生があるということを理解していくのだ。ヴィンセントは子供が苦手で接し方をよくわかっていないが、それがかえってオリバーと一対一の個人同士としての関係を作っていったのだろう(ただ、まるっきり大人同士みたいに接するのもよくないよ、とも言及されているが)。
 ヴィンセントも、オリバーがいることで救われた部分があるのだと思う。オリバーがヴィンセントを無価値な人間ではなく、いい部分も悪い部分もひっくるめた「ヴィンセントという人」として理解したことが、ヴィンセントの心をほぐしていくのだ。ラストは、そりゃあ泣くよな!と納得するもの。いびつでも不細工でも、その人にはその人なりの人生があって、無価値ではないのだと言われている気がするのだ。
 それはヴィンセントに限らず、本作に登場する人全てに言えることだ。マギーもダカも、オリバーの同級生も色々難点のある人間だ。しかし、だからといってその人全体がダメだってことにはならない。最後の食事シーンも、大しておいしそうではないし、全員の調和がとれているわけでもない(テーブルや椅子のセッティングもその場しのぎっぽい)。でもそこがいいんだと思う。
 なお、ネコが名演だった。

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