3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2015年08月

『幽霊と未亡人』

 特集上映「映画史上の名作13」にて鑑賞。ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ監督、1947年の作品。未亡人のルーシー(ジーン・ティアニー)は小さな娘と家政婦と共に、海辺の家を借り越してきた。その家には元の持ち主であるグレッグ船長(レックス・ハリソン)が憑りついていた。ルーシーは彼の横暴な言動に憤慨するが、徐々に親しくなっていく。
 幽霊は出てくるが怖くはなく、少女漫画のようなロマンチックさ。主人公であるルーシーがめそめそしておらず好ましい。義母や義姉にも毅然として立ち向かうし、グレッグに対しても驚き怯えはするものの、軽妙な切り替えしと気の強さを見せる。ロマンスではあるが、全般的にユーモラスさがあって楽しかった。
 グレッグとルーシーは惹かれあうが、グレッグがルーシーを守るというのではなく、彼女が(精神的にも経済的にも)自立できるように支え導く。対等というにはちょっと「教える」感がありすぎかなという気がしたが、船長の自伝をルーシーに口述筆記させても「文章は君の中から出てきたものだ」と彼女に自らの才能に気付かせ励ます様にはなかなかぐっとくる(ずいぶん中途半端な形での励ましだなとは思ったが)。2人がお互いずけずけとものを言い合うところがいい。
 それだけに、ルーシーがいわゆる「女の弱さ」とか言われがちなふらつき方を見せてしまう後半は残念だった。当時としてはこういう流れの方が自然だったのかもしれないけど、この人唐突に出てきたな!って思っちゃったので。

『淪落の女の日記』

 特集上映「映画史上の名作13」にて鑑賞。G・W・パブスト監督、1929年の作品。白黒・サイレント。薬局の娘(ルイーズ・ブルックス)が父親の助手に誘惑され、妊娠。赤ん坊は産婆に預けられ、娘は感化院に入れられるが、そこでは残酷な院長が入院者たちを取り仕切っていた。
 大変申し訳ないのだが前半ほぼ寝てしまったので、正直作品の良しあしがわからない・・・。ただ、それにしても長い割に退屈だった。主人公にしろ彼女の父親にしろ、彼女の夫にしろ、あんまりものを考えずにあまりに流されやすいように見える。確固とした意思らしきものが感じられないのだ。主人公が最後に何とか自己主張らしきものをするのだが、これは時代の違いなのだろうか。
 ビジュアル、演出が妙にフリーキーなのが気になった。感化院の院長はフランケンシュタイン(博士じゃなくて人造人間の方)みたいだし、院長と女性職員に入院している女性たちが反旗を翻すところは、ゾンビ映画みたいだ。なぜこのシチュエーション?!みたいな唐突感がある。主人公と父親がクラブで再会するシーンも、本人たちの意思では全く動けず周囲に襲われていくみたいな感じだ。これはその当時の流行だったんだろうけど、主人公のメイクが死人みたいでもある。義理の母親は現代でも通用するようなメイクなんだけど、これは逆に義母の方が地味・不美人てことなのかな?

『消滅した国の刑事』

ヴォルフラム・フライシュハウワー著、北川和代訳
2003年12月、ベルリンで頭部を山羊の頭に付け替えられた女性の胴体が発見された。ツォランガー警視正は部下のジーナやウドらと捜査を開始するが、早々にナイトクラブで異様な細工をされた羊の死体が発見される。一方、兄の自殺は他殺だったのではと疑うエーリンは、当時捜査を担当したツォランガーへの面談を求める。前半が見えた風景が後半でどんどん変わり、スケールが大きくなっていく。原題「TORSO」と邦題とはずいぶん異なるが、後半になると邦題の意味も際立ってくるのだ。事件の真犯人にはえっそんないきなり出されても!とちょっと思ったが、そういえば結構早い段階でその存在は示唆されていたのだった・・・。金銭を使わず生活することをポリシーとしているエーリンは、最初は独りよがりで世間知らずに見える。しかし、彼女の姿勢は事件を引き起こした背景と対称になっているのだ。それ故、作品のトリを飾る彼女の言葉は実に苦い。そのシステムに巻き込まれたら止めることはできないのだ。

『ジュラシック・ワールド』

 ジュラシックパークの事故を経て、新たにオープンしたテーマパーク「ジュラシック・ワールド」では、遺伝子操作によって「新種」の恐竜も開発していた。グレイ(タイ・シンプキンス)とザック(ニック・ロビンソン)の兄弟は、2人でジュラシック・ワールドにやってきた。2人の叔母クレア(ダグラス・ダラス・ハワード)がワールドの責任者なのだ。しかし、遺伝子操作によって狂暴化かつ高い知能を備えた「新種」インドミナス・レックスが脱走し、恐竜を次々と殺していく。元海軍兵の飼育係オーウェン(クリス・プラット)はクレアと共に、行方不明になったグレイとザックを探しに出る。監督はコリン・トレボロウ。
 恐竜てんこもりでワクワクドキドキさせ、ジェットコースターのように次から次へと見せ場がくるが、見終わった後に全く余韻が残らない。そこが娯楽映画としての美点だと思う。気分をすっきりさせるにはぴったり。恐竜はもっと表情がなくても(顔の表情は爬虫類らしく特にないのだが、時に動作が雄弁すぎる)いいかなという気もしたが、『ジュラシック・パーク』シリーズの時から更に技術が進み、質感等よりリアルで数も多いので見応えがある。恐竜が生きていたらこういう生態だろう、こういう行動原理だろう、みたいな部分の説得力が増している。ジュラシック・ワールドがテーマパークである、という作りこみも徹底していて、確かに楽しそう!事故さえなければ行ってみたい!という気持ちになる(ワールド内にスターバックスがちゃんと出店していたのには笑った)。ワールド内に子供向けの「恐竜ふれあいコーナー」的なアトラクションがあるのも芸が細かいし、これを見ることで相当恐竜に乗りたくなる。恐竜に触りたい!とか乗ってみたい!と観客に思わせた時点でこの映画大成功だよなぁ。
 恐竜大好きな11歳のグレイと、恐竜よりも女の子が気になるお年頃のザック兄弟の「映画に出てくる兄弟ってこんな感じ」という雰囲気にはやたらと安定感を感じた。ザックが、女の子が気になるけどいつの間にかジュラシック・ワールドに夢中になっているところも、この年齢の男子っぽさと、ジュラシック・ワールドのテーマパークとしてのクオリティを感じさせるいい演出だった。
 また、クレアの造形が意外と通り一遍ではなく、面白かった。単につんけんした功利主義者というわけではなく、責任者としてかなりいっぱいいっぱい(スポンサー候補の名前を必死に覚えているところとか)だし、やり手はやり手なんだろうけどそんなに器用ではない。甥たちにはそっけないが、忙しすぎると同時に、子供とどう接していいかわからないんだろうなぁという気配が見え隠れする。別に甥に対する愛情がないわけでもないが、そういう人もいるよなぁとちょっと同情した。そりゃあ、とりあえず無事に帰って!って思うよなと。

『ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール』

 拒食症の治療で入院中のイヴ(エミリー・ブラウニング)は夜中にピアノを奏で、作曲に没頭していた。病院を抜け出してライブハウスを訪れたイヴは、ギタリストのジェームズ(オリー・アレクサンデル)と親しくなる。ジェームズがピアノを教えているキャシー(ハンナ・マリー)を加え、3人でバンドを結成し、イヴは音楽活動に夢中になっていく。監督はバンドBelle and Sebastianのスチュアート・マードック。2009年にリリースしたソロアルバムを元に映画化したものだそうだ。
 スコットランドのグラスゴーが舞台で、風景が楽しい。河でボートを漕いでのピクニックなど、うらやましくなっちゃう。レトロかつ拘りの感じられるファッションもキラキラしたポップミュージックも実にかわいい。マードックはこういうのが好きなのか・・・。監督の好きなものだけで作ったような作品。ただ、本作におけるビジュアルや音楽への拘りは、例えばウェス・アンダーソン監督の拘りとは質が違う。徹底して自分が考えるところの「映画」の世界を構築していくアンダーソンをみてしまった後では、本作の拘りは映画に必ずしも活きているように見えない。これが映画だ!というのではなく、好きなものをかき集めただけに見えてしまう。過去の映画に対するオマージュも散見されるが(『サウンド・オブ・ミュージック』からの一コマにはつい笑っちゃった)、映画としての印象は散漫だ。映画というよりも、MVみたいなんだよな・・・。
 また、衣装にしろ音楽にしろ、作り手の好みで統一されすぎで、押しつけがましさを感じる。レトロな服装でレコードかけている割にはスマートフォン使っているし、時代設定と美術の方向性との摺合せ・落としどころを見失っている気がした。また、音楽の幅があまりに狭いようにも思った。別にパンクやっていてもいいじゃない(イヴがパンクバンドのライブを見ていい顔をしないというシーンがある)。このあたりは、ジェームズの音楽活動に対する一種の頑なさ・偏狭さへの揶揄にもなっているのかもしれないけど、それにしてもこの世界の中に他種の音楽やファッションがない感じがして、息苦しい。
 箱庭的な世界に終始しているので、終盤でイヴが自分は上を目指したいんだと言い始めても、そういうつもりだったらそもそもテープでデモ音源を送るなよ!今時再生できないよ!って思ってしまう。旅立ちの要素を入れるなら、最初からこの世界の外側を示唆しておいてほしい。

『猟犬』

ヨルン・リーエル・ホルスト著、猪股和夫訳
17年前に起きた若い女性の誘拐殺人事件で有罪の決め手となった証拠品は、ねつ造されていた疑いが生じた。当時捜査の指揮をとっていた刑事ヴィスティングは責任を取って停職処分に。ねつ造は事実なのか?だとしたら誰がやったのか?一方、ヴィスティングの娘で新聞記者のリーネは、男性が殺害された事件を追っていた。被害者の自宅を訪問した際に、リーネは覆面の男と鉢合わせしてしまう。ガラスの鍵賞、マルティン・ベック賞、ゴールデン・リボルバー賞の3冠を受賞したとの触れ込みだが、受賞も納得。一気読みしちゃう系の面白さ!中盤まではヴィスティングとリーネのパートが交互に配置されており、それぞれの事件の展開から目がはなせない。連続ドラマっぽい引きの強さがある。と言っても、そんなに華やかというわけではない。ヴィスティングはメディアに露出はするが目立ちたがり屋ではなく、私生活もそんなに派手ではない。何より有能な刑事ではあるが、見落としや間違いもあり得ることを自覚している。だからこそ証拠捏造を疑われ落ち込み、深く悩むのだ。この地に足の着いた感じが、事件や犯人像の派手さを緩和し落ち着いたものにしていると思う。

『説教師 エリカ&パトリック事件簿』

カミラ・レックバリ著、原邦史朗訳
洞窟で、若い女性の全裸死体、そして更に古い遺体2体発見された。刑事のパトリックは、妊娠中のパートナー・エリカを心配しつつも休暇返上で捜査の指揮を取ることになる。3体の死体には似通った痕跡があり、同じ方法で殺害されたと判明。捜査線上には、今は亡き宗教団体のカリスマ説教師の一族が浮上するが、一族内には過去から続く確執があり、関係は険悪だと言う。前作『氷姫』から約半年後が舞台のようだが、エリカとパトリックの関係が予想外に進展していてびっくり。前作はエリカとパトリック両サイドから事件を追う構造だったが、今回はパトリックが中心。それに伴い、警察署の面々それぞれのキャラクターの掘り下げが進んでおり、そうかこの人はこういう人だったのか!という新鮮さと共に、より顔がはっきり見えるようになっている。全員、すごく有能というわけでもやる気に満ちているというわけでもないが、パトリックに感化されるようにちょっとづつ「チーム」感が出てくる感じが楽しい。エリカの方は、今回は事件よりもむしろ自身の妊娠や親戚・友人関係、特に妹アンナとの関係で頭を悩ませている。家族・親戚関係の不和は本作のモチーフの一つでもあり、描き方が丁寧。ありがちなシチュエーションであっても、ディティールがきちんとしているので手応えがある。それはともかく、とにもかくにもアンナの行く末が心配なので、続編も読まなければ・・・。


『あの日のように抱きしめて』

 第二次世界大戦終戦後、1945年6月。元歌手のネリー(ニーナ・ホス)は強制収容所から奇跡的に生還したが、大怪我を負い顔の再建手術を受けた。顔の傷が完治する頃、ようやく夫ジョニー(ロナルト・ツェアフェルト)と再会するが、ジョニーはネリーが死んだと思っており、顔が変わった彼女に気付かない。更に、ネリーの遺産を手に入れる為、彼女に妻に成りすましてほしい、遺産を山分けしようと提案してくる。監督はクリスティアン・ペッツォルト。
 最後の数分間の緊張感が素晴らしく、そして恐ろしい。そして、監督の前作『東ベルリンから来た女』を思い出した。同じくホスが主演しているのだが、彼女はどちらでもある道を選ぶ、それによって(幸不幸は別として)自分というものを再確認しているような役柄だった。
 ネリーはジョニーの存在が心の支えだったわけだが、ジョニーは本当に彼女を裏切っていないのか、彼女が逮捕される直前になぜ離婚したのか、というミステリがひとつある。また、「私」の周囲の人々は「私」の何を見て「私」としているのかという、普遍的な謎がある。ネリーは手術を受けたとは言え、そこまで大幅に顔が変わっているとは思えない。ネリーはやはりネリーである、と観客には思える。
 しかしジョニーは彼女に気付かない。ジョニーが彼女を愛していなかった、よく見ていなかったというよりも、彼が考えるネリーの姿を見ており、そこからイメージがずれた状態だと、彼女とは認識できないということなんじゃないかと思う。ネリーに自分の妻を演じさせようとするジョニーは演技指導するのだが、ネリーは「それだと強制収容所から戻ってきたように見えない」と言う。彼女は実体験に基づいて言っているわけだが(実際それが証明されているわけだけど)、ジョニーが再現させようとするのは、自分が一緒に暮らしていたネリーであって、以降の体験がネリーに影響を与えたということは考慮できない。強制収容所での体験が想像を絶するものだということも大きいだろうが、そもそも自分がいないところでの体験というのをジョニーは想像できなかったのではないかと思う。
 ユダヤ人協会で働くネリーの友人が、深い印象を残す。彼女のネリーへの愛情と、聡明でしっかりとした人柄が見受けられるだけに、顛末が痛ましい。直接的な被害を受けなくても、深く傷つくことがあるのだ。彼女は正しいことが正しく行われない世界に疲れ切ってしまったのではないだろうか。

『時計じかけのオレンジ』

 近未来、不良グループのリーダー・アレックス(マルコム・マクダウェル)は、暴力とセックスに明け暮れていた。しかし強盗に押し入った館で殺人を犯してしまい、投獄される。一日も早く出獄するため、攻撃性を抑制する治療の実験台になるが。原作はアンソニー・バージェスの同名小説。監督はスタンリー・キューブリック。1971年の作品。
 公開された当時は過激な表現でセンセーショナルになった作品で、後々の映画や文学等への影響も大きいということは知っていたが、今回初めて見た。あれ、言われているほど過激でも斬新でもないような・・・。そもそもどこかでこういうのずいぶん見たことあるような・・・。これは本作が斬新ではないということではなく、フォロワーが多くて今となってはフォロワーの作品の方に先に触れる機会が多く、元ネタである本作を見た時にはすでに新鮮さが失われているということだろう。逆転現象が起きてしまう。これは、発表された当時斬新と言われ、広く影響を与えた作品の宿命なんだろうけど、皮肉といえば皮肉かもしれない。映画の質と、経年に耐えられるのかというのはまたちょっと違う種類のことなのだろうか。瞬間風速的なすごさというのもあるんだろうな。
 ただ本作、おそらくキューブリックの監督作としてはベストというわけではないんだろうなという感じも。『博士の異常な愛情』の方が断然キレがいいし、スケールやショットの一つ一つの美しさで言ったら『2001年宇宙の旅』とかの方がいいんじゃないだろうか。本作、構成がちょっとユルくて緩慢に感じた。もっと短くできないかなーとか思ってしまう。

『野火』

 第二次大戦末期のフィリピン戦線。日本軍の敗北は濃厚となり、兵士たちは負傷、病、栄養失調で次々と倒れていた。結核を患っている田村一等兵(塚本普也)は野戦病院へ送られるが、既に患者で飽和状態、物資も極端に不足している病院側は入院を拒否。田村は部隊に戻ることもできず、レイテ島をさまよう。原作は1959年にも市川崑監督により映画化された大岡昇平の同名小説。監督は塚本普也。
 塚本監督作品の中では久々に突き抜けた、かつ独りよがりではない作品だという印象を受けた。これは原作、そして戦争という題材の強さによるものなのか。予算が潤沢とは思えないし、手作り感の強い作品なのだが、チープではない。むしろ、視点が内面へ内面へと深く潜っていくような感じがする。
 歴史の中で第二次世界大戦の日本がどういう位置づけになるのか、といった俯瞰の視線は本作には希薄だ。あくまで田村個人の体験として描かれる。そもそも、戦争とは言っても田村たちにとって深刻なのは、敵の攻撃以上に病気と物資不足、特に飢えなのだ。更に仲間同士での疑心暗鬼にかられ、敵以前に味方に殺されかねない。南国らしいヴィヴィッドな空や山の色合いと相まって、段々悪夢的な世界に突入していく。現代では、戦争は結局他人の悪夢としてしかイメージできないのかなとも思ったが、悪夢的だからこそ見る側個々の心に訴えてくるとも言える。そもそも、戦地での体験は、当人にとっても言語化できないようなものなのかもしれない。こういった、不条理で出口が見えない状況を戦争は往々にして作ってしまうということでもあると思う。

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