3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2015年07月

『コングレス未来学会議』

 美人女優としてスターになったものの、40歳を過ぎて近年はぱっとしないロビン・ライト(ロビン・ライト)。ある日エージェントのアル(ハーベイ・カイテル)から映画製作会社ミラマウントに呼び出される。会社は彼女の全てをスキャンし、デジタルデータとして保存したい、これからは俳優のデータを使って全ての映画を作るというのだ。難病の息子の為にお金が必要なロビンは、巨額の報酬と引き換えにデータを提供し、あらゆる作品にデータを提供するという契約を結ぶ。20年後、女優としての仕事はしなくなっていたロビンは、データの提供者としてミラマウント社が開催する未来学会議に招かれる。そこは人々が薬を使って何にでもなれる世界だった。監督はアリ・フォルマン。原作はスタニスワフ・レムの『泰平ヨンの未来学会議』。
 実写のパートとアニメーションのパートに分かれており、ミラマウント社の敷地に入るとアニメーションの世界になる。このアニメーションパートのドラッギーさがすごい。ロビン自身が「ヘロインをきめたシンデレラってところよ」と言っているので、意図的にラリっている感じにしているのだろう。色彩が鮮やかなことに加え、人体にしろ他の物にしろ、どんどん変容して輪郭が一つに留まらない感じなのだ。アニメーション世界は昔の手書きアニメーション風なデザインなのだが、そのレトロ感がまた奇妙な感じを強めている。巨大な植物や建造物などは『ファンタスティック・プラネット』の子孫って感じだ。
 ミラマウントのエリア内はなぜアニメーションになるのかは、いまひとつ腑に落ちない。願望(アニメーション)の世界に入った時に、その人の生身の肉体はどういう状態になるの?アバターを着ている感じなの?それとも肉体は別のところで保管されている感じなの?と色々気になってしまった。あまり細かい設定をする必要はない作品ではあるのだが、監督の前作『戦場でワルツを』と比べると、アニメーションを使う(アニメーションと実写とを区分けする)ことへの動機がそれほど強烈には感じられなかったから気になってしまったのかもしれない。ただ、どこまで行っても夢の中みたいという点では、アニメーションで良かったと思う。
 ロビンのモチベーションは、息子に会いたいという一心だ。母子の密接さはやや不穏でもある。息子に会えるのなら、それが「真実」の世界でも、「自分にとっての真実のように見える」世界でもそう違わないんじゃないだろうか。自分の思うとおりの世界にもう一度作りなおしても構わない、だからこのラストなんだなと思った。その点はアニメーションだからできたことかなと。

『グローリー 明日への行進』

 公民権運動が盛り上がる一方で、黒人の有権者に対する登録妨害が続いていた。、1965年3月7日、マーティン・ルーサー・キング・Jr(デビッド・オイェロウォ)は有権者登録妨害に抗議する600人と共にアラバマ州セルマを出発する。しかし間もなく、アラバマ州知事ジョージ・ウォレス(ティム・ロス)が動員した警官隊に、暴力で制圧される。「血の日曜日」事件として知られるこの時の映像がアメリカ中にTVで流れ、抗議のデモは加速していく。監督はエバ・デュバーネイ。
 キング牧師がノーベル平和賞を受賞するところから始まり、彼とその周囲の人たちの人権を巡る戦いが描かれているが、濃密な物語のはずなのに、どこか連続ドラマのダイジェスト版のように見えた。実際にあった出来事、見せなければいけない要素が大きすぎて、時間内に収めようとすると要約したもののようになってしまうのだろうか。じっくり見たい題材なだけに、少々残念。キングの人間像もそれほど掘り下げたという感じではなく、事前知識のままというか、「まあそうですよね」という範囲だった。むしろ、なかなか決定打を出さないジョンソン大統領(トム・ウィルキンソン)や、黒人差別を全く問題だと思わないウォレス知事が登場するシーンの方が、人間性がぱっと垣間見える瞬間があって面白い。ジョンソンがウォレスをついに見限る瞬間など、これも歴史の分岐点かとはっとした。
 キングは勇敢な人だったろうけど、決して恐怖を感じていなかったわけではないし、清廉潔白というわけでもなかったという見せ方をしている。妻に浮気しているんじゃないかと問われて、否定はするがその嘘を見透かされる姿からは、彼の弱い側面が垣間見える。妻の方も、深い霧の中にずっといるみたい、と漏らすように、先が見えず怯え続ける生活に疲れ切っているのだ。自宅に家族への暴力を示唆する脅迫電話がしょっちゅうかかってくる件もあり、これは精神的には(実際問題肉体的にも危険にさらされているし)相当きついなということが伝わる。自分たちがどの方向に向かっていて、何が起きるのかという目星がつかないままというのが、家族にとっては大変堪えたのではないかと思う。家族や協力者を危険にさらす非暴力というやり方にキングは葛藤するが、それでも非暴力を貫く。彼が戦っているものは、同じ土俵で、同じやり方では倒せないものだ。
 それにしても社会運動家にしろ政治家にしろ、社会を動かそうとする人にとって、言葉を駆使できるというのは大きなアドバンテージなんだなと実感する作品だった。特に非暴力という方法をとったキングにとっては、言葉は生命線なのだ。単にスピーチが上手いとか交渉上手だかというだけではなく、自分の言葉でどれだけ話せるかということだ。お仕着せの言葉や建前の言葉だけだったら、こんなに多くの人を動かせなかったろう。キングの実際の演説そのままには使わず、同じ内容を違う言い回しで脚本に起こしたそうだが、ちゃんと真実味のある言葉になっているのは見事。


『極道大戦争』

 不死身と言われるヤクザの親分・神浦玄洋(リリー・フランキー)の舎弟となった亜喜良(市川隼人)。ある日神浦は殺し屋に襲われ、ついに絶命したかに見えた。しかしその生首は亜喜良に噛みつき、彼をヴァンパイア化したのだ。監督は三池崇史。
 題名に偽りありってこのことだよな!真面目に感想を書くのがばかばかしくなってくるくらい、一見話の展開は行き当たりばったりだしどんどん脱線していくように見えるし、映画ジャンルをどんどん乗り換えていくように見える。これをカンヌに持っていくのって勇気あるなぁ。
 ヤクザがヴァンパイア化し、堪え性がないので一般人にも噛みついちゃってどんどんヤクザヴァンパイアが増えていく(本作のヴァンパイアは感染タイプ)、一般人がいなくなったらヤクザはヤクザとして甘い汁を吸えないよどうしよう!という大変バカバカしい話なのだが、なまじしっかりと映画の基礎体力がある人たちが作っているだけに、なんとも言い難い妙な雰囲気。三池監督作としては、『愛と誠』の雰囲気にちょっと近い気がした。話やキャラクターが云々というよりも、セットをきっちり作って箱庭的に撮っている感じがするところが。あと終盤のぶん投げ方が。
アクションシーンが多いが、市川がなかなか頑張っている。身体に華のある人だと思う。動いているとスクリーン映えするのだ。また、アクションで言ったらインドネシアのアクション映画『ザ・レイド』のヤヤン・ルヒアンが、殺し屋として大活躍している。なぜか一昔前のオタクファッションを身にまとっているのだが、やっていることとのギャップが怖い。
 なお、冒頭のリリー・フランキーとピエール瀧の大激突を見ただけで個人的にはなんとなく満足した。

『攻殻機動隊 新劇場版』

 2029年3月の日本。総理大臣が暗殺された。少佐・草薙素子はバトー、トグサら自分が選んだ人員を指揮し捜査を開始する。捜査線上には、今後の義体開発の行方を左右する技術障害(デッッドエンド)を巡る企業間の駆け引き、またファイヤースターターと呼ばれる電脳ウイルスの存在が浮かんでくる。かねてよりファイヤースターターを追っていた素子は捜査を続けるが。原作は志郎正宗の同名漫画。過去に押井守による劇場版作品、2度にわたるTVシリーズ、そして2013~2014年にかけて劇場上映された『攻殻機動隊ARISE』と、度々のアニメーション化をされている。本作はARISEと時系列は直結しており、素子率いる公安9課誕生の前日譚。総監督はARISEから引き続き黄瀬和哉。脚本を作家の冲方丁が手掛けている。音楽をコーネリアスが手がけたことでも話題になった。
 ARISEと合わせていわゆるビギニング的な作品だが、シリーズ見続けてきた者からすると、素子が若い!そして青い!あなたにも若い時代がありましたか、と何だか感慨深い気持ちになった。GHOST~やSACの素子だったらこういうことは言わないんじゃないかなと(後のバトーやトグサが言いそうな感じ)いうところもあって、キャリア積むにつれて組織の中の人であることを受け入れていったのかという、彼女の推移が時間をさかのぼってわかるような作りだった。これまでのシリーズで公安9課のメンバーがどういうキャラクター造形をされてきたか、よく咀嚼して作られている。サイトーのやんちゃさや、パズの人間関係のクッションとしてのそつのなさ、またトグサはやはり根が刑事で、バトーとイシカワはレンジャーなんだというバックグラウンドの違いが、「9課」としてまだ固まっていない状態なので、他シリーズよりも濃いめに出していると思う。
 また作中の科学技術の進歩度合いも、他作品よりちょっとだけ前の時代、という配慮がされている。ストーリー上のキーとなる技術障害が最たるものだ。マシンの規格が変わる、複数の規格のうち1つだけが生き残るというのはVHSとベータを経た世代にはしみじみと染みるだろう。ARISEから脚本が冲方なのだが、こういう具体性というか、身近なSF感みたいなものの掴み方が上手いと思う。情報量がかなり多いのだが、全部拾わなくても話は追える。
 なお作画は言うまでもなく上質で見やすい。くどくなりすぎないのがよかった。今までの攻殻シリーズの中で、ビジュアル面でも内容でも、私はARISEおよび本作が一番見ていてストレスを感じない。肌に合うのだろう。押井版は大好きだけどノイズ、圧みたいなものがあり、SACはベースとなる世界観に違和感を感じた。

『宮沢賢治覚書』

草野心平著
詩人である著者が、詩人としての宮沢賢治を考察する。賢治が『春と修羅』を上梓した大正13年、22歳だった著者は読んで衝撃を受けたそうだ。それが高じて賢治作品の評論、初の全集の編集を手掛けるに至った。当時(今もかもしれないが)賢治は童話作家と認識されており、詩人としての一面はあまり注目されなかったようだ。しかし著者にとっては賢治はまず詩人だった。イマジネーションの奔流、直観的なものとしてとらえられがちなところを、自然を観察する目の鋭さとそれをまさに「心象スケッチ」として記していく言葉のデッサン力に注目しているところが興味深かった。賢治は詩人と自称するのに遠慮があったようで、むしろサイエンティストとしては自負があると記しているが、彼の詩作の特徴ゆえにそう考えていたのかもしれないと言う。また、詩一篇の長さ、製作の速さにも特徴があり、これは指摘されて初めて気づいた。確かに短期間でえらい量を書いている。遺された作品に推敲中のもの、未完成のものが多いのも、言葉があふれるスピードに推敲が追い付かなかったからだろう。賢治による訂正箇所には、ここは最初のバージョンの方がいいんじゃないかなと思うところもある。著者は読まれた作品は作者だけのものではなく、読み手は解釈を許されていると考えており、そこの風通しがよかった。

『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』

 資源が底をつき、砂漠が広がる世界。守るべきものを失い一人さまようマックス(トム・ハーディ)は、水を独占して砂漠を支配するイモータン・ジョー(ヒュー・キース=バーン)に捕らえられ、輸血用血液として使われる。イモータン・ジョーの配下の軍団長だったフュリオサ(シャリーズ・セロン))はジョーの5人の妻を連れて逃亡をはかる。彼女らを捕らえるために出陣したジョー配下の“ウォー・ボーイズ”の一人、ニュークス(ニコラス・ホルト)の“血液袋”として連れ出されたマックスは、逃げ出してフュリオサたちに協力することになる。監督はジョージ・ミラー。
 旧3部作は正直そんなに面白いと思わなかったのだが、本作は異常に面白かった。物語が大味なのは相変わらずなのだが、数十年の間に監督の映画の基礎体力が上がりに上がったという感じ。セリフの量は少ないしシンプルなので、字幕を見ていなくても何が起こっているのかちゃんとわかるくらいなのだが、それってセリフがなくてもわかるくらいに映像が雄弁で的確だってことだろう。じっとしているシーンが極端に少ない、ほぼ移動し続ける(車の修理を走りながらするのにはびっくりした)作品なのだが、その移動が物語を前進させる原動力になっているようにも見える。映画ってそもそもこういうものだったな!と基本に帰りかつ新鮮な気持ちになった。
 本作、砂漠を巨大なトレーラーがひたすら疾走するだけといえばだけだし、ぱっと見の見所はごてごてにデコられ(スピーカーやらドラムやらもうすごい。走るフェスかよってくらい)改造された車両だったり、一人二人死んでいそうなスタントだったりするが、見ているうちにじわじわ感動が広がっていく。そういった撮影やスタントのやりきった感によるものももちろんあるのだが、登場人物たちの中で沸きあがるドラマに予想外に心動かされるのだ。
 イモータン・ジョーの支配は教祖を崇拝する新興宗教的な側面があり、ウォーボーイズたちはジョーの為に死んで英雄となることを目標にしている。女性たちはセックスと子供を産み育てるためだけの道具だ(母乳の為だけに「飼育」されている女性たちにはぞっとした)。皆、ジョーに心身ともに隷属している。フュリオサたちの逃亡は、自分達は誰かに隷属するだけの存在ではない、自分の魂も身体も自分のもので、誰かに消費される為のものではないと証明する為のものだ。これは男性とか女性とか、若いとか老いているとかとは関係ないことだ。更に、怖気づいていた妻たちが徐々に戦いに参加し、加えて自分の為だけでなく、自分がもう駄目でも仲間の為に何かを残していこうとする。また、ジョーを崇めていたニュークスが、妻の一人とのふれあいの中で、他の人を労り助けようとするようになる様にはぐっときた。自分の誇りの為のことが、徐々に他人の誇りのためのことにもなっていく。
 本作、題名にはマックスの名がついているが、マックスはむしろフュリオサたちのサポート的な立ち回りをする。マックスは元々部外者かつ一匹狼で、誰かへの隷属は拒んでいるからそれも当然か。


『ニューヨーク・ジャンクヤード』

 特集上映「ハント・ザ・ワールド ハーバード大学感覚民族誌学ラボ傑作選」にて鑑賞。監督はヴェレナ・パラヴェル&J.P.ツニァデツキ。NYメッツの新しい球場「シティ・フィールド」の周囲には、ジャンクヤードと呼ばれる地域が広がっている。主に移民が営業している自動車のパーツ屋、廃品店、修理工場が軒を連ねているのだ。再開発が進み、やがて取り壊されるであろう町の姿を記録した作品。
 たまたま時間があったから見てみたのだが、なかなか面白かった。おそらく製作の意図は、文化人類学的な記録としてのフィールドワークであってドラマとして編集しているわけではないんだろうけど、あまりに映画的としか言いようのない瞬間があるのだ。小銭をせびって歩き回る老女の動きのリズミカルさと妙にフォトジェニックな面持ちは、映画として撮られるために来ましたってな感じだし、ヤンキー風カップルに起こった事件も、会話の中で事情がわかるだけだけど、これだけで一本の映画になりそうだ。あれっ、この人たち本当に愛し合ってたんだ、と意外に思ったくらい。
 地元の人たちの話の中では、この地域は再開発でつぶされる、人が徐々に立ち去ってゴーストタウンみたいだ、等という話も出てくる。しかし人々の暮らしはそれなりに続いている様子がうかがえるし、あんまり悲壮感もない。それはそれとして日々の生活をこなし、それなりに楽しんでいるというたくましさみたいなものが垣間見えた。

『ピクニック』

 1860年、夏のある日曜日、若い娘アンリエッタは、両親と婚約者と共に田舎へピクニックにやってくる。そこで地元の青年アンリと出会い、つかの間思いを交わす。原作はギィ・ド・モーパッサンの小説『野あそび』。監督はジャン・ルノワール。1936年に撮影されたが、第二次大戦の間にプリントが破棄されたものの、再発見され、当時アメリカに亡命中だったルノワールの了解を得て編集・完成した作品だそうだ。今回はデジタルリマスター版での上映。
 夏の休日の心浮き立つ感じ、日差しや風景の瑞々しさなど、モノクロなのに鮮やかでキラキラした印象を受けるのが不思議だ。ブランコが軽やかに前後する様や、水面を走るボートのなめらかな移動、急に降り出した雨が水面を波立たせる様など、夏の空気が匂い立つよう。楽しいけれど終わることもわかっている休日のどこかさびしい感じ、そしてアンリエッタとアンリの関係のほろにがさがリンクしていく。そのはかなさがまた夏休みっぽい。
 他愛のないメロドラマであり、ちょっとしたコメディと言えばそれまでなのだが、40分程度と言う長さならちょうどいい。ただ、女性たちの声がキンキンしていてちょっと苦痛だった。当時はこういう声が流行だったのか、録音技術上こういう声質の方が望ましかったのか。また、当時の時代背景上しょうがないのかもしれないが、女性はこういうもの、男性はこういうものという枠がかなりがっちりしていて、現代の感覚で見るとさすがに厳しいものがある。

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