3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2015年07月

『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』

 秘密結社ヒュドラの残党と戦っていたアベンジャーズは、異能力者スカーレット・ウィッチ(エリザベス・オルセン)により、自身の恐れや過去のトラウマの幻影を見せられ、苦しむ。アイアンマンとして活躍するトニー・スターク(ロバート・ダウニーJr.)は地球を侵略しにきた存在に仲間が皆殺しにされる情景を見てしまい、アベンジャーズがいなくても人類が守られるよう、平和維持システムとして人工知能“ウルトロン”を発明する。しかし独立して思考するウルトロンは、世界平和を今の人類とアベンジャーズが阻害していると判断し、攻撃を開始する。監督・脚本はジョン・ウェンドン。
 『アベンジャーズ』の続編となる。アメコミヒーロー映画に特になじみがない人にとって、本作を楽しむまでのハードルはかなり高くなってしまったのではないだろうか。マーベルのヒーロー大集結企画なので、それぞれのヒーローが主人公を務める作品を既に見ていて、見る側が基本的な設定をある程度把握していることが大前提だし、物語としても前作『アベンジャーズ』だけでなく、関連作品からもエピソードや登場人物が流れ込んでいる。つまり、『アベンジャーズ』の他に、『アイアンマン』3部作、『キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー』、『キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー』、『マイティー・ソー』、『マイティー・ソー ダークワールド』、『インクレディブル・ハルク』(ハルク役がアベンジャーズと違うから本作のみ見なくても問題なさそう)という、9本を見ていないとならないことになる。これはなかなかきつい。一応、キャラクターについて漠然と知っていれば何とかなる程度の調整はされているが、それにしては他作品との関連部分が多いし、もう既存客のみ相手に商売していくつもりなのかな。
 ではシリーズ全部見ている人なら十二分に楽しめるかというと、そこもちょっと微妙。これは『アベンジャーズ』の時既に感じたのだが、キャラクター数が多いのでそれぞれの見せ場を作らないとならないし、他作品との兼ね合い、次作品へのフリの為にこなさないとならないエピソードがやたらとある。入れないとならない情報が映画1本に対して多すぎるのだ。脚本家は胃に穴が空きそうだったんじゃないかなぁと気の毒になったくらい。
 『アベンジャーズ』の楽しさってキャラクター同士の喧嘩とか軽口のたたき合いとか、いわゆる同人誌的な、メインではなくサイドストーリー的な部分にあると思う。ただ、そういう部分だけで大作映画1本を成立させるのは難しいし、多分そんなに面白くないだろう。元々、映画に不向きな部分にこそ魅力があるコンテンツなのかなとちょっと思った。本作で一番楽しかったシーンって、ソーのハンマーを他のメンバーが持ち上げようとするところだったもんなー(キャップの時だけ微妙に動くのでソーが「ちょww」みたいな顔をする)。
 楽しいことは楽しかったのだが、このネタ急に突っ込んできたなとか、逆にあのネタはなかったことにされたのかとか、作る側の苦慮の跡が見えすぎてちょっと辛い。ぴんとこなかったのはバナー(マーク・ラファロ)とナターシャ(スカーレット・ヨハンソン)の関係。いつの間に急接近したんだ・・・。ナターシャが自分がある処置を受けたことを指して「化け物になった」と言うのも、えっそれで化け物扱いしちゃうの?とぴんとこない(ただ彼女は、外見年齢と生い立ちや過去の経歴とかが一致しない気がするので、不老加工でもされているのかも、そこを指してのことかもしれないが)。話を転がすための設定、という感じに見えてしまった。
 一方でなかなかいいなと思ったのがホークアイ(ジェレミー・レナー)の背景。アベンジャーズ内でなぜか1人だけ普通の人間な彼だが、その点も(武器が弓矢と言うのも含め)自虐ギャグにしていた。彼の家庭が出てくるのは唐突ではあるが、一般家庭の中でのアベンジャーズの面々の反応がなかなか楽しかった(トニーとソーは一般的な家庭に馴染みがないんだなってのもわかる)。何より、普通の人間だからこそホークアイの言葉がスカーレット・ウィッチを説得できたんだってところにはぐっときた。まあ今回でホークアイ見納めぽいからボーナス的なやつかしら・・・。


『アリスのままで』

 50才の誕生日を迎えた言語学者のアリス(ジュリアン・ムーア)は、講義中に単語が思い出せなかったり、ランニング中に道がわからなくなったりという自身の異変に気付く。病院で検査した結果、若年性アルツハイマー病と診断された。家族に事情を打ち明け、サポートを受けるようになるが、彼女の病状は進行し家族との関係も変化していく。監督はリチャード・グラツァー&ワッシュ・ウェストモアランド。
 原題は「STILL ALICE」。静かなアリス、と言う意味にも、まだアリス、という意味にも取れる。どちらも本作の内容に合っているけど、「まだ」と言われる方がさらにきつい。まだアリスだけど、次の瞬間はどうなるかわからない。アリスの肉体がある以上アリスなのか、周囲の人間はそう思えるのか、ということに繋がってくるのだ。アリスは徐々に自分が何者だったのか、周囲の人たちが誰なのかわからなくなっていく。そういう人に対して、家族はそれまでと同じように家族として振舞えるのかというと、なかなか難しいだろう。本作、ほぼアリスの主観で描かれるものの、彼女の変化と同時に家族の変化も大きな要素になっている。
 アリスが言語学者であるというところがまた辛い。彼女がアルツハイマーにより言葉を忘れていくことは、自分の生きた証、生きる意味を失っていくということだ。それを失くしても「まだアリス」だと言えるのかどうか。もしかしたら家族との関係を忘れていくことよりも、こっちの方が辛いんじゃないかなとも思った。家族にとっては「まだアリス」かもしれないが、彼女自身はそう思えないかもしれない。アリスはスピーチの中で、様々なことを忘れていくが、そんな中でも美しく喜ばしい瞬間はあると語る。しかし、徐々にその喜びすらわからない状態になっていく。アルツハイマー患者当人の視点での不安や苦しみを丁寧に追っていく作品なのだが、丁寧ゆえにたどり着く先が辛い。
 また辛いのは、家族の心がアリスの症状が進むにつれて離れていくということだ。彼らには彼らの生活があり(そもそも夫は経済的により彼女を支えなければならないから)責める気にはなれないが、家族であっても他人を理解する、理解する努力を続けるというこがなんと難しいことか。そもそもコミュニケーションがまともにとれない相手に寄り添うのは苦痛だもんなぁ。それまでは喧嘩ばかりだった二女が結果的に一番アリスと近くなるというところが面白いが、二女は結局母親の影響下、というか思惑から逃れられないのかと複雑な気持ちにもなった。

『八日目の蝉』

角田光代著
野々宮希和子は不倫相手・秋山丈博の家にこっそりと立ち入る。どうしても秋山夫妻の赤ん坊を見たかったのだ。自分に向かってほほ笑む赤ん坊を見た希和子は、衝動的に赤ん坊を連れ去り、母と娘として逃亡生活を始める。薫(本名は秋山恵理菜)と名付けられた子供は、希和子を母親と信じて成長していく。2011年に映画化(成島出監督)もされた。私は映画は公開時に見たけれど、原作小説である本作はなぜか読みそびれていて、今回ようやく読んだ。映画は力作だったけど、原作も面白い。原作の方が構成がよりストレート(映像と活字というフォーマットの違いによるところも大きいが)で、一気読み度が高かった。希和子は子供が欲しいと切望し、薫(恵理菜)に母親として愛情を捧ぐ。自分に実の赤ん坊さえいれば、自分が母親だったならという思いがだだ漏れしていく様にはさほど関心を引かれなかったが、この人はどうしてこうなっちゃったのかな、という意味では関心を引かれた。母親にならなかった自分ではだめなのか、なぜだめなのか、という部分が、作中では(希和子の一人称なので)言うまでもないことにされている。でも読んでいる側としては、その言うまでもないことこそが知りたいのだ。後半は育った薫=恵理菜の一人称パートだが、彼女に対してもまた、この人はどうしてこうなっちゃったのかな、と考え続けさせられる。もっとも、恵理菜の場合は希和子よりも自分を客観視できているので、彼女自身にも自覚がある。映画と比較するとそこは際立っているし、秋山夫妻の弱さも恵理菜の客観性あってこそわかってくるのだ。母性云々というよりも、「なぜ私なんだ」という答えのない問いを問い続ける人たちの苦しみを描いた作品だと思う。たまたまあなただった、ということにどう納得すればいいのか。

『レズビアン短編小説集』

ヴァージニア・ウルフ他著、利根川真紀編訳
19世紀末から20世紀前半、女性、また男女両方のパートナーを持った女性作家たちによる、女性の物語17編を収録したアンソロジー。ウルフを筆頭にキャサリン・マンスフィールド、ガートルート・スタインなどの有名どころから日本ではあまりなじみのない作家まで、色々読めてお得感あり。1人の作家につき複数作収録されているところが、アンソロジーとしては珍しいかもしれない。同じレーベルから発行されている『ゲイ短編小説集』と対になる感じか。ただ、本作の方が、一個人の心の機微、葛藤に切り込んでいるように思え(どれも書かれた時代が比較的現代に近いからかもしれないが)、個人的には心にしみる作品が多かった。世の中に自分の居場所がない、しっくりこない感じとどう向き合う、ないしはやりすごすのか。いわゆる「人並み」であることが自分にとっての幸せになりえないということが、今よりももっともっときつい時代だったんだなぁとしみじみとした。それにしてもガートルート・スタインの文体は独特すぎるな!これ当時はどういうスタンスで読まれていたんだろう・・・。

『インヒアレント・ヴァイス』

 1970年代初頭。ロサンゼルスのビーチに事務所を構える私立探偵ドック(ホアキン・フェニックス)の元に、かつての恋人シャスタ(キャサリン・ウォーターストン)が訪ねてくる。彼女の愛人である大富豪が失踪したので探してほしいというのだ。捜査に乗り出したドックは、天敵の警官“ビッグフット”(ジョシュ・ブローリン)に妨害されながらも、予想外に大きな組織犯罪に迫っていく。原作はトマス・ピンチョンの同名小説(日本では『L.A.ヴァイス』として出版)。監督はポール・トーマス・アンダーソン。
 難解かつボリュームがありすぎることで有名なピンチョンの小説だが、本作はピンチョン作品としてはわかりやすい方だそうだ。確かに、あらすじや舞台装置はわりとよくあるハードボイルド小説っぽい。ただ、いわゆるミステリ的な筋立てを使ったハードボイルドとはまた異なる。謎を追う、というよりも、何か別の物を追っていたら謎の答えがたまたまというか自動的に、芋蔓式にやってきたという印象なのだ。ドックが流石ジャンキーというべきか、論理的な推理というよりもその場で得たひらめき(というかたまたまそんな感じになった、というような)によって行動しているからだ。
 ではドックは何を追っているのかというと、シャスタとの思い出ではないだろうか。ドックとシャスタがなぜ別れたのかは作中では説明されないが、彼はいまだにシャスタに思いを残しているように見える。少なくとも、シャスタと過ごした日々は彼にとって大切なものだ。だからこそ彼女の依頼を受け、奔走するのだろう。彼が真相に近づく手がかりを得るのも、シャスタとのある思い出がヒントになったからだ。ドックとシャスタの思い出は、どれも(大してさえない状況なのにもかかわらず)どこか幸福そうで、キラキラしている。過去が美化されていると言えばそれまでだが、シャスタが彼の幸福の一部であったことは違いないだろう。一貫してぼんやりとした表情だったドックが、ラストショットではちょっとかっこ良く見える。とするとこれは、(過去の愛に向けられたものではあるのかもしれないが)ラブストーリーなのだ。トーマス・アンダーソン監督作品の中では『パンチドランク・ラブ』に連なるんじゃないかなという印象を受けた。アッパーかダウナーかという違いはあるが。


『ブルーマーダー』

誉田哲也著
全身20か所以上を骨折した暴力団組長の死体が発見された。更に半グレ集団のOB、中国人組織メンバーら、池袋の裏社会の面々が同じ手口で殺される。池袋署に異動した刑事・姫川玲子は犯人を追う。連続殺人犯の動機は何なのか。一方、中野署の刑事組織犯罪対策課警部補・下井は、かつて暴力団に潜入させていた情報源の男の行方を気にかけていた。姫川玲子シリーズ最新作。これまでの作品の中では一番スピード感があり、姫川サイドと下井サイドがどこで繋がるか、一気に読ませる。犯人側の動機も、クライマックスでの姫川の説得もそんなに新鮮味があるわけではないが、エンターテイメントとして過不足ない。それがイコール小説としての充実感かというと私にとってはちょっと違うんだけど・・・。

『悪党に粛清を』

 新天地アメリカへ、デンマークから移住してきた元兵士のジョン(マッツ・ミケルセン)は、故郷から妻子を呼び寄せた。しかし駅馬車に乗り合わせた2人組に妻子を殺され、怒りのあまり2人組を射殺してしまう。そのうち1人は一帯を牛じる悪党デラルー(ジェフリー・ディーン・モーガン)の弟だった。復讐に燃えるデラルーは、犯人を差し出さないと代わりに町民を殺すと保安官を脅す。監督はクリスチャン・レブリング。レブリングって『キング・イズ・アライブ』の人か。確か『キング~』も荒涼とした風景が舞台だった。あれは灼熱の砂漠地帯、本作は西部の荒野だけど。
 昔ながらのオーソドックスな西部劇を北欧の俳優が主演し北欧のスタッフが製作するという、背景を知るとなんだか不思議な作品。色合いが冷ややかで明暗のコントラストが強いあたり、なんとなく北っぽい(ようするに寒々しい)感じだ。なんで今こういう作品を?と思わなくもないが、西部劇の需要って一定数あるんだろうなぁ。私が見に行った時はほぼ満席で年配男性が特に多かった。
 スタンダードな西部劇だろうとは思うのだが、いわゆる「めちゃめちゃ強い流れ者が他所からやってきて悪者をやっつけてくれた、めでたしめでたし」という話ではないところには、勧善懲悪が成立しにくくなった時代ならではアイロニーを感じた。デラルーはもちろん悪人というポジションで、確かに町を恐怖により支配し卑怯なやり方で金を稼いだりしているわけだが、妻子の仇討とは言え怒りに駆られて殺人をしたジョンもまた、悪人であるとも言える。また、町の人々にしてもジョンをスケープゴートにし、嵐が過ぎ去るのを待つという態度は、善と言えるのかどうか。昔の西部劇ならヒーローが助けるべきヒロイン的な立場のマデリン(エヴァ・グリーン)も強かで転んでもただでは起きない。
 全員悪党と言えば悪党、善人は死んだ奴だけだ、みたいな世界だ。特に、保安官を筆頭に、弱いままで何もしないのは悪、とまでは言わなくても卑怯だ、という考えが作品の底辺にあるような気がした。そのせいでスカっとはしないし、見ている側も当事者として巻き込んでくる(呑気に正義の味方を待望できない)感じがした。「流れ者ヒーロー」って救われる町の人にしてみたらヒーローだけど、ヒーロー当人にしてみたらいい迷惑だってことかもしれない。
 なお、形式としてはスタンダードな西部劇なのだが、今このフォーマットで撮ると、登場人物がかなり記号的に見える。ジョンの妻子なんて、殺されるためだけに出てくるようなもんだもんなぁ。


『ターナー 光に愛を求めて』

 画家のジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(ティモシー・スポール)は、父親(ポール・ジェッソン)と家政婦のハンナ(ドロシー・アトキンソン)と暮らしている。父親とハンナはターナーの良き理解者であり、画業を献身的に支えていた。ある日、ターナーは港町マーゲイトを訪れ、宿泊した宿の女将ブース夫人(マリオン・ベイリー)と懇意になる。また、自然科学に興味を持つターナーは、科学者のサマヴィル夫人(レスリー・マンヴィル)を自宅に招き、実験を見学する。しかし科学的に光と色彩を考察した持論は画壇では受け入れられず、彼への評価は二分されていく。18世紀末に~19世紀半ばに活躍したイギリスの国民的画家ターナーの半生を描いた作品。監督はマイク・リー。
 ターナーは先鋭的になった作風が受け入れられず、不遇の晩年を送ったというのが定説のようだが、本作では彼の晩年をいわゆる「不遇」、かわいそうだという風には見せていない。彼の作品は確かに広くは理解されなかったし、本人もそれが不満だったのだろうが、ターナー本人は自分をみじめだとは見なしていなかったのではと思えるのだ。むしろ、やりたいことをやった、いい人生だったんじゃないかなという気がしてくる。それが本作のいい所であり、ターナーに対して敬意が感じられる所だ。
 ターナーは世界に対する好奇心を持ち続け、観察してそれを絵画に活かそうとし続けた。好きなこと、自分がやるべきことはこれだという所がぶれないから、サロンで浮いていても社会的に評価されなくてもやっていけたのだろう。サマヴィル夫人と父と一緒にプリズムの実験をするシーンがすごくいい。彼らは自然科学に対する好奇心を共有する仲間だという感じがするのだ。ターナーの作品は、自然科学的なメンタリティによって描かれていた側面が強いんじゃないかなと思った。光の構造を考えに考えた結果、晩年の抽象的にも見える作風にたどり着いたのではないかと。
 ターナーが写生旅行をして回る風景もとても魅力的だ。あの作品はここを描いたのか!とわかる部分もあって楽しい。また、街中の情景は時代物コスチュームプレイとして面白い。衣装、セットともに見応えがある。
ターナーと父親の関係は興味深かった。ターナーの実家が理容室で、父親がターナーの絵を店内に吊るして売っていたというのは何かで読んだことがあったが、本作中では、父子の関係がかなり親密で、息子の才能をよく理解している父親という描き方だ。顔料の準備やキャンパスの製作も父親がやっており、ターナーとはひとつのチームのようだった。文学にも自然科学にもそこそこ素養があり、息子にも教育熱心だったというのは、当時の中産階級(よりちょっと下くらい?)では珍しい人だったのかな。


『約束の地』

 1882年。アルゼンチン政府軍による先住民の掃討作戦の為、パタゴニアに派遣されたデンマーク技師のディネンセン大尉(ヴィゴ・モーテンセン)。ある日、同伴していた一人娘のインゲボルグが、若い兵隊と共に姿を消してしまう。ディネンセンは娘を必死に探し、やがて馬も銃も失い荒野をさまよう。監督はリサンドロ・アロンソ。モーテンセンは主演の他、製作と音楽も手掛けている。ほんと多才だなー。そしてわざわざ製作に参加しているのが本作のような作品だというところに、彼の個性を感じる。なんというか、人間のアイデンティティが揺らぐような話、異界に足を踏み入れるような話に惹かれる人なんじゃないかと思う。
 澄んだ、どこか枯れた色合いに魅力がある。特にインゲボルグのドレスの青色に透明感があってとても美しい。撮影監督のティモ・サルミネンはアキ・カウリスマキ作品を多く手掛けている人だそうで、なるほどと納得。モノクロに着色したような色合いが、四隅を丸く切り取った変形スタンダード画面と相性がいい。ショットの一つ一つに、カードや絵葉書のような「切り取られた」印象がより強くなっている。ガラパゴスの、見慣れていない人にとっては地の果てのように見える風景の効果もあって、絵の引力が強い。何しろファーストショットの画面奥にトドやらアシカ(らしきもの)やらが普通に映ってるから、それだけで何かとんでもないところに来ちゃったな!という気分が強まる。いきなり異世界っぽいのだ。
 しかしディネンセンはここから更に、異界へと入っていく。娘を追って奥地へ進んで行けば行くほど、この世の果てのような異世界感が強くなる。時間、ついには空間までも越えてしまったように見えるのだ。
 ディネンセンとインゲボルグは別たれたままだ。ディネンセンは娘を愛し、インゲボルグもまた父を愛しているのだろうが、ディネンセンが娘をよく理解しているというわけではなく、冒頭の会話からして少しすれ違っている気配がする。インゲボルグはディネンセンとは別の世界の住人であり、どの世界においてもお互いに不在であるように思えた。

『雪の轍』

 カッパドキアでホテルを経営する元俳優のアイドゥン(ハルク・ビルギナー)。地元の地主の家の生まれで、裕福な暮らしをしている。若い妻のニハルは慈善活動に打ち込み、離婚したアイドゥンの妹ネジラも一緒に暮らしている。アイドゥンが家を貸しているイスマイルは生活に困窮し、家賃を滞納している。その息子イリヤスはアイドゥンが乗る車に石を投げつけ、あわや事故になりかける。監督はヌリ・ビルゲ・ジェイラン。チェーホフのいくつかの作品をモチーフにしているそうだ。
 作中、対話の占める分量がかなり高く、しかもそれぞれが自分の倫理やら正義やらを語り、お互いに非難しあいがちという暑苦しいもの。チェーホフが底にあるからかどうかはわからないが、舞台劇っぽい語りのありかただなと思った。どの人もこれみよがしに話し始めるからかもしれないが・・・アイドゥンが元俳優というのも、ともするとわざとらしい語りをついやってしまう、というところからきた設定なのかな。
 良心と倫理、善と悪についての問答が続くが、白熱しても空しい。これが正解という答えが出るものではないからだ。加えて、アイドゥンの言うことは、その時々によって、自分に都合のいいものにすぎない。彼には確固とした自分の考えや立ち位置はないように見える。彼がニハルに対してもネジラに対しても、うっすらとモラハラ・パワハラめいた振る舞いを続けるのは、そうやって上に立つことで自分の立ち位置を固めようとしているからのように見えた。ホテルの客や地元住民に対する態度からしても、彼はとにかく相手に対して影響を与えたい、相手を支配下に置きたい願望が強いようだ。その影響力は、知識・経験の差であったり、金銭の差であったりする。特にニハルに対する、「お前は何もわかってないんだから私に任せておけば安心」的な物言いは、にこやかに相手の力を削ごうとするもので腹立たしい。それはニハルの誇りを傷つけることなのに。
 そのニハルは、慈善活動に打ち込むことで自尊心を保とうとする。が、彼女も相手との差を使って、相手の自尊心を傷つけることをしてしまう。彼女はよかれと思ってやるわけだが、はたから見たら不遜なことでもあるのだ。
 言葉のやりとりに注意がいきがちだが、映画としての絵の強度もすごく高い。カッパドキアの風景に強力な魅力があると言うのあるのだが、ひとつひとつのショットがばっちり決まりすぎているくらいに決まっている。本作、3時間越えの長さで正直きついなと思ったのだが、ダレはしないのは映像として完成度が高いからだと思う。

ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ