3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2015年07月

『サイの季節』

 1977年のテヘラン。新作『サイの季節』を出版した詩人のサヘル・ファルザン(カネル・シンドルク)は、妻ミナ・ダラクシャニ(モニカ・ベルッチ)と深く愛し合っていた。ミナの運転手アクバル・レザイ(ユルマズ・エルドガン)はミナに思いを寄せており、嫉妬を隠せない。耐えかねて思いを告げたアクバルは夫婦の親族から暴行を受け、ミナから遠ざけられた。1979年、イスラム革命が起きた。アクバルの密告によりサヘルとミナは投獄される。アクバルは新政府側の役人という立場を利用してミナを早期釈放させようとするが、ミナは拒みアクバルは激怒する。そして2009年、30年の刑期を終えてサヘル(ベルーズ・ヴォスーギ)は出獄するが、彼は死んだことになっており、先に釈放されたミナは双子の子供とトルコに移住していた。監督はバフマン・ゴバディ。
 陰影が濃く、冷ややかな色合いの映像が非常に美しい。特に海の黒々とした色には飲み込まれそうだった。サヘルとミナがデートする冬の森も、ちょっと古代の森のような神秘的な雰囲気がある。そんな風景の中で描かれる男女の物語もまた、神話のような悲劇性を帯びている。もちろん、イスラム革命は実際にあった事件だし、サヘルの体験自体、実際にあったことが元になっているそうだ。それでも、本作はいわゆる歴史劇のような雰囲気がないし、歴史・政治に翻弄された人々を描くという一面はあっても、そこが主体ではないように思う。
 より濃いのは、むしろ男女の思いの掛け違いや嫉妬という、どの時代でもどの国でも普遍的な要素だ。出所したサヘルは手を尽くしてミナを探しだすが、彼女を遠くから見つめるばかりだ。ミナはミナで、新しい生活を始めたものの、未だサヘルを待ち続けている(彼女はサヘルの墓を見ており、生きているとは知らないのだが)ように見える。アクバルはサヘルが死者にされたことでミナに近づくことは出来たが、未だにサヘルに嫉妬している。3人の視線も言葉も延々と交差することがなく、コミュニケーションは断絶されている。
 が、そもそも30年前に彼らの視線はお互いに隔たれてしまい、お互いに届く言葉もなくなってしまったのではないか。サヘルとミナが獄中で再会するシーンで、2人とも顔に袋を被せられるのが象徴的だった。サヘルは実際、作中殆ど喋らない。本来彼は言葉を操る詩人なのだが、詩以外の言葉には失望してしまったかのようだ。深い諦念を感じる。

『啓火心 Fire's Out』

日明恩著
都内で、違法薬物を製造していたと思われる場所からの出火が相次ぐ。港区飯倉消防出張所に配属された消防士の大山雄大は、現場から大量のペットボトルとメタンの成分が検出されたことに疑問を持つ。同じころ、行きつけの定食屋で向井という男をスリ被害から助けるが、意外な場所でまた向井を目撃する。どうも六本木界隈の暴力団と繋がりがある様子なのだ。前作『埋み火』から大分経ったなと思っていたら実に10年!長かった!しかし今回もしっかり面白い。これまでよりもかなり展開がスピーディで圧縮された感じ。作中の日数は短いが怒涛の展開なので、著者の前作『そして、警官は微睡る』からの疾走モードが続いているのかな。本来事務方志望だがどう見ても現場向きな雄大は、相変わらず仕事のハードさに対する不満は多い。が、やっぱり消防士の適性が(主に身体能力だけど)高いし、言うほどこの仕事嫌いじゃないんだなというのが端々から察される。でも自分では「嫌だ!」と言っているので新手のツンデレみたいな感じになってるけど・・・。雄大の友人2人が万能すぎて、ちょっとドラえもん化しているきらいはあるが、雄大(だけではなく、著者の作品の登場人物の多くに)の根底にまっとうに生きること、自分の「仕事」をやることへの肯定があるので、地から足が離れない。彼らの姿勢の正しさはちょっと眩しすぎるけれども。なお、町の描写はかなり現実に即しているので、雄大の飯倉消防署の立地に対する不満には納得せざるを得ない。

『氷姫 エリカ&パトリック事件簿』

カミラ・レックバリ著、原邦史朗訳
別荘として使われていた海辺の古い家で、女性の全裸死体が発見された。作家のエリカは遺体が発見された所に居合わせ、警察に通報する羽目になるが、死んでいたのは子供時代の親友アレクスだったことにショックを受ける。ある時期から急にエリカと距離をおくようになったアレクスに、いったい何があったのか。幼馴染の警察官パトリックと共にアレクスに何が起きたのか調べ始める。スウェーデンの人気シリーズらしいが、確かに面白い。ミステリ部分と共に、エリカとパトリックのロマンス(少なくとも本作では)にも人気があるのでは。そこそこ年齢を重ねた男女なので、お互いに「腹の肉が・・・」と悩んでいたりするあたりには笑ってしまった。殺人事件の謎そのものというよりも、アレクスという女性に起こったこと、関係者に、そして犯人に起こったことの痛ましさがやりきれない。特に犯人に関しては、最早殺人を犯す意味がなかったのでは、本当にやるべきことはもっと早くに、違った形であったのでは、というところが苦い。犯人(だけではない)がこういった選択をしてしまったのは、慣習や昔ながらの倫理観や世間の目によるところが大きい。世代間の価値観の相違のぶつかりが事件の裏モチーフになっていたように思う。また、本筋ではないがエリカと妹と母親との関係や、エリカの妹夫婦の関係など、家庭内の問題を割と丁寧に描いていると思う。多分、今後のシリーズでも絡んでくるんだろうなぁ。

『映画 ひつじのショーン~バック・トゥ・ザ・ホーム~』

 郊外の農家に暮らすひつじのショーンと仲間たち。同じことの繰り返しの毎日にうんざりして、眠らせた牧場主をトレーラハウスに移してバカンス気分を味わう。しかしトレーラーハウスが突然動きだし、牧場主と牧羊犬のビッツァーを都会に連れて行ってしまった。ショーンたちは牧場主とビッツァーを探して都会に向かう。監督・脚本はマーク・バートン&リチャード・スターザック。『ウォレスとグルミット』シリーズでおなじみのアードマン・アニメーションズによるクレイアニメーション。
 アードマン作品の通例として観客にわかるセリフは一切ないのだが、キャラクターが何を考え、今どういう会話が交わされたのかということはするっとわかる。見ているだけで、何が起きているか的確にわかるのだ。それは、映画の文法が大変しっかりしている、映画の基礎体力がすごく高いということだろう。カメラをどう動かしてどういう見せ方をすると観客に対してどういうメッセージになるか、という基本的な部分がしっかりしているのだと思う。映画は元来「見て」わかるものだ。見ているだけでわかる、という点では、最近見た作品だと『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』に匹敵するものがある。そういえばどちらもめっちゃ車輛走ってるな・・・。やはり映画は運動を追うものなのか・・・。
 アードマンのすごいところは、クレイアニメーションでこの「映画」をやっているところだ。あまりに「映画」なことにちょっと狂気を感じるくらいなのだが・・・。コマ撮りでこれをやるのかよ!という作業的に気の遠くなりそうなところはもちろんだが、カメラがすごくよく動くところがすごい。アニメーションってカメラの存在を(実写映画のようには)あまり意識しない(したとしてもちょっとカメラの在り方が違う)ものだと思うので。ただ、本作はコマ撮りのクレイアニメーションなので、いわゆるセルアニメよりはカメラを意識するのかもしれないが。
 平凡な毎日が延々と続くことにうんざりしていたショーンたちだが、そこから離れてみると、日常が恋しくなる。勝手といえば勝手だが、日常の貴重さってこういうことだよな、とすんなり納得する。それはショーンたちにとってだけではなく、牧場主にとっても同様だ。お互い、いつもの日常を取り戻す、でもその日常は今までの日常とはちょっとだけ違う、というところが、地に足がついていていい。そういえばアードマン作品て、『ウォレスとグルミット』にしても、ナンセンスだったり素っ頓狂だったりしても、基本的に地に足がついていると思う。

『悪女は自殺しない』

ネレ・ノイハウス著、酒寄進一訳
警察署に復帰した刑事ピアは、女性の変死事件を担当する。投身自殺のように見えたが、動物の安楽死用の薬物による他殺だということが判明した。奇しくも女性の夫は獣医で、夫婦仲は険悪。加えて夫が経営する動物病院の共同経営者夫婦や乗馬クラブの会員、管理者、オーナーその他諸々、動機のある関係者が次々と現れる。そして殺人の背後には更に深い闇が隠されていた。『深い疵』『白雪姫には死んでもらう』が日本でもヒットした、刑事オリヴァー&ピアシリーズの1作目。ようやく邦訳された。やはり1作目だからか、後の作品に比べると少々とっちらかってだらだら続くという印象を受けるが、これは容疑者をやたらと出してかく乱するというミステリの手法を取っているからというのも一因か。ピアにしろオリヴァーにしろ、まだキャラクターが固まりきっていない感じもするが、2人の関係にいわゆるロマンスが持ち込まれず、あくまで仕事上のパートナーであるというところは1作目から一貫しているようだ。本作、被害者の憎まれっぷり、嫌な人間っぷりが、生前の姿は一度も描かれない(関係者の話の中で「こういう人だった」と言われるのみ)にも関わらず見事だった。あーこれは厄介な人だな!という説得力がある。悪い人じゃないけど厄介、というのではなく積極的に悪意のある人なのだ。そして彼女の関係者ももれなく色と欲にまみれている。嫌な人ばかり出てくるというところが却って清々しい。

『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』

 建設会社に勤めるアイヴァン(トム・ハーディ)は、大規模な工事の現場監督を明日に控えていた。車に乗り込み帰宅しようとすると、携帯電話が鳴る。電話に出たアイヴァンは、家とは逆方向に車を走らせ、部下に電話して明日の仕事を無理矢理任せ、家族には帰れなくなったと連絡する。監督はスティーブン・ナイト。
 アイヴァンにかかってきた電話が誰からのものなのか、何が起きたのかは最初はわからない。アイヴァンが電話で話している内容から徐々に事態がわかっていく。とはいっても、その「事態」は大分陳腐なのだが。本作の面白さはアイヴァンが何をやったか、ではなく、それをどういう方法で観客に伝えるか、というところにある。作中、アイヴァン以外の人間は姿を見せない。アイヴァンとの電話での通話だけだ。そしてアイヴァンは一貫して車を運転し高速を飛ばしている。このシチュエーションでどこまで面白くできるか、というチャレンジ精神が感じられる作品だ。そしてちゃんとそこそこ面白い。
 ただ、その面白さは映画としての面白さなのかというと、ちょっと疑問に感じる。映画の面白さとは連続した運動を追う面白さによるところが大きいと思うのだが、本作には運動は乏しい。正確にはアイヴァンは車で移動し続けているのだが、主に映るのは車内にいるアイヴァンなので、「運動」している感じはしないのだ。むしろ静止画をつなぎ合わせて作られたような、バンド・デシネ(それもセリフ量がかなり多いもの)を読んでいる感じに近い気がした(日本の漫画ともちょっと違う。漫画はコマ間にかなりの運動を感じさせるものが多いので)。
 アイヴァンの行動、選択は、賛否が割れそうで適切なのかどうか何とも言えない。理にかなっているとも倫理的とも言いにくいのだ。ただ、彼自身は「これ」だと信じて選択している。愚直とも言えるが、自分なりの正しさとやらに憑りつかれているようにも見える。彼を駆り立てるのは、自分の父親のようにはなりたくない、自分は父親とは違うと証明したいという欲求だ。しかし彼の独白を聞いていると、彼と父親とは大分似たことをやっているように思えてくるのが皮肉だ。

『バケモノの子』

 母親を亡くし親戚から逃げ出した9歳の少年・蓮(宮崎あおい)は、渋谷をさまよううちに“バケモノ”熊徹(役所広司)に出会い、行くところがないなら弟子になるかと言われる。熊徹を追いかけ、バケモノの世界「渋天街(じゅうてんがい)」に迷い込んだ蓮は、熊徹に「九太」と名付けられ、弟子として一緒に暮らすようになった。17歳になった九太(染谷将太)は、ふとしたことから人間の世界に戻る。そこで高校生の楓(広瀬すず)と出会い、実の父親の居所の手がかりを得るが。監督は細田守。
 良く言えば豪快だが弟子を育てるには大雑把すぎる熊徹と、気が強く聡明な九太が喧々諤々やりながら、本当の父子のようになっていく前半が楽しい。子は親を真似して育つが、親もまた子を見て育つ、というかなんとか親になろうとする。熊徹が弟子をとろうとしたのは九太のことを考えてではなく、全くの自分本位なのだが、九太と生活することで自分以外のことを考えるようになる。声をあてている役所は、予告編の段階では発音があまりクリアでなくて台詞が聞き取りにくいんじゃないかと思ったが、熊徹の雑な感じによく合っていて好演だった。最近はダンディなイメージの方が強くなっているが、『三匹が斬る!』とか、こういう感じだったよなぁと懐かしくなった。
 しかし後半、九太が人間界に戻って楓と出会うあたりからどうも座りが悪くなってくる。あれも入れたい、これも見せたいという、やりたいこととストーリー上やらないとならないことが多すぎて、迷走している感じなのだ。楓が九太に大学受験を勧めるくだりなど急展開なので、ずいぶん不躾なことを言い始める子だなというイメージが楓についてしまって勿体ない。多分、子供は親とは別の生き物で親の世界の中だけでは育たない、他の場所・人の価値観に触れることが必要だという要素、教育・教養の重要さを入れたかったんだろうけれど、熱意が空回りしてかなり説明的なセリフが多く、興ざめしてしまう。言っていることは間違っていないのだが、言いたいことだけ言われてもなぁ。いわゆる学校での学習が9歳レベルで止まった九太が高校レベルの問題を解けるのか?という疑問もわいてくる(生活に必要な読み書き計算や論理的な考え方は、周囲に素養のある人がいそうだから出来るかなとは思う)。こういう疑問って映画がぶっちぎりで面白かったらスルーされるものなので、その点脇が甘いということかもしれない。
 一郎彦(宮野真守)の扱いも、終盤で急にピックアップされてきたなという感じで、もうちょっと助走が欲しかった。最初から伏線的なものはあるにはあるが、後になって急に言及されてきてもなー。彼が内包するものは、親との関係を考えると九太よりもむしろ楓と同質だと思うのだが、一郎彦にしても楓にしても、家庭の在り方が殆ど描かれないので、セリフでとりあえず説明しました、みたいな感じになってしまった。ここも勿体ない。

『フレンチアルプスで起きたこと』

 スキーリゾートにやってきたトマス(ヨハネス・バー・クンケ)、エバ(リサ・ロブン・コングスリ)夫婦と幼い娘のヴェラとハリー。テラスで昼食を取っていると、間近で雪崩が起き、テラスはパニック状態に。幸い大事には至らなかったが、エバはトマスが自分たちを置いて真っ先に逃げ出したことに不信感を募らせる。監督はリューベン・オストルンド。
 物々しい音楽(ヴィヴァルディ『四季』より「夏」。要所要所で使っている)の繰り返し、執拗なまでの言葉による応酬の連続には、つい笑ってしまった。作っている側も、基本真面目ではあるが、これは怖いけど笑えるよな!くらいの気持ちで作っていたんじゃないかと思う。
 トマスがやらかしたことは言い逃れできないかっこ悪さなのだが、トマスは頑なに「逃げていない」と言い張る。逃げたように見えるのは見方の問題だ、と言うのだがかなり苦しい言い訳だ。しかも言い張り続けるうちに、逃げていないというふうに記憶の改変までしてしまい、更に追い詰められると幼児退行して泣き出してしまう。最早コメディにしか見えなくなってくる(泣き出す父親に子供たちが同調し、ママも来て!と要求された時のエバの表情が何とも言えない)。トマスがなぜそこまで追い込まれて(というか自分で追いこんで)しまうのかというと、そういう時に逃げてはいけない、男性・父親は強くなくてはならないという社会的な圧力が相当あるんだろうなと。逃げた自分をネタにすることも許されない感じなんじゃないかなと。
 一方、エバはともすると夫を追求しすぎ、手厳しすぎなんじゃないかという見方もあるだろう。とはいってもエバはトマスを非難してはいるが、それをあげつらうというよりも、あの時トマスが間違っていたということを認めて謝ってほしい、怖かったなら怖かったと言ってほしいというのが本意だろう。意地悪でやっているのではなく、ここでスルーするとこの先ずっと、こういう場合に「見逃す」ことが通例になってしまう、なあなあになるのを避けたいために話し合おうとしているのだ。トマスが泣き出した時によしよしとなだめたりしないのも、そこでなだめるとそういう役割分担が固定してしまうとわかっているからだろう。話し合うのって結構体力いるから、あえてそれをやろうとするのはむしろ根性座っているなぁと思う。なあなあにしない、というところに文化の違いを感じた。

『ゲルマニア』

ハラルト・ギルバース著、酒寄進一訳
1944年、ナチス政権下のベルリン。ユダヤ人の元刑事オッペンハイマーは、ナチス親衛隊大尉フォーグラーにより、突然殺人事件の捜査を命じられる。女性の猟奇殺人事件で、敏腕刑事だったオッペンハイマーの手腕が必要と判断されたのだ。自らの延命を賭け、オッペンハイマーは捜査を開始する。薄々敗北を予感している人もいるような、敗色が濃くなりつつあるドイツ国内の雰囲気が感じられ面白い。オッペンハイマーらユダヤ人や友人のヒルダら地下活動に関わっている人たちはドイツの敗戦を願うが、対外的にはドイツが負けるなどありえない、という顔をしなければならない。しかしそれはフォーグラーら軍人たちも同じなのだ。同じ集団にいる人たちが同じ夢を見ているとは限らない、建前と本音との乖離が度々見え隠れする。また、オッペンハイマーはフォーグラーをSSとして恐れ嫌悪し、フォーグラーはユダヤ人であるオッペンハイマーを同等な人間とは考えていない。しかし共に捜査をしているうち、ふと相手を単に人間である、自分と同じような存在であると錯覚する瞬間が訪れる。本来ならその「錯覚」の方が当然の状態なのだが、彼らにとってはそうではないということを逆に強調され、はっとする。

『きみはいい子』

 桜が丘小学校4年2組の担任教師・岡野(高良健吾)は、言うことを聞かない児童たちに手を焼いていた。夫が単身赴任中の水木(尾野真千子)は3歳の娘・あやねと2人暮らし。あやねにいらつき、つい手を上げてしまう日々が続いていた。小学校に続く坂道の途中に暮らす佐々木(喜多道枝)は、近所からは「おばあちゃんボケちゃってるんじゃないの」と言われていた。買い物に行ったスーパーでお金を払わずに出てしまい、店員の櫻井(富田靖子)に見咎められる。原作は中脇初枝の同名小説。監督は呉美保。
 呉監督の前作『そこのみにて光輝く』は良かったけれどちょっと一昔前の映画の雰囲気っぽすぎるんじゃないかなという気がした。しかし本作は、非常に「今」な感じがし、階段数段飛びで駆け上がってるな!というくらいの冴えがある。他人事でなさが感じられるというか、見る側によりぐっと迫ってくるのだ。本作に登場する人は、大人も子供も、何らかの形で困難に直面している。その困難はごくごく身近で、自分にも降りかかりうるものだ。
 岡野は教師としてはまだ新米で、その言動はおぼつかない。素人が見ていても、あーそれはダメ・・・と頭を抱えたくなるシーンがいくつもある。彼は理想に燃えた教師というわけではなく、なんとなく就職した教師なのだ。また、元々気の利く方ではなく、いいかげんな所がある。なかなか強烈だったのが、彼が恋人の家を訪れるシーン。えっその状況で居座るのか・・・と恋人ならずともあきれる。と同時に、彼はなんだかんだで他人から常に許容されてきた、「まあしょうがないなぁ」と思われてきた人なんだろうなと察した。実家での様子を見ていても、姉からいじられたりはしているが、可愛い末っ子って雰囲気だ。そんな彼が「まあしょうがないなぁ」とはまず思ってくれないであろう相手=児童や保護者と対面していかなくてはならない。岡野は家庭内暴力を受けていると思しき児童と近づくことをきっかけに、徐々に本気で「教師」をやろうとしていく。彼が児童のアパートの前に立つシーンが2回あるのだが、1回目と2回目では面持ちが全然違う。彼に出来ることは大してないかもしれないが、何もしようとしないのと何も出来ないのとはちょっと違うのだ。
 水木のエピソードはもっと閉塞的で息が詰まりそうだ。彼女の自宅は幼い子供がいるにも関わらずモデルルームのように整っている。子供と一緒に暮らしつつこのクオリティを保つのってちょっと大変すぎるなと見ていてげんなりするが、水木自身も当然大変なわけで、子供につい手を上げてしまう。ママ友とは表面上の付き合いで、心を開ける相手もなく、子供とは対等な意思疎通ができない。水木の生活は(多分あやねにとっても)窒息死しそうな息苦しさだ。もっとも、彼女が特別というわけではなく、主に1人で子育てしている親は多かれ少なかれ、こういう息苦しさを味わっているのだろうな(子供に手を挙げるかどうかはまた別の問題だ)という、「普通」な感じに見せようとしていたと思う。
 水木は近所のママ友・陽子(池脇千鶴)との付き合いの中で、ようやく息が出来るようになっていく。陽子はおおらかで、水木のこともあやねのことも否定しない。しかしそんな陽子も、非常な努力の上にそう振舞えるようになったのだと終盤はっとする。陽子は自分が与えられたものを、今度は水木に分け与えようとするのだ。
大人も子供も、だれからも肯定されずに生きていくことは辛い。「きみはいい子」と誰かに言ってもらいたいのだ。終盤、櫻井に対する佐々木の言葉で痛感した。
 ところで岡野の職場は小学校なわけだが、教室や職員室の様子が生々しく、学校が苦手だった身としては見ていてちょっと辛いところもあった。特に教室で調子に乗っ た児童が騒ぎ始めると、それに引っ張られるようにどんどん悪ノリが増幅されていくところ。そういうノリに乗っかりたくない、授業をちゃんとやりたい児童もいるが、周囲の空気に埋没してしまう。この一方方向に盛り上がる雰囲気がきつかった。しかし学級というものをよく観察して再現しているなぁ。本当に小学校ってこういう感じだった。
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