3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2015年06月

『エレファント・ソング』

 ある病棟の精神科病棟から、1人の医師が姿を消した。患者である青年マイケル(グザヴィエ・ドラン)は手がかりを知っているらしい。院長のグリーン(ブルース・グリーンウッド)はマイケルから事情を聴きだそうとするが、マイケルは言葉巧みにはぐらかす。看護師長でグリーンの元妻であるピーターソン(キャサリン・キーナー)は2人を気遣う。監督はシャルル・ビナメ。
 舞台用の戯曲を映画化したものだが、マイケルの振る舞いは確かに舞台映えしそうだ。グリーンの心を操るようにあっちこっちへと引っ張り回し翻弄していく。いわゆるコン・ゲーム的な側面のある作品なのかなと思っていたのだが、グリーンが予想外にボンクラっぽいので拍子抜け。彼は精神科の医師(院長なので現在は診療はしていない)なのだが、精神科医師としてその振る舞いは色々と問題あるんじゃないかなという気がして、そこにひっかかって気が散ってしまった。「君に嘘はつかないけれど、それは君に話すことではないわ」と言い切るピーターソンの態度の方が、医療従事者としても大人としても適切なんじゃないかなと思った。やはり、立ち入らせてはいけない領域があるのではないかと。精神科医には向いていないという自覚があるとは言え、グリーンはそのあたり大分脇が甘い。見ていてハラハラしてしまう。
 また、マイケルの目的が終盤で提示されたものだとすると、大分回りくどく、もっと手っ取り早い方法があるのにという点もひっかかった。グリーンとマイケルとの会話劇・2人の関係の緊張感を描いたものとしてはマイケル側にアドバンテージがありすぎて面白みがないのだ。
 マイケルとグリーンのやりとりやマイケルの背景よりも、むしろグリーンとピーターソンとのやりとりの方が印象に残った。やりとりの中から徐々に、2人の過去に何があったのか垣間見えてくる。グリーンはその過去との折り合いが、おそらくつかないままだった。それが原因でおそらくピーターソンとも別れたのだろう。しかしラストシーンでは、2人の間の空気は柔らかいものになっている。過去に起きたことは取り返しがつかないが、マイケルと関わることで、何か気が済んだというか、ふっきれたようにも見えた。
 本作では俳優に徹しているドランだが、俳優としてはちょっとやりすぎというか、1つの演技に対して手数を出しすぎな印象だった。『トム・アット・ザ・ファーム』ではそこまでではなかったから、マイケルという役柄に寄せての演技プランなんだろうが、若干目にうるさい。好演だったのはキーナー。抑制された強さのある女性という雰囲気が出ていた。

『海街diary』

 鎌倉の古い一軒家で、姉妹だけで暮らしている香田家の、長女・幸(綾瀬はるか)、二女・佳乃(長澤まさみ)、三女・千佳(夏帆)。ある日、15年前に家を出た父親の訃報が山形から届く。そこで出会ったのは異母妹の浅野すず(広瀬すず)だった。身よりのないすずに、幸は一緒に鎌倉で暮らそうと声を掛ける。原作は吉田秋生の同名漫画。監督・脚本は是枝裕和。
 原作を上手くアレンジしていると思う。原作よりも時間が圧縮されているからか、そういえばかなり陰影の深い、病気や死にまつわるエピソードと隣り合わせの作品だったんだなと再確認した。そこも含めての人の営みが描かれていたんだなと。
 穏やかに淡々と描かれているように見えるが、時折激しい感情が表出する。特に、幸の母親に対する姿には、こういうことってあるよなという説得力があった。妹たちは母親に会えて結構嬉しそうにしているのだが、なまじ当時の記憶があって妹たちに対する責任感もあるだけに、それを放棄したように見える母親のことは、どうしても許せないのだ。多分幸も、母親にそれを言ってどうにかなるわけではないし自分の気がすむわけではないこともわかっているのだろう。でも気持ちと折り合いがつかず、顔を会わせると険悪になる。母親を演じているのは大竹しのぶなのだが、幸が許せない存在としての説得力がすごくて唸った。これは人選が的確すぎる。本人悪気はないが何かやるごとに色々角が立つという雰囲気が抜群だった。
 姉妹の間の役割分担やちょっとした軋轢は、原作よりもよりクリティカルにひりひりと感じられた。実写だとコミカルさの記号性が薄れるからだろうか。特に千佳が姉たちの顔色を見てクッションとして立ち回る姿には、ちょっとひやりとした(私がそういう立ち回りを目にするのが好きではないということなんだけど・・・)。
 4姉妹それぞれの1年間の変遷であると同時に、すずが姉たちに心を開いていく、信頼関係を築いていく過程を追った物語でもある。すずと他の3人との関係が変わる起点みたいなものが、要所要所ですぱっと提示されていたように思う。特に、父親の葬儀でのシーンが印象深い。幸の「だめです」というきっぱりとした言葉は、すずを子供として守ろうとするものだった。だからすずは、幸たちと暮らすことを選んだのだろう。

『アナーキー』

 カリコレ2015にて鑑賞。麻薬王のシンベリン(エド・ハリス)は一人娘のイノジェン(ダコタ・ジョンソン)が幼馴染のポステュス(ペン・バッジリー)と密かに結婚したと知り激怒。ポステュスを追放し、イノジェンを屋敷に閉じ込める。シンベリンの後妻(ミラ・ジョヴォヴィッチ)は自分の連れ子クロートン(アントン・イェルチェン)をイノジェンと結婚させシンベリンの後継者にしようともくろむ。一方ポステュスは知人の元に身を寄せるが、ヤーキモー(イーサン・ホーク)と賭けをする。イノジェンの愛が本物か、ヤーキモーが誘惑して確かめると言うのだ。シェイクスピアの戯曲『シンベリン』を舞台を現代に置き換えて映画化した作品。監督はマイケル・アルメレイダ。
 古典戯曲作品を現代に映画化する場合の問題点が全て露出したような、ある意味興味深い作品だった。おそらくおおよそのストーリーとセリフは原典に忠実だと思う(原典読んでないので推測ですが)のだが、日本語字幕で見る限りセリフは現代風にアレンジされていないので、麻薬王とその配下のチンピラがこんな話し方するかな?という不自然さがある。そもそも原典の「王」を麻薬王、敵対勢力を警察(でも元々は賄賂をやって癒着している)にしちゃうところでかなり無理があるんだが・・・。これ、多分舞台劇だったら抽象化されてそこまで気にならないんだろうけど、映画は舞台よりも具象性が強いというか、映した・演じたそのままのものとして受け止められる度合いが強い。観客が自分でイメージして作りあげるという要素が低いと思うので、そのあたりで不自然に感じるのかもしれない。ストーリー上も、何でそこで電話掛けないんだとか、突っ込みどころばかりが目についてしまうのだ。こういう場合、突っ込みどころをねじ伏せるくらいの映画作家の独自性や美学があればいいのだろうが、残念ながら本作にはそれはない。思い切ってもっと現代劇としてアレンジしてしまえばまた違ったのかもしれないが。
 シェイクスピア劇(というか古典全般化?)のセリフは、あんまりうまくない俳優が喋るとかなり辛いなということもわかった。健闘していると言えばしているんだろうけど・・・。

『仰向けの言葉』

堀江敏幸著
駒井哲郎、ロベール・ドアノー、松本俊介、ベルナール・ビュッフェ、モランディらの作品を始め、美術に関する文章を集めた随筆集。写真、絵画、彫刻と幅広く扱っている。押し出しがそんなに強くないというか、強さの中に躊躇をはらんだような雰囲気をはらんだ作家の作品が目立つところは、著者の文章の持ち味と呼応しているように思う。その文章は迂回に迂回を重ねるようで、なかなかするりと入ってはこない、読み取っていくのにかなり意志の力がいる(自動的に前に進むようなリーダビリティを避けている)のだが、だからこその良さもある。スピードや利便性に対抗しているかのようだ。取り上げられている作家のうち、特にドアノーに関しては著者のほかの著作でも言及されているが、本著でも他の作家よりも文字数を割いており、思い入れの深さ、相性の良さがうかがわれる。私は著者の作品を読んでドアノーのことを知り、その写真作品も著作も好きになったので、これは嬉しかった。

『そこに薔薇があった』

内海文三著
離婚して独身になった正幸は、2人の女性と知り合う。魅力的な彼女らの存在に心浮き立つ正幸に対して、叔母ははしゃぎすぎないように警告する。1話目「はしゃぎすぎてはいけない」をはじめ、似たような結末を迎える短編集。予期せずエアポケットに陥ってしまったような男女の姿が描かれる。随分と類型的なファム・ファタールだなと思っていたのだが、最後の「美しい年齢」でこれまでの短編の様相ががらりと変わって見えてくる。小話集ではなくちゃんと連作ミステリとして立ち上がってくるのだ。著者独自のロマンチシズムに満ちた連作だと思う。

『Whish I was here/僕らのいる場所』

 カリコレ2015にて鑑賞。売れない俳優のエイダン・ブルーム(ザック・ブラフ)は2児の父親。子供たちが通うユダヤ系私立学校の学費は父親(マンディ・パティンキン)から援助を受け、生活費は会社員の妻サラ(ケイト・ハドソン)が稼いでいる。しかし父親がガンを再発し、治療費がかかるため、学費の援助を受けられなくなる。子供たちを退学させホームスクールで勉強させようとするが、あえなく挫折する。監督は主演も兼ねているザック・ブラフ。
 カリコレはどちらかというとホラーとかアクションとかのジャンル映画寄りというイメージがあるのだが、毎回1作は本作のような良質のヒューマンドラマ(って言い方あまり好きじゃないけど、いわゆるジャンル映画じゃないドラマ映画)があるのがうれしい。ザック・ブラフという人のことは初めて知ったのだが、俳優としてもなかなか魅力があって、才人なんだと思う。
 エイダンはしばしば、大好きなSF映画の登場人物になった自分を想像する。現実での苦闘していると、想像の世界でも苦闘している。ちょっと子供っぽいと言えば子供っぽいのかもしれないが、こういうのってわかるなぁと思った。現実から逃避しているというわけでもなく、その想像によって現実生活を支えているタイプの人なのだと思う。エイダンは一家を支えるほどの稼ぎがあるわけではない(というかほぼ稼ぎがない)し、子供たちに勉強を教えられるほど知識が豊かなわけでもない。それでも、不手際ながら父親であること、夫であることをなんとか全うしようとする。映画によく出てくる、いわゆる「大人になれない」系の人物像とはそこがちょっと違うと思う。エイダンが自分たちから逃げないとわかっているから、サラも彼を見限らずに支え続けるのだ。エイダンはサラに対してちょっと鈍感ではあるが、それに気づいたら謝るしサラの苦境をなんとかしようとする。結果はともかく、その姿勢がいい。
 エイダンが大人になれない、向き合うことを恐れているのは、むしろ父親との関係だったのだろう。エイダンの父親は敬虔なユダヤ教徒で、息子が俳優をしているのも、妻が働いているのも気に食わない。エイダンの弟・ノアは父親からのプレッシャーに耐えられず絶縁、ほぼ引きこもり状態だ。エイダンもノアも父親を愛していないわけではない。むしろ、愛があるから向き合って否定されるのが怖いのだ。でもその怖さは父親と接していくことでしか解決しないものだろう。父親もまた、息子たちと向き合うことを恐れいてたのかもしれない。

『青、そして少しだけピンク』

 ベネズエラに暮らすカメラマンのディエゴ(ギレルモ・ガルシア)は、パートナーで産婦人科医のファブリッツォ(イグナシオ・モンテス)と暮らしていた。しかしある日、ファブリッツォが暴漢に襲われ昏睡状態に。更に、別れた妻と暮らしていた息子アルマンドを預かることになる。アルマンドは父親に捨てられたと思っており、ディエゴには反抗的だし、ゲイへの偏見も強かった。監督はミゲル・フェラーリ。
 ディエゴはゲイであり、そのことでアルマンドとの間にも溝があるし、ベネズエラではゲイへの強い偏見がある様子も垣間見えるが、ことディエゴに関しては、セクシャリティに関する物語というわけではない。ディエゴは自分がゲイであることを受け入れており抵抗はないし、友人達もそれを受け入れている。ディエゴが抵抗を持っているのは、自分が父親であるということなのではないかと思った。アルマンドに対して、父親としてどう接していいかわからないし、責任を持ちたくない。セクシャリティの問題よりも、自分が社会的な責任とどう向き合っていくかという側面の方が強いと思う。彼の周囲では、自分が自分であることを恐れない、自分を抑圧しようとする人たちに反抗する、という物語が展開していくわけだが、ディエゴに関してはちょっと逆というか、社会的なロールプレイングをしなさいということになっていくので、作品全体としてはちょっとしっくりきていないと思う。色々と盛り込みすぎてダラダラしているのも残念だった。
 作中、暴力の問題が、ゲイフォビアによるものと、女性に対するDVと2種類現れるのだが、こういうのはやっぱりすごく嫌な気持ちになるなぁ。監督へのインタビューによると、ベネズエラはかなり保守的でマッチョな文化背景みたいなので、実際は本作で描かれるよりもっと不自由なんだろう。

『パルトアル・ストーリー』

 サンフランシスコの街パロアルト。高校生のエイプリル(エマ・ロバーツ)は、所属している女子サッカーチームのコーチ、ミスターB(ジェームズ・フランコ)宅で子守のアルバイトをしている。ミスターBはエイプリルに気があるようだ。エイプリルに惹かれている同級生のティディ(ジャック・キルマー)は絵を描くことが得意だが素行は今一つで、飲酒運転をした罰で奉仕活動を課せられていた。ティディと常に「つるんで」いるフレッド(ナット・ウルフ)は突拍子もない行動ばかりする問題児なので、ティディの家族はフレッドのことを良く思っていない。フレッドは奔放なエミリー(ゾーイ・レビン)と付き合うようになる。監督はジア・コッポラ。ソフィア・コッポラは彼女の叔母にあたる。
 ソフィア・コッポラの初期の作風を彷彿とさせるところがあるが、人物造形についてはジア・コッポラの方が地に足ついている(どちらいいとかいうのではなく、方向性として)印象だった。本人がまだ若いからというのもあるのかもしれないが、ティーンエイジャーたちが抽象化されきっていない、等身大に近い登場人物になっているように思った。高校生たちの他愛のない話ではあるのだが、同年代の観客の共感を得やすいのではないかと思う。登場人物たちは問題を抱えていないわけではないのだが、具体的に何が問題なのかは、まだ自覚しきれていない。ぼんやりとはわかっているけど、上手く言語化できず、どうすればもやもやが晴れるのかもよくわからない。そのあたりは、まだ子供っぽさを残しているのだ。
 10代の人間関係の様相の微妙なディティールを描こうとしていると思う。特にティディとフレッドの関係は、親友同士とは言えフレッドにティディが引っ張りまわされている所が強い、かといってティディがエイプリルに気持ちを向けているとフレッドがどんどん暴走していくという、お互いに影響が強すぎる感じが良く出ていた。また、エイプリルの造形も、嫌われてはいないがなんとなく浮いている、優等生で美人な自覚はあるが自信満々というわけではない、というアンバランスさがあった。結構真面目なのだ。
 少年少女が、無軌道だったりクールだったりはするが、皆なんとなく自信なさげに漂っている。だから手近な人を掴んじゃったり、褒められると意外と喜んでたりするのかもしれない。プールでのフレッドの悪ノリを、エミリーが拒否するシーンが印象に残った。エミリーは割とすぐに流されちゃう人なのだが、そこは怒っておけ!と思ったので。ここで拒否できたことで、彼女は何となく大丈夫な気がした。

『ピッチ・パーフェクト』

 DJに憧れる大学生ベッカ(アナ・ケンドリック)は、ひょんなことから大学の女子アカペラサークルに入る。しかしアクの強い新入部員たちと伝統重視のリーダーとはかみ合わない。それでもぶつかり合ううち、徐々にチームワークが出来上がってくる。監督はジェイソン・ムーア。
 とにかく下ネタがひどい!という前評を聞いていたのだが、言うほどのものではない。そこはそんなに問題ないのだが、ギャグがさほど笑えないものばかりだったのには困った。話題になった○○シーンも、これで笑えって言われてもなぁ・・・と白ける程度のもの。歌のシーンはさすがに楽しいのだが、それ以外がかなり大味で、ちょっと苦痛だったくらい。
 今一つ盛り上がれなかったのは、本作がアメリカで公開されたのは3年前で、ブランクがかなり空いている(アメリカでは続編が既に公開されている)というのも大きな要因だろう。使われる音楽にも流行り廃りがあるので、3年前だったら盛り上がったろうけど今これ聞いてもな・・・という気分になってしまう。ベッカの夢がDJというのも、今だったらもうちょっと別の物に相当するんじゃないかな、という気がするし。たかが3年、されど3年なのだ。
 実は私はアナ・ケンドリックがミュージカルを出来る人だということを全然知らなくて、『ラスト5イヤーズ』で初めて、歌える人なんだと知った。『ピッチ~』の方が前の作品なんだけど。本作でも当然上手いし、歌っている姿が一番美人に見える。逆に言うと、歌っていない姿がいまひとつぱっとしない。全編通して衣装がこんなにきまっていない女優を久しぶりに見た。何を着ても似合っていない!そういう演出なのかケンドリックがそういう人なのか悩んでしまう。

『台風のノルダ』

 離島の中学校に通う東(野村周平)は、親友の西条(金子大地)と喧嘩をしてしまう。中学校は明日に文化祭を控えていたが、観測史上最大規模の台風が接近し、生徒たちは校舎に足止めされていた。そんな中、東は不思議な少女ノルダ(清原果耶)と出会う。監督は新井陽二郎、キャラクターデザインと作画監督は石田祐康。製作会社のスタジオコロリドは、2011年に新設され、2013年に短編『日なたのアオシグレ』(新井がキャラクターデザインと作画監督。今回、本作と併映された)を発表した。本作は短編よりももうちょっと尺が伸びて、26分の作品。
 尺が伸びたとは言え、26分の中に随分と色々詰め込んだなと思った。ジュブナイルSFであり、学園青春ドラマであり、ボーイミーツガールに加えてボーイミーツボーイでもある。本来なら1話30分1クールくらいでこなすであろう量が、26分になっているので、かなり盛りすぎだ。特に東とノルダのパートと、東と西条のパートとの結び付け方が強引な気がした。肝心な部分のセリフがちょっと紋切型っぽいからかもしれない。そこ、もうちょっと粘れなかったかな~、他に思いつかなかったんだろうな~と苦笑いしてしまった。全般的に語彙が少ないかな、という印象を受けたのだが、これは作り手の若さかな。また、学校の敷地内のロケーションがちょっと妙なのは気になった。敷地内の高低差が何だかすごいのだが、モデルにした場所でもあるのかな。
 どことなくNHKで昔放送していたジュブナイルSFドラマ、みたいな雰囲気がある。中学校が舞台、しかも文化祭の準備中というシチュエーション、とがりすぎないシンプルなキャラクターデザインなど、なんとなく懐かしさを醸し出している。若い製作会社、若いクリエーターが作る作品が一昔前を彷彿とさせる懐かしさ、ってのもなんだか不思議だが。
 あれもこれもやりたかった!という若さゆえの意気込みみたいなものは感じるので、悪い印象はない。むしろ好感は持てるし、若いクリエーターの作品がちゃんと一般公開されるのは頼もしいなと思う。『日なたのアオシグレ』に比べると、キャラクターの演技から臭み(アニメを見て作ったアニメ、みたいな感じがしてた)が抜け、鼻につかなくなってきた。本作、東宝アニメーション配給なのだが、東宝はアニメコンテンツの発掘に力を入れていく方向なのだろうか。

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