3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2015年05月

『ホーンズ 容疑者と告白の角』

 田舎町でラジオ局のDJをやっているイグ(ダニエル・ラドクリフ)は、恋人のメリン(ジュノー・テンプル)が他殺死体で発見されたことで、容疑者にされてしまう。町中が彼を犯人だと信じる中、彼の額から角が生えてくる。その角の前では、人は欲望をあらわにし嘘がつけないようなのだ。イグは角の能力を使って真犯人捜しを始める。原作はジョー・ヒルの同名小説。監督はアレクサンドル・アジャ。
 特殊能力を持った探偵役が特殊ルール下における犯人当てをするミステリかと思っていたら、どんどん変な方向に転がっていく。いや、変な方向に転がるというよりも、色々なジャンル要素が次々に注入されて変なことになっていると言った方がいいのか。イグに角が生えているのに周囲があんまりリアクションしないのも見ていて奇妙な感じなんだけど・・・。
 ベースは青春物語といってもいいのだが、そこにミステリ、サスペンスをはじめホラーやらオカルトやら見ようによってはコメディやらをどんどん載せていくので、相当奇妙な味わいになっている。それでいてしっかり切ない。イグはこの町で生まれ育ち、幼馴染のグループでいつもつるんでいたが、そのうち1人は警官になっておりイグと敵対する。弁護士となった親友も、イグの無実を信じているとは言い難い。イグは少々思い込みの強い性格として描かれており、イグが見ていた風景と友人が見ていた風景は違うかもしれないし、最愛のメリンですら、イグと同じものを見ていたのかどうか、イグ本人にも、映画を見ている側にもだんだんわからなくなっていく。では実際、誰が何を見ていたのか、真実に辿りつく過程がイコール、子供の頃からの人間関係の行きつく先でもある。いわゆる少年時代の終焉を描いたような物語なのだ。
 小さな町の中のみ、更に限られた人間関係の中でのみ話が展開される、少々閉鎖性の高い物語だ。その閉鎖性は、イグとメリンの関係が(少なくともイグにとっては)非常に緊密で外部がわかりにくいというところに呼応しているようにも思った。イグがもうちょっと周囲を見ていれば、また違った物語があったかもしれない。

『百日紅 Miss HOKUSAI』

 浮世絵師・葛飾北斎(松重豊)の娘で、同じく浮世絵師のお栄(杏)は、父親と二人暮らし。北斎の弟子・池田善次郎(濱田岳)や、歌川門下だが北斎を尊敬している歌川国直(高良健吾)が出入りしている。お栄の母親こと(美保純)は別居しており、末の妹で目が不自由なお猶(清水詩音)は寺に預けられている。お栄とその周囲の人々の春夏秋冬を描く長編アニメーション。原作は杉浦日向子。監督は原恵一。
 短編集である原作をつなげて長編に仕立てたことによる、一本の映画としての牽引力の弱さは否めない。が、原作をすごく好きな人が読み込んで、丁寧に映画にしたんだなということはよくわかる。一つのテーマで引っ張るドラマ作りではなく、そこに生きる人たちの生活の断片を積み重ね、時の経過を感じさせる。ドラマを追う、のではなく垣間見るという感じなのだ。作中時間が前後するところもあるのだが、四季を追って見せるので、江戸の春夏秋冬を味わえて楽しい。街並みや室内の調度品まで丁寧に描かれており、江戸の庶民の生活はこんな風だったのかな、という空気感が出ている。これは原作者の意図にかなったことなんじゃないだろうか。なお、お栄が真冬(雪景色だ)でも夏と同じ着物で上にどてらみたいなものを羽織っているのだが、これはお金がなかったということなのだろうか・・・。さすがに設定ミスということはないと思う)。
 お栄は絵の才能があるが、父親である北斎の天才性にはまだ及ばない。春画を書く技術はあるが絵に色気がなく、技術ではお栄に及ばないものの色気があるという善次郎と比較されもする。それでも描けないと思われるのは癪だし、何より彼女はあらゆるものを描きたいのだ。北斎という巨大な才能、自身の経験不足故の未熟という天井をにらみながらも、彼女は模索する。
 とは言っても、お栄の画業に対する模索を描くというフックで物語が牽引されているかというと、そうでもない。本作の面白いところは、お栄の絵に対する情熱は一貫しており、更に性格的にも筋の通った人に見受けられるのだが、物語全体としてはどこか漂うような、心もとなさ・儚さを感じさせるところだ。お栄の兄弟子に対するほのかな思いにしろ、病弱な妹の存在にしろ、この世に留めきれないものだとお栄が予め諦念しているようにも見えた。お栄の心持だけではなく、本作で描かれる世界全体がそうだというように見えた。生き生きとしてにぎやか、しかしそれはやがて移りゆくものだ。ただ、移りゆくことがさびしいだけかというとそんなことはなく、人の暮らし自体は続いていくという意図がラストシーンに(これが蛇足だと言う人もいるだろうなとは思うが)に繋がってくる。
 アニメーションとしては、見ていてストレスがかからなくて、気分が良かった。色と線のバランスがいいというか、見やすいし目で動きを追いやすい。整理がよくされている感じの画面構成だ。また、出演者の声のトーンが比較的落ち着いており、かつ感情を載せすぎていないのも聞いていて楽だった。主演の杏も、ぶっきらぼうな声質と演技がいい。出演者は専業声優ではなく実写で活躍する俳優が殆どだが(しかし濱田岳は何やっても上手いな・・・)、その中で専業声優である入野自由の使い方は冴えていて、なるほど!と唸った。入野が演じるキャラクターが特にフィクショナルな存在というか、他のキャラクターよりも更に、自らキャラクターとしての皮を一枚かぶっているような存在なので。

『イマジン』

 視覚障害を持つイアン(エドワード・ホッグ)は、反響定位という技術を使って、杖を使わずに歩くことができる。リスボンの寄宿制の視覚障害者施設で教師として働くことになった彼は、反響定位を使って外の世界への興味を生徒たちから引き出していく。引きこもりがちのエヴァ(アレクサンドラ・マリア・ララ)に惹かれたイアンは、彼女を誘って町に出る。監督はアンジェイ・ヤキモフスキ。舞台はポルトガルだが監督はポーランドの人。
 イアンは生徒たちに、音により世界の様子が浮かんでくることを度々教える。人の同さの物音、宿舎の敷地の外から聞こえる鳥の声やバイク、車の走行音。時には船の汽笛の音など。視覚を使える人が見るのとはまた違った世界が広がっているのだろう。ただ、その音の広がりの見せ方(というか聞かせ方)は、そんなにはっとするものでもなかった。普段から(視覚を使える人でも)これくらいは聞いているし、そのくらい想像するよなぁと思った。視覚主体でとらえている世界とは違った世界の広がりみたいなものは感じられなかった。このあたりは個人差があって、すごく新鮮に思う人もいるかもしれない。ともあれ必要に迫られないと、そこに音があることを取り立てて意識しないということなのだろうか。
 はっとしたのは、イアンが杖を使うのを嫌がるところや、エヴァがカフェで「いい女」風の振る舞いをする部分だ。確かに、杖を持っている人がいると、周囲にとってはまず「視覚障害者」であって、男性/女性というカテゴリーは後付けになりがちだ。それがイアンやエヴァには鬱陶しい(まず視覚障害があると認識してほしい、とという人ももちろんいるだろうが)。人は他人を見ると多かれ少なかれ、なんらかのカテゴリーに入れて判断することが多いと思うが、常に同じカテゴリーで判断されて同じような対応をされるというのは、うんざりするものなのかもしれないと改めて気づかされる。
 イアンとエヴァのラブストーリーと言う要素はあるものの、見ている間はあまり意識しなかった。それよりも、イアンの新奇さが人気を博するものの管理側からは受け入れられないという、一種の教師もののパターンだなと思った。イアンが少々胡散臭い人として描かれているところも面白い。新奇さによって迫害されるという感じではなく、イアンのやり方が不完全だという感じなのだ。イアンに対して黒とも白ともつかない、あいまいな見せ方をしているのだが、そこが単に「人」という感じがした。

『パプーシャの黒い瞳』

 1910年、ジプシーの女の子が生まれた。パプーシャ(人形)と呼ばれるようになった娘は、文字に興味を持つようになる。1949年、パプーシャ(ヨヴィダ・ブドニク)がいるジプシーの一団は、秘密警察に追われる文学者の青年イェジ・フィツォフスキ(アントニ・パヴリツキ)をかくまうことになる。フィツォフスキはパプーシャに詩人の才能があると見抜き、彼女に詩を書きとめて自分に送ってくれと頼む。やがてフィツォフスキはジプシーに関する研究書を発表し、パプーシャの詩も出版する。著作は評判となるが、パプーシャはジプシーの秘密を漏らしたとして仲間から村八分にされてしまう。監督はクシシュトフ・クラウゼ&ヨアンナ・コス=クラウゼ。
 パプーシャは実在した初の女性ロマ(作中では時代背景の関係でジプシーと表記)詩人。彼女の人生を映画化した作品で、モノクロの映像が詩情に満ちていて大変美しい。野山のロングショットなど引き込まれた。また、背景に見え隠れするポーランドの歴史やジプシーに対する政策の変遷も興味深い。しかし、一人の女性の人生としてはかなり辛く、見ていて暗澹たる気持ちになる。作中で、上流階級の婦人が少女のパプーシャに「聡明な女性は生きづらい」と言うのだが、全くそういう話なのだ。
 パプーシャは文字に興味を持ち、ひそかに読み書きをおぼえる。しかしそのことをジプシーである親たちは喜ばない。たちの悪いものに魅入られた、みたいな扱いになるのだ。そして後にはジプシー集団から追放される。本作で描かれるジプシー集団はかなりのマッチョな男社会で、女性には生む性としての役割以外は求められない感じなのだ。パプーシャは文字によって知識を得、また詩という形で自分の内面を表現することができる。しかし、夫をはじめ仲間に介入出来ない世界を持つことは、この集団では歓迎されないのだろう。また、彼女は不本意に年長の夫と結婚した時、生むことを拒否している。この時点で彼女は既に所属集団になじまない存在になっているのだ。ジプシーというと国家や法にとらわれず自由というイメージがあるが、その一方で、集団内では非常に縛りがきつい。
 かといってパプーシャは、都会に暮らすこともできない。彼女のアイデンティティーはジプシーとしてのものだ。また、彼女の詩の才能を見出したフィツォフスキも、彼女が置かれている立場をよくわかっていないし、ジプシーにとって記録を取られるのがどういうことかといったギャップについても無頓着で、彼女の助けにはならない。彼女はどこにも居場所がなくなり、精神を病んでいく。
 パプーシャが文字なんて覚えなければよかったと漏らす姿は痛ましい。彼女の表現は文字なくしては残らないものだし、彼女はおそらく表現せずにはいられなかった人なのに。

『風の丘』

カルミネ・アバーテ著、関口英子訳
イタリアの南端、カラブリア州のスピッラーチェという小さな村で、赤い花の咲き乱れる丘を開墾し生きてきたアルクーリ家。古代遺物の発掘やファシズムとの戦いを背景に、3代にわたる一族の物語を描く。頑固で反骨精神にあふれる祖父アルトゥーロ、村の教師になったもののファシズムへの反感から島流しになった父ミケランジェロ、そして「僕」リーノ。父が「僕」に語る一族の記憶という形の物語だが、祖父や父の丘への思い入れ、丘の引力みたいなものに満ちている。よその人にはわからない土地との絆があるのだが、それは土地の呪縛のようにも見える。父が「僕」へと一族の物語を伝えることは、呪縛に巻き込もうという行為のようでもあり、どこか禍々しさも感じた。子供の頃によそに預けられた(その理由は終盤明らかになるのだが)「僕」には、丘への愛着はあるが、父や祖父の思いとは溝がある。そして父と祖父の間にも、やはりギャップはある。語り口は淡々としているが、その溝、ギャップがどこか寂しい。家族の絆と、それぞれ他人であり他人のことは全部はわからないということが、並列しているのだ。

『雨のち晴れて、山日和』

唐仁原教久著
イラストレーターの著者が、50代になってから山登りを始めた。北海道から鹿児島まで、各地の山に登ったイラストエッセイ。編集者から登山エッセイを書かないかと誘われたから始めた登山だったというが、文章にしろイラストの雰囲気にしろ、なかなか満喫している。初心者でもちゃんと用意すれば登れそうな山ばかり(同伴者つきでの登山とはいえ著者が初心者だし)なので、これなら自分でも登れるかな、という気分になるところがいい。宮沢賢治ゆかりの山を訪ねる岩手県など行ってみたくなった。近場だと真鶴半島なんかもよさそう。どんな山道か文面からはあんまり伝わってこないのがちょっと残念だが、そこはイラストで補完ということかな。

『真夜中のゆりかご』

 妻アナ(マリア・ボネヴィー)と幼い息子と共に暮らす刑事のアンドレアス(ニコライ・コスター=ワルドー)は、ある日思いもよらない悲劇に遭遇する。息子が突然死し、アナは錯乱状態に陥ったのだ。その時彼が思いだしたのは、先日薬物依存症のトリスタン(ニコライ・リー・コス)とサネ(リッケ・マイ・アナスン)の家に踏み込んだ際、糞尿まみれで放置されていた赤ん坊だった。監督はスサンネ・ビア。
 スサンネ・ビア監督作品て、日常の中ではたと気づくと足元に地獄が広がっていた、みたいなパターンが多いように思うが、本作はまさにそれ。アンドレアスの日常は瞬時に崩壊してしまう。彼は自分が陥った地獄の苛烈さに耐え兼ね、更に他の人にも地獄を波及させてしまう。そして、同じ地獄にいると思っていた人が、実は別の地獄にいることがわかるのだ。アンドレアスが見ていたのは、その人の何だったのか。
 元々、どんなに身近な人であっても他人のことはわかっているようでわかっていないものだろうが、自分の状況が辛すぎると、更に周囲の人たちに目が向かなくなってくるものだろう。そこに気づくことが出来るかどうかで、地獄から抜け出せるかどうかが変わってくるのかもしれない。酒浸りだったアンドレアスの相棒シモン(ウルリク・トムセン)が立ち直ろうとするのは、アンドレアスの苦しみを目の当たりにしたからというのも一因だったのではないかと思う。彼は「見る」人で、アンドレアスの状況を変えるのも彼が「見た」ことがきっかけになる。
 アンドレアスのやったことは、法的には許されることではない。彼はよかれと思ってやったと言うかもしれないが、それは自己弁護にすぎない。彼だけではなく、アナにしろ、トリスタンにしろサネにしろ、形は様々だが許されないことをやっている。本作は彼らの行動を断罪しようとはしない。わかりやすい善人や悪人はいないのだ。その行動だけでは、彼らがどんな人間かは判断できない。人には様々な面があり、ある状況でその一面が現れるにすぎないのだ。ひとつの局面でやってはならないことをやってしまった、では次にどうするか、という部分が問われているのだと思う。

『シンデレラ』

 母親を病気で、父親を事故で亡くしたエラ(リリー・ジェイムズ)は、父親の後妻のトレメイン夫人(ケイト・ブランシェット)と連れ子のドリゼラとアナスタシアに召使のようにこきつかわれていた。悲しみを紛らわせる為に馬で走り回っていたエラは、青年キット(リチャード・マッデン)と出会い心惹かれる。キットは実はこの国の王子だった。エラを忘れられないキットは国中の未婚女性を舞踏会に招き、彼女を探そうとする。おとぎ話を原作としたディズニーのアニメーションの名作『シンデレラ』を、実写化した本作。監督はケネス・ブラナー。
 お話はあくまでおとぎ話の『シンデレラ』なのだが、生身の人間が演じても違和感ないように、随分いろいろと配慮している。アニメのシンデレラはディズニープリンセス史上でも特に退屈な人だと思うのだが、本作のエラは生き生きとしており、「こういう人」という輪郭がはっきりとしている。エラが両親から十分に愛されて育ったことでこういう気質になった、と納得させようとしている。
 また、継母であるトレメイン夫人についても、支配的な性格だというだけでなく、エラの父には彼女なりに好意があったであろうこと、そして未亡人としてそれなりの苦労があろうことなどが垣間見える。彼女がエラにしていることは児童虐待だが、こういう経緯があってこういう人になった、という部分を感じさせようと頑張っていると思う。ただ、人物背景が見えるだけに、エラが継母や連れ子たちの言いなりになっているのがよけい不自然に感じられるという弊害もあったが・・・。結構自己肯定感あってそこそこなんでもやれる人があんなに簡単に言いなりになるかなーと(それがパワハラ、児童虐待というものなのかもしれないが)。
 現代の感覚で見ても不自然にならないように配慮しているが、やはりちょっとつらいなというところも。エラは母親の「優しさと勇気を忘れないで」という遺言を守って成長するが、彼女が幸せになったのって、優しさや勇気のおかげというわけではそれほど・・・と本作の結末を見るとつい思ってしまう。お子さんも見るコンテンツとしてちょっと教育的にと思ったのかもしれないが、ひとめぼれされるのに優しさとか勇気とか関係ないよな・・・。また、彼女は継母や連れ子と反りが合わないと自覚してはいるが、母親の言葉に従い優しくしなければと務める。でも「優しくしなければ」と思って優しくされているのって、相手は結構察するものだし、いい気分はしないだろう。エラは純真で善意でやっているが、だからこそ相手によっては傲慢に感じられるということもある(だから継母の神経を逆撫でする)んじゃないかと思った。逆に、エラが継母たちになんで自分をこき使うのか早い段階で怒っていれば、もうちょっと事態は穏やかだったかもしれない。そういう話だからしょうがないんだけど、なまじ実体感のある造形にしようとしていることで、逆に細かい粗が気になってしまった。そもそも私が『シンデレラ』というお話にさして魅力を感じていないからしょうがないのかも。
 本作の見所はやはり美術。エラの館や衣装のガーリーでありつつほどよく落ち着いた雰囲気もいいし、トレメイン夫人や連れ子たちの、悪趣味ぎりぎり手前のファッショナブルさも楽しい。また、特に意図しているのかどうかはわからないが、舞台は中世ヨーロッパ風だが、町にいる人の人種は多様な所も面白かった。

『ラスト・ファイブ・イヤーズ』

 ブロードウェイを夢見る女優志望のキャシー(アナ・ケンドリック)と小説家志望の学生ジェイミー(ジェレミー・ジョーダン)は恋に落ち、やがて結婚するが、いつのころからか心がすれ違っていく。監督はリチャード・ラフラヴェネーズ。2001年にオフブロードウェイでヒットしたミュージカルの映画化だそうだ。一組の男女の5年間を、女性側からは別れから出会いへとさかのぼり、男性側からは出会いから別れへと順を追って描いていくという、面白い構成。
 構成に妙ありの作品なのだろうが、舞台版は、キャシーのパート(現在→過去)とジェイミーのパート(過去→現在)とがビジュアルとしてもっと明白に分かれていたんじゃないかなという気がする。基本的に、そのシーンでメインで歌っている人視点なんだろうということはわかるが、映画の中ではシームレスに視点(歌い手)移動するシーンがいくつかあるので、今どっち側の話だったっけ?と混乱しそうになった。その混乱しそうになる部分が、こういうこと以前もあったし今もあったよね、というような、2人の関係の見せ方における効果になっていればいいのだが、そこまでの作意はなさそう。逆向きの時間軸で平行して描くという構成が、あまり生きていないように思った。キャシーの過去とジェイミーの今がリンクし、あの時のこの言葉が全く違った意味合いで使われるというような、効果的な演出もあったが、そこがすごく印象に残ったということは、他はあんまりうまくいっていないということだよな・・・。
 2人の気持ちがすれ違って行くのには、決定的な理由があるわけではなく、時間が過ぎるうちになんだかそうなっていまった、という面が強い。ジェイミーが売れっ子になるのにキャシーはうだつが上がらないまま、というギャップが大きな理由と言えるのかもしれないが、じゃあ仮にキャシーもスターになっていたら結婚生活は円満に続いていたのか?というと、そうとも言えない気がする。2人とも主役になりたいタイプの人だから、いつかはすれ違っていたんじゃないかなと。
 ところで、ジェイミーが自分はユダヤ系だがそうではないキャシーに恋をした、ということを度々言うので、後々の伏線なのかと思っていたらそんなことなかった。どういうニュアンスで言ってたのかな。

『龍三と七人の子分たち』

 同居している息子夫婦にはうっとおしがられ、ヒマをもてあましている元ヤクザの龍三(藤竜也)。ある日オレオレ詐欺にひっかかりそうになったところを、かつてのヤクザ仲間“若頭のマサ”(近藤正臣)が居合わせたおかげで事なきを得る。サギで稼いでいるという半グレ集団の存在を知った龍三は、かつての仲間を集めて対抗しようとする。監督は北野武。
 宣伝ではおじいちゃんたちがけしからん若者を成敗して世直し!的な雰囲気を出しているが、やっていることは『アウトレイジ』とそんなに変わらないぞ!昔の仲間を集めるのはいいけど、まずサギで資金集めようとしてるし、どっちもどっちだよ!って感じを常に出しているところがいい。正義の味方どころか、あまり良識的でもないのだ。元ヤクザである、ヤクザは別にかっこよくないという部分がブレない。年とったから人間が出来てくるかというと、そんなことはないぞということだろう。だったらいっそやりたいようにやっちゃえばいいじゃない、とある意味潔い。
 ドライかつハードな『アウトレイジ』シリーズが2作続いた北野監督だが、今回はうってかわってベタな笑いに徹している。王道のコメディで、いつになくサービス精神旺盛だ。特に半グレ集団とのやりとりで顕著だったのだが、ボケに対するツッコミのペースがかなり小刻みかつ内容が具体的で、かなりわかりやすく、最近の漫才ぽくしようと努力(というか観客に対する譲歩)をしていると思う。もしかしたら監督、というかビートたけしとしては不本意なのかもしれないけど・・・。ともあれ「討ち入り」シーンは不謹慎だと怒られそうなネタ満載で、終わりに近づけば近づくほど暴走していき楽しかった。北野監督作品で本作のような過不足のない感じの作品ていうのは、結構珍しいんじゃないかな。
 豪華かつリアルに老いを感じさせるいいキャスティングだった。藤竜也はあきらかにおじいちゃんなのに、色気が健在。やっぱりかっこいい。そして近藤正臣が渋い!

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