3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2015年04月

『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』

 ロサンゼルスで老舗フレンチレストランのシェフを務めるカール・キャスパー(ジョン・ファブロー)は、オーナー(ロバート・デニーロ)が斬新なメニューに理解を示さないことにいら立っていた。「定番」メニューを料理評論家にけなされたことがきっかけでツイッター上で炎上を起こし、実際にケンカになり店もやめてしまう。元妻イネス(ソフィア・ベルガラ)の提案で、息子パーシーを連れて故郷マイアミに戻ったカールは、地元の味であるキューバサンドイッチのフードトラックをやろうと思いつく。監督・脚本・主演はジョン・ファブロー。
 ジョン・ファブローと言えば『アイアンマン』の監督(と出演)だけど、本作はいわゆる大作ではなく、むしろこじんまりとした作品。大作の反動で作ったのかな。作中、カールはメニューの方針を巡ってオーナーと対立する。カールは自分がおいしい、おもしろいと思う新作に挑戦したい。しかしオーナーは「老舗の味」として、固定客が求める定番料理を作れと言う。お金を出しているのはオーナー、シェフはオーナーがいなければ料理は出来ないというわけだ。
 カールは腹を立てるが、これはシェフもオーナーも両方間違っていない。料理だけでなく、映画にしろ何にしろ、いわゆるクリエイターにとっては付き物な悩みなのだろうが、『アイアンマン』がなまじ大ヒットしたファブローだけに、あれそんなに締め付けきつかったのかな・・・と、うがった見方をしてしまいそうになった。ファブローは製作もやっているから、当然金銭面のハードさも十二分にわかっているだろう。それでも、やっぱり客の顔色見ずに作りたいものを作りたい!と思ってしまうのがクリエイターの性なのか。本作のカールの場合は、そもそもなぜそのレストラン(保守王道みたいな方向性)に就職したんだと突っ込みたくなったが。
 ちょっとカールにとって都合がよすぎる展開だし、女性2人が優しすぎる(カールにとって都合よすぎる)よなとは思ったが、物足りないものの気軽に楽しく見られる作品だった。カールが、難点は多いが嫌な人ではないというところもポイント。評論家にくってかかるシーンで、怒っているとか許せないとかよりも「傷ついた」という言葉を使うのが印象に残った。評論家がメニューを批判するのも単に難癖つけているのではなく、確かにこれはがっかりするかも・・・と思わせるものだし。双方に実感こもってるなーと思った。
 料理はどれもおいしそうだった。ただ、カールの料理は押しなべてカロリーが高そう!息子に作ってあげるグリルドチーズサンドなんてすごくおいしそうだし家でも作れそうだけど、あのバターの量を見ると・・・おそろしくて・・・。なお、キューバサンドイッチは具はおいしそうなのにバゲット部分がそれほどでもなさそうなのが残念。


『ディオールと私』

 2012年、老舗メゾンのクリスチャン・ディオールに、スティックディレクターとしてラフ・シモンズが就任した。自身のブランド「ジル・サンダー」で活躍していたシモンズだが、オートクチュールの経験はゼロ。彼の抜擢はファッション界を驚かせた。8週間後に迫った新作コレクション、そしてシモンズにとってのディオールでの初コレクションを成功させる為、シモンズと職人たちは奔走する。ディオールの全面協力のもと、メゾンの内側に迫ったドキュメンタリー。監督はフレデリック・チェン。
 わりとあっさり目のドキュメンタリーで、ファッションに造詣が深い人にとっては物足りないのかもしれないが、この方面に疎い私には面白かった。見ているうちに、ラフ・シモンズという人への好感が湧いてくるし、何より、ディオールの職人たちの仕事に対するプライド、愛着が眩しい。職人たちにとっては、ディオールを支えているのは自分たちだ!という自負がある。プレタポルテ出身のシモンズに対しては、よそ者(実際よそから来ているわけだけど)感が否めず、信頼していいのかどうかという雰囲気。シモンズがフランス語をそんなに堪能ではないという事情もあり、なかなか双方の意思がかみ合っていかずもどかしい。
 そこをカバーしようとするシモンズのアシスタントや、ブランド運営陣営も必死だ。特にアシスタントの人は、職人たちへの気遣いも細やかだし、率先して何でもやるし茶目っ気があって人好きするしで、本当に有能かつ気配りのできる人なんだなと感じさせられた。こういう人が支えてくれたら、心強いだろうなー。本作を見る限りだと、シモンズはあまり神経の太い方ではなく、むしろ内気で人前で諸々をやるのは苦手みたいなので、コミュニケーション能力高くて社交的なアシスタントが必要なんだろう。
 登場する職人たちの語り口がチャーミング。すごく心配性な職長や、ベテランのお針子ら、老若男女入り混じっているが、皆ディオールで働いているということが誇りなんだろうなと。また、メゾンがどうやって経営を成り立たせているかという一面も垣間見えて興味深かった。職長の一人が顧客のドレスの調整の為に海外出張してしまい、シモンズが激怒するというシーンがあるのだが、一度に高額購入する顧客をこうやってキープしているからこそ、オートクチュールは成立しているんだなと納得(シモンズも頭ではわかってるんだろうけど(笑))。オートクチュールに対してはバカ高いというくらいのイメージしかなかったのだが、これだけ手間暇かけて作っているならそのお値段も納得だ。
 ディオールの自伝である『ディオールと私』の朗読が随所で挿入されるが、シモンズが「(コレクションを控えた若き日のディオールが)」今の自分と重なる、ちょっとだけ読んで読むのをやめてしまった」と言うのが印象に残る。あまり先駆者の影響を受けたくないということか、過剰に意識しちゃいそうだからやめておこうということか。ディオールというブランドにて伝統は引き継ぐけれど、自分と(創始者の)ディオールは別人で同じようにはできないし、するつもりもないってことだろう。もちろんそれでいいのだと思う。
 シモンズのディオールでの初コレクションは立体的な線が美しく、すっきりとしたデザイン(特にペプラムのついたトップスがかわいかったし、現代絵画をプリントした生地もインパクトあった。絵画を使う場合って著作権とかどうなるんだろう・・・)で私は好きだけど、評判はどうだったのかな。コレクション後の映像を見た限りでは好評だったみたいだけど。・・・と思って調べてみたらディオールでの作品が評価されて2014年にCFDA(アメリカファッション協議会)国際賞を受賞してるんですね。よかったよかった(笑)

『黒ヶ丘の上で』

ブルース・チャトウィン著、栩木伸明訳
20世紀の始めに、ウェールズとイングランドの境付近で生まれた双子の兄弟、ルイスとベンジャミン。彼らは生まれた村から一歩も出ずに年齢を重ねていく。両親の出会いに遡り、兄弟が80歳になるまでを綴った物語。物語の舞台がほぼ小さな村の中に限られているが、ミニマムな大河ドラマとでも言うようなうねりを感じた。兄弟の人生の背景には、科学技術の躍進、そして第一次大戦、第二次大戦が起こった激動の20世紀が横たわっているのだ。兄弟の生活が延々と変わらないからこそ、その外側の変化とのギャップがユーモラスにも、時に異様にも見えてくる。双子故の強いつながりを持った2人の関係は、はたからみると愛し合っているようにも縛り付けあっているようにも見えるし、それを不幸だと思う人もいるかもしれない。ただ、そういった世間の幸不幸の価値判断とは別のところに黒ヶ丘があるように見えてくるのだ。劇的なことは起きないが、読んでいるうちにじわじわ面白くなってくる。それは、人が生きているとそれだけで面白い、ということのようにも思った。ウェールズ地方の風土や地形、動植物の描写なども生き生きとしていていい。このあたりは、紀行作家として知られた著者の得意な部分だったのかもしれない。紀行作家として有名になった人が、全然移動をしない話を唯一の長編小説として残したというのも、なんだか不思議だ。

『イザベルに ある曼荼羅』

アントニオ・タブッキ著、和田忠彦訳
「私」はかつての知人であるイザベルの行方を探す。彼女はポルトガルのサラザール独裁政権下で地下活動に関わり、姿を消した。彼女は逮捕されたとも自殺したとも噂されていた。9人の証言者の話から、イザベルの姿が浮かび上がっていく。著者最後の作品となるそうだ。不在の人物を「私」が追うという構造は、著者の初期の作品『インド夜想曲』を彷彿とさせる。相手を追ううちにだんだん円の中心に近づいていき、中心で霧散するような構造も似ている。イザベルに関する証言はまちまちで、彼女の姿がくっきり見えたかと思いきや、全く違う姿に見えたりもする。証言者の中に過去の亡霊が登場し始めるあたりから、世界のあり方はどんどん曖昧に、怪しくなってくる。そもそもイザベルとは本当に存在したのか?「私」の知っているイザベルと9人の証言者が知るイザベルは同一人物なのか?と読んでいるうちに読者ももやもやしてくるのではないか。しかし、そのもやもや、イザベルという存在の曖昧さこそが著者の狙いだろう。サブタイトルに曼荼羅とあるが、これは作中で言及されるように砂で描く曼荼羅のこと。砂の曼荼羅は完成すると同時に崩され、再び描き始められる。イザベルの姿もこれと同じなのだろう。何度も再生され、その度に違う姿を見せるのだ。 人の認識・記憶とはそういうものではないかと思う。1人の中の記憶は思い出すごとに少しずつ違い、同じ事柄についても見ている人によって違うものが見えているのだ。

『龍神の雨』

道尾秀介著
添木田蓮と楓は事故で母親を亡くし、継父と暮らしているが、継父を憎んでいた。溝田辰也と圭介は母親を亡くし、次いで父親も病死した。今は継母と暮らしているが、辰也は継母に冷たく当たり、圭介は母親の死の原因は継母にあるのではと疑い始める。そしてある日、蓮は妹がひどい目に遭わされ殺意を抱く。接近する台風の中、2組の兄弟妹は深みへとはまっていく。主人公(達)がまだ子供(蓮は子供という年齢ではないが社会経験を積んだ大人というわけではない)だというところが大きなポイントになっている作品で、経験値がまだ低いから思い込みしやすいし起こった事態への対処もおぼつかない。ことがことなので大人でおぼつかないだろうなとは思うが、子供だと社会的にも知識面でも選択肢が限られるのだ。その「限られる」ということでどんどん泥沼化していくところに、読んでいて嫌な汗をかかされる。ただ、子供が主人公でなかったら、こういう形の終わり方にはしなかったろうなとも思った。それぞれのエピソードの絡んでいく様と伏線回収の仕方はさすがにそつがない。ここは多分こういうことだろうな、とミステリ読み慣れている人には早い段階で察知できる部分はあるが、大ネタのミスリードにはあっそこか!と。なお、文庫版で読んだのだが、文庫版解説では本作の構造について色々と考察している。よくそんな細かいところまで検証するなーとは思うが、そこを掘り起こすことが読書体験として面白いかというとそうでもないんだよな(笑)。

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