3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2015年04月

『20世紀イギリス短篇選(上、下)』

小野寺健編訳
キップリングからモーム、ウルフ、ジョイス、D.H.ロレンスを経てドリス・ドレッシング、ウィリアム・トレヴァー、そしてスーアン・ヒル。20世紀に活躍したイギリスの小説家の作品を収録した短編集。上下巻、時代順で収録されているので、小説の時代背景の変遷もたどることができる。普段、なかなか読む機会のない作家の作品も(特に下巻では)多く、粒ぞろいでとても読み応えがあった。どこか苦味やブラックユーモア、寂寥感、生きることの悲しみが漂う作品が多いのは、編者の趣味なのか、イギリスのお国柄なのか。そんな中、キュートと言えばキュートだが冷静に考えるとちょっと怖い、P・G・ウドハウス(岩波文庫ではウドハウス表記)の「上の部屋の男」、最後の最後で人生は悪くないと思えるノーラ・ロフツ「この四十年」がアクセントになっている。個人的には、視点がミクロからマクロへゆらゆらゆれてどこか幻想的なヴァージニア・ウルフ「キュー植物園」、ジョイスってこんなのも書いてたんだ!と新鮮だったジェイムズ・ジョイス「痛ましい事件」、異邦人としての疎外感と差別への怒りが根底に流れるジーン・リース「あいつらのジャズ」を推す。

『貝殻と海の音』

庄野潤三著
郊外に住む「私」たち老夫婦と、それぞれ家庭を持つようになった子供たち一家、近所の人たちとの交流を描く私小説シリーズ。先日読んだ『せきれい』の少し前の話になる。意図したものなのかわからないが、加齢とともに文章が散文的になり、書かれる事項も繰り返し感が増しているように思った。本作は『せきれい』よりも、いわゆる「小説」っぽい。ただ、ちょっとしたところで老いを感じさせる描写があってはっとする。それにしても「私」夫婦は実に頻繁に子供やご近所におすそ分けやらご挨拶の品やらを送っている。そういう行為が自然な世代だということなんだろうけど、こういう方が身近にいたら、気持ちはありがたいけど逆に気詰まりになりそう・・・。また、『せきれい』もそうだったけど、「私」の妻が料理上手でまめで言動がかわいらしくてとあまりにファンタジーっぽいなと思った。あえてそこにのみ血肉感を持たせないようにしたのかな。書かれている一つ一つの事項は具体的だけど、そういう部分は抽象的だ。

『舟を編む』

三浦しをん著
玄武書房に努めている馬締光也は、新しい辞書『大渡海』の編纂部員に抜擢される。馬締は辞書の世界に没頭していく。仕事に励み、人生の伴侶も得たが、『大渡海』の完成までには数々の問題が待ち受けていた。映画化されたものを先に見ているのだが、むしろ映画が原作を実によくすくい上げていたんだなぁと感心することに。原作である本作ももちろん面白いが、わりとあっさりしている。作中でいきなり何年も経過するので、あれっと思うと同時に、辞書作りにかかる年数を実感する。作っている側としては本当にこんな感じなんだろうな。また、辞書編纂の才能と情熱を持った馬締という主人公はいるわけだが、むしろ、社内では変人扱いされている馬締を他の人たち、辞書に特に思い入れのない人たちがどう見ているか、という側面が強い。そして、特に辞書に思い入れがなかった彼らが自分の仕事に誇りを持っていく様には、なんだか胸が締め付けられた。仕事をちゃんとやる、仕事仲間になるってこういうことかなぁと。

『間奏曲はパリで』

 ノルマンディー地方の農村で、畜産家の夫・グザヴィエ(ジャン=ピエール・ダルサン)と暮らすブリジット(イザベル・ユペール)。平穏な毎日だが変わり映えがなく、グザヴィエとの間にも時に隙間風が吹く。ある日、ブリジットは隣家のパーティーで知り合った青年・スタン(ピオ・マルセイ)に会おうと、ギザヴィエには病院に行くと嘘をつき、パリへやってくる。監督・脚本はマルク・フィトゥツ。
 夫のある女性がちょっとしたアバンチュールをパリで楽しむという、他愛ないと言えば他愛ない、ベタと言えばこの上なくベタなメロドラマなのだが、イザベル・ユペールが主演というだけで妙に新鮮で清々しくなるのはなぜだ。もちろん、お話づくりが上品で、わりと色々な方向に気配りがされている(主婦のわがままみたいな風には見えないように配慮されている)というのもあるけど、ユペールがとにかくチャーミングだった。悲壮感のないユペール主演作は案外少ないので、そういう意味でも貴重かもしれない。
 ブリジットとグザヴィエは決して仲が悪いわけではないし、むしろお互いに思いやりのある夫婦に見える。またグザヴィエがぱっとしない男性だというわけではなく、それなりにセクシーだし、一から十まで野暮天というわけではない。しかしそんな2人でもすれ違いは起きるし、腹立たしいこともある。そんな日常から一旦距離を置いてみたい、というのがブリジットの「アバンチュール」なのだろう。浮気しに行くと言えばそれまでなのだが、それを変に思わせぶりに見せずないので、口当たりが良かった。素敵な男性はオプションであって、「パリ」に一人で一泊する、というシチュエーションにこそブリジットはウキウキしているのではないか。フランス人にとっても「パリ」って括弧つきの「パリ」なんだなぁと妙に微笑ましくなった。日本人にとっての「東京」よりも、もっと憧れ度が高いような気がする。
 ブリジットがある面で正義感の強い、フェアであることを重視する人だということも、本作への好感度を上げている。移民男性に対する態度とか、スタンのある言動に対する態度とかに、彼女の価値観が表れていた。そこをわかっていない人は、どんなに素敵な人であっても、彼女の中では「ない」人になるのだろう。
 ブリジットにしろグザヴィエにしろ、ホテルで知り合う男性にしろ、「大人」として振舞うところに安心感がある。近しい間柄であっても、明かさずにいることがあるし、ある部分には立ち入らない。何でもつまびらかにすればいいというものではないだろう。
 なお、グザヴィエが思い立って息子に会いに行くエピソードがなかなかいい。大道芸の専門学校に行っている息子に対して期待を裏切られたという気持ちを隠せないグザヴィエだが、息子のステージを見て笑顔になる(実際、ステージは美しい)。息子も、普段は親なんて鬱陶しいという態度だが、グザヴィエが会いに来るとちょっと嬉しそうなんだよな。

『ラブバトル』

 父親の葬儀のために田舎の実家に帰ってきた女性(サラ・ウェレスティエ)は。かつて微妙な関係にあった男性(ジェームス・ティエレ)と再会する。家族との軋轢に苦しむ彼女は、彼に感情をぶつけ、肉弾戦にも似た奇妙な関係が始まる。監督はジャック・ドワイヨン。ポール・セザンヌの名画「愛の争い」に着想を得た作品だそうだ。
 冒頭とラストに、ドビュッシーのピアノ曲「子供の領分」のなかの「ゴリウォーグのケークウォーク」が流れるが、これが作品に軽快さを与えていた。本編中は、音楽はほぼ流れないので、いいアクセントになっている。セザンヌの絵のモチーフでもあるだろう、田舎の風景も魅力的。しかし本作は何よりもまず、人間の肉体が中心にある作品だ。
 主演の俳優2人のほぼ2人芝居と言っていいような内容だが、2人の俳優のスキルが大変高いことがすごくよくわかる。言葉と視線や表情のやりとりの微妙な表現はもちろんだが、取っ組み合うシーンで男女は「格闘」していくのだが、下手な俳優同士だったらどっちかが怪我してるんじゃないかなと思うような絡みの連続。しかも1カットがそこそこ長い。いわゆるアクション映画のようなエンターテイメントとして見せる用の格闘ではなく、本当の喧嘩のように見えないとならない、かつ、お互いを深刻に痛めつけないぎりぎりの線(男女は憎しみに駆られて攻撃しているわけではなく、「格闘しよう」という了解に基づいて組み合っているので)に見えなくてはならないという、かなり大変な演技だったと思う。2人の動きががっちりかみ合っており、格闘であるが、時にコンテンポラリーダンスのようにも見えた。演技に限らずいい動きにはリズムがあって、自然とダンスのように見えてくることがある。人間の身体って面白いなぁと、2人の関係とかストーリー的なものはとりあえず置いておいて、単純にそう思うのだ。
 ただ、身体性にスポットを当てた作品だとすると、女性が家族との関係をこじらせているという設定や、男性との間に昔ひと悶着(未遂)あったことなど、余計な要素に見てくる。特に、女性側の父親との仲に葛藤がありそのはけ口として男性とぶつかり合いを、という流れが何か無理矢理っぽいなぁと思った。また、2人とも意外とよくしゃべる、かつ双方割と一方通行だ。噛み合わない会話の代替物としての格闘なのかもしれないけど、それ言葉でやりとりした方がいいんじゃない?って思っちゃう。セックスにたどり着く前段階(たどり着かない可能性も同時にある)としての肉体のぶつかり合いって側面もあるんだろうけど、燃費が悪い・・・。私が、こういうコミュニケーションのあり方をいまひとつ信用できないということもあるのかもしれない。


『神々のたそがれ』

 地球よりも800年ほど文明の発達が遅れた某惑星へ、調査の為に30人の学者たちが来た。惑星では中世のヨーロッパのような社会がつくられており、文明はむしろ退化しつつあった。科学や知識は敵視され、哲学者や科学者、読書家らの摘発、処刑が行われていた。神のようにあがめられるようになった地球の男、ドン・ルマータ(レオニド・ヤルモルニク)は、それらの蛮行を傍観するばかりだったが。監督はアレクセイ・ゲルマン。本作の完成を見ずに急逝したところを、息子のアレクセイ・ゲルマン・Jrが後をついで完成させた。原作はストルガツキー兄弟の「神様はつらいよ」。
 カメラの動き、映像が誰かの視線のようだが、これは一体誰の視線なのか。長回しが多く、視線がうろちょろとあっちへ行ったりこっちへ行ったりする。クロースが多くロングが少ないので、映画を見ている側もその場にいて一緒に移動しているような感じだ。しかし終盤、急に世界を映す「神」の目のように感じられた。「目」がドン・ルマータらから離れていくようでもあった。ドン・ルマータは神様扱いされているけれど、彼を見るもう一つの神の目が降りてくるようにも見えた。
 ドン・マルータは「神様」として祭り上げられているが、周囲との話は全く通じない。彼は地球人としての知恵や知識を持っているが、それを披露することもないし、民に与えることもない。そもそも、知識を与えようとしても惑星の民たちは拒絶するだろう。この世界では、知ろうとすることは「悪」になりつつあるのだ。ドン・マルータは啓蒙しようという意欲、混乱している社会をなんとかしようという意欲もなくしているように見える。啓蒙なんて上から目線だと言えばそれまでだが、下へ下へひきずりおろしていく社会というのも気がめいる、という以上にもう末期的だろう。智の力でここまで来たであろう地球人たちにとっては、かなり苦痛な環境ではないだろうか。それとも、原初的な人間の営みとしてシンプルかつ動物的な気楽さがあるものなのだろうか。「神」はうんざりしつつもこの世界を見捨てはしないのだ。この民らと同じ地平には立てない、しかし彼らと並走せざるをえないというのも、なかなか難儀な話で、それこそ「神様はつらいよ」と言いたくなる。
 オールセットで撮影しているのだと思うが、よくまあこれだけのセットを作ったなぁと感心した。映画を見て感じるほどには大がかりなセットではないのかもしれないが、それでも世界を一つ用意したような作りこみ方だった。製作費大丈夫だったの?と他人事ながら心配になってしまう(大ヒットするとは思えない作品だし・・・)。今時こんなにフリーキーかつグロテスクで文字通り泥と糞にまみれた映画は、なかなかないだろう。

『ブライド・ウェポン』

 新婚旅行として、リゾート地であるカリブ海の島にやってきたエバ(ジーナ・カラーノ)とデレク(カム・ジガンデイ)。しかし、デレクが大怪我を負い、救急車で病院に搬送されたはずが、そのまま行方不明になってしまう。デレクが資産家の息子だった為、当初は金銭目的の誘拐かと思われたが、身代金の要求はない。エバは必死にデレクの行方を探すが、島のマフィアたちが関わっているらしいと気づく。監督はジョン・ストックウェル。
 スティーブン・ソダーバーグ監督『エージェント・マロリー』で主演デビューした、格闘家ジーナ・カラーノの主演作。本作では特異な育ち方をしたせいで滅法強い女性という役どころだ。『エージェント・マロリー』当時に比べると大分腰回りにボリュームが出て、一見あーこういう中年女性いそうだなって雰囲気が出てきたカラーノだが、いざ動き出すとやはり只者ではないオーラがぶわっと出てくる。『エージェント・マロリー』の方がアクションは軽やか・鮮やかだが、本作のアクションは、長年辛酸なめて生きてきた、たたき上げの武闘派といった雰囲気で、これはこれで悪くない。相手に攻撃する時にアクション映画でありがちなワンクッションがなくて、ノーリアクションでいきなり打撃に転じる。実用性が高いアクションとでも言えばいいのか・・・。武器を持っていると案外へっぴり腰なのに素手だとやたら強いというところも楽しかった。
 一応、夫の失踪の謎を追うというストーリーはあるのだが、謎の真相が、シンプルなものを無理にややこしくしているようなものなので、悪役に対してもおいおい!と突っ込みたくなる。気持ちはわかるが普通にお金で解決すればよかったんじゃないかな(あ、でもデレクはお金には困ってない設定だからあんまり強い説得材料にはならないのか・・・)!島全体が「俺ルール」すぎて、こんな観光地は嫌だ!って感じなんだが、ストーリーの精緻さが見所になっているわけでもないので、突っ込みつつ楽しめばいいと思う。
 ちょっと面白いなと思ったのは、エバとデレクはどうやら、アルコールか薬物の依存症の互助会で知り合ったらしいというところ。だからデレクの家族はエバとの結婚に大反対なのだ。元々脛に傷持つ者同士が惹かれあい支えあったということらしいので、このへんのエピソード出してくるのかなと思ったら全然出てくて拍子抜けではあるが、逆にそういう湿っぽいことはしないですよ!という潔さでもあったかなと。

『銀の森へ』

沢木耕太郎著
朝日新聞で長年連載されている映画エッセイ90篇をまとめたもの。『銀の街』からとセットになっているが、本作の収録作の方が1999年~2007年と、古いものになる。こちらに収録されたものの一部は、実は著者の他の著作に収録されている(著者のあとがきにその旨についてのお詫びの言葉があった)。私は既に読んでいるはずなのだが、再度読んでも損した気にならない、というか全て初めて読むかのように読んだ。大分記憶が薄れているな・・・。ともあれ、あっさりとしていて後口のいいエッセイばかりなので、ふらっと立ち寄って一杯お茶を飲む、みたいな感覚で楽しめた。珍しく否定的な評を寄せている『ロスト・イン・トランスレーション』に関して、その批評の是非というよりも、著者の倫理観、人となりが垣間見えてなるほどと興味深かった(私は、映画を見た時にはそんなに目くじら立てることじゃないかなと思った)。著者のノンフィクションに長らく従事してきた人としての見方なのかなとも思った。多分、そこで見方を止めちゃったら思考停止みたいなものでしょってことなんだろう。また、クリント・イーストウッド監督『ミスティック・リバー』に関して、イーストウッドの傑作でこれ以上のものは(年齢考えても)難しいのでは、なんて言及していたけど、イーストウッドは今に至るまでハイペースで監督作更新(しかも高クオリティで)しているわけで、恐ろしいと思った。確かに『ミスティック・リバー』の後でこんなにぼんぼん生産してくると思わないよな。

『銀の街から』

沢木耕太郎著
朝日新聞で長年続く映画エッセイを書籍にまとめたもの。本作には2007年4月~2014年9月までの90篇を収録。自分の好きな作家が自分の好きなジャンルについて書いているのはうれしいものだが、本作で取り上げられている映画は、ほぼほぼ私も見ているので、よけいに読んでいてうれしい。文字数が限られた連載なので、そんなに濃く切り込んでくるというわけではないが、著者の物の見方が端的に表れる部分にははっとする。読んでいて嫌な気分になるところがないって、やっぱり大事だよな。個人的に興味深かったのは『風立ちぬ』の評。そうか、映画を見る人(アニメを日常的には見ていない人)にとってはこう見えるんだな、と腑に落ちた。私は、宮崎駿監督の作品は「映画」ではなく「アニメーション」として見ていたんだなぁと。そして私にとって宮崎駿は映画監督というよりもアニメーターなんだなと腑に落ちた。

『64(ロクヨン)(上、下)』

横山秀夫著
昭和64年にD県警管轄内で起きた少女誘拐殺害事件。いまだに犯人逮捕に至らず、警察内では「64(ロクヨン)」の符牒で刻印を残していた。その64、更には本庁の意向を巡ってD県警刑事部と警務部は全面戦争に突入する。広報官の三上は刑事の仕事に未練を残しつつも、事態の収拾に奔走するが。文庫版で読んだ(単行本は分冊されていない。文庫化するにしても分冊するほどのことでは・・・)。著者の他シリーズの主人公である二渡(『陰の季節』など)も登場するが、いわゆる「現場」から見ると二渡ってこういう見られ方しているのかーという面白さもあった。同じ警察官でも立ち位置や見ている風景が全然違う。著者の一連の警察小説は、立場によって組織が別の顔を見せてくる、全ての作品を通して警察という組織の姿が立ち上がってくることを意図しているのかもしれない。ただ、本作で起こる刑事部と警務部の間の「事件」は、警察の外から見ると、まあどうでもいいことではある。警察官以外にとっては、警察は社会の安全を守り犯罪を捜査することが目的の組織で、その中の派閥争いや面子の張り合いによって捜査が妨げられるなら本末転倒だろう。本作の登場人物の何人かも、おそらく同様のことを思い、だからこそ「事件」が起きる。そういう事件が起こりうること自体が、警察という組織の特異な点とも思えるが、多かれ少なかれ組織にはそういう側面があるのだろうか。とにかく組織の嫌な部分が描かれた作品で、ぐいぐい読み進んではしまうが同時にげんなりともする(それだけ丹念によく書けているということなんだろう)。ミステリとしても、ある執念の行きつく先に、終盤でどっとなだれ込みやりきれない。そこまで引っ張るかー!と唸りはしたが。

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