3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2015年04月

『マジック・イン・ムーンライト』

 人気手品師のスタンリー(コリン・ファース)は、同業の友人ハワード(サイモン・バークニー)からある頼みごとをされる。知人の富豪親子がアメリカ人占い師に夢中で、息子は占い師との結婚まで望んでいるようで困っている、ついては占いがインチキだとトリックを見破ってほしいというのだ。自信満々で富豪の邸宅があるフランス・プロヴァンス地方へ赴いたスタンリーだが、その占い師ソフィ(エマ・ストーン)の霊能力は本物としか思えず、価値観を揺さぶられる。加えて、若く美しいソフィに惚れ込んでしまう。1920年代を舞台とした、ウディ・アレン監督の新作。ヨーロッパを舞台にした作品は観光作品シリーズとでも言いたくなる。
 他愛ない、楽しいお話ではあるのだが、スタンリーの言動にいちいちひっかかってしまって、素直に楽しめなかった。スタンリーが自分の才能に自信満々だったり、目に見えないものは全く信じなかったり、やたらと毒舌だったりするのは別にいい。問題はソフィへの接し方だ。スタンリーは自分が経験豊富で教養豊かという自負があるだけに、「小娘」であるソフィを気に入ると、哲学書やら小説やら音楽やら、何かと啓蒙してくるのだ。もちろんアレンはスタンリーの行動は滑稽なものとして、ギャグの一環として描いているわけだが、これってサブカルおやじあるあるでしょ、アレン先生自らの体験を踏まえてのことですか?と突っ込みたくなってしまう。若い女性を啓蒙したがるおっさんって大概ろくなもんじゃないぞ・・・。
 更に、スタンリーはソフィの霊能力を目の当たりにして目に見えない世界の存在を認めるようになるが、自分がソフィより上位にたって彼女を導くのだと信じて疑わない。その迷いのなさにイライラするのだ。ソフィはいわゆる教養人でないかもしれないが、無知ではない。スタンリーとは別種のかしこさや感性を持ち合わせた大人の女性だ。霊能の世界に対しては目を開いたのに若い女性の世界には開かないのかよ、とこれまた突っ込みたくなる。本作のラストにも、これでいいの?ともやもやした。ちょっと甘やかしすぎではないかしらと。だって女性にとっては常に上から目線されて絶対幸せになれなさそうだもんね・・・。


『歌の翼に』

トマス・M・ディッシュ著、友枝康子訳
宗教と経済が支配し、食料・燃料危機が慢性化している、ある時代のアメリカ。歌うことによって肉体から魂を解き放つ“飛翔”という現象があることは知られていたが、宗教的な理由で多くの州では禁じられていた。少年ダニエルは飛翔したいという熱烈な願望に取りつかれていたが、ある策略により刑務所に入れられてしまう。辛酸をなめた刑務所暮らしの後、学校で知り合った富豪の娘ボウアと結婚するが、ボウアは飛翔したまま、魂の抜けた状態になってしまう。ダニエルは植物状態のボウアを連れニューヨークへ遁走、飛翔への思いを捨てられず歌手を目指す。かなり保守的、閉鎖的な、おそらく近未来を舞台とした物語。飛翔が禁止されているのは、飛翔が個人の精神、欲望を解放することに他ならないからだろう。歌うことが精神の解放とつながっているというのはイメージしやすいと思う。ダニエルは飛翔したいと願い、歌のレッスンに励むが、歌の才能はないと言われてしまう。社会からの規制と、自分の才能による規制との双方向から、ダニエルの夢への道は閉ざされてしまう。それでも飛翔したいと願い続けるダニエルは、飛翔という少年時代の夢と、ボウアの体を維持するという生活の間で徐々に引き裂かれていくようでもある。物語が大きく動くのは彼がニューヨークへ行ってからなのだが、そこに至るまでの分量が結構な長さで、ペース配分がちょっと奇妙。彼が自分がどういう人間か、自覚するまでにかかる時間を描きたかったのだと思う。明言はされないコード(それこそ「空気読め」って感じで)によって抑制された社会の息苦しさ、居心地の悪さも印象に残る。この不寛容さ、なんだか現代の日本と似ているなと。

『やさしい女』

 若い女性(ドミニク・サンダ)が自殺する。夫は妻の遺体を前に、出会いから2年間の夫婦生活までを回想し家政婦に語る。質屋である夫は、学費や本代の為に質入れにきた女性を見初め、説得し結婚する。しかし徐々に夫婦の間に亀裂が入っていく。原作はドストエフスキーの短編小説。監督はロベール・ブレッソン。1969年の作品だが、今回日本でニュープリント上映された。
 ブレッソンの作品には映画力としか言いようのない強烈な力を感じる。映画における筋力がすごく発達しているみたいな印象で、無駄がなくストイック。ショットひとつひとつの強度がやたらと高い。手や足だけのショットがこうも雄弁(そこが嫌みでもあるが)だとは。設定や物語上の説明は最小限なのだが、ここまで削って大丈夫なんだと実感する。
 「あなたの望みは愛ではなく結婚だわ」という女性の言葉が本作、そして男女のすれ違いの原因を端的に表している。結婚という制度に納得していれば別に問題はないのだろうが、本作の女性は、そこにはまりきれないのだ。彼女は夫を愛していないわけではないだろうが、夫や世間から「妻」というカテゴリーのみで扱われることが辛い。ドライブ中に摘んだ花束を投げ捨てる姿が痛ましかった。自分と相手、というくくりではなく、夫婦、というくくりにされることに慣れない。
 彼女は読書や音楽鑑賞、博物館や美術館へ行くことを好むが、彼女が好きなもの、得意なことは(少なくともこの夫との)夫婦生活の中ではあまり評価されないのだろう。彼女の夫は一貫して金銭を重視する現世主義、現実主義だ。それはそれで間違ってはいないのだが、彼が求めるものと妻が求めるものはどこまでいっても平行線をたどり一致しない。夫は夫で妻を愛しているのだが、彼の愛は妻が求める形のものではない。お互いに思いはあるのに一貫して噛みあわないというところが、どうにもやりきれなかった。
 一見、年長の夫が若い妻を保護し「教育」しているように見えるが、実際のところ妻の方が教養があるし、夫にはうかがい知れない内的な世界を持っている。本作の悲劇は、夫と妻、双方がお互いの内的な世界を分かち合えないままだというところにある。夫は妻の何をもって「やさしい女」だと思ったのか。客観的には、そう「やさしい女」とは思えないのだが。


『世界が終るわけではなく』

ケイト・アトキンソン著、青木純子訳
飼い猫がだんだん巨大化してソファで一緒にTVを見ていたり、ドッペルゲンガーが悪さをしたり、幽霊となって家族のもとに留まったり、不老の秘密に触れたり。奇妙でおかしな短編集。連作というほどではないが、各篇の登場人物同士にちょっとづつ関係があるのも楽しい。あの人はあの後こうなってたのか!とか、こんな一面も持っていたのか!とにやりとさせられる。アトキンソンは『博物館の裏庭で』の著者だったのね。『博物館~』は長編だったけど、この作家は短編の方が抜群にキレがいいんじゃないかと思う。短編それぞれの中で色々な人生が描かれるが、どんなへんてこだったり救いのなさそうな局面になっても、「世界が終るわけではないし」と思わせるユーモラスさとどこか達観したところがある。オープニングとエンディングに置かれた「シャーリーンとトゥルーディーのお買い物」「プレジャーランド」は、戦争や疫病が蔓延しつつある世界で女子2人がぶらぶらするだけの話なのだが、最後はやはり「世界が終わるわけではないし」となる。たとえ自分たちがいなくなっても世界はそこにあり続ける。そのことにほっとする人もいるのではないだろうか。

『ワイルド・スピード SKY MISSON』

 ドミニク・トレット(ヴィン・ディーゼル)らが倒した犯罪組織のリーダー、オーウェン・ショウの兄デッカード・ショウ(ジェイソン・ステイサム)が、弟の敵を討つ為にドミニクらを狙う。元英国特殊部隊で最強の暗殺者であるデッカードに決死の戦いを挑むドミニクたちだが。監督はジェームズ・ワン。
 このシリーズの素晴らしいところは、毎回「そんなアホな!」という派手な見せ場をちゃんと作った上で、次の作品ではそれを越える「そんなアホな!」な展開を盛ってくるというところだろう。しかし本作を上回る「そんなアホな!」アクションシーンはなかなか難しいかもしれない。SKY MISSONてものの例えじゃないのかよ!「降下」シーンには、あっ本気でそれやるんだ!バッカだなー!と笑ってしまった。アクションが全編マンガ的発想だもんなー。車同士の「タイマン」ってそういうことじゃないだろ!と突っ込みたくなったり、そもそも自動車に対する愛があるんだかないんだかわらかない(滅茶滅茶車壊すし・・・)し、ストーリーの組み立ても雑なんだけど、そういう難点はどうでもよくなってしまう。本作上映前、アニメ版『頭文字D』の予告編を見たんだけど、本作と比べるとすごく地に足の着いた作品に見えたもんね・・・。一事が万事そういう感じで楽しい。どのくらい無茶苦茶やってくれるか、皆楽しみにしているんだろうな。
 ただ、楽しかったけれども、クライマックスで眠くなってしまった。前作でも同じ症状が起きたのだが、アクションに次ぐアクションで飽和状態になり、逆にメリハリがなくて飽きてしまうみたいだ。画面内が目まぐるしくて、何が起きているのかわからなくなっちゃうというのも一因か。前半の、ほどほどに隙間があるアクションの方がちゃんと目で追うことが出来て満足感がある。詰め込めばいいってものでもないだろう。
 本作のラストは、コナー役のポール・ウォーカーが亡くなったことを受けて改変されたんだと思うが、映画単品として見ると、幾分蛇足感がある。また、シリーズ作品を知らずに本作だけ見た人にとっては、何でこんなに思い入れたっぷりなの?というものかもしれない。でも、そういう声がありえることを承知で、このパートを入れたのだろう。ファンや本作の出演者やスタッフにとっては、必要なのだ。それだけ愛されたシリーズであり、ウォーカーが愛された俳優だったということなんだろう。私はこのシリーズにそんなに思い入れがあるわけではないけど、それでもラストショットにはぐっときてしまった。

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

 かつてヒーロー映画『バードマン』シリーズで世界的なスターになった俳優リーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、今では落ち目。再起を賭けてブロードウェイの舞台に挑むが、出演俳優が怪我で降板。代役として舞台での評価が高いマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)が起用されるが、トラブルメーカーのマイクに周囲は振り回される。監督はアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ。
 1カットで撮ったかのように見える撮影が話題となり、アカデミー賞でも撮影賞を受賞した本作。確かに全編途切れない長回し、1カットで撮っているように見えて唸った。単に技術として感心するというだけではなく、カットが途切れないことで、否応なく時間が過ぎていく感が強まって緊張感が増し、焦るリーガンの心境と呼応していくようでもあった。1カットの中で場所も色々移動するし、数日間が経過する(いきなり翌日になってたりする)。時間と空間が凝縮されているという点では、舞台劇から受ける印象と似ているかもしれない。
 リーガンは舞台が主戦場のマイクや辛辣な演劇批評家に、ハリウッドの「スター」(俳優ではなく)であることをさんざん揶揄される。本作はいわゆるハリウッドの大作映画に対しても、「舞台」に対しても色々含むところあるんだろうなぁという言及を多々含んでいる。アメコミ原作のヒーロー大作なんて映画じゃない!(が「映画らしい映画」であろう自作はヒットしない・・・)、舞台舞台って映画をバカにしやがって!みたいな呪詛が聞こえてきそうだ。リーガンが降板した俳優の代役を探すくだりで、俳優の名前を次々と出して、どいつもこいつもヒーロー映画に出てやがる!とカッカするのには笑ってしまった。確かに近年、人気俳優、しかも演技力に定評のある俳優がヒーローものに出演するケースが増えた印象はある。そういえばノートンも出演している(『インクレディブル・ハルク』)んだよなぁ。元ヒーローという点では実は主演のキートン(元バットマン)と同じなのだ。ノートンはヒーローものピンポイントで評価が低かったわけだけど・・・。
 マイクは役になりきるリアルな演技(いわゆるメソッド演技法)を実践しておりリーガンにもそれを要求する。しかしリアルさを追求した演技と、本当の「リアル」が同じ土俵に立ったらどうなるのか、本物の「リアル」には太刀打ちできないのでは、という皮肉が本作のサブタイトル(このフレーズを使った作中人物は逆の方向での皮肉を込めてるんだけど)に漂う。
 そもそも「リアル」とは何なのか。リーガンはもう一人の自分とも言えるバードマンに絡まれたり超能力を使って楽屋をめちゃめちゃにしたりする。やがて爆撃機や隕石が落下し、巨大な化け物が姿を現す。精神的に追い詰められたリーガンが見ている妄想とも取れるが、リーガンにとっては現実、リアルだ。そのリアルは、マイクが言う所のリアリズムとは全く別のベクトルを向いている。が、(少なくともリーガンにとって)リアルには違いない。記号的なヒーローだろうが荒唐無稽あるいは陳腐なスペクタクルだろうが、見ている側が真実味を感じればリアル、それがフィクションというものだろう。

『狼少女たちの聖ルーシー寮』

カレン・ラッセル著、松田青子訳
狼少女たちを人間らしく強制する寮生活を描く表題作の他、幽霊に憑依されやすい姉とワニと暮らす少女、睡眠矯正キャンプに来た子供たち、ミノタウロスの父親と西部を目指す少年、幽霊の見えるゴーグルで死んだ妹を探す兄弟など、奇妙でおかしい、しかしどこか怖い味わいの短編集。殆どの作品は子供たちが主人公だ。彼らは幽霊が見えたり、親が人外だったりと一風変わった設定の持ち主だが、彼ら自身は無力な子供で特に何かができるわけでもない。彼らの感じる不安や恐怖は、まさに子供としての、所属する世界も自身の力も限定されているからこそのものだ。どこにいても自分の居場所だと感じられない様や、家族との間に生じる違和感が描かれた作品が目立つ。本作に登場する子供たちの殆どが、家族を既に失っている、または失いつつあるのだ。彼らはその状況の中でもがくばかりで、どこにも出口がないように見える。大人になればまた違った景色が見えるのかもしれないが、子供の時は「今」しか感じられないんだよなとほろ苦い気分になった。特に、「貝殻の街」で少女が感じる(物理的・精神的な)出口のなさはやりきれない。絶望的な状況を描いていてもなんとなくおかしく笑ってしまうような作風だが

『パレードへようこそ』

 1984年、サッチャー政権下のイギリスでは、炭鉱労働者によるストライキが勃発していた。自らの権利の為に戦う相手は同じだとLGSM(ストライキ中の炭鉱労働者をサポートするゲイとレズビアンのグループ)を結成したマーク(ベン・シュネッツァー)らは募金活動を始めるが、ゲイであることを理由に炭鉱組合から無視されてしまう。唯一、勘違いからとは言え受け入れてくれたウェールズの炭鉱町に向かい、労働者たちとの協力を模索していく。監督はマシュー・ウォーカス。
 ぱっとしない、無難な邦題だなと思っていたが、ラストでなるほどそこをフォーカスしたのか!と納得した。原題はストレートに『PRIDE』で、これはこれで作品のテーマを端的に表しているのだが、邦題も悪くない。「ようこそ」という言葉が色々な立ち位置の人たちに開かれている感じがするのだ。
 LGSMのメンバーも、炭鉱組合も一枚岩ではない。炭鉱町は何しろ保守的な田舎、しかも炭鉱という場所柄、かなりマッチョな気質の人が多く、ゲイに対する偏見が強い。彼らをまず受け入れるのは、リーダーであるジョー(ジョージ・マッケイ)と、何より女性たちだ。面子に拘らず実際的であることと、女性もまた炭鉱町では不自由(というよりも決まった役割が要求されておりそれ以外の道がない)な存在になりがちだということが、社会の中でのフェアさを要求するゲイたちと響きあうものがあったのだろう。女子会よろしく、ロンドンに泊りに行って大はしゃぎする姿がパワフルかつかわいい。
 ただ炭鉱町の女性といってもこれもまた一枚岩ではなく、ゲイの存在を許せない人もいるというふうに、同じグループの中の違いに言及していく。一方でLGSMのメンバーも、男性も女性もいるのだが、女性側が女性部を作りたいといっても取り合わなかったり、女性ならではの不安や危機感みたいなものには男性はぴんとこないという描写がある。同じ集団に所属していると言っても、その全員が一様であるわけではなく、当然軋轢もある。個々の違いがなくなるわけではないが、時に摺合せ時に許容し、仲間になっていく。
 元気のいい作品なのだがどこか哀愁が漂う。史実が元になっているので、映画を見る側は労働組合が負けていくことも、HIVに脅かされるようになることも知っているからだろう。しかし、それでもやはり本作はポジティブな気分を残す。それは、登場する人たち個々の人生が描かれていて、そこに人間関係があるという手応えが感じられるからだと思う。ストライキの結末がどうあれ、そこには友情が芽生えたり、人生が変わったりというドラマがあるのだ。何より、本気で政治を動かそう、世界を変えようとした(そして実際変えた)人たちの姿が清々しい。

『死のドレスを花婿に』

ピエール・ルメートル著、吉田恒雄訳
子守りの仕事先でソフィーが目覚めると、男の子の死体が転がっていた。凶器は彼女のスニーカーの靴ひも。自分はとうとう人を殺してしまったのか。逃げ出し、身をひそめていたソフィーは、新しい身分を手に入れる為にある計画に踏み切る。『その女アレックス』が大ヒットした著者の、2009年のノンシリーズ作品。ソフィーは果たして殺人犯なのか、くるっているのか。途中でがらりと様相を変える展開は『~アレックス』に通じるものがある。そして「逆襲する女」が登場するところも。前半、これって不自然だけどどういうこと?と気になって読み進めていくうちに、一気に引き込まれる。あとはまさに一気読み。悪意には悪意で、卑怯には卑怯でという苛烈な反撃には、こういう方法でしか対抗できないような悪意もあるという、本作の世界観みたいなものを感じた。そこで好みが分かれるかもしれないが、ある種の悪漢小説と言えるかもしれない。ある人がある体験を経て悪漢へと変貌するのは爽快なのか痛ましいのか。

『ソロモンの偽証 前篇:事件/後篇:裁判』

 1990年12月24日、城東第三中学校の生徒・藤野涼子(藤野涼子)は、同級生・柏木卓也の遺体を校舎の裏手で発見する。警察は事故死と断定するが、様々な噂が飛び交い、柏木をいじめていた不良生徒・大出俊次(清水尋也)を殺人犯と名指しした怪文書が学校に届く。藤野は自分たちで真相を掴もうと、柏木と小学校で同級生だった神原和彦(板垣瑞生)の協力を得て、学校内裁判を開廷することを決意する。原作は宮部みゆきの同名小説。監督は成島出。
 大人となった藤野が母校を訪れ過去を語るという構成。過去の話であるというところが強調され、あの時代を感じさせる衣装、小道具等にも目配りが細かい。しかし、作品自体には不思議と時代性を感じない。時代を飛び越えた寓話的なものとして感じられた。
 寓話的と感じたのは、本作が非常に記号的、ベタな表現を(もちろんあえてだろう)多々使っているということも一因だと思う。特に前篇の序盤、親子のやりとりとか家庭の様子とか、丁寧な紋切型とでも言いたくなる、細やかだけどど直球のベタだ。藤野の、生真面目だがバランス感覚があり賢い中学生という造形も、ある種の理想像としての典型だと思う。
 更に、後篇の学校内裁判が始まると、法廷シーンは実際の裁判の場というよりも(そもそも学校内裁判なので判決によって処罰を与えたりするものではないと前置きしてあるし)、事件の関係者それぞれが自分の体験・心情を吐露する「場」としてどんどん抽象化されてくるように見えた。判決を下すことよりも、それぞれが隠してきたことを告白することに主眼が置かれているのだ。それが許される場をつくることが、学校内裁判の役割だったのだろう。なので、ミステリとしての謎に関しては、本作での言及はあっさりとしているし、複雑な事情があったというわけでもない。複雑なのは、生徒や教師、父兄の心と、それが引き起こす相互作用なのだ。
 本作の面白い、特異だな思った所は、14歳の少年少女が当事者だったからこそ起こった事件であり、裁判であるという所だ。藤野は柏木のある言葉に傷つくが、もし大人だったらそう傷つかないだろうし、その言葉が柏木にブーメランとして返ってくるものだと指摘するかもしれない。そもそも大人は柏木みたいなことは言わないだろう。それが良いことなのかどうかはわからないが、14歳に戻りたいかと問われたらまず戻りたくないなと痛感させられる作品だった。

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