3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2015年03月

『氷』

アンナ・カヴァン著、山田和子訳
異常な寒波に襲われ、氷河が町を侵食していく世界。「私」はかつて別れた少女の家へと車を走らせる。姿を消した少女を助けようと、「私」は某国に潜入し、独裁者である長官に接触するが、氷はじわじわと接近し、世界の終わりが近づいてくる。寒い・怖い・寒いの波状攻撃!カフカの小説のような不条理さ、かつ時間や場所がふらふらと飛躍していく、悪夢の中のような展開。「私」は長官と少女をめぐって敵対関係になったり、あるいは絆を感じたりする。「私」は少女を守ろうとするが、長官は少女を幽閉し、虐待する。しかしこの2人は時に同一人物のように見えてくるし、そうであることがほのめかされる。少女にとっては、保護の意図であれ支配の意図であれ、力の影響下に置かれるということに変わりはない。「私」にとって、全編通して登場する人物のうち、少女だけが他者であるように見える。他のものは全て「私」の裏側、「私」の投影のようなのだ。少女の他者性は、氷の圧倒的な他者性、わけのわからなさに通じるものがあるように思った。少女も氷も、恐ろしくも魅惑的なものなのかもしれない。

『ザ・ドロップ』

デニス・ルヘイン著、加賀山卓朗訳
バーテンダーのボブは、ごみ容器に捨てられていた子犬を拾う。近くのアパートに住むナディアの助けを得て子犬を飼い始めたボブは、新しい人生を踏み出したように感じる。しかし勤め先のバーに強盗が入り、裏社会絡みの厄介事に巻き込まれていく。映画化された作品だそうだが、日本公開はされないのかなー。後半で景色ががらりと変わって見える。ボブが生まれ変わろうとするし、それは成功したようにも見えるが、最後まで読むと、実は本来の自分を受け入れ、生まれ変わるのを諦めたのではないか、長い「猶予」が終わっただけというようにも思える。一見清々しいが、その背後には深い諦念があるのではないか。ボブの孤独や何者でもなさ、何も持たなさが実に身にしみる。

『パリよ、永遠に』

 1944年8月25日、ナチス・ドイツ軍占領下のパリ。ドイツ軍のコルティッツ将軍(ニエル・アレストリュプ)は、ヒトラーの命令を受け、パリの歴史的建造物の爆破計画を進めていた。そこへ、スウェーデン総領事・ノルドリンク(アンドレ・デュソリエ)が現れる。ノルドリンクはなんとか計画を阻止しようとコルティッツを説得するが、コルティッツは妻子を人質にとられており、ヒトラーの命令に従わざるをえなかったのだ。実話に基づいたシリル・ゲリーの戯曲が原作。監督はフォルカー・シュレンドルフ。
 元々舞台劇だからか、登場人物の動線管理が徹底しており、ミニマムな要素で成立する内容だ。本作は映画だから、ホテルの室内や調度品等もそこにあるものとして作りこんであるけど、舞台だったらものがないならないで面白いんだろうなと思わせる。大事なのは主演2人の力量で、そういう意味ではほぼ2人芝居、2人の俳優の演技合戦の趣もある。演技といいルックスの見せ方といい、アレストリュプもデュソリエも説得力たっぷりだった。
 外交、交渉とはどういうことなのか、ということの一面を示す作品でもあった。ノルドリンクのコルティッツに対する説得は、最初はちょっと情緒に訴えすぎで弱いんじゃないかなと思ったが、徐々に老獪さを発揮していく。コンゲームではなく、もっと泥臭く地道なやり方だ。コルティッツ側の事情が明らかになってきてからの方が、ノルドリンクの交渉人としてのキャリアが感じられた。彼の説得の仕方は基本的に誠心誠意を込めたもので、だからこそコルティッツも心を動かされていく。が、それはやはり、交渉における誠心誠意なんだろう。登場の仕方からして、こいつ奥の手持ってるなー!という感じはするのだが、最後の方でも同じ気分になった。だからといって彼が卑怯だとということではなく、他の陣営と交渉するというのはそういうことだ、ということだろう。ノルドリンクの家族の話で緊張感が走るが、彼はそれはそれとして、という態度を維持する。その上で誠意をもって話すんだろうなと思わせるものだ。
 元々舞台演劇だったということもあるのだろうが、ほぼホテル内での密室劇で、登場人物の動き、カメラの移動はあまりない。ホテル外のシーン(爆破計画の基点とか)もあるのだが、ある地点からある地点への移動が(そいういうシーンはあるのだが)あまり感じられない。だからこそ、エンドロールでのパリの景色により解放感を感じたのかもしれない。

『プリデスティネーション』

 時空警官の男(イーサン・ホーク)は、連続爆破事件の犯人を追っていた。1970年ニューヨークのとあるバーに、バーテンダーとして潜入した彼は、ジョンという男の身の上話を聞く。彼はある人物によって運命を狂わされたと言うのだ。監督はピーター&マイケル・スピエリッグ兄弟。原作はロバート・A・ハインライン『輪廻の蛇』。原作ずっとディックだと勘違いしてた・・・。どちらかというとディックっぽい話だからか。
 これはいい予告編フェイク!予告編から予想されるものとは全然違う方向から衝撃が来た。タイムパラドックスSFとして大変面白かった。そしてSFとしてのネタ以上に、その設定が引き出すエモーショナルな部分にやられた。話の途中で、SF慣れしている人にはこういうことねってわかるのではないかと思うが、エピソードの見せ方の順番、伏線の張り方など構成上のものよりも、このエモーショナルな部分がものを言う作品だと思う。
 本作に登場するある人物は、子供の頃から自分のあり方に違和感を持っている。この違和感の描写、この人がどういう人かという部分をきちんと見せているので、自分の理解者を得たと思った時の喜びと、裏切られた時の辛さがひしひしと染みてくるのだ。話し方の練習をするシーンは、これどういう気持ちでやっているんだろうと、やりきれない気分になる。自分の人生を奪われ、それでも生き続けなくてはならない。更に辛いのは、どこまで行っても一人ぼっちだということだ。最後、老人が言う言葉はあまりに皮肉だが、真実なのだ。
 イーサン・ホークは時々、こういうB級っぽいがキレのいい映画に出るところが面白いし、手堅い演技。また、共演のサラ・スヌークが素晴らしかった。よくこの人を見つけてきたな!と唸ってしまう。ほぼこの2人で展開されると言ってもいい構成なのだが、俳優の力に対する信頼が窺えた。
 1970年代からスタートする話なので、登場する街並みもファッションもレトロだし、タイムマシン装置もそれはハイテクなの?ローテクなの?と問いたくなるデザイン。訓練場と女性たちの制服は、かつて夢見た未来、といった雰囲気で趣味色が濃厚だった。そんなに美術面にお金をかけているという印象ではなかったが、コンセプトがしっかりしているのでチープに見えなかったのかな。

『幕が上がる』

 富士山を望む地方の小さな町にある、冨士ケ丘高校。演劇部の高橋さおり(百田夏菜子)は次期部長に任命され、3年生になった。高校演劇コンクールの地区大会突破を目標にしていたが、かつて「大学演劇の女王」と呼ばれていた新任美術教師、吉岡(黒木華)の指導の下、全国を目指すことに。原作は平田オリザの同名小説。監督は本広克行。主演がアイドルグループのももいろクローバーZが務める(主な部員の高橋さおり(百田夏菜子)、橋爪裕子(玉井詩織)、西条美紀(髙木れに)、中西悦子(有安杏果)、加藤明美(佐々木彩夏))。
 原作が面白かったので、アイドル映画なのかな、だったら自分門外漢だなと思いつつ見に行ってみたのだが、予想外にさわやかで清々しい青春映画だった。題名の出てくるタイミングがまさに!って感じだ。舞台の幕というだけでなく、彼女たちの人生で次のステージの幕が上がるぞ!という眩しさに満ちている。ただそれだけに、すぐに楽曲を被せてしまうのはもったいなかったが・・・。
 原作の基本的なラインは押さえているが、2時間という尺と、ももクロを起用するというところに合わせたアレンジはしてある。ストーリーラインだけでなく、演じる人に寄せて個々の登場人物の設定をしているのだと思う。原作と最もキャラクターが違うのは中西(原作では天才肌の演劇部員、映画では周囲についていけずに退部、転校した元部員)なのだが、これは変えて正解だったなと思う。ストーリー上も、皆で一緒に頑張る!というスポ根的な側面が強くなっているので、「そこそこ」レベルの人材にとどめておいた方がいいという判断だったのかな。また、男子部員はいない設定になっていたが(原作ではいる)、これは勿体なかったと思う。男女混合の方がやりとりにバリエーションが出て面白いと思うので。今のアイドル映画は、恋愛要素入れると受けがよくないのかな?
 おそらく順撮りしていると思うのだが、ももクロのメンバーの演技がどんどん良くなっていく。最初は、大分練習はしたんだろうがどうも心もとない、見ていてもぞもぞしちゃうものだったのだが、終盤は登場人物と演技がちゃんと噛み合っていている。表情も体も使った演技になっていて、その変化の仕方が面白かった。よく頑張っているなぁという印象。
 ただ、だからこそ残念な部分も多い。高橋の心情を説明するのにモノローグを多用しているのだが、これはさすがに被せすぎだろう・・・と興ざめしてしまった。特に前半は、ここまで説明しないとだめなの?ってほど。百田の演技が悪くないだけに、ここまで言葉で説明しちゃったら却って俳優に失礼だろう。製作側が、なんだかわからないけどすごく心配性になってるんじゃないかなという印象を受けた。映画を見る側のことも信用してほしい。また、芸能人のカメオ出演や小ネタの数々がうるさいのも残念。小細工しなくてもいい映画だと思うんだけど。

『歌うダイアモンド』

ヘレン・マクロイ著、好野理恵他訳
輝く謎の飛行物体を見た人が次々と死亡する事件が起きた。精神科医ウィリング博士が謎に挑む表題作を始め、幻想小説やSFまで収録した作品集。本格ミステリの実力派として、近年日本でも再販や新訳が進んだ著者が自ら選んだ傑作選に、中編「人生はいつも残酷」を加えたものだそうだ。収録作のうち「東洋趣味(シノワズリ)」は読んだことあったのだが、これはやっぱり名作だよなぁ。ミステリとしての構成もだけど、人の業とある時代のはかなさが重なり合っている感じが読ませる。「ところかわれば」「Q通り十番地」のようなSFも書いていたとは意外だったが、どちらもシニカル。特に「ところかわれば」は、現代の視点で読むとまあそうだろうなって話なんだけど、著者としては色々思うところあったんだろうなぁ。しかしミステリファンとしてはやはり本格ミステリ度の高いものが嬉しい。長編のプロトタイプである「鏡もて見るごとく」は、トリック自体は今となっては古臭くベタなのだが、そのトリックに気づくきっかけの設定の仕方が、これだよ!って感じで嬉しくなる。一番のお勧めは中編の「人生はいつも残酷」。

『完璧な夏の日(上、下)』

ラヴィ・ティドハー著、茂木健訳
 第二次世界大戦が勃発する少し前、世界各地に突然、異能者たちが現れた。彼らは各国の軍や諜報機関に密かに徴用され、激しい戦いを繰り広げた。時は流れて2000年代のイギリス。かつてイギリスの諜報機関で働いた異能者フォッグは、元相棒のオブリヴィオンと元上司オールドマンと再会する。オールドマンは過去のある事件を調査しており、フォッグの調書を要求していた。異能力者が活躍するSF戦争ものであると同時に、実際の歴史(第二次世界大戦以降)を下敷きにした偽史小説。ル・カレの小説の登場人物が『ウォッチメン』とか『キャプテン・アメリカ』(私が知っているのは共に映画版ですが)的世界にいる雰囲気とでも言えばいいか。特にフィクションへの史実の組み入れ方が上手く、アイヒマン裁判のあたりなどなるほどこうきたか!と唸った。異能者と言っても圧倒的に強いというわけでもなく、国や歴史のしがらみからは逃れられず、長寿であると同時に精神はどんどん摩耗していく。フォッグの行動は軽率で馬鹿みたいに見えるかもしれない。しかし、美しいもの、何か純粋なものを掴まずにはいられないような状態があるのだ。それはフォッグだけでなくオブリヴィアンにとっても同様だろう。それがわかっているからこそ、フォッグの裏切りとも見られかねない行為を許容する。道を別った2人のやりとりが痛切だ。ある美しい一瞬を繰り返し振り返る、哀感が残る(過ぎ去った)青春物語でもあった。

『復興の書店』

稲泉連著
2011年3月11日の東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島の書店は391店。3県の書店数のほぼ9割だった。そんな中、仙台の一部の書店はいち早く、3月22日に営業を再開する。流通は止まり、新商品は入ってこないし損害を受けた商品も多々ある。しかし営業を再開すると、予想外の集客だったと言う。そしてそれは、仙台に限ったことではなかった。震災後、各地の書店がなぜ営業再開を決意し、どのように軌道に乗せていったのか、大宅賞である著者が取材した。震災時の本にまつわる話題というと、「あの少年ジャンプ」をまず思い出すのだが、本作に書かれているのも同じようなことだと思う。災害時、まずは体の安全と健康、そして衣食住の確保が大事というのは当然だし、まずそこに意識がいく。ただ、人はパンのみにて生くる者にあらずというか、プラスアルファのものがどうしても欲しくなるし、必要なのだろう。売れたのは実用書や地図等だけではなく、パズルやゲームの本、娯楽小説等幅広かったそうだ。そこに本屋があることがありがたいというか、日常へと引き戻す役割もあったのだろう(この気持ちはすごくよくわかる)。人間がかなり切迫した状況でもそういうものを欲するということ、普段は意識しないが、本を必要とする人、また本を届けようとする人がいることにぐっとくる。ただ、地方で「町の本屋」を経営することの難しさにも随所で触れられている。実際、後日談的に登場する書店のその後に言及されているが、この先どうなるんだろうという不安は濃くなっているように思った。書店好きとしては各町に小さな書店があってほしいけど・・・。

『月の部屋で会いましょう』

レイ・ヴクサヴィッチ著、岸本佐知子・市田泉訳
皮膚が宇宙服化していく病が蔓延する世界、自転車を「狩る」子供たち、手編みのセーターの中で迷子、寄生生物に乗っ取られた母親等、奇妙な設定が次々と現れる、ユーモラスでどこか悲哀漂う短編集。33編を収録しており、どれもごくごく短く読みやすい。が、描かれている世界は奇妙奇天烈だ。2001年度のフィリップ・K・ディック賞候補になったそうだが、SFというには不条理ギャグ的すぎる気もする。ただ、へんてこな話ばかりだが、どれもどこかしら哀愁が漂っている。表出の仕方は変なのだが、愛する人、親しい人、あるいは自分が属する世界そのものとコミュニケーションが取れなくなってしまう、他者との間に厚い壁が落っこちてくるようなシチュエーションが多発しているのだ。笑えるけど笑えない。人と人との関係への諦念が滲む。そんな中に、表題作のような話があると(つかの間の夢だとしても)妙にホロリとする。全体のバランスのいい短篇集だと思う。

『きっと、星のせいじゃない』

 幼い頃からガンを患い、酸素ボンベが手放せないヘイゼル(サイリーン・ウッドリー)は、嫌々ながら若いガン患者の為の互助会に出席する。そこで、骨肉腫の為片足を切断し病を克服したガス(オーガスタ・ウォーターズ)と出会う。ガスはヘイゼルに恋をし、ヘイゼルも彼に惹かれていくが、自分の病気のことで彼を傷つけることを恐れる。原作は全米ベストセラー、ジョン・グリーン『さよならを待つふたりのために』。監督はジョシュ・ブーン。脚本を『(500)日のサマー』のスコット・ノイスター&マイケル・H・ウェバーが担当したことでも話題になった。
 難病カップルの感動ラブストーリーという、手垢のつきまくった題材をいかにフレッシュに月並みでなく見せるか、というところで色々とよく考えて作ってあるなという印象。オランダへの旅行エピソードなどは少々都合が良すぎる展開にも思ったが、瑞々しく、10代が見るにもぴったりな良作だと思う。病身の肉体的な苦しさの表現、精神的な苦しさの表現がきちんとされているのも、ちゃんとリサーチして作っているなという感じ。ちゃんと「今」の物語にしようと配慮されていると思う(私がもう10代ではないからそう思うのかもしれないけど。リアル10代が見たらどんな感想を持つのか知りたくなった)。難病ネタで泣きを強要するのではなく、そういう要素はあるが、まずは若者のラブストーリーであり、青春物語(ゆえに苦さも含む)として立っているところがいい。
 ヘイゼルにしろガスにしろ、多少ティーンエイジャー的な気の張り方やひねくれた部分はあるが、基本的に「いい子」だ。特にヘイゼルの両親への気の遣いかたは、痛ましくもある。出たくない互助会に出るのも母親を安心させる為だし、自分が死んだら母親が抜け殻のようになってしまうのではと心配するのだ。賢く、優しく、思いやりのある子供は、どんな環境であれ結構しんどいのかもしれないなと思った。
 ヘイゼルもガスも、病気という理不尽さから逃れることは出来ない。しかしそれ込みで彼らの青春であり、それは輝いているのだという部分を、しっかり描こうとした作品だと思う。

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