3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2015年03月

『槐(エンジュ)』

月村了衛著
水楢中学校野外活動部は、恒例のキャンプ合宿に出かけた。しかし合宿1日目、キャンプ場は武装した半グレ集団・関帝連合に占拠されキャンプ場の客は皆殺しにされた。彼らの狙いは40億円。振り込め詐欺で集めた金を裏切り者が持ち逃げし、キャンプ場のどこかに隠したというのだ。関帝連合に捕えられた野外活動部員たちだが、何者かが関帝連合に反逆を始める。冒頭、これは何か怖いことが起きるぞ・・・という前フリたっぷりの後、ノンストップで一気に駆け抜けるエンターテイメントど直球の小説。著者の小説よりはむしろ、アニメ脚本のお仕事の雰囲気でベテラン仕事の安定感を感じた。中学生たち個々のキャラクターにしろ教師にしろ「何者か」にしろ、ある種の定番ではあるが、その枠の中でキャラがくっきりと立ち上がってくる。特にある人とある人に関しては、「待ってましたー!」と喝采したくなるような見得の切り方だ。中学生たちが知恵と勇気を振り絞り、必死でサバイブしようとする様にもぐっときた。その年齢として等身大、かつ最大限の知恵と勇気なところがいい。ところで、立派に見えた先生って最初から立派に先生というわけじゃなくて、先生をやろうとしながら先生になってくれてたんだなぁと、当たり前と言えば当たり前のことにしみじみした。

『1984年』

ジョージ・オーウェル著、新庄哲夫訳
核戦争後、3つの大国によって統治されるようになった1984年の世界。真理省の役人・ウィンストンは、過去の記録の改竄作業を行っていた。彼が暮らす国オセアニアでは文字通り歴史記録が日々書き換えられ、皆、本当は過去がどんなふうだったか、忘れつつあった。ウィンストンは自分の考えを綴るという禁止された行為に手を染めるようになり、体制への疑いを深めていく。彼は監視をすりぬけ若い女性ジューリアと愛し合うようになる。今は新訳(高橋和久訳、2009年)も出ている本作だが、手元にあった旧訳版(1972年)で読んだ。さすがに文章が古くて読み進めにくいところはあるし、全体主義を感じさせる世界設定の古さは否めないが、書かれていることはむしろ今、というよりもどの時代にも普遍的なものだ。言葉を、記憶を、思考を制限することが支配することである、という部分には嫌な手ごたえがある。そして、制限されることがされる側にとって楽になってしまう。大きな声に従って何も考えない方が簡単で、人間は簡単な方に流されがちだし、それほど強くはない。それでも複雑さ、多様さに耐えること、考えることをやめないことが「自由」である為には必要なのだと思う。

『恐怖分子』

 1980年代の台北。賭場の手入れから逃げた少女シューアン(ワン・アン)は、手当たり次第にいたずら電話を掛ける。そのうちの1本を取ってしまった小説家イーフィンは、シューアンの言葉に動揺する。イーフィンの夫である医者や、その友人の刑事、逃げるシューアンを撮影した少年やそのガールフレンドにまで波紋は広がる。監督はエドワード・ヤン。1986年(日本公開は1996年)の作品だが、この度デジタルリマスター版が上映された。
 ショットのひとつひとつに、うわー80年代ぽい!と懐かしさになりきらないもぞもぞするような、落ち着かなさを感じた。かっこよさを狙いすぎている感じがしちゃうのかもなぁ。むしろ80年代を通過していない人の方が素直にかっこよさを享受できるような気がする。
 シューアンはオリーブを読んでいそうな雰囲気の少女だし、カメラ少年のガールフレンドはシンプル派のシューアンとは対照的に聖子ちゃんカットとガーリーなスカート姿。部屋のファンシーグッズのダサ感がまた懐かしい。ファッションやインテリア等風俗(町の映画館のポスターの中に、多分深作監督の『里見八犬伝』があって、おおう・・・ってなった)面だけでなく、映画のショットそのものとか、間合いの取り方とかが、こういう雰囲気の作品が頻発した時代があったよなぁと感じさせる。なぜ感じるのかはよくわからない(映画製作の技術面に詳しい人ならわかるのかも)が、無人の部屋でカーテンが揺れるシーンは黒沢清っぽいし、対人シーンのショットや人の移動の見せ方はなんとなく相米慎二作品ぽいなという印象を受けた。これは私だけの思い込みかもしれないが。
 シューアンには大した悪意があったわけではないし、何かを起こしてやろうという意図も希薄なのだが、彼女のいたずら電話が他人の運命を狂わせていく。シューアン自体はそのことを全く知らない。また、イーフィンもシューアンやカメラ少年やそのガールフレンドのことは知らないし、本来ならお互い接点は生まれないような人たちだ。シューアンのいたずらにより彼らに影響が出るが、それでも接点らしい接点は生まれないまま。この「関係なさ」が冷ややかで、妙にぞっとさせられる。
 では直接の知り合いどころか、ごく親密な関係であろうシューアンとその夫の間はどうなのかというと、お互いに思いやりはあるはずなのにかみ合わず、シューアンは別居を望む。2人の話し合いは、意思の疎通がなされているとは言いにくい。シューアンの言わんとするところは夫によく伝わらず、夫の気持ちもシューアンには伝わらない。シューアンの使う言葉は職業柄、多分に文学的、というか行間を読ませる類のものだが、夫の言葉はもっと額面通りだ。お互い使う言語が違って、嫌い合っているわけではないのに噛み合わない。
 近くにいる人同士でも、それぞれぽつんと存在しているような、ひとりぼっち感が強く感じられた。それがさびしいというわけでもないが、作品をひんやりとさせている。

『劇場版 境界の彼方 I'LL BE HERE 過去篇』

 この世を徘徊する異形のもの「妖夢」を討伐する「異界士」の中でも、呪われた血の一族と言われる栗山未来(種田理沙)。人間と妖夢の間に生まれた「半妖」で不死身の肉体を持つ神原秋人(KENN)。高校の屋上で秋人が未来を呼び止めたことで、2人の運命は大きく動き出す。原作は鳥居なごむのライトノベル。2013年に放送されたTVシリーズの総集編だ。監督は石立太一。本作公開の後、オリジナル長編となる続編『劇場版 境界の彼方 I'LL BE HERE 未来篇』が公開予定。
 TVシリーズの総集編とわかったうえで見に行ったので、まあこういうものだろうという納得はあった。総集編としては、特に意外性もない、無難と言えば無難な纏め方だと思う。スクリーンの大きさに作画がさほど負けていないというところには感心した(製作時はすごく大変だったろうけど・・・)。ただ、この総集編てどのへんの客層に向けてリリースされているのかな?とも思った。TVシリーズを既に見ている層にとっては、特に新鮮味のない総集編だし、未来篇へのフリとなる新作部分はあるものの、これの為に新作映画1本見るのはちょっとなぁ・・・と思う人もいるだろう。一方、TVシリーズを未見で、これを機に見てみようかなという人にとっては、物語やキャラクターの基本的な設定は ともかく、誰と誰がどうしてどうなった、という流れがわかりにくいだろう。
 設定もストーリーも今時これか、というくらいにラノベとしてはベタ中のベタなので、話自体は何となくわかるだろうが、本作、ストーリーの構成の妙や設定の妙というよりも、情感の盛り上がりに重きを置いているタイプの作品なので、その情感、キャラクターそれぞれの感情の流れのディティールが追えないと、ちょっと乗っかりにくいのではないだろうか。見ている側置いてけぼり、みたいな感じになりそう。総集編としての編集が、何をポイントにして編集したのかよくわからないところが難点だったと思う。新規客を想定しているならしているなりの、していないならしていないなりの、どちらかに割り切ったものであればもうちょっとすわりがよかったかなぁ。
 なお、改めて見ると基本設定の詰め方がずいぶんふわっとした作品だったし、ふわっとしたまま最後まで押し切ったんだなぁと妙に感心した。そういう部分を見せたいというわけではなかったということだと思う。

『ナイト・ミュージアム エジプト王の秘密』

 アメリカ自然史博物館で、夜ごと展示物に命を吹き込んでいたエジプト王の石板が、急に変色し始めた。ティディ・ルーズベルト(の人形)(ロビン・ウィリアムズ)はじめ、博物館の仲間たちにも異変が生じ始める。警備員のラリー(ベン・スティラー)は仲間を救う為、石板を作らせたエジプト王であり、ファラオ・アクメンラー(ラミ・マレック)の父親であるマレンカレ(ベン・キングスレー)がいる(正確にはマレンカレのミイラが収蔵されている)ロンドン・大英博物館に向かう。監督はショーン・レビ。
 このシリーズも3作目。そして本作が完結編となる。相変わらずストーリーの作りは大雑把だし、相変わらずくっだらないなーと思うギャグも多いしちょっと子供っぽい(子供も主要客層の作品だから当然なんだけど)ことは子供っぽい。正直、すごく面白いと思っているわけではない。しかし、このシリーズはなんとなく嫌いになれない、むしろ愛着すらある。博物館を走り回りたい!あの骨格標本もあのはく製も蝋人形も動けばいいのに!という博物館好きの願望を満たしてくれるからという大きな理由はあるのだが、基本的に悪人が出てこないし、登場人物が皆(それなりに)どこか優しいからということがある。そして何より、本シリーズは博物館は良いものだ、(直接お金は生まないかもしれないが)学習することはいいことだ、という確信の上に作られているからではないかと思う。シリーズ2作目でのラリーの選択は正にそういう考え方によるものだろう。そして本作でも、アメリカ自然史博物館の仲間たちのある選択、そしてラリーの進む道は、その延長線上にあると思う。
 どこか子供っぽい人物であったラリーが、「保護者」「守護者」として考えるようになるというところには、彼の成長を感じさせるし、その上でのラストには納得。もう「保護者」がいなくても大丈夫ってことでもあるし、次の人にその場を譲ろうってことかもしれない。その役回りをラリー自身が納得しているように見えるところに、なんだかぐっときた。
 なお、シリーズ追っている人にとっては、カウボーイ・ジュデダイア(オーウェン・ウィルソン)とローマ兵士オクタヴィウス(スティーブ・クーガン)のミニチュアコンビのわちゃわちゃ加減が相変わらず楽しいことと思う。オクラヴィウスはもしかしてゲイ?って演出がちょいちょいされているのだが、周囲がだんだんそれに慣れてきている感じが面白かった。また、これがロビン・ウィリアムズの遺作になるが、彼の役柄も重ねて見るとよりしんみるする。

『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』

 1939年のイギリス。第二次世界大戦がはじまり、イギリスはドイツに宣戦布告していた。ケンブリッジ大学の特別研究員で天才数学者と評判のアラン・チューリング(ベネディクト・カンバーバッジ)は、政府の極秘作戦チームに抜擢され、ドイツ軍の暗号エニグマの解読に挑む。チューリングは解読の為にコンピューターを開発するが、作業は遅々として進まず、チームメンバーとの溝も深まっていく。監督はモルテン・ティルドゥム。第87回アカデミー賞脚色賞受賞。エニグマを解読しコンピューターの祖でもある数学者、アラン・チューリングの人生をドラマ化した。
 戦後、とある状況に陥ったチューリングが過去を回想し語り始めるという、時間を行き来する構成だが、スピード感があり飽きなかった。チューリングは、いわゆる「空気を読む」ことが出来ない。行間が読めないので、省略した話法や、複雑な暗喩や言外の駆け引き等は、出来ないしされてもわからない。普通、面識がある同士で会話をすると、文法通りの話し方ではなく、言葉や文法を省略したり、仕草を多用したりするだろう。それを上手く読み取れないというのは、(人嫌いというならともかくそれほどでもない人にとっては)かなりしんどいのではないだろうか。
 チューリングにとって周囲の人たちの会話は、ある種の暗号みたいなものなのだ。自分にはよくわからないルールで周囲がやりとりしているのだ。また、周囲の人たちから見ると、四角四面で情感がないように見える(ちゃんとあるが、他の人と出方が違う)チューリングは、彼が発明したコンピューターのように見えたかもしれない。作品のキーとなっている暗号とコンピューターが、チューリング自身と重なってくるのだ。チューリングは自作のコンピューターに、ある思いを込めて名前までつけているのだが、自分の一部のようでもある。
 チューリングはチームの一員であるジョーン(キーラ・ナイトレイ)と親しくなるが、彼女は世の中のコミュニケーションが多かれ少なかれ暗号のようであるということに気づいており、ことにチューリングにとっては難解な暗号なのだということを理解している。パブでのナンパ見学シーンが象徴的だった。チューリングが、ジョーンが研究所で働けるように彼女の両親を説得する時、おそらく苦手(というかほぼできない)腹芸を必死でこなす。彼にとって、彼女は本当に理解者であったのだとぐっとくる。
 しかし彼女が抱えている、当時の女性ゆえの困難さにはなかなか思いが至らないあたりが、またせつなかった。彼にとっては周囲の人間も人の世も、エニグマと同じく、もしかしたらそれ以上に(エニグマには何であれ法則性がある)難解なミステリだったのかもしれない。
 

『みんなの学校』

 2006年に設立した、大阪市立南住吉大空小学校。発達障害を抱えた子、気持ちをコントロールできない子など、いわゆる特別支援の対象となる児童も他の児童と同じ学級、同じ教室で学ぶことを指針としている。この大空小学校の取り組みを紹介したテレビドキュメンタリーを、劇場版として再編集した作品。監督は真鍋俊永。
 テレビ版は未見なのだが、劇場版ではナレーションやテロップは少な目で、「泣かせる」演出も極力排した、ストイックな作りになっている。教育の現場の雰囲気や自動への具体的な対応の様子が伝わってきて、とても面白かった。支援が必要な児童には、担任の他にほぼ専属の職員がつく。また、登下校路の途中には、ボランティア(おそらく児童の保護者や地域の住民)が待機している。担任制度はあるが、他の学級の児童のことも同学年の教員同士で把握し、何かあったらすぐに対応できるようにしている。細かいところまでよく目配りがされているし、学校の指針がブレない。これは、校長の意思の強さと努力によって成立しているところが大きいのかなと思った。もちろん、個々の教員の努力は相当なものだし、皆有能なのだろうと思う。ただ、組織である以上、方針がしっかり定まっていて、この学校ではどういう教育をやるのか、そのためにどういうことが必要なのか、どういう助けがいるのか、ということが教員や保護者にも納得されていないと、維持していくのは難しいはずだ。そこがちゃんと成立しているからこその、きめこまいケアなのだろう。校長は何度も、「学校が、児童にとって安心な場所でないとならない」
 多分、当初は特別支援を必要としていない児童の父兄や、近隣住民からの反発や異論もあったんじゃないかな・・・。運動会の後、保護者の感想を読んだ校長が「自分の子供のことだけを書く保護者が減った」と言って喜ぶシーンがある。色々な子と一緒に学校をやっていくんだという意識が保護者側に定着したということなのだろう。自分の子だけでも大変なのによその子もか・・・と思わなくもないが、父兄から地域から巻き込んでいかないと、学校全体で支援の必要な児童をサポートする体制はとれないということなんだろうなぁ。支援が必要ない児童たちはどう思っているのかちょっと気になったが、授業中の様子などを見ていると、急に暴れたり教室から飛び出したりする子がいても、わりと淡々と対応しているので、少なくとも人間の幅は広くなるような気がした。
 また、教師(というか主に校長)の児童に対する当たりが案外厳しい。児童が学校での生活に適応できるようになるというのを前提に、叱るべきときには叱る(褒めるところはすごく褒める)という態度がはっきりとしていた。子供の伸びしろを信じているというか、こういうやり方で伝えればこの子にはわかる、というやり方を見極めつつ指導している。実際に子供たちが変化していく姿には、教師ならずとも心動かされる。

『唐山大地震』

(2011年3月に試写会で見て書いた感想です)1976年7月28日、中国河北省唐山市で起きた大震災を題材に、生き別れになった家族の32年間を描く。中国現代史としての一面も垣間見えて面白い。監督はフォン・シャオガン。両親と幼い姉妹は、7月28日深夜、マグニチュード7.8の地震に襲われる。母親を制して子供を助けようとした父親は死亡し、子供たちが建物の下に生き埋めになっていた。しかし建物は今にも倒壊しそうで残り時間はなく、助けられるのは1人だけ。選択を迫られた母親はとっさに「息子を」と答えてしまう。その声は娘の耳にも届いていた。そして、母親は被災して片腕をなくした息子と生活していた。一方、奇跡的に生き延びた娘は養父母の元、成長していた。
 地震そのものの描写にさかれた時間は、実はそんなに長くないし、冒頭の唐山大地震の見せ方もそんなに上手くないと思った。なぜか登場人物の真正面、真横からのショットが目立ち、建物の倒壊などもいかにもCG。しかし、本作のキモは地震そのものよりも、むしろ震災にあってしまった一家、特に、母親と娘のその後の人生にある。母親が「娘と息子どちらにする?」と迫られるシーンの残酷さは際立っている。以降、助かったものの母親の心は休まることはなく、ずっと悔いながら生きる。一方娘の方は、義父母との仲は悪くはなく、経済的にも安定したいい暮らしをしている。しかし実母に捨てられたという思いがずっと尾を引いている。母親と一緒に暮らしている息子は、片腕をなくすというハンデはあり、過保護な母親に対する反抗が一時期あるものの、概ね真っ直ぐ順調に育っていくのとは対称的だ。親に捨てられた・子を捨てたという思いを2人が克服するのにかかった年数が実に32年。2つの地震をからめたストーリーなのでこの年数になっているのだが、その長さに説得力があった。やはり、なかなか許せない(母は自分を、娘は母を)ものだろうと思う。
 力作だが、正直、かなりの長尺だしストーリーも若干冗長。もう少しエピソードを削ってもよかった。中国ではものすごく泣ける映画と評判だったそうだが、むしろ感情的な盛り上げは控えめだったと思う。前半のバスのシーンのようにあからさまに泣かせにくるところもあるのだが、以降の、真に感動的なシーンでは意外と情感抑え目で好感をもった。
 脇役のキャラクター造形におもしろみがある。中でも印象深いのは娘の養父母、特に義母だ。ちょっとぶっきらぼうな女性で、義父と養女が仲がよいのに対して嫉妬するが、同時に養女のことがかわいくもある。幼い養女がはじめて口をきいた時の表情がよかった。愛情の示し方が義父と比べて不器用で、こういう人いるよなぁと思った。



『博士と彼女のセオリー』

 ケンブリッジ大学の学生スティーブン・ホーキング(エディ・レッドメイン)は、物理学の天才的な才能を開花させ、将来を期待されていた。言語学を学ぶジェーンと恋に落ちるが、スティーブンはALS(筋萎縮性硬化症)を発症、余命2年と宣告される。ジェーン(フェシリティ・ジョーンズ)はスティーブンと共に生きることを決意し彼と結婚。難病に立ち向かう結婚生活が始まる。監督はジェームズ・マーシュ。「車椅子の科学者」として知られるスティーブン・ホーキンス博士の自伝を元にしている。主演のレッドメインはこの作品で、第87回アカデミー賞主演男優賞を受賞した。
 存命の人がモデルだからストーリー上きれいめになるように(実際は介護にしろ夫婦関係にしろ本当に色々大変だったろうなーと思うが、そのへんにはそれほど言及されていない)配慮しているのだろうか。2人の出会いからパーティ、結婚までに流れは少女漫画のよう。衣装にしろインテリアにしろ、全体の色使いが淡いトーンで統一されていて、やわらかくキラキラした印象だ。パーティのシーンなど、ドレス!メリーゴーランド!花火!星空!とキラキラとときめきの全部乗せ状態。何より、ホーキング博士という現代の宇宙論に多大な影響を与えた人が主人公な以上、彼の研究内容や働いている姿にもっと言及があってもよさそうな所、非常にざっくりとした触れ方にとどめ、重点をスティーブンとジェーン、2人の関係に置いているところが、少女漫画的な世界を思い起こさせたのだろうか。
 ただ、スティーブンは介護が常時必要だという事情はあるものの、基本的に何かを「してもらう」態勢の人なんじゃないかな、という気がしてならなかった。元々魅力的で人を引き付ける、相手への影響力を持ちやすい人なのではないかと。スティーブンとジェーンは基本的に双方聡明で、自分たちの客観視が出来る人だからそんなに暴力的な気配は漂わせないが、一歩間違ったら、スティーブンがジェーンに対して過剰に支配的だというふうにも見えかねなかったと思う。
 ジェーンも論文執筆中なのだが、スティーブンの介護と子供の世話、日常の家事に追われ一向に進まない。車椅子で子供たちと遊ぶスティーブンを、ジェーンがじっとりとした目つきで見ているシーンがあるのだが、こういうことは一般ご家庭でも多々あるだろう。また、ドライブ中に運転しているジェーンが、スティーブンに自分だけでは無理だ、介護士が必要だと訴えるのだが、スティーブンは自分たちは普通の家族だ、他人が関わらなくて大丈夫なんだと拒否する(その後、怒るジェーンをいなして息子に話を振るのが卑怯だな~、でもこういうシチュエーションあるある!と苦笑した)。でもその「普通」はジェーンの献身によってかろうじて保たれているものだ。ジェーンの方も、結婚する前は正直ここまで大変だとは思わなかった、という見通しの甘さがあったんだろうが、スティーブンがジェーンの都合をあんまり考えていないなぁという印象がぬぐえなかった。
 結局、2人は夫婦としては解体していくわけだが、それが特に悲しいことや残念なことのように描かれるわけではなく(当人たちにとっては、その当時は辛かったり大変だったりしたかもしれないけど)、スティーブンとジェーンの関係においては一つの通過点であるように見せているところは、何か堂々としていていい。本作の邦題は、原題“ The Theory of Everything”とは意味が大分違うが、内容には、邦題の方が合っているように思う。こと人間関係においては The Theory of Everythingは成立しないし普遍性はない。「博士と彼女」の間のことを描いた作品だから( The Theory of Everythingを使うには、前述の通りホーキング博士の研究内容の見せ方がざっくりすぎているというのもある)。

『せきれい』

庄野潤三著
「山の上」の家に住む老夫婦。娘や息子一家が訪れたり、近所の人たちや旧友と交流しつつ、四季は移り変わっていく。夫である「私」が綴る日々。著者自身が「私」である私小説で、友人の作家が実名で登場したりする。小説というよりも日記のようなとりとめのない文章で、とりたてて特別なことが起きるわけでもない。同じ言い回しが何度も繰り返されるところも、日々の記録っぽい。すごくきれいに漂白された日常ではあるが。しかし読んでいると、やはり小説なのだ。同じことの繰り返しなのになんで妙に面白いんだろうな。これが作家の筆力というものなのだろうか。ところで「私」は長女が作るアップルパイが好きで、出てくるたびにおいしいおいしいと綴るのだが、おいしいから人にやるな、と妻に言う時もあり、笑ってしまった。また、著者が作家の小沼丹と友人同士だったことは本作を読んで初めて知った。小沼の思い出がふいに出てきてほろりとする。小沼が楽しい人だったという思い出ばかりなのだ。

 
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