3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2015年02月

『ドラフト・デイ』

 NFL(ナショナルフットボールリーグ)のクリーブランド・ブラウンズのGMサニー(ケビン・コスナー)は、チームの成績不振の責任を問われていた。出資者からの要望もあり、ドラフト会議で超大型新人の獲得を狙うものの、交渉では足元を見られるし、自チームの監督はサニーに反対している。駆け引きを繰り広げつつドラフト会議が始まる。監督はアイバン・ライトマン。
 予告編もチラシも見たことなかったのだが、掘り出し物的に面白かった!ドラマ向きでまだ手垢のついていない(私が知らないだけで結構あるのかもしれないけど)、いい素材を見つけたということなんだろうな。アメリカンフットボールのドラフトは、日本の野球から連想するものとはちょっとシステムが違う(前の年に一番成績の悪かったチームから順番に選手を指名できる。なので、成績不振なブラウンズでも超大型新人を獲得するチャンスがあるわけだ。なお指名の順番は他チームとトレードできる)。どういうものなのか(おそらく配給会社の配慮で)本編前にざっと説明してくれたので助かった。ここさえ押さえておけば、アメフトのルールなどは特にわからなくても(私もよくわかっていなかったし)大丈夫。
 ドラフトのシステム上、コンゲームとしての側面がかなり強くなるので、競技云々はとりあえず置いておいても楽しめる。どうやってライバルチームを出し抜き、更には同じ組織内の異なる意見の陣営、また上司や部下を説得していくかという、ちょっと企業小説(映画)ぽい味わいもあった。ドラフトまでの12時間とドラフトの最中という、タイムリミットのある設定が緊張感を強める。
 サニーはドラフト絡みでてんやわんやなのだが、恋人(職場の同僚)が妊娠して関係がちぐはぐになったり、ブラウンズの名監督だった父親の影がいつまでも消えなかったりと、プライベートでの悩みも押し寄せてくる。サニーがあまり人好きのするタイプではなさそうなところに味があった。恋人の妊娠に対する反応もいまいちぱっとしないし、父親に対するコンプレックスは根深い。ずいぶん山盛りに詰め込んだなという印象だが、チームの再起とサニーの再起が共にかけられた勝負ということで、悪くなかったと思う。
 サニーは監督だった父親とは異なり、運営側の立場だ。しかしアメフトを深く愛し理解しているという点は父親と同じなのだろう。彼が、ドラフトの目玉である新人選手についてのある噂を気にするところには、選手に何を求めるか、いいチームを作るにはどういう人が必要なのかという彼の考え方が垣間見えて、興味深かった。
 本作、シーンの切り替え方、繋ぎ方や画面分割の使い方などのキレが良いという印象だった。編集が上手いということなのかな。また、各チームのホームグラウンドを紹介する時には空撮シーンが使われるのだが、最近見た中では最も気持ちのいい空撮シーンだった。なめらかかつスピーディー。

『シェアハウス・ウィズ・ヴァンパイア』

 ニュージーランドの首都ウェリントンでシェアハウスをしている、ヴァンパイアのヴィアゴ(タイカ・ワイティティ)、ディーコン(ジョナサン・ブロー)、ヴラド(ジェマイン・クレメント)、ピーター。時に揉めつつも愉快に暮らしていたが、ある日ピーターが人間の青年ニック(コリ・ゴンザレス=マクエル)に噛みついてヴァンパイアにしてしまう。更にヴァンパイアとなったニックは人間の親友スチュー(スチュー・ラザフォード)をシェアハウスに連れてきてしまう。監督は主演もこなすタイカ・ワイティティ&ジェイマンクレメント。タイカ・ワイティティは製作・脚本にも参加していて多才ぶりを発揮している。
 ヴァンパイアといえばヨーロッパというイメージだが、本作はなぜかニュージーランド映画。ニュージーランドにもヴァンパイアはいるんだよというエクスキューズがされているので笑ってしまった。ヴァンパイアが現代社会でシェアハウスしていたらこんな感じ、という生活感あふれるネタの数々が楽しかった。大雑把なようでいて、ヴァンパイアの基本設定には意外と律義に踏襲していたり、現代社会ならではのトラブルなど、これはネタを考えている時が一番楽しかったんじゃないかという雰囲気が漂っている。他の種族(魔女、ゾンビ、狼男など)との微妙な関係も楽しい。特に狼男グループとは、文系ゴス男子VS体育会系ヤンキーみたいな相いれなさがあって笑ってしまった。
 ヴァンパイアなので当然人の血を吸うし、吸った人は大抵死んでしまう。ヴァンパイアたちにとって、人間は基本食料みたいな感覚なのだが、スチューに対しては仲間の友達だから捕食を我慢する。しかし、スチューが持ち込んだインターネットをはじめとする文明の利器の数々(スチューはIT系開発職)に魅了され、なんていい奴なんだ!と特別扱いしていくあたりは無邪気というか現金というか・・・。スチューがまた妙に血色のいい青年なので、おいしそう!でも食べちゃだめ!としばしば葛藤するのもかわいい(いや状況的にはかわいくないけど・・・)。
 

『はじまりのうた』

 落ち目の音楽プロデューサーのダン(マーク・ラファロ)は、たまたま入ったライブハウスで、グレタ(キーラ・ナイトレイ)の弾き語りを聞く。グレタはミュージシャンのデイブ(アダム・レヴィーン)と破局し失意の内にいた。グレタの才能にほれ込んだダンは、彼女を説得してニューヨークの街中でのデモ録音を敢行する。監督はジョン・カーニー。
 ダンの喋り方や動き方が目にうるさくて鼻につくとか、グレタが女子高生にするファッションアドバイスが自分の行動と矛盾してないかとか、色々とひっかかるところはある。決して緻密に構成された作品というわけではないし、多分にファンタジックすぎる、何より監督の前作『Once ダブリンの街角で』と物語のフォーマットがほぼ同じ(笑)じゃないかという大きな突っ込みどころがある。しかし、見ていて気分がいいし最後には予想以上に清々しい気分になった。
 街中で演奏して録音するというシチュエーションがそもそも楽しいし、演奏している側も生き生きとしていて、音楽が好きだ!という喜び満ちている。バンドのメンバーを集める過程を(『七人の侍』的に)もっと見せてほしくはあったが、行きがかりで子供たちのコーラスを入れたり、いかにも手作りな感じの機材の数々等、見ているだけでニコニコしてしまう。
 正直なところ、ダンが冒頭で投げ捨てるデモ音源の数々と、グレタの歌との間に明確に大きな差があるかと言われるとよくわからない(まあ明らかにダサいデモもあるんだけど・・・)し、なぜダンがグレタの才能に確信を持てるのかという根拠もはたから見るとわからない。音楽の才能の芽というのは、(個人の好みもあるだろうし)万人が聞いて明らかにわかるというものではないのだろうとは思う。
 しかし、今やスターとなったデイブのステージのシーンでは、もう明らかに何かが違うのだ。普段はぼさっとしている人が、ステージ上で歌いだすと、別人のようにセクシーで明らかに凡人とは「違う」。デイブを演じるアダム・レヴィーンは、言うまでもなくMAROON5のフロントマンで本物のポップスター。だからこそ出せた説得力だろう。
 グレタは自分が作り、デイブが歌ってヒット曲となったナンバーについて、このアレンジは好きじゃない、自分がイメージしたものではないと言う。しかしデイブは、それはわかると言いつつも「でもライブだとすごく盛り上がる」と言う。音楽、特にヒット曲は、リリースされ誰かが聞いた時点で、作者だけのものではなくなるという側面があると思う。(小説や漫画もそうだろうけど)作者の意図とは必ずしも一致しなくても愛され熱狂される、そういう覚悟がポップスターには求められるのかもしれない。
 その一方で、本作はメジャーであろうとインディーズであろうと、尊重し平等に扱う。グレタの音楽もデイブの音楽も等しく「あり」だ。ダンとグレタの間には音楽を理解するもの同士としての対等な関係があり、デイブもグレタの音楽を尊重している。ダンとグレタが一線を越えないのも、あくまで音楽を介しての信頼関係だからだろう。そのへんの礼儀正しさが心地いい。

『ビッグ・アイズ』

 横暴な夫の元から娘を連れて逃げ出したマーガレット(エイミー・アダムス)は、画家のウォルター・キーン(クリストフ・ヴァルツ)と知り合い、やがて結婚する。キーンは自分の絵を売り出そうとするが、実際に評判になったのはマーガレットの作品だった。しかしキーンはそれを自分の作品だと偽り、絵を売る為に奔走。哀しげな大きな目の子供を描いた「ビッグ・アイズ」シリーズは大ブームになる。監督はティム・バートン。1960年代にアメリカのポップ・アート界で人気だった「ビッグ・アイズ」シリーズにまつわる実話を元にしている。
 ティム・バートン監督作品だと言われなければ、気づかなかったかもしれない。最近のバートンの作品はカラフルでキッチュだけど大味という印象があったので、本作のように地味かつオーソドックスな作品を改めて撮ったのが意外でもあった。
 辛くなり過ぎないように軽さを出しているし、こじんまりとしたいい作品だとは思うが、マーガレットの言動や彼女の置かれた境遇を見ていると、どうにも辛いしイライラする。なぜウォルターに対して自分の絵を盗むなと言えないのか、嫌なことは嫌だと言うことができないのかと見ていて悶々としてしまうのだ。
マーガレットは自活した経験がなく、自分に自信がない。元々の性格もそんなに強気ではないのだろう。加えて当時の社会背景ではシングルマザーとして子供を育てていくのは相当大変だったろう。経済力を握っているウォルターに対して強く出られないというのも、しょうがないという一面はあっただろう。何よりも、嫌だ、それは変だ、と言ってもいいのだという認識自体を彼女は持っていなかったのではないかと思う。そこがまた辛いし、彼女を取り巻く諸々にうんざりするところでもある。
 ウォルターの言動は今だったら家庭内パワハラみたいなもので、シリアス一辺倒で演じたらそうとう見ていてきついものになったと思う。ヴァルツだからこそ、下衆野郎の中にも妙なおかしみや、人を引き付ける愛嬌みたいなものに説得力が出せたのだろう。マーガレットとウォルターの関係が険悪になっていくにつれ、ウォルターの病的な部分が表に出てくるが、ヴァルツはコメディチックな方向(裁判のシーンなど冷静に考えると相当怖い)でこれを見せているので、作品がそんなに重くならない。

『みんなのアムステルダム国立美術館へ』

 レンブラントの「夜警」を筆頭に、数々の名品を所蔵する、オランダのアムステルダム国立美術館。その改修の過程を追ったドキュメンタリー『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』の続編。監督はウケ・ホーヘンダイク。前作も劇場で見たが、まさか改修に10年かかるとは思わなかったよ!ちなみに当初の予定では2008年のオープン予定で2004年に改修工事が始まっている。
 改修工事を妨げるのは数々のお役所的手続きに加え、市民運動や建築家、内装業者との意見の相違だ。特に、自転車人口の多いオランダなだけあって、サイクリスト協会には結構な力があるらしい。この美術館は元々、建物の中央に公共の道路が通った構造で、市民の通勤・通学に頻繁に使われていたらしい。改築後のプランだとこの公道が自転車用道路と歩行者用道路とに分けられ、自転車用のスペースが狭くなる、それが不満だと言うのだ。美術館・建築家は美的な面を重視するが、市民にとっては利便性も重要で、意見はなかなかかみ合わない。着工前に建設プランを一般向けに説明する公聴会みたいなものを開くのだが、市民からは反対意見が続々出てくる。意見を取り入れプランが変わり、ようやく着工するものの、今度は美術館内部や建築家がまたプランの変更を打ち出してくる。なぜ今言う!?と唖然とするが、彼らはいちいち対処していく。こうやって一つ一つ意見を聞いてすりあわせていくことが、「みんなの」美術館であるという認識を(不承不承の人もいるだろうが)全員が持っているのだろう。本来、民主主義は時間がかかって面倒くさいものである(本作中では、びっくりするくらいトップダウンで意見が通る様が見られない)、しかしこの方法でやるんだ、この方法が今のところベストなんだという腹のくくり方が垣間見られた。
 作品前半は、前作の流れのおさらいのようなものなので、徐々にそういえばこういう人出てきたよなー等と、知り合いに久しぶりに会ったような懐かしい気分にもなる。前館長も現館長も目立ちたがり屋でフパフォーマンス好きなのには笑ってしまう(やっぱり組織のトップに立とうという野心のある人って、こういうタイプが多いのかな)し、17世紀専門の学芸員は自信家の伊達男だし、それぞれキャラが濃い。そんな中ほのぼのとした気持ちにさせてくれるのは、アジア美術専門の学芸員。仏像大好きな美大生がそのまま大きくなりました、みたいな冒頓とした風貌と目のキラキラ感がチャーミングだ。新しい収蔵品として日本の仏像を入手するくだりがあるのだが、あれはお寺と直接交渉しちゃうのだろうか。あるところにはあるものなんだなと妙に感心した。

『さらば、愛の言葉よ』

 人妻と独身男が愛し合っているが、やがて口論が始まり険悪な空気が漂う。離れた2人はまた再会する。ジャン=リュック・ゴダール監督が初の3Dに取り組んだ作品。2014年の第67回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。また、出演しているゴダールの愛犬は、優秀な演技をした犬に授与されるパルムドッグ賞を受賞。
ゴダールによる3D映画ってどんなものなんだろうと想像がつかなかったが、冒頭、「ADIEU」という単語が3Dでばーんと飛び出てくるのにはビシっと決まりすぎていて笑ってしまった。ゴダールはこの部分を一番やりたかったんじゃないかなーと思ったくらい。
 正直、私はゴダールの映画を理解できたためしがなく、毎回漫然と眺めるだけで終わってしまうのだが、本作は3Dという新鮮味もあって、眺めているだけでも結構面白かった。男女の会話がかみ合っているようないないような感じで、邦題を「さらば、愛の言葉よ」にしたのには頷ける。もちろん会話はあるのだが、キャッチボールではなく双方投げっぱなしみたいな印象なのだ。古本をあさるシーンなど、意味を成す言葉の存在はほのめかされるが、相手の反応を得て意味を成すものではなく、単体で独立したものだ。コミュニケーションとしての言葉は、あまり成立していないように見える。だから「さらば」というわけなのだろうか。本作中では、言葉が男女の関係において2人を幸福にする役にたっていない。言葉を持たない犬は常に無邪気で楽しげだった。
 本作は3D映画だが、常に3Dというわけではなく、2Dの部分もあるし、3Dのはずなのに焦点があっていなかったりするシーンもある。なぜ3Dという手法を選んだのか疑問ではあったのだが、3Dという映画の構造上の要素が増えることで、逆に解体していく過程にもバリエーションが増える、要素の組み合わせのバリエーションが増えるという所を狙ったのかなとも思った。映画の要素を抽出、再構成したいということなのだろうか。

『さよなら、歌舞伎町』

 ミュージシャン志望の沙耶(前田敦子)と徹(染谷将太)は同棲している。徹は沙耶にも家族にも一流ホテル勤務と言っているが、実は歌舞伎町のラブホテルで雇われ店長として働いていた。徹が勤めるラブホテルを「仕事」で使う常連客の韓国人デリヘル嬢とその恋人、ラブホテルの清掃員と実は逃走犯であるパートナーら、5組の男女が繰り広げる群像劇。監督は廣木隆一、脚本は荒井晴彦と中野太。
 前田敦子と染谷将太という主演の組み合わせに期待していたのだが、どちらの良さもあまり発揮されていなかったように思う。これだったら、前田/染谷じゃなくてもよかったんじゃないかなぁ。特に染谷は、出力7割の「いつもの染谷」な感じで、若干鼻についた。これは、演じている徹というキャラクターが大分鼻につく造形だからしょうがないのかもしれないけれど。
 群像劇を狙っているのだろうが、それぞれのカップルのエピソードからエピソードへの移動、エピソード間の繋がりがあまりスムーズではなく、オムニバスドラマをバラバラにしてくっつけたような印象を受けた。複数の人たちの話という意味では群像劇だが、あまり「群像劇」という雰囲気ではない。もっと個々の要素が有機的に絡み合っているものが見たいのだ。
 また、登場人物、特に若者の造形が凡庸で冴えない。何と言うか、おじさんが考えた今時の若者、みたいな感じなのだ。徹の色々至らない自分を認められず「自分はこんな所にいる人間じゃない」と言い続ける姿は情けないのだが、それ一点張りで単純化されすぎているように思った。単純化していい場合もあるだろうけど、作品全体のトーンがそういう方向性ではないので、もうちょっと人間て複雑なものじゃないの?と思ってしまった。また、デリヘル嬢の造形に関しては、いい加減こういうのには飽きませんか、とうんざり。風俗業に従事している女性の造形、特にその女性に好感を持たせようとした場合の造形って、なんで大体こういう感じになっちゃうのかなーという残念感が拭えない。これを可愛い、愛おしいと思う人ももちろんいるんだろうけど、私は「こんな風にされたい」という書き手の思いが見えすぎちゃってちょっとな・・・。唯一良かったのが、南果歩演じる清掃員と松重豊演じる逃亡犯。若くはない2人だけが、歌舞伎町から本当に「さよなら」出来そうな、突破力を見せる。他の人たちは戻ってきちゃいそうなんだよな。
 本作は『さよなら、歌舞伎町』という題名だけど、舞台が歌舞伎町である必要が感じられなかった。どこにでも置き換えられる話だからというよりも、歌舞伎町や近辺の新宿界隈が醸し出す町の雰囲気みたいなものが、あまり生かされていないように思った(室内のシーンの方が多いからかもしれないが)。自分が実際に行ったことのある場所のみでロケされている映画ってあまりないので、ここは本当に残念。

『凍氷』

ジェイムズ・トンプソン著、高里ひろ訳
ヘルシンキへ転勤したカリ・ヴェーラ警部。ロシア人富豪の妻が拷問殺人された事件を捜査するが、上層部から圧力がかかる。同時に、フィンランドはユダヤ人虐殺に加担したのではないかという、歴史の極秘調査と証言のもみ消しを命じられていた。ひどい頭痛に悩まされつつ、カリは捜査に奔走する。前作同様、カリの捜査は場当たり的な印象がある。物語を稼働させていくのは、謎解きよりもむしろ、カリが警官としての一線を越えそうな危うさ、そして、カリと妻ケイト、ケイトの妹弟との関係だ。前作ではアメリカ人であるケイトとの間にカルチャーギャップがあったが、今回はケイトの妹弟が、フィンランド文化に対する外からの目の役割を果たしている。また、国民性や文化だけでなく、本作では歴史を踏まえたロシアやドイツとの関係、歴史認識そのものについても言及されている。見たくないものは見ない、臭いものには蓋をするというのは、なかなか耳が痛い話だ。国の歴史だけでなく、カリとケイトの子供時代のトラウマも徐々に見えてくる。ケイトはカリに対して、本心を話してほしい、なんでも打ち明けてほしいという。カリはそれには時間がかかるんだと答えるが、彼が全てを妻に打ち明けることはないのではないか。愛や信頼があることと、何でも打ち明けあうこととは別のことだと考える人もいる。カリはおそらくそういうタイプなのだろう。それが破局につながりそうな予感がして不穏だ。

『幕が上がる』

平田オリザ著
地方の高校で演劇部に所属している高橋さおり。新しく顧問になった教師は大学演劇で有名だった人物だった。彼女の指導のもと、部長となった高橋を筆頭に部員たちは演劇の面白さ、厳しさに目覚めていく。高校演劇ってこういう感じなのか、という雰囲気や、高校演劇の地区・全国大会のシステム(ちょっと変わっているので驚いた)、演劇の指導の仕方など、「現場」感が濃厚なのは劇作家・演出家である著者ならではか。高橋たちがやっている舞台の雰囲気や情景といったものは、正直あまりたちあがってこないのだが、演劇の仕組みとか、演出家や俳優(どちらも高校生ではあるが)のメンタリティなど、裏側の面白さで読ませる。何より、なぜ演劇をするのか、という部分が、なぜ人にはフィクションが必要なのかという理由と重なってきてぐっときた。

『極夜 カーモス』

 ジェイムズ・トンプソン著、高里ひろ訳
フィンランド郊外の雪原で、ソマリア移民である黒人女優の惨殺死体が発見された。容疑者は、捜査にあたった警部カリ・ヴァーラの元妻を寝とった男だった。捜査に私情をはさんでいると非難されつつ、カリは仕事を続けるが、さらなる悲劇が起こる。カリが警部を務めている地域では殺人事件などほぼなく、カリも部下らも本格的な殺人事件の捜査は初めてという設定。そのせいってことはないだろうけど、刑事ドラマとしてもミステリとしてもぎこちなくて、なぜその程度の証拠でこの結論に?とか、なぜそこを先に調べない?なぜそこに気づかない?みたいな部分が多い。事件そのものよりも、むしろその背景にあるフィンランドの風土や国民性の描写に関心をひかれた。言うまでもなく真冬は極寒(外での現場検証用に防寒服がある)で日の光はなかなか見られない。夏のフィンランドに惹かれてこの地での勤務を希望したアメリカ人のカリの妻は、冬の長さに滅入ってしまっている。「外国人」である妻とカリの間の祖語が、フィンランドの特徴を際立たせている。カリに言わせると思っていることをあまり口にせず、失敗を恐れ慎重派という国民性だが、日本とちょっと似ているだろうか。また、カリの妻は入院した際、医者も看護師も思いやりや励ましの言葉を掛けてくれなかった、自分が外国人だからかとショックを受けるが、カリは苦しんでいる人の尊厳を守る為に声をかけないのだと説明する。ここはフィンランド人にとったてのプライドの在り方が垣間見られてちょっとおもしろい。それにしても、そんなに酔っ払いだらけだとは(笑)。ちなみに著者はアメリカ生まれでフィンランドに渡った人。だから中からの視線も外からの視線も持てるのか。

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