3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2015年02月

『プーと私』

石井桃子著
名作『くまのプーさん』の翻訳者である著者の随筆集。今までなかなかまとめて読むことが出来なかった著者の随筆が、河出書房新社からシリーズで発行されたもの。本作では題名の通り、『くまのプーさん』や、ピーターラビットシリーズなどの翻訳作品とその作家にまつわる随筆、また、海外での児童文学・児童図書館活動に関する交流など、翻訳業にまつわる随筆を収録した。評伝で既に読んだことのあるエピソードではあるが、『くまのプーさん』との出会いが著者の人生にとって非常に大きかったこと、作者であるミルンの世界にすっと入っていけた様がよくわかる。一方で、作品としての素晴らしさや作者であるポターへの視線は好意的だが、文章としては翻訳が非常に難しかったピーターラビット、という対比が興味深い。ピーターラビットの原文てそんなに難しい印象はない(私は英語苦手なのでほんとに印象なんだけど)し、言葉遊びを多用したプーさんの方が翻訳するには面倒そうだけどなぁ。著者にとっての相性の問題だったんだろうか。ポターの文は非常に完結でかっちりしているらしく、自分サイドに引き寄せる手がかりが乏しかったということかな。また、アメリカの児童図書館に関する一編の中に、ある児童文学推薦書リストをまとめた人は、子供に良書をという一心で図書館にあった流行の通俗小説など破いてしまった、というくだりがあったのだが、別に通俗小説読んでもいいじゃない、そんなに目くじら立てなくても、清濁併せて読む方がいいと思うけどなーとひっかかった。ただ、当時は児童書というジャンル自体が未発達で、子供用の本を選ぶという概念自体があやふやだったろうから、現代とは大分事情が違うというのはわかるが。

『地図になかった世界』

エドワード・P・ジョーンズ著、小澤英実訳
 南北戦争以前のヴァージニア州マンチェスター郡。黒人の農場主ヘンリー・タウンゼントが病気で急逝した。ヘンリーは元々両親と共に、郡の名士ウィリアム・ロビンズに所有される奴隷だった。ヘンリーの父オーガスタスは、苦労して一家の自由を買い取ったが、成長したヘンリーは自ら黒人奴隷を購入し、両親と決別してしまう。マンチェスター郡は郡の再編時になくなってしまった為、邦題の通り「地図になかった世界」(原題はThe Known World)というわけだ。物語はヘンリーの危篤から始まるが、一つの文から数十年を飛び越えて過去へ、あるいは未来へと行ったり来たりする。その間にヘンリーとその家族、奴隷たちだけでなく、ロビンズの関係者や、更に関係者の関係者へ、といった具合に登場人物もどんどん増え、絡まりあってタペストリーのようになっていく。著者が描こうとしている世界がどのようなものなのか、徐々に点と点が繋がり、白人と黒人、主と奴隷の関係の、この時代の中での絶対的な力、時にそれが揺らぐ様がやりきれなく、またスリリングでもある。自分と彼らとの間にある壁は何なのか、彼らと何が違うのかと考え始めてしまった者にとってはとてつもなく苦痛な世界だろう。黒人である息子が黒人の奴隷を持ったことにオーガスタス夫妻は絶望するが、ヘンリーは白人と同じように法で許されたことをやっただけだと憤慨する。また、リベラル派の白人女性が実子のようにかわいがっていた黒人少女に対して、ある言葉を使ってしまうことに、両者の間にある(白人女性にはおそらくよくわかっていない)決定的な溝を感じさせた。そこに境界線がある、ということを随所で感じさせるのだ。ただ、そこを越境しようとする人たち、境界線はもしかして本来はないのではと気づく人たちもいる。「(中略)人ってのは、何か・・・・・何か光みてえなものの下にたっていられるべきなんだ。(中略)そんで、その光の下から出てきても、誰もそいつが言ったことで大騒ぎしたりしねえんだ」。終盤、境界線を越えた人たちのその後に、胸が熱くなった。

『ミュータントタートルズ』

 悪の組織フット軍団が勢いを増し、市民を脅かしているニューヨーク。TVレポーターのエイプリル(ミーガン・フォックス)は、夜の港でフット軍団が何者かに退治されるところを目撃する。特ダネだと張り切るエイプリルだが、証拠に乏しく誰も信じてくれない。そんな折、地下鉄の駅をフット軍団が襲撃し、人質を取る事件が起きた。またしても何者かが軍団を撃退、居合わせたエイプリルは彼らの後を追うが、彼らはカメの姿をしたヒーローだった。過去にアニメ化や実写映画化もされている人気作品を華やかに映画化。監督はジョナサン・リーベスマン。製作はマイケル・ベイ。
 自分で「カメの姿をしたヒーロー」って何書いてるんだと思ったけど、そうなんだからしょうがないよな・・・。原作を始めに考えた人は、まあよく考えたよな・・・。忍者とヒップポップは当時の流行としてわかるけど、カメってなかなか持ってこないだろう(笑)。カメベースのビジュアルのヒーローというのは、かっこいいのかどうかかなり微妙だと思うが、カメっぽい質感とキャラクターデザインの可愛さとのバランスがよくとれていて、いい造形だと思う。昔、実写映画化された時はキグルミ感強くへぼへぼだったのだが、こんなにシャープでかっこいいタートルズが見られるとは、技術の進歩とはありがたいなぁ・・・。
 原作の根強い人気は、やはりタートルズ4人(匹?)のキャラクターがそれぞれ立っている所、そしてチームものであるという所にあるのではないかと思う。本作ではラファエロが活躍するが、彼がやっぱり一番人気なのかな?ぶっきらぼうなツンデレって世界的に需要があるのだろうか(笑)。メンタリティがティーンエイジャー、というか小学生男子的なチームものだが、こういうノリは好きなので楽しかった。ヒロインのエイプリルが「女子アナ」的ポジションから脱出したくて先走りすぎるのも、おっちょこちょいキャラな感じでかわいい。ベイ絡み作品の中ではかなりちゃんと活躍するヒロインの方なのでは。また、エイプリルの相方的なヴァーン(ウィル・アーネット)がウザいだけでなくここぞというところではちゃんと動くところもいい。自宅のキッチンにいるシーンが少しあるのだが、スパイス類がちゃんと揃っていて、結構きちんとした生活しているんだなーと変なところで愉快になった。



『ラブストーリーズ コナーの涙/エリナーの愛情』

 7年間共に暮らしたものの、幼い息子を失い別居したコナー・ラドロー(ジェームズ・マカボイ)とエリナー・リグビー(ジェシカ・チャステイン)。コナーはエリナーと共にやり直したいともがくが、エリナーはコナーから距離を置き、新しい生活を始めることを選ぶ。男女の別れとその後を、コナー目線から描いた『ラブストーリーズ コナーの涙』、エリナー目線から描いた『ラブストーリーズ エリナーの愛情』の2本から成る。監督はネッド・ベンソン。2本合わせて全体像が見えてくるので、感想は一つにまとめた。
 私はエリナー→コナーの順番で見たのだが、コナー→エリナーの順番で見た方がよかったかなと少々後悔した。同じ出来事を違った側面から見ているので、どちらが先という決まった順番はないのだが、コナーの方が出来事全体のアウトラインを時系列に沿って描いている。対してエリナーは彼女の主観により近いので、時系列も記憶にひっぱられて前後したりするし、何が起こったのかという具体的な説明もそんなにされない(徐々にわかってくるが)。そして何より、エリナーの方が映画としてフックがあって面白いんだよな(笑)。コナーの方は通り一遍の男女の別れって感じだった。通り一遍と見えて実は、という流れなら楽しめるけど、その逆だと、このくだりもう一回見ないとダメ・・・?といった、少し億劫な気分になる。
 過去に一緒に体験した出来事であっても、コナーとエリナーでは、セリフやシチュエーションが微妙に違っている。人は自分本位に記憶する、その時の自分にとってインパクトのある部分が記憶されるんだなと妙に感心した。2人の間のこまかいズレが、2人の性格の違い、距離感の変化を感じさせた。
 ただ、こういったズレは何も男女に限ったことではなく、人間同士なら誰との間でも生じることだろう。子供の死がきっかけでコナーとエリナーはすれ違ってしまうが、元々あったズレが、大きな出来事の影響で増幅されたに過ぎないのかもしれない。コナーが鈍感であるとか、エリナーが身勝手だとかと感じる人もいるだろうが、問題はそこではなくて、そもそも他人同士なんだということなんだろう。例え愛し合う2人であっても人と人とが完璧に理解し合うことはない、という当たり前のことが描かれているのだ。
 とは言え、本作のトーンはそんなに悲観的ではない。他人同士だから理解しようとしたり歩み寄ったりするということが、ちゃんと前提にあるのだ。コナーとエリナーの間だけではなく、エリナーの家族や教師、コナーの友人たちの存在に、人間関係に対する肯定感があったと思う。どの人も完璧ではないが、エリナーやコナーに、その人なりのやり方で手を差し伸べようとするのだ。特にエリナーの両親の在り方にはほっとする。

『マッハ!無限大』

 兄弟同然に育った象のコーンと共に田舎で暮らしているムエタイの達人カーム(トニージャー)。ある日、密輸組織によりコーンがさらわれてしまう。カームは組織のボスの元へ乗り込むが、ボスは既に何者かに殺されており、カームは殺人の容疑者として追われる身に。警察から逃げつつ、カームはコーンの居場所を突き止める。そこは犯罪王LC(RZA)の組織だった。LCは世界中の一流格闘家を集めて闘わせようとしていたのだ。監督はプラッチャヤー・ピンゲーオ。
 邦題だけ見ると『マッハ!』の続編のようだが、正確にはトニー・ジャー主演の『トム・ヤム・クン!』シリーズ2作目。紛らわしいのだが、正直どれがどれでもトニー・ジャー主演で象が出てくる、というくくりで大体同じ印象なんだよな(笑)。ただ、それが悪いというのではなく、ちゃんと毎回面白い。トニー・ジャーが主演している時点で、こういう映画なんだな!とわかって見ているから、期待を裏切られることはないのだ。彼のアクション、特に肉弾戦にはそれだけの魅力がある。『マッハ!』ほどのスピード感や「これ現場で重傷出てるよな」感はないが、思わず笑っちゃうような動きの自由さなのだ。
 第一にトニー・ジャーの、そして共演のジャージャー・ヤーニン(『チョコレート・ファイター』主演)のアクションを楽しむための作品なので、ストーリーはむしろ後付っぽい。一応、背景には戦争状態だった2国間がようやく和解にこぎつけた、しかしそれを望まない一派も・・・という設定があるんだけど、冷静に考えるとこの設定いらないんじゃないかな・・・。格闘オタクの富豪が世界中から無理矢理格闘家を集めたよ!ってことでよかったんじゃないかな・・・。ツッコミを入れ始めるときりがない。なぜこの悪の組織はそんなに回りくどいことを?!って何度思ったことか。あとRZAは今こういうことになっていたのか!という驚きも(笑)。
 ところで本作、もしかして3D映画のはずだったのだろうか。妙に「飛び出す」ことを意識したショットが多いように思った。ジャージャーの使っているヨーヨーみたいなもの(スケバン刑事みたい・・・)の使い方など、特にそういう雰囲気だった。

『ロス・マクドナルド傑作集 ミッドナイト・ブルー』

ロス・マクドナルド著、小鷹信光訳
表題作を含む短編4編、長編『運命』の原型である中編、評論「主人公(ヒーロー)としての探偵と作家」を収録した著者の作品集。古典的探偵小説的な短編は、嫉妬や執着が引き起こした悲劇が中心にあり、どこかさびしい後味。中編は長編化したものよりも事件の中核がわかりやすいかもしれない。一番読み応えがある、というかファンにとってうれしいのは評論だろう。先駆者、特に引き合いに出されることも多かったろうチャンドラーとの比較で自身の作風、そして主人公であるリュウ・アーチャーを語る。マーロウよりはアーチャーの方が人間味があるというか(評論中でも言及されているが、チャンドラーの方が文体のスタイルを固持していて、それにキャラクターがひきずられるからかもしれない)、他人の弱さに対して優しさがあるように思う。著者によると、アーチャーもその他の登場人物も、少しずつ自身の投影であると言う。そう思いながらリュウ・アーチャーのシリーズを読むと、なんだかちょっと嬉しい。

『フォックスキャッチャー』

 ロサンゼルスオリンピックのレスリング金メダリスト、マーク・シュルツ(チャニング・テイタム)は、デュポン財団の後継者ジョン・デュポン(スティーブ・カレル)から、ジョンが出資するレスリングチーム「フォックスキャッチャー」へスカウトされる。ジョンは変人だったが、マークとの間には一種の信頼関係が生まれていた。しかし、同じく金メダリストであるマークの兄デイブ(マーク・ラファロ)がチームに加入することになり、3人の関係は大きく変わっていく。1996年に起きた実際の事件を映画化。監督はベネット・ミラー。ミラー監督は『カポーティ』といい『マネーボール』といい本作といい、実話ネタが好きなのかな。
 冒頭、マークの生活に窮している感じ、特に食生活の貧しさからして鬱々とした気持ちになってくるのだが、要因は変わっていくものの鬱々はどんどん強まっていく。とにかく緊張感が途切れず、息苦しい。ジョンの願望の強さ、思い入れの強さの圧と、それに彼自身が見合っていないという現実のきつさが見ている側も圧迫していくのだ。
 ジョンは自分を尊敬されるべき「何者か」でありたいと強く願っており、周囲にもそのように見せようとする。が、その振る舞いは裏付けがないだけにイタイタしくて見ていられない。母親の前で披露される茶番劇は、直視できないレベルのいたたまれなさだった。彼の言葉は空疎で手ごたえがない。「よきアメリカ国民」でありたいというのも抽象的すぎる。そもそも彼自身に、具体化できる中身があるように見えないのだ。そういう人が何を言っても借り物の言葉に聞こえるだろう。饒舌ではないが的確に相手に届くデイブの言葉とは対称的だ。ジョンがやっているのは、「何者か」であるシチュエーションをお金で買っているというだけなのだ。子供の頃、母親が自分の「友達」にお金を渡すのを見ていたく傷ついたと言うのだが、自分が母親と同じことをしているという自覚がない。これは不思議でもあるし、何か痛ましくもある。
 ジョンとマーク2人とも、「何者か」であろうとするがそれに手ごたえが持てないところ、保護者的な存在(ジョンにとっては母親、マークにとってはデイブ)が偉大すぎ、コンプレックスがあるというところを持っている。それが2人の間に、かりそめではあっても絆を生んだのかもしれない。また、2人とも言葉が相手に届かない(冒頭、マークが小学校で行うスピーチへの反応がいたたまれない・・・)。相手とのコミュニケーションが成立しないのだ。ここも、言葉でもボディランゲージでも相手をしっかりつかむデイブとは対称的だ。デイブとマークの間には、マークの側に複雑な思いがあるにしろ、言葉を飛び越えた意思の疎通がある。ジョンはそこに嫉妬しているようにも見えた。デイブの雄弁さにも、デイブとマークの関係性にも。それが悲劇に繋がっていく。
 ラストは、こういう形で「アメリカ」を背負うことになるのかとやりきれなく、皮肉にも思えるだろう。ただ個人的には、皮肉ではあるが、お先真っ暗という印象は受けなかった。少なくとも彼は、それまでよりも少し自由になったように見えた。

『ウィンブルドン』

ラッセル・ブラッドン著、池央耿訳
プロテニス選手のオーストラリア代表キングと、ロシア代表ツァラプキンは、試合を通して親友となる。お互いに切磋琢磨した彼らは、ウィンブルドン選手権への出場を果たす。しかしその決勝戦の裏では、ある犯罪計画が進行していた。原著は1977年の作品。日本では以前新潮文庫で出版されたが長らく再版されず、昨年創元推理文庫から再度リリースされた。1970年代、まだ冷戦下の時代の話なので、序盤でツァラプキンが置かれていた状況など、現代(特に若い読者にとって)ではその危うさがぴんとこない部分もあるかもしれない。しかし、時代背景についても、テニスという競技についてすら漠然とした知識でも楽しめるという、リーダビリティの高い作品だと思う。小説にしろ映画にしろ漫画にしろ、良くできているものはその題材のことをそんなに知らなくても面白いものだなと実感した。キングやツァラプキンら、テニスプレイヤーたちの躍動感や、彼らにとってテニスがどういうものなのか、どういうふうに大事なのかということ、またキングとツァラプキンがプレイヤーとして次のステップに進む様が、ばっちり伝わってくるのだ。加えてウィンブルドンに舞台が移ってからは、クライムサスペンスとしてドラマが走り出し、息もつかせない。大観衆の中での犯罪と捜査は映画で見てみたくなった。また、捜査の際に大きな役割を果たすのがTVだ。TV放送ありきの設定なのが、時代の最先端という感じだったのでは。TVスタッフがあることに気づき慌てる警官たちに放つ言葉が、これがプロだな!というかっこいいものでしびれた。なおキングとツァラプキンの超絶信頼関係にもしびれた。お互いに大事にしすぎ、公然といちゃいちゃしすぎである。

『エクソダス 神と王』

 紀元前1300年、大帝国を形成していたエジプト王家で養子として育てられたモーセ(クリスチャン・ベール)と、王の実子であるラムセス(ジョエル・エドガートン)は実の兄弟のように育った。配下の都市を視察したモーゼは、自分が実は奴隷にされているヘブライ人だと知り愕然とする。やがてラムセスは王位を継承するが、モーゼは王宮から追放され、ヘブライの民を率いて約束の地を目指す。旧約聖書の「出エジプト記」をもとにしている。監督はリドリー・スコット。
 3Dで見た。今時なかなか見ないスケールの大スペクタクル巨編で、なかなか見応えがあった。CGも当然多用しているんだろうけど(エンドロールで流れるVFX関係のスタッフ数がすごく多い)、それなりにセットを組んでいるだろうし、エキストラ数もかなり多いはず。こういう企画を実現できるという部分で、リドリー・スコットの手腕の確かさを見た感がある。(特に終盤の展開は)3Dでの鑑賞もお勧め。広く遠くまで見渡すようなシーンが開けた光景が多いので見映えがするし、王宮にしろピラミッドにしろとにかくでかい!そして広い!飛び出す絵本的な3Dではなく、よりくっきりと臨場感ある映像という方向性の3Dなので、そんなに目が疲れるということもなかった。
 旧約聖書の有名エピソードが元になっているが、宗教色自体はそんなに強くない。モーセとラムセスの関係にスポットを当てており、兄弟のコンプレックスと葛藤が描かれる。よくあるパターンではあるが、出来のいい兄弟がいる辛さというのは万国共通、時代を越えているのだろう。モーセは文武両道で部下の信頼も厚い。対してラムセスは若干鈍くいまいち頼りない。ラムセスを演じているエドガートンが実にいいボンクラ顔を見せるので笑ってしまった。ラムセスの父親も、実の息子より養子の方が出来がいいのを認めてしまっている、ラムセス自身もモーゼの方が出来がいいという自覚があるので、まあ肩身が狭いよな・・・。このコンプレックスがどんどんこじれていく様は痛々しくもあった。モーゼが存在していること自体が辛い、というレベルにまで至ってしまっているようにも見えた。
 もっとも、本作最大の見せ場はとにもかくにも「神様がひどい!」というところではないかと思う。エジプトに災厄をもたらす為に、ワニやらカエルやらイナゴやら総動員でやらかす神!本作、旧約聖書のエピソードをリアル寄りに解釈・落とし込みをしようという努力が見られるのだが、ワニのエピソードが出てきた時点でそういうリアリズムは吹っ飛ぶ。ばんばんいっちゃおう!というノリの良さすら漂ってくる。
 終盤、約束の地を目指すモーセは、この先についての懸念を口にする。それは現在に至るまで「約束の地」を巡ってくすぶっている問題につながってくる。モーセは予想される困難を信仰によって抑え込もうという結論に至るのだが。

『おみおくりの作法』

 孤独した人の葬儀を執り行う、民生係のジョン・メイ(エディ・マーサン)は、人員整理で解雇を言い渡されてしまう。最後の案件は、自宅の向いに住んでいた男性・ビリーの葬儀だった。いつも以上に熱心に取り組み地方への出張までするジョン・メイだが、故人の人生を追ううち、彼も少しづつ変化していく。監督・脚本はウンベルト・パゾリーニ。
 ジョン・メイの「おみおくり」にかける意欲は、立派な葬儀イコールいい人生だとか、参列者に見送られるのがいい人生だとか、そういう考えだけから生じているものではないだろう。孤独死した女性の家に残された「手紙」を見て、大家がやりきれないよなと言うシーンがある。しかし、他人からそう見えるからといって、彼女の人生が本当にやりきれないものだったかどうかなど、死んだ当人にしかわからないだろう。ジョン・メイは可能な限り遺族や知人に連絡を取って遺体の引き取りや葬儀への参列を乞うが、何よりも故人に興味を持つこと、どんな人だったか知ろうとすることが、彼にとっての死者への敬意なのかもしれないなと思った。
 ジョン・メイは毎日同じような生活をしているが、ビリーの人生を追って色々な人に会ううち、ちょっとづつルーティンな生活が変化していく。その変化がまず食生活に現れるのが面白かった。彼の食事はトーストとパテみたいなものの缶詰、紅茶かコーヒー、りんごというものなのだが、コーヒーショップの店員にココアを勧められたのをきっかけに、ケーキみたいなものや、焼き魚、クロワッサンをカフェオレ(多分)に浸して食べたりと、ちょっとづつ冒険していく。甘いものがちょくちょく姿を見せるようになるのだが、甘いものを余計に食べるのって、普段食べつけない人にとっては冒険している感じがするのかな(笑)。
 ラストは賛否が割れそうだけど、ジョン・メイの仕事はこういうことだったんだよ、とわかりやすく見せてはいると思う。唐突に世界観が変わってあれっと思ったけど、死者を送り出す、悼む仕事というのはそういうことなんだろうなという気にはなった。

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