3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2015年01月

『インフェクション 感染』

 中東の紛争地帯で生物兵器が使用された。生物兵器による感染は紛争地域にとどまらず、世界中に蔓延していく。アメリカに住むアナ(テリーサ・パーマー)とエリック(ペン・バッジリー)は結婚を控えて2人の世界に浸っていた。エリックの祖父アンディ(フランク・ランジェラ)は生物兵器開発に関わった罪悪感にさいなまれながら、妻エスター(ジーナ・ローランズ)と支えあう。アンディの弁護士ミア(ロザリオ・ドーソン)とその夫でスランプ中の作家レン(ジョシュ・ハートネット)は心が離れていた。彼らの日常にもパンデミックが押し寄せてくる。監督・脚本はブライアン・ホリウチ。
 3組のカップルを中心とした群像劇。題名からパニックホラーっぽい内容なのかと思っていたら、いわゆるホラー要素は薄く、SF風味をまぶし、ちょっとポエティックでもある。アナとエリックのやりとりがやたらとポエミーだからかもしれないが・・・。これがもうちょっと年長のミアとレン夫婦だと仲も冷えて辛辣、アンディとエスターには長年苦楽を共にした重みを感じる。カップルの3つの時代を象徴しているようでもある。
 パンデミックがどんどん広がっていくという絶望的な状況なのだが、カップルたちのやりとりは痴話喧嘩のようだ(そもそもアナとエリックはパンデミックの深刻性も認識していないみたいだけど)。緊迫感がないというよりも、切羽詰まった状況だからこそ普段から問題になっているがうやむやにしていたことが噴出してしまうというように見える。2人の関係の根本的な部分が全部露呈されてしまうようだった。
 時間軸が様々な時期を行ったり来たりするので、あの時のあのセリフはこれが元ネタだったのか等と、シーンが連鎖していくのが、人の思い出がよみがえってくる感じに似ている。2人の間だけで通じる冗談等、親密さの見せ方は手堅いものがあった。
 前知識の全くない状態で見たのだが、ジーナ・ローランズが出ていてびっくり。本当におばあちゃんなのだが、ぱっと見てもただものでない感じが漂っている。華やかなオーラがあった。

『暮れ逢い』


1912年のドイツ。鉄鋼会社の新米社員として働いていたフレドリック・ザイツ(リチャード・マッデン)は、社長であるカール・ホフマイスター(アラン・リックマン)に働きを認められ、私設秘書としてカールの自宅に住みこむことになった。カールには若く美しい妻ロット(レベッカ・ホール)と幼い息子がいた。フレドリックはロットに恋をし、ロットもフレドリックに惹かれていくが、2人とも思いを口に出すことはなかった。しかしフレドリックが仕事で南米に赴任することが決まる。監督はパトリス・ルコント。原作はシュテファン・ツヴァイクの短編小説「Journey into the Past」。ルコント監督にとっては初の英語劇(舞台はドイツなのでちょっと不思議な感じがするんだけど・・・)だそうだ。
年配の男性と若い妻、若い男との三角関係という、王道メロドラマ。キスもセックスもこの3人の間ではほとんど描かれない。しかし妙に艶っぽい。フレドリックがロットの後をついて階段を上るシーンでは毎回彼女の腰が映し出されるし、(ロットが弾いた)ピアノの鍵盤に顔を寄せたり、劇場でうなじを覗き見たりと、フレドリックの悶々とした思いが溢れるシーンが多々ある。ピアノの鍵盤を嗅ぐ様には笑ってしまったが。それらしいシーンを出さずにどれだけエロティックに見せることが出来るか、というルコント監督の実験のようにも見えた。フレドリックは下宿先のガールフレンドとはかなり即物的にセックスしているが、こちらはそんなに官能的には見えず、対称的だった。なぜ今こんなに古典的かつ控えめなメロドラマを?と思ったのだが、「控えめ」枠の中でどうやれるか、というチャレンジだったのかなとも。
仕事の話をしていてもついロットが弾くピアノの音に意識が行くフレドリック。フレドリックの様子に気づいて自分もピアノを聞くカール、というシーンが印象に残った。カールはフレドリックの思いに気づいているが、彼を部下として信頼している。ロットはフレドリックに惹かれているがカールを愛しており、フレドリックは上司としてカールを尊重している。3人はお互いを何らかの形で大事に思っているが、それでもそこからはみ出てしまう何かが生じる、というバランスの危うさがあった。

『毛皮のヴィーナス』

 演出家のトマ(マチュー・アマルリック)はマゾッホの小説「毛皮を着たヴィーナス」を戯曲化、主演女優のオーディションをしていた。めぼしい女優がおらずうんざりしていた。時間に大幅に遅れてきた女優ワンダ(エマニュエル・セニエ)に押し切られ、嫌々彼女の演技を見ることに。しかしワンダの演技は彼を引きこんでいく。監督はロマン・ポランスキー。
 支配する側とされる側が、するりと入れ替わるが、なぜか予定調和のように見えてしまう。ワンダの振る舞いは、支配する側であれされる側であれ、そもそもはトマの欲望であり、ワンダが女優である以上それを反射していくのは当然、という部分があるからだろう。なので、「入れ替わり」による天地の逆転みたいなものはあまり感じないし、2者の関係が同じ力でせめぎ合うもの、またトマが言うように「美しい」精神的なものとは見えないのだ。
 ポランスキー監督も、そのあたりは十分承知なのだろう。ワンダは「毛皮を着たヴィーナス」を読んで、ただのSMポルノだと言い放ちトマを怒らせる。ポルノじゃない、芸術だと説明しようとするトマの言葉も説得力はなく、頑張れば頑張るほどせこく見えてしまう。これは演ずるアマルリックの持ち味もあるんだろうけど、所詮下心ありきですよ、という諦念のようにも見える。エンドロールで数々のヴィーナス像が登場するのも、そういうことではないだろうか。芸術をエロの言い訳にするな!やるなら堂々とやれ!というポランスキー監督の説教のような気も・・・いやそれは気のせいか。そもそもポランスキーって結構えげつないというか、下品な見せ方も平気でやっちゃうところがあると思うので、気取ったことやってんなよって気分なのかもしれない。
 エマニュエル・セニエはすごく美人だったりスタイルがよかったりするわけではないが、「役」を演じている間はすごくセクシーだったり知的だったりする。これが女優の醍醐味なんだろうな。

『ありふれた祈り』

ウィリアム・ケント・クルーガー著、宇佐川晶子訳
1961年の夏、ミネソタ州の田舎町で、牧師の父と芸術家肌の母親、音楽の才能のある姉。吃音があり内気だが聡明な弟と暮らす13歳の少年フランク。町では幼い少年の死亡事故があり、事故ではなく他殺ではと疑う声もあった。フランクは好奇心に駆られて遺体の発見現場を訪れるが、予想外の光景を目にする。少年時代の出来事を思い返すような形式のミステリ。アメリカのミステリには、こういう「少年時代の思い出」とでもいうジャンルが確立されているように思う。ミステリと少年時代回想ネタとの相性の良さは、子供の頃には見えていなかったものが、年をとると見えてくる、真相のあたりがつくという構造によるものではないか。本作でも、大人ぶってもまだまだ子供なフランクは目の前の出来事の一面しか見えておらず、大人の心の機微には気づかない。それが、ある悲劇に遭遇することで、ぐっと大人になっていくのだ。子供故の浅慮さ、至らなさが悲劇にもつながるが、同時に、弟ジェイクの子供故の聡明さ・率直さがバランスを取っている。起きてしまったことはどんなに悔やんでも変えられないという苦さ、そこから進んでいこうとする清々しさがいい。

『映画 ST 赤と白の捜査ファイル』

 対人恐怖症の天才分析官・赤城左門(藤原竜也)とお人よしのキャリア警部・百合根友久(岡田将生)が率いる警視庁特殊機関・科学特捜班、通称ST。移送中の囚人の脱走を仕組んだハッカー・鏑木徹(ユースケ・サンタマリア)が手配されるが、焼死体で発見される。容疑者として逮捕されたのは赤城。彼の無実を信じる百合根はSTのメンバーを敵に回し奔走する。TVドラマ『ST 赤と白の捜査ファイル』の劇場版続編。原作は今野敏、監督は佐藤東弥。
 TVシリーズの最終回がもろに「ラストは劇場で!」展開だったので、商売としてはあこぎだし卑怯だなーと思った(笑)。そういう映画館への動員促しにはあまり好感持てないが、結末が気になるので一応見てしまった。映画版はとは言え、下手に事件のグレードアップをしたり見た目を派手にはしておらず、キャラクターの造形にもシリーズとしての一貫性が保たれている。良くも悪くもTVシリーズの延長で、これだったらTVの特番でやってくれればいいのにという気はするが・・・。また、新規客をあまり想定していない作りなので、あくまでファン向け物件だと思う。
 ハッカーという名称がいまどき使われているところからして大味なのだが、映画全体がわりと大雑把というか、ざっくりとしている。それが悪いというのではなく、TVが考える最大公約数的な見せ方ってこういう感じなのかなと思った。ネットの描写の使い方が『電車男』あたりの頃とあんまり変わっていないのにも苦笑させられた。Twitterにしろyoutubeにしろ、頑張って今っぽさを出そうとしているんだなとは思うが(Youtubeの使い方はそんなに悪くないと思ったけど)。
 もっとも、本作を見に来る人はどちらかというとキャラクター同士のかけあいを楽しみにしているのだろう。赤城と百合根のいちゃいちゃ感、赤城の面倒くさい人感は安心安定のクオリティ。藤原の顔芸(最近とみに面白演技の方に突き進んでいる。どうした。)も披露されているし、岡田もキュート。あざとさも相変わらず。
 ロケ場所のつながりがちぐはぐに見えたのは残念。ホテルの外観のロケーションと屋上(の設定)から見えるロケーション、建物の規模感が全然一致しない。せっかく予算が増えた(のであろう)からもうちょっと細部に気を使えばいいのになぁ。

『ひみつの王国 評伝 石井桃子』

尾崎真理子著
児童文学『ノンちゃん雲にのる』の作者であり、『くまのプーさん』やエリナー・ファージョンの諸作品など、数々の名作翻訳を世に送り出した石井桃子。某大な仕事を残した彼女だが、私生活に関してはあまり知られていなかったそうだし、彼女自身も自分のプライベートについて口にすることを好まなかったそうだ。そんな彼女への聞き取り、感会社への聞き取りを丹念に重ね、その人生をひも解く大作であり労作。子供時代のエピソードには、この人の世界を見る目の根っこはやはり子供時代に根差すんだなと思わされた。そして大量の仕事をこなしていくバイタリティと行動力、計画性は出版社勤務時代に鍛えられたのだろう。ただ、会社をやめて農業を始める等、はたから見ていると唐突に思えるところも。農地開拓の顛末も、真面目さが時に極端な方向に走っているようにも思えた。その生真面目や仕事に対する誠実さには、仕事の仕方も年代も違うが、須賀敦子の評伝を思い出した。自立した精神や正しい行いに対する意識、また表現の仲介者であることと自身が表現者であることとの揺らぎに似通ったところがあるのではないか。石井は優れた海外児童文学を大量に送り出した。しかし、作中でも言及されているが、石井自身が特に子供好きだというわけではないらしかったという点が面白いなと思った。彼女がいい児童文学を、と努めたのは、自分自身がそういうものを読みたいから、自分の中の子供に向けて送り続けていたのだろう。そういう動機の人が選ぶ・作る作品の方が深いところまで届くのではないかと思う。

『トラッシュ!この街が輝く日まで』

 リオデジャネイロ郊外のスラムで、ゴミ拾いをして生活している3人のストリートチルドレン、ラファエル(リックソン・テベス)、ガルド(エデュアルド・ルイス)、ラット(ガブリエル・ウェインスタイン)。ある日ラファエルは財布を拾う。その財布の中には、市政を揺るがす秘密が隠されていた。ラファエルたちは財布の秘密を解き明かそうとするが、警察も動き出していた。監督はスティーブン・ダルトリー、脚本はリチャード・カーティス。
 ダルトリーもカーティスも、近年の作品では作品としての(主に「いい話」としての)カタルシスを高める為には設定の細部の整合性や、小さな部分や脇役への扱いの配慮とかは、結構思い切って切り捨てちゃっている印象がある。本作も同様で、ミステリ、サスペンス的な方向に物語は進むものの、いわゆる謎解きとしては粗が多いし展開が都合よすぎる。そこが気になる人には気になるだろうけど、本作にとってそれほど大きな疵にはなっていない。ミステリ、サスペンス的な要素はあくまで味付けで、3人の少年が「正しいこと」を信じ前進していく姿こそが重要なのだ。彼らの「正しいこと」は大人から見るとシンプルすぎるかもしれないが、だからこそ力強い。ちょっと児童文学のような味わいもあった。
 ラファエルは子供故のいたらなさはあるが聡明だ。世知にたけたラット、少々軽率だが機動力のあるガルドという3人のチームワークが小気味いい。大人に頼れない中、ずっと子供同士で協力してきたんだなという雰囲気が出ている。協力はするがあまりベタベタした関係でもなさそうなところもよかった。演じる子役3人も、よく見つけてきたな!という名演だと思う。
 映画は、ラファエルの語りで始まる。彼らがビデオに向かって「告白」している映像が要所要所で挿入され、事件の経緯が徐々に見えてくる。ただ、この「告白」ビデオを見せることは映画の構造上あんまり必要じゃない気もした。他の部分のトーンから浮いている(出来すぎっぽい感じがする)のと、作中時間的にこんなに悠長に撮ってる時間あったのか?って思ってしまった。

『たんぽぽ娘』

ロバート・F・ヤング著、伊藤典夫編
休暇を過ごす為に山小屋にやってきたマーク。妻も同行するはずだったが、急用で来れなくなってしまった。退屈していた彼は、丘の上で若い娘と出会う。彼女は40年後からタイムマシンでやってきたと言う。マークは彼女に惹かれていく。表題作をはじめSF13篇を収録した作品集。ラストで見える世界ががらりと変わる「特別急行がおくれた日」(いい機関車小説でもある)や「主従問題」にはぞわりともニヤリともする。が、編者あとがきでも言及されているように、ボーイミーツガール要素の強い作品が印象に残った。表題作のロマンチックさも、「河を下る旅」の切実さもよかった。この世の中でこの人と巡り合ったことの得難さが切々と感じられる。一番印象深かったのは、ボーイミーツガールでもブラックユーモアでもない「荒寥の地より」。流れ者と少年との交流を描いた”少年の日の思い出”風作品だが、「彼」の背景を思うとどうにもやるせない。

『華氏451』

 読書が禁じられた近未来の世界。焚書官が書物狩りを行い、書物を持っている者は密告され、摘発されていた。焚書官のモンターグ(オスカー・ウェルナー)は書物を愛する女性クラリス(ジュリー・クリスティ)と出会い、本に興味を持ち始める。彼は自宅に本を運び込みこっそりと読書にふけるが、妻(ジュリー・クリスティ二役)は不安がるばかりだった。原作はレイ・ブラッドベリの小説『華氏451度』。監督はフランソワ・トリュフォー。1966年の作品。
 トリュフォーにとっては初のカラー映画、かつ英語圏で製作した作品(セリフも英語)だそうだ。色使いがとてもポップで鮮やかだし、モンターグの自宅のインテリアなどは60年代における「未来」感にあふれた、無機質でモダンなものだ。対称的に、クラリスの自宅や、私設図書館を運営している老女の屋敷は、懐かしさ漂う年代物の建物。インテリアもアンティーク調だ。書物は過去のもの、過去は振り返らず前だけ見るべきという世界観と呼応している。
 作中、モンターグの上司が読書という行為がいかに無駄か、悪しきものかとあげつらい糾弾する。しかし、その糾弾を裏返すと全部、読書の素晴らしいところになっているのだ。笑ってしまうと同時に、これは読書好きと反読書派とは永遠に和解できないのでは・・・という気持ちにもなった。自分の実体験ではないことを読むから、他人のことや自分が知っている世界以外の世界を想像する力が養われる、ひいては他者を理解しようとする姿勢が生まれると思うんだけど・・・。読書することは、生身の自分とは別にもう一通り生きることなのだと思う。
 ラスト、雪が舞う中そぞろ歩く人たちの姿は、幻想的で美しいが、どこか哀しい。この世に人類がいなくなっても書物が残るとは思えないからだ。


『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』

 1948年、モンタナ州にクラスネイティブアメリカン、ブラックフット族のジェームズ・ピカード(ベニチオ・デル・トロ)は、大戦からの帰還後、頭痛をはじめとする奇妙な症状に悩んでいた。カンザス州トピカの軍病院に入院するが、原因はわからないままだった。病院の医師は精神分析医のジョルジュ・ドゥヴルー(マチュー・アマルリック)に診断を依頼する。ドゥヴルーは人類学者としてアメリカ・インディアンの実地調査も行っていたのだ。ピカードとドゥヴルーはセッションを始める。監督はアルノー・デプレシャン。原案はフランスの民族精神医学者ジョルジュ・ドゥヴルーの著作『夢の分析:或る平原インディアンの精神治療記録』。
 デプレシャンが本作のような映画を撮ったことが意外だった。人に対す視線が辛辣な(愛はあるが皮肉もたっぷりというような)作風というイメージがあったのだが、本作のピカードとドゥヴルーの関係は大変真摯なもので、皮肉さは感じられない。他人とのコミュニケーションに対する信頼が感じられるのだ。デプレシャン作品で男性同士の関係性というとあまり印象に残っていないので、そういう点でも意外ではあった。
 ドゥヴルーはカウンセラー、ピカードは患者ということになるのだが、カウンセリングはカウンセラーが一方的に聞き、患者が一方的に喋るというものではなく、お互いに(カウンセラーが自分のことに言及することはあまりないだろうが)何らかの精神的なやりとりがあるものだろう。深いレベルで相互にやりとりするものがあった時、いいカウンセリングだったということになるのでは。お互いに相手の、そして自分の精神の深い部分に潜っていくから、双方にとってハードなものでもあるし、正しくやり取りがなされた場合はいい影響が出る、というカウンセリングの過程を端的に表している。
 ピカードとドゥヴルーには、自分のルーツをはく奪されている(ピカードはネイティブアメリカンだがアメリカ社会の中ではブラックフット族としての名前は使わず英語名を使う。ドゥヴルーはルーマニア系ユダヤ人で、大戦中迫害を逃れる為フランス人と自称)、ないしはルーツを揶揄されるという共通点がある。ピカードが軍病院の医師に「酋長」と呼ばれて「俺はジェームズだ」ととっさに言い返すのだが、こういうことが積もり積もって彼の精神を傷つけていたのだろうとわかる。
 ドゥヴルーとピカードの間には友情といってもよさそうなものが生まれるが、治療が終了し2人が別れた後、頻繁に連絡をとったりお互いに会いに行ったりはしなさそいうだ。2人はあくまでカウンセラーと患者で、お互いに必要以上には立ち入らない。しかし、2人の心は確かに通じたし、深いところで理解しあったのだろう。この先二度と会うことがなくても、おそらく2人は「友人」と言えるのではないかと思う。

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