3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2014年12月

2014年ベスト本

2014年に読んだ本(旧作含む)の中、特に良かったもの10点。今年は諸々の事情で読書が進まなかった・・・。来年もあんまり読めなさそうなのが辛いが、自分にマッチする作品を見落とさずにいたい。

1.ジェラルド・ダレル『虫とけものと家族たち』
 イギリスでは長年ベストセラーとして愛されている作品だそうだ。自然への観察眼と生き生きとした描写が素晴らしい。
2.アン・ビーティ『この世界の女たち アン・ビーティ短編傑作選』
 ”普通”のことのしんどさに、心えぐられる短編集だった。
3&4.山岸真編『SFマガジン700【海外篇】』&大森望編『SFマガジン700【国内篇】』
 SFマガジン創刊700号記念のアンソロジー。国内・海外ともにバランスよく初心者にもお勧めできる。
5&6.杉江松恋編『ミステリマガジン700【海外篇】』&日下三蔵編『ミステリマガジン700【国内篇】』
 SFマガジンが来たら当然ミステリマガジンも入れたい(笑)。
7.アントニオ・タブッキ『いつも手遅れ』
 ほんのり甘い中にも苦さが広がる。
8.トム・フランクリン&ベス・アン・フェンリィ『たとえ傾いた世界でも』
 やっぱりこういうのがすきなんだよなー。
9&10.ベン・Hウィンタース『地上最後の刑事』&『カウントダウン・シティ』
 シリーズなので一緒に。これもまた「傾いた世界」であるが、傾かず生きようとする主人公に好感。


2014年ベスト映画

今年見た新作映画(特集上映・映画祭含む)の中で、特によかったもの10本を選びました。今年はなかなか豊作だったのではないかと思う。

1.『ファーナス 決別の朝』
やっぱり自分はこういうのが好きなんだよなぁと痛感。ハッピーエンドにならないのはわかっているがこういう風にせずはいられない人というのが。
2.『ジャージー・ボーイズ』
音楽劇としても、あるグループが上りつめ没落していく、そして更にその先を描いた大河ドラマとしても最高。エンドロールには泣いた。
3.『キャプテン・アメリカ/ウィンターソルジャー』
ポリティカルサスペンスブロマンスとして今年最もときめきましたね。今まで見たアメコミ原作映画の中でもベスト。
4.『ショート・ターム』
ふがいなくても歩み続ける人たちの姿が清々しい。
5.『ダラス・バイヤーズ・クラブ』
自分の戦いが、やがて誰かと繋がることにも。
6.『グランド・ブタペスト・ホテル』
好みは分かれるだろうが映画美術の一つの極北だと思う。箱庭的だと思っていたらすこんと歴史的な視野が入ってくるところも「映画」。
7.『ラッシュ プライドと友情』
そのジャンルに疎い人にも見やすい・わかりやすい見せ方をしている職人技。王道少年漫画的展開に燃えた。
8.『プールサイド・デイズ』
他人の価値観での評価だけが絶対じゃないんだよと少年少女を励ましてくれる作品では。
9.『LEGO(R)MOVIE』
狂気のアニメーション。そしてレゴがレゴである所以を見事に映画化している。
10.『オーバー・ザ・ブルースカイ』
悲しみの速度が違うという悲劇。音楽が良かった。

『超能力研究部の3人』

 アイドルグループ乃木坂46の秋元真夏、生田絵梨花、橋本奈々未はオーディションで選ばれ、映画に出演することになった。3人が演じるのは超能力研究部の高校生。しかし監督はアイドルの枠を出ない3人の演技に納得いかず、リテイクを繰り返す。監督は山下敦弘。
 公式サイトのプロダクションノートによれば、抽象的なセットでリハーサルと称して3人に演技させたものを撮影。その後、実際に映画を撮るというていでメイキング風映像も交えて撮影。同時に3人へのインタビュー等を撮影という方法を撮り、3人には自分たちが自分自身として出演するということは、途中まで伝えていなかったそうだ。ただ、ドキュメンタリー風の映像を見ても、スタッフも本人たちも、「言わされている」感が強くて、モキュメンタリーにしか見えない(途中からは明確にモキュメンタリーとして撮っているのだが)。もっといわゆる演技が上手くて自然体風の振る舞いとのメリハリのある出演者なら違うのかもしれないが、そういう出演者を使って本作のような形式のものを撮っても、大して面白くも挑戦的でもないだろう。それほど演技に長けた出演者ではないからこそ、作中作とモキュメンタリー風部分とのシームレス感が出るのだと思う。
 とは言え、本作が多くの観客にとって面白いかというと、微妙なところだろう。本作は主演の3人が乃木坂のメンバーであり、グループ内でどういう立ち位置でどういうキャラ設定なのかということを観客が知っている、アイドルファンであるという前提でつくられていると思う。だからこそ彼女らへのいじりが執拗なのだろうし、アイドルという制度への皮肉的な演出も入れられているのだろ。それをアイドルに興味がない、彼女らについて知識がない人が見ても、だから何?という気分になるのではないか。映画の構造そのものが、アイドルが主演する、ということに依っているので、アイドル自体に興味がないとちょっと辛いかなという気がした。

『ベイマックス』

 吹き替え版で鑑賞。サンフランソウキョウ(このネーミングはなんとかならなかったのか・・・)で大学生の兄タダシ(T・J・ミラー/小泉孝太郎)と叔母と暮らす14歳のヒロ(ライアン・ポッター/本城雄太郎)は、違法なロボット格闘賭博に夢中だった。ヒロを心配したタダシは大学のラボに彼を連れていく。ヒロは大学進学を望むようになるが、タダシは火事に巻き込まれ死んでしまう。ショックを受けひきこもっていたヒロの前に、タダシが遺したケアロボット、ベイマックス(スコット・アツィット/川島得愛)が現れる。監督はドン・ホール&クリス・ウィリアムズ。
 サンフランシスコと東京のイメージを合わせた町が舞台なのだが、地形のアップダウンが激しく、路面電車などもあって雰囲気が楽しい。まず舞台のつくりこみが魅力的にできているのだ。看板やモブの人たちにいたるまで、細部のつくりこみは流石。この部分で最初に引き込まれた。
 ヒロを始め、キャラクターそれぞれの造形が型にはまったり一面的になりすぎないように注意がはらわれていて、好感が持てる。特にタダシの研究室仲間たちは、いわゆる理系オタクだったり紅一点(女子は2人いるんだけど)の「こうであろう」という枠にはまらない、かつ「キャラ」としてある程度わかりやすいという配慮がされておりバランス感覚が感じられた。ワサビの極度な几帳面さや融通のきかなさは、世の中では「ちょっと困った人」とか「チームメイトとしてはやりにくい」とカテゴライズされそうが、本作の中ではそういう扱いではなく、「そういう人」というだけのことだ。
 また、いわゆる「敵」ポジションのキャラクターや、「いけすかない」キャラクターであっても、最初から「敵」だったわけではないし、いけすかない奴だから悪い奴だというわけではない、という作り方。あるキャラクターがかなり切羽詰まった状況なのに、空飛ぶベイマックスを見て「あの空飛ぶロボットやるなー!」みたいなことを言うのには笑ってしまった。根っこはそういう人なんだなと。
 ただ、これらのキャラクター造形・配置に関する配慮と、ベイマックス本体をめぐる物語とは、実のところあんまり絡みどころがなかったんじゃいかなとも思った。親しい人を亡くしたヒロがそれを受け入れていく物語に、ヒーローという存在にスポットを当てた物語を無理やり組み込ませたように見えたのだが、これもとも とはどちらが先にあった物語のアイディアだったんだろうか。
 とはいえ、ベイマックス自体は大変かわいらしいし、兄がベイマックスに託したものを、ヒロが理解していく過程にはぐっとくる。ベイマックスがヒロにまた託すことになるというところには、さらにぐっとくる。


『メビウス』

 父(チョ・ジェヒョン)、母(イ・ウヌ)、息子(ソ・ヨンジュ)の3人家族。夫と若い愛人(イ・ウヌの二役)との浮気を許せない母は、夫の性器を切り取ろうとするが失敗し、息子の性器を切り取り家を飛び出す。性器を失った息子への罪悪感にさいなまれた父は、ある代替法を見つけ出し、息子との絆が回復したかに見えた。一方、息子は密かに父の愛人を訪ねる。監督・脚本はキム・ギドク。セリフを一切使わず、肉体と話声以外の声(笑い、泣き、叫び)のみで構成されているが、それが全く不自然でないという所は見事だった。
 過激な内容から、韓国では上映規制がかけられたそうだ。確かに夫と息子を去勢しようとする母親というシチュエーションは強烈だが、上映中は客席から結構笑いが起きていた。なんか、極端なことを大真面目にやっているので、客観的にはかなりおかしなシチュエーションではある。熱が入りすぎて妙なことになっているのだ。父親と息子が性的な快感の代替品を調べてだんだん息があってくる過程など、コメディのようでもある。一緒に検索とかするなよ!とツッコミたくなる。すごく痛そうなシーンが多いし、家族・男女の関係性もヘビーなのだが、変なおかしさもあった。悲劇と喜劇は表裏一体だとよく言うが、ほんとそうだなと。
 本作、一見家族と男女のからみあった愛憎を描いているように見えるが、どちらかというと父・息子サイドの男性の物語としての側面が強いと思う。男同士が性的な方向性(の喪失)の一致という点で関係を深めるが、女性側は男性に対する「母」ないしは「愛人」という位置づけの2択のみで、それ以外の何かが見当たらないし、女性側のドラマというのはあまりない。母と愛人を同じ俳優が演じているのも、ひとくくりに「女性」というカテゴリーを意味しているように思える。
 息子も父親のような女性とセックスできる存在になっていくことを母親は許せず、去勢という方向に走るのだろうが、父親と母親が息子を取り合っているようにも見えた。父と息子が母を取り合うというのはオイディプスじゃないけどよくあるパターンだろうが、父と母とが息子の取り合い、というのは、性的なものというよりも家庭内パワーバランス問題みたいで、より実生活っぽい気がした。まあ実生活で夫や息子の去勢はしないだろうが・・・。
 とはいっても、キム・ギドク監督はやはり現代の神話のようなものをやりたいのだと思う。セリフを排したドラマ作りも、固有名詞のなさも、固有の物語というよりもある一つの型のようなものに見せたかったからではないか。

『百円の恋』

 無職の実家住まい、32歳の一子(安藤サクラ)は、妹と喧嘩になり、実家を飛び出して人生初の独り暮らしを始め、100円ショップでアルバイトにつく。100円ショップの常連客・狩野(新井浩文)は、近所のボクシングジムのボクサーだった。一子は狩野に恋をするが、上手くいかない。鬱屈を晴らすように、彼女もボクシングを始める。監督は武正晴。2012年に新設された「松田優作賞」グランプリを受賞した、足立紳の脚本。
 社会の底辺でくすぶっている女性が奮起するという、よくありそうな話なのに、なぜこんなに胸を打つのか。すごく巧みだったり精緻だったりする作品というわけではないのだが、熱量と、何より主演の安藤の存在感にやられた。この人は本当に面白い、いい女優になったなぁ。ゆるみきった肉体が、ボクシングにのめり込むにつれてどんどん引き締まっていくし表情もはっきりとしていく。プロとはいえ、短期間でここまで体型が変わるのかと唸った。そんなに体の動く人という印象はなかったのだが、本作ではボクシングの練習シーンも満載で、ステップは軽やかだしパンチのキレはいいし、本当にきっちり役を仕上げてくる人なんだなと(プロ俳優である以上当然なのかもしれないが、熱意はあっても肉体がついてこない場合だってあるだろう)。
 一子は、最初はフラれた腹いせでボクシングを始めたかもしれないが、徐々にボクシングをただやりたいから、ボクシングが好きだから闘って勝ってみたい、という方向に変わってくる。何か・誰かへのあてつけだったり、誰かや何かを背負ったりするのではなく、自分だけの為だ。自分とボクシングとの関係に昇華していく様が清々しかった。その本気が、クライマックスで周囲をも巻き込んでいく。
 一子は言動がふてぶてしいわりには押しに弱い。他人との距離感や「そつのない」振る舞いがわからず、男性関係でもひどい目に遭う。自分はそういう扱いをしてもいい女=100円の女だと見られているとうそぶく。一子はボクシングによってそこから抜け出す。100円は100円でも誰かの100円ではなく、自分の100円だから勝手に使わせることはないのだ。

『ヴェラの祈り』

 美しい妻ヴェラ(マリア・ボネビー)と2人の子供と暮らすアレックス(コンスタンチン・ラブロネンコ)。一家はアレックスの父親が遺した田舎の家で夏を過ごすことになった。長閑な田舎の生活を楽しむ一家だが、ヴェラがアレックス以外の男性の子供を妊娠していると告白し、夫婦の間に亀裂が入る。監督はアンドレイ・ズビャギンツェフ。原作はウィリアム・サロイヤンの小説。
 ヴェラが何を思い、何を考えているのかは、映画中盤まであまり言及されない。むしろ、アレックスの表情、行動にスポットが当たっており、アレックス主体の物語のように見える。ヴェラは作品上の「謎」として宙吊り状態のままなのではと思って見ていた。が、終盤になって、そうじゃなくて単に(アレックスが)不注意なだけか!という怒涛の過去シーンが。冷や水を浴びせられたようなはっとするものがあった。
 終盤で彼女が吐露する思いは、アレックスにも、その他の人たちにも理解されにくいものだろう。単にメンヘラ女扱いされて終わりと言うこともありうる。が、彼女にとっては生死に関わるくらいの問題だろう。そのギャップが、おそらく更に彼女を苦しめる。彼女の行動は極端にも思えるが、わかってもらえないなら、祈るくらいしかないではないか。同監督の『エレナの惑い』と合わせて見たが、エレナよりヴェラの方が生き方が難儀そう。エレナは「母」であることを選んだが、ヴェラは母親としての自分も妻としての自分も選びきれない、その役柄を装いきれなかったのではないか。それは彼女のせいではないと思うが、それだけにいたたまれない。
 物語のスケールに対して長尺すぎて、もっとコンパクトに締めてほしかった。同じシチュエーションの反復が多いが、そんなにやらなくてもなと思った。ただ、田舎の風景は大変美しく、ずっと眺めていたくなる。夏といっても小麦が色づくくらいの陽気で、黄金色の丘が連なっており絵本のよう。古びた教会や古い家々も絵になる。

『エレナの惑い』

 元看護士のエレナ(ナジェジダ・マルキナ)は裕福な実業家ウラジミル(アンドレイ・スミルノフ)と10年前に出会って交際を始め、2年前に再婚した。エレナは無職の息子を経済的に援助しているが、ウラジミルはそれを快く思わない。孫の学費の援助をエレナが頼んでもいい顔はしなかった。一方エレナも、一人娘への経済的な援助は欠かさないウラジミルの姿勢を快く思わなかった。監督はアンドレイ・ズビャギンツェフ。
 エレナとウラジミルの関係がそんなに情熱的なものではないことは、彼らの生活からもなんとなく感じられる。寝室は別だし、わかりやすく愛情表現し合うでもない。穏やかな関係ではあるが、時折、ウラジミルが無意識にエレナを下に見ている(家政婦みたいな存在として)感じがしてひっかかった。これはウラジミル特有のものではなく、ロシアのこの年代の男性はこんな感じ、ということなのかもしれないが。
 夫婦の間の溝が深まるのは、お互いの子供に関してだ。それぞれ前のパートナーとの間に生まれた子供(といっても成人しているが)がいる再婚同士なのだが、お互いに、相手が自分の子供だけを甘やかしているように見えてしまう。子供が成人しているだけに、ウラジミルの主張は正論といえば正論だ。しかしエレナとしては自分を助けるように子供も助けてほしいというのも人情ではある。しかしエレナの息子と孫が一貫してろくでもなさそうで擁護する気がそがれていくあたり、意地の悪い設計だなとも思った。どちらかにとっての「自業自得」に見せない為の配慮がされていると思う。とはいえ、エレナのやったことは許されることではないのだが。
 ズビャギンツェフ監督の作品は、『父、帰る』を見たことがあるが、どこか犯罪の香りがする。何かよくないことが起きそうな予感が、冒頭から漂っている。冷ややかな映像の色合いによるものか、音楽の使い方によるものなのか。極力寒々しく、徹底して温かみを感じさせない質感になっているところが面白い。同じショットの中でフォーカスされた部分が手前から奥へ、また手前へと変わる手法が多様されているが、これは監督の趣味なのだろうか。

『天才スピヴェット』

 10歳にして天才科学者のT・S・スピヴェット(カイル・キャトレット)に、スミソニアン学術協会から電話がきた。最も優れた発明家に送られる、ベアード賞の受賞が決まったというのだ。しかしスミソニアン側は、スピヴェットが10歳の少年とは知らず、彼の父親が発明家だと信じていた。スピヴェットは授賞式に出席する為、1人でモンタナからワシントンを目指す。監督はジャン=ピエール・ジュネ。原作はライフ・ラーセンの小説『T・S・スピヴェット君 傑作集』。
 ジュネ初の3D映画として作られた本作。ジュネの毒がありつつファンタジックな映像センスとどう合わさるのかなと思っていたら、なかなかよかった。各章のイントロに「飛び出す絵本」が使われているのだが、当然3D効果を狙っているというのもあるだろうけど、作品の雰囲気に合っている。飛び出させ方の塩梅が下品ではなく、ヴィヴィッドな色彩とあいまって、絵本めいた雰囲気を維持させているのがいい。スピヴェットの想像内で機械が動き出すシーンの演出など、生き生きとしていて楽しい。
 ただ、物語はどこか苦さをはらんだものだった。スピヴェットは家庭内で居心地が悪そうなのだ。実は彼には二卵性双生児の弟がいたのだが、事故で死んでしまった。カウボーイの父は、学者肌のスピヴェットよりも腕白で自分によく似た弟をより愛していたので、スピヴェットとしては弟の死への罪悪感、なぜ自分が生きていて弟が死んだのかという思いが拭えない。親としては子供たちに順列をつけているわけではないんだろうけど、複数の子供がいたら、公平に接していても愛着度合いの差異は否めないと思う。スピヴェットはそこに異を唱えたいというわけではなく、それはしょうがないこととして受け入れており、だからこそ居場所のなさを感じているのだろう。彼の愛する科学の世界は、父親にとっての愛する世界ではないのだ。別に虐待されたりしているわけではないし不寛容な親というわけでもないが、親の世界と自分の世界が違う、自分が好きなものを理解されないというのは、子供にとってはかなりきついのではないか。
 一方、昆虫学者の母親は自分の研究に没頭しており、子供たちへの注意は(愛してはいるが)少々散漫、。ティーンエイジャーの姉は両親ともスピヴェットとも全くタイプが違い、アイドルに憧れおしゃれや友達とのお喋りを楽しむ女の子だ。家族それぞれにあんまり共通項がなく、好き勝手やっているという印象。家族は一見ばらばらだ。ただ、本作のユニークなところは、彼らが一致団結することなく、個々のベクトルがばらばらなまま、家族として存在しているところ、それが最後まで変わらないところだと思う。世界を全て共有しなくても、愛は成立するのだ。むしろ、多くの家族がそういうものなのではないか。

『サラゴサの写本』

 ポーランド映画祭2014で鑑賞。ナポレオン戦争下の、スペインのサラゴサ。フランス軍将校が戦闘中に逃げ込んだ家屋の中で、美しい挿絵の入った古書を見つける。同じく家屋に入ってきた敵対するスペイン軍将校も古書に魅せられ、フランス軍将校に書物を翻訳して聞かせる。古書に記された物語の主人公は、マドリードを目指す大尉アルフォンス(ズビグニエフ・チブルス)。同中美女2人に招かれ、次々と不思議な体験をする。監督はヴォイチェフ・イエジー・ハス。原作はヤン・ポトツキの『サラゴサ手稿』。
 敵同士の将校が1冊の本に魅せられて何となく仲良くなってしまう(2人並んで本を読み始める姿がユーモラス。外ではドンパチが続いているし建物も崩れ落ちてきそうなのだが・・・)という導入からして愉快なのだが、この2人がその後の話に全く絡んでこないというところがなお愉快。本筋は本に記されたアルフォンスの物語なのだ。
 しかしこの物語も、あっちにフラフラこっちにフラフラしていく。アルフォンスがフラフラしているというわけではなく、他の登場人物がそれぞれ自分の物語を語りはじめ、さらにその語られた物語の中で更に別の人が自分の物語を、というような、入れ子構造になっているのだ。登場人物がおもむろに話し出すので、今その話必要?ともどかしい気持ちにも。壮大なホラ話のような、夢を見ているのか覚めているのか、そもそも誰の夢なのかわからない。語りの主体を曖昧とすることで、混沌とした雰囲気が醸し出されている。それぞれのお話は他愛ないのかもしれないが、それをどんどん詰め込んで入れ子を何重にもしていくことで、奇妙で幻想的な味わいが生まれていた。
 モノクロ作品なのだが、美術は豪華でお金もかかっていそう(豪華な作り物、という雰囲気にはマックス・オフュルス監督『歴史は女で作られる』をちょっと思い出した)。当時の、しかもアート作品の美術としては破格なのではないだろうか。カラーだったらさぞ華やかだろうと思ったが、モノクロだからこそ夢の中のような曖昧な雰囲気が強まっているのかもしれない。
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