3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2014年11月

『25』

 半グレ集団やヤクザから金を巻き上げて着服している、悪徳刑事の桜井(哀川翔)と日影(寺島進)。とうとう消えた押収金が警察署内で問題になり、250万円を明日までに提出しろと署長(大杉漣)から命令される。頭を抱える2人だが、巨額年金横領事件の容疑者・九十九(温水洋一)に遭遇。九十九は横領した金の残額25億円をまだ隠し持っていた。しかし九十九の金を巡って、半グレ集団もヤクザも動き始めていた。監督は鹿島勤。東映Vシネ25周年記念作品。
 うーん、このお話だったらもうちょっとタイトにまとめてほしいというのが正直なところ・・・。銃撃戦とかアクションとかにそんなにバリエーションがあるわけでもないので(「お立ち台」で哀川が登場するのには笑っちゃったけど)、全体的にかったるい。色々盛り過ぎてとっちらかっている。そんなに複雑な話じゃないんだけど(笑)。まあ、その雑さというか大雑把さがVシネらしいということなのかな。
 哀川主演作品だが、その哀川が映画から浮いて見える。哀川はVシネのスターだが、最近はバラエティ番組への出演も多くて、むしろ数々の面白エピソードの方が私の記憶に残ってしまっているせいかもしれない。ドラマ作品であれば、アクセントとして出るのはいいのだが、主演として見続けるのはちょっと辛い・・・。せりふ回しとかももたっとしていて気になっちゃう。相棒役の寺島が、力の7割くらいなんじゃないの?というあんまりキレのない演技だったのも痛かった。
 対してヤクザ役の俳優たちはスクリーン映えする。映画の世界観にしっくりなじんでいた。俳優の素のキャラが見えない方が、作中キャラクターとして見やすいというのはあるよなぁ。物語上のエピソードとしても、ヤクザ側の方が何か見られる(というか刑事側がユルすぎる)ってところもあるのだが。

『人間狩り』

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映「ミステリ劇場へようこそ」にて鑑賞。1962年、松尾昭央監督作品。原作・脚本は星川清司。刑事の小田切(長門裕之)は敏腕で総監賞を何度ももらっているが、正義感が強すぎ非情な為、署内では浮いていた。ある日、町の顔役で食わせ者の田口が、15年前の強盗致死事件の口を割るが、殺人の実行犯は自分ではなく房井(大坂志郎)なる男で、居所は知らない、もう時効だとうそぶく。時効まで37時間あると気づいた小田切は、執念の捜査を開始する。
 いやー面白かった!特集上映のフライヤーでは傑作刑事ドラマの名作とうたっていたが、誇大広告というわけではなかった(笑)。捜査もののひとつの面白さである、出てきた証言・証拠を追って更にあっちに行ったりこっちに行ったりという「移動」がたくさんある、そしてその「移動」が列車によるものであるところが、個人的には魅力だった。小田切は証言を取るためにわざわざ熱海まで行く(時効まで1日半くらいしか時間がないのに!)んだが、当時ののんびりとした列車の旅では、ずいぶんやきもきしたんじゃないだろうか。列車と駅が結構出てくる作品だ。
 また、刑事ドラマの定番とも言えるが、正義とは何か、赦しとは何かというテーマで真っ向勝負している。直球すぎて、この手のドラマの種々のバリエーションが出てきた現代では、若干単純化しすぎなきらいはあるのだが、だからこそ今見ても古びないのかなと思う。小田切は正義感故に時に暴力的にもなり、他人の過ちを許さない。彼の行為は警官として「正しい」のだが、その正しさは独りよがりなものではないのか、警官としての(法律上の)正しさと人を思いやる上での正しさは必ずしも一致しないのでは、というジレンマは刑事ドラマの定番だろう。
 小田切の恋人で元はある事件の犯人の愛人だった志満(渡辺美佐子)は、小田切が口には出さないが自分をどこかで許していないと感じ別れを切り出す。 また、小田切の捜査がある一家を崩壊させそうだと知った同僚の桂木(梅野泰靖)は、小田切を諭す。小田切が刑事の正義を取るか、人としての正しさを取るか、最後まで目が離せない。

『小説を、映画を、鉄道が走る』

川本三郎著
鉄道好きの著者が、鉄道が登場する日本の文学や映画について、その作品や時代背景、そして登場する鉄道について綴るエッセイ集。第37回交通図書賞受賞作。そんな賞があることを初めて知ったよ(笑)。鉄道が現代以上に交通手段の主役で、「どこかへ行ける」という希望の象徴のようだった時代から、ローカル線が次々と廃止されていくようになるまで、日本の(取り上げられる作品の)時代背景の解説、そして、その作品の中で鉄道がどういう意味合いで登場するのか、広く作品が取り上げられており楽しい。文人で言うと内田百閒の鉄道好きは有名だけど(本作にも登場する)、芙美子があの当時の女性としては異例の一人旅好き・鉄道好きで、行動力にあふれているのには驚いた。本当にひょいっと列車に乗っちゃうんだよねぇ・・。また、鉄道と言えば時刻表トリックその他もろもろミステリ界では一ジャンルを確立しているくらいだが、松本清張作品が頻繁に登場する(やっぱり鉄道好きだったんでしょうね)。著者本人のその鉄道に関する記憶・体験(鉄道が出てくる作品に触れるとちゃんと現地に行ったりしているんですね)も加えられているので、旅エッセイのような楽しさも。私は鉄道に詳しくはないけど、列車に乗ってどこかに行きたくなる。

『小野寺の弟、小野寺の姉』

 子供の頃に両親を亡くし、以来姉弟2人暮らしの小野寺進(向井理)・33歳と小野寺より子(片桐はいり)・40歳。引っ込み思案な進むと口やかましいより子の同居生活はまあ上手くいっていた。或る日、1通の郵便が間違って配達され、より子は直接届けに行こうと言いだす。手紙のあて先人は、絵本作家の岡野薫(山本美月)だった。監督・脚本・原作小説は西田征史。
 映画というよりもTVドラマを大画面で見ているような絵のつくり方だった。そんなにクロースばかりでなくていいし、カメラを常に動かしておかなくても距離の近さというか、親密さみたいなものはかもし出させると思うのだが。過去の回想シーンもくどくて、いちいちそれを見せなくても、ニュアンスでにおわせるくらいで大丈夫ですよ・・・と色々気になってしまった。映画としては大分野暮ったい感じ。
 とは言うものの、むげにけなす気にはなれなかった。主演の2人がいい味出していて、立ち居振る舞いに可愛さがある。向井を初めて俳優として良いと思ったよ(笑)。本作の魅力は、とにかく片桐、向井の力によるところが大きいと思う。
 一見マイペースで強い人に見えるより子の抱える傷、コンプレックスみたいなものは、個人的に身につまされた。自分に他人(特に恋愛対象)が認めるような特別な価値があるとは思えない人は多いと思う。そういうコンプレックスって、大体10代で形成されるんじゃないかなー。弟に早く次の恋人を作れとせっつくのも、自分には得られない(と彼女が思っている)幸せを弟にはつかんでほしいと思っているからじゃないだろうか。
 でも、彼女が手に出来ないと思い傷ついている幸せって、多分に画一的な、世間が「こうであろう」と思っているものにすぎないんじゃないか。より子が進を炊きつけるのも、より子の職場である眼鏡屋の店主夫婦が彼女の「恋愛運UP」を願うのも余計なお世話と言えば余計なお世話。ただ、それが幸せのほんの1パターンだと思えればいいんだろうけど、その1パターンこそが欲しいってところが辛いんだろうなぁ・・・。

『まほろ駅前狂騒曲』

 まほろ市で便利屋をやっている多田啓介(瑛太)と、中学時代の同級生で居候の行天春彦(松田龍平)。ある日、凪子(本上まなみ)から、かつて行天との間に生まれた娘・はる(岩崎未来)を預かってほしいと依頼される。子供嫌いの行天を多田は何とか説得しようとする。一方、麻薬売人の星(高良健吾)が怪しい団体「家族と健康食品協会」の調査を依頼してくる。原作は三浦しをんの同名小説。監督は1作目に引き続き大森立嗣。
 1作目を見ている、ないしは原作を読んだりTVドラマ(大根仁監督)を見たりしていることが前提となっているのか、個々の登場人物や登場人物同士の関係に関する説明はごく少ない。一見さんには優しくないかもしれないが、映画としてはこのくらいの方が、見ていてすっと入っていける。シリーズを知らなかったとしても、あんまり丁寧に説明されると、映画の流れに乗ろうとする腰を折られるような感じになるので。
 一作目では、こんなにさびしい人たちの話だったのかと、原作を読んだ時には読み落としていたエッセンスを再発見してびっくりした。今回は、そこまでのさびしさは感じない。多田と行天との間柄が大分こなれて変化しているし、彼らが仕事でかかわった人たちとの関係が、なんとなく続いているからかもしれない。一つ一つの関わりは対して濃くないが、それでもいくらかの繋がりがあれば、そんなに世界と断絶している感じにはならないんじゃないだろうか。それは、多田たちだけでなく、彼らの依頼人にとってもそうだろう。
 また、子供たちが関わってくるというのも大きいかなと思った。子供だと、世話が必要だし大人に責任が生じるし、有無を言わさず双方が関わらざるを得ない。孤独とか言ってる場合じゃなくなっちゃうもんなぁ・・・。多田も行天もそれぞれの過去の問題から、自分が「親」になることに恐れを抱いている。そんな2人が、自分も(親としてではないかもしれないが)他人を守り、関わっていけるのかもしれないと思えるようになったのかもしれない。それがラストのほの明るさにつながっているように思った。


『やさしい人』

 さほど売れていないミュージシャンのマクシム(ヴァンサン・マケーニュ)は、パリから父親(ベルナール・メネズ)の住む実家に戻っていた。雑誌の取材がきっかけで、地元の若い女性メロディ(ソレーヌ・リゴ)と付き合い始め、ロマンスに心躍らせるが。監督はギョーム・ブラック。
 こ、これは辛い・・・とは言っても映画としてではなくて、マクシムの言動のイタさが。見る側にそう思わせるということは(真に迫ってるってことだろうから)、映画としては成功しているということなんだろうけど。ナイーブで人生に迷っている人が、若くて(それなりに)かわいい子といい感じになって舞い上がってしまっている姿には、あああ周囲見てー!微妙に彼女のテンションと食い違っているかもしれないからー!と叫びたくなる。そんな、見方によっては下世話・意地悪になってしまうシチュエーションだが、そっちには寄らない。マクシムは滑稽かもしれないが、彼に対する視線は下世話ではないので耐えられるのだ。グラック監督は『女っけなし』にしろ本作にしろ、かなり引いた目線で、批判じみたニュアンスは入れずに撮るので、不穏さが漂っても、それを主人公の「ボケ」として突っ込みを入れる余地が出てくるように思った。「ボケ」を体現しているようなマケーニュの佇まいも素晴らしいのだが。
 題名の通り、マクシムは「やさしい人」で、メロディはそこに惹かれたのだと思うが、やさしさこじらせて後半えらいことに・・・。そこまでやるか?!と突っ込んでしまった。愛が重いよ!それだけ彼にとっては切実な関係だったのだろうが、彼と彼女の間のディスコミニュケーションが際立って見えた。彼女が特別ひどい女というわけではないだけにより一層。彼女も(彼も)また、複雑さをもっと1人の人間なのだ。
 本作、主人公と女性との関係を描いているが、同時に、親子関係の描かれ方に味わいがあった。マクシムの父親は女好きで、若い恋人もいたらしいのだが、確かにこの人の方がマクシムよりもモテるだろうなぁという空気が醸し出されているのだ(笑)。服装もマクシムよりもシュっとした感じだし、女性に対する態度もてらいがないというか、ほどよくこなれている。こういう人が親だと、恋愛に奥手な子供はちょっと困っちゃうよな・・・。これは父親役のメネズの雰囲気の良さも大きかった。なお、犬が名演!


『誰よりも狙われた男』

 イスラム過激派として国際指名手配されている青年・イッサ(グレゴリー・ドブリンギン)は、ドイツのハンブルグへ密入国する。イッサは人権派弁護士アナベル(レイチェル。マクアダムス)を介して銀行家ブルー(ウィリアム・デフォー)とコンタクトをとる。ブルーが管理する秘密口座には父親の遺産があり、相続したので引き出したいというのだ。ハンブルグの諜報機関でテロ対策チームを率いるベテランエージェントのギュンター・バッハマン(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、イッサの資産がテロ組織への資金援助に使われるとふみ、彼をマークし始める。原作はジョン・ル・カレの同名小説。監督はアントン・コービン。
 コービン監督作品は『コントロール』『ラスト・ターゲット』と見てきたけど、冷ややかな質感と撮影の美しさが好みだ。また、『ラスト~』と本作見て思ったのだが、原作の読み込み・再構築が案外うまいのかもしれない。脚本家が上手いんだといえばそれまでだが、原作のテイストの抽出度の調整がいい塩梅と言えばいいか。映画監督としてはどんどん手堅くなっていると思う。
 本作における、いわゆるインテリジェンス戦は、壮絶さとか複雑さというよりも、なんだか心もとない、むなしいという印象。同じル・カレ原作映画でも『裏切りのサーカス』は、まだスパイがスパイとしての自分の立ち位置や使命感みたいなもの(それが幻のようなものであれ)を保持しやすい時代の話だったのかなと。本作には、『裏切りの~』のような一種のセンチメンタリズムや哀愁がなく、「こういう時代なんで」と突き放す感じ。個人の感情や倫理観が介入する余地があんまりないのだ。システムの一部という側面がより強くなってきているように思った。そんな中で、何とかあまり非人道的ではない落としどころをさぐろうとする(彼だって決して甘い人間ではないのだが)ギュンターのあり方は、時代遅れになりつつあるということなんだろう。幕切れでの思いの置き場のなさはやりきれない。原作よりも、ギュンターのお疲れ感、不器用感が強調されている(演じるシーモア・ホフマンが出している味なんだと思うが)だけに一層。
 自分の正しさのありかについて、さまよい続ける人たちの群像劇のようでもあった。とりあえずやれることをやろうとする、が、それは本当に世界を良くしているのか?そういうものがどんどん見えにくくなっている時代の物語なのだろう。

『トム・アット・ザ・ファーム』

 恋人ギョームを亡くし深い悲しみの中にいたトム(グザヴィエ・ドラン)は、葬儀に出席する為にギョームの実家を訪れた。しかしギョームの母親アガット(リズ・ロワ)はトムのことを知らず、息子の恋人はサラという女性だと思っている。ギョームの兄フランシス(ピエール=イブ・カルディナル)は、弟が同性愛者だと母に知らせたがらず、ギョームに女性との写真を送らせていたのだ。フランシスはトムにも恋人であることを隠せと言う。監督は主演も兼ねたグザヴィエ・ドラン。原作はミシェル・マルク・ブシャールの同名戯曲。
 舞台がカナダなのであれ?と思ったが、原作がカナダの戯曲なのね。これ、舞台で見たら更に息苦しく密度が高いんじゃないかなー。舞台が田舎の農家で周りに何もない、車がないと出ていくこともできないような場所。そこに気まずい関係の人たちと寝泊まりしなければならないというシチュエーションはかなりきついと思うのだが、更にそれが恋人の家族で、恋人と自分の関係を偽らないといけないというプレッシャーがかかる。
 フランシスの暴力的な圧力にトムは怯えるが、徐々に惹きつけられもする。その危うい感じが、見ていて非常に居心地が悪い。タンゴのシーンでそれが極まった。脅かされ続けると逆にその状況にマヒして安心感を感じていくようにも見える。ある意味関係が固定されているってことだもんな。
 フランシスの荒さもさることながら、アガットのギョームに対する愛着がなんとなしに怖かった。彼女は息子がいなくなったから余計に執着しているのではないかという思いが拭えない。もちろん愛情はあったのだろうが、それはギョームが母親によかれと思って作っている彼の像に対するものだよな。トムを恋人にしていたギョームに対しても、同じように愛情を示せただろうか。フランシスの鬱屈も見て見ぬふりをしている感じだったし、結局自分が見たいものしか見ていないのかもしれない。
 フランシスの暴力はアガットに対する愛情がこじれ、まわりまわってトムがとばっちりを受けている感じだった。フランシスのトムに対する執着の根拠が、弟がいなくなった穴を埋め、なんとか「家族」を装うとしているからだろうか。誰か/何かの不在によって生じる穴は代替品で埋められるものではなく、ずっとそのままだ。トムの哀しみとアガットの哀しみ、またフランシスの哀しみは別物であって、それぞれが自分で何とかしていくしかない。3者が哀しみを共有できず、傷のなめあいすらできないというディスコミュニケーションが横たわっている。
 エンドロールの曲、フランシスが最期に着ていた服を連想すると、ギャグ?と思ってしまった。
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