3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2014年11月

『嗤う分身』

 内気で不器用なサイモン(ジェシー・アイゼンバーグ)は、勤務先のコピー係ハナ(ミア・ワシコウスカ)に恋していたが、ろくに話も出来ず、彼女のアパートの窓を望遠鏡で覗くばかりだった。ある日、サイモンの前に自分にそっくりな男ジェームズが現れる。ジェームズは要領が良く口が上手く、サイモンとは正反対だった。原作はドストエフスキーの小説『分身』(版によっては『二重人格』)。監督はリチャード・アイオアデイ。
 同じ原作小説をベルトルッチも映画化しているが、当然のことながら本作とは全然方向性が違う。ベルトルッチ版は映像は実験的、メンタリティは意外と中二病的だったが、本作は圧倒的に笑える、そして怖い作品に仕上がっている。
 冒頭の、なかなか電車から降りられないという件からしてコントみたいなのだが、サイモンの日常の不条理な不愉快さがちょっと笑っちゃうような感じで描かれる。そこにジェームズが登場すると、不条理さが加速され、笑いも加速される。しかしジェームズの出現による笑いは、サイモンにとっては自分の居場所、身分、能力等自分に属する何もかもが徐々に奪われていくことでもある。これは、本当にじわじわと怖かった。サイモンが途中でちょっと諦めモードに入ってしまうあたりは特に。はたからみていればおかしいのだが、当人にとっては、自分を自分とわかってもらえない、何を言っても周囲に通じないというのは、恐怖に他ならないだろう。怖さとおかしさは、奇妙に相性がいい。ホラー映画は一歩間違えるとギャグ映画(その反対も)だというのと同じだ。
 また本作、なぜか60年代の日本の歌謡曲(坂本九、ジャッキー吉川とブルーコメッツ等)を挿入歌として使っている。改めて聞くとしみじみと名曲・・・なのだが、なまじ歌詞がわかるだけに映画の他の部分との違和感に笑ってしまう。これ、他の国の人が見たらどんなふうに感じるのだろうか。建物や街並みのビジュアルが、なぜか旧共産圏の雰囲気漂うもので、この風景に歌謡曲が妙にマッチしているのもおかしい。無機質でやや荒涼感漂う美術に、結構こってりとした歌謡曲が乗っかると不思議な味わいだ。
 アイゼンバーグが全く正反対のタイプの男性を1人2役で演じているが、どちらも実にそれらしく見える。この人、やっぱり上手い俳優だったんだなー。おどおどした素振りもチャラい素振りも、元々その人みたいな振る舞いに見えた。

『ニンフォマニアック Vol.1、Vol.2』

 ある冬の日、セリグマン(ステラン・スカルスガルド)は怪我をしひどく汚れた衣服で路上に倒れていた女性を助ける。その女性ジョー(シャルロット・ゲンズブール)は「自分は色情狂(ニンフォマニアック)だと告白し、自らの半生を語り始める。子供の頃から自分の性器の存在を意識してきたジョーは15歳の時にジェローム(シャイア・ラブーフ)相手に処女を捨て以来、奔放な性生活を送ってきた。ジェロームと再会した彼女はやがて彼と結婚するが、ある日性感を無くしてしまう。性感を取り戻す為、彼女は更に過激な世界へ足を踏み入れていく。監督はラース・フォン・トリアー。
 ジョーが性感を失うまでがVol.1、危険な世界に足を踏み入れていくVol.2の、2部に分けて公開された。2部合わせると4時間近い大作になる。私はフォン・トリアー作品のファンというわけではなく、映画としてはすごいかもしれないが気に食わん、という気持ちを『奇跡の海』以来一貫して抱いてきた。しかし『アンチ・クライスト』では、あれそんなに腹立たないかも・・・?と思い始め、『メランコリア』では長すぎてかったるいが面白くないわけではない、という気持ちに。そして本作だが、結構面白かったしトリアー作品の中では一番、見ていて嫌な気持ちにならなかった。主人公であるジョーの生き方が、いわゆる世間のスタンダードからは逸脱しているかもしれないが、一貫して彼女自身が「こうしよう」と思って行動しているものだからかもしれない。セックスに「溺れる」とか「堕ちた女」とかいう感じではないのだ。
 彼女は上司に(性生活が周囲で噂になり)カウンセリングを受けろと言われる。依存症克服の会(アメリカの小説や映画でよく出てくる、断酒会みたいなやつ。同じ問題を持つ人が集まって、それぞれ自分のことを皆の前で話す)に参加し、それなりにセックス絶ちを試みるが、彼女はある時、「私は色情狂、私は私が好き」と言い放つ。彼女のセックスは欠落を埋める為のものとは思えないので依存症はちょっと違うのだが、世間的にはセックス依存と同じように見られる。そこに対するNoであり、理解は求めない、好きなようにやるという意思表明だろう。彼女のセックスは、あくまで彼女主体なのだ。
 本作のセックス表現は公開前に煽られていたほどには過激ではない(むしろ笑ってしまうようなシチュエーションが多い)。また同時に、見ていて興奮するような類のものでもない。とは言っても本作に対して「セクシーではない」という批判は的外れだろう。そこを楽しませる為の映画ではないのだ。セクシャルな感覚はジョーのものであって、観客に向けられたものではないという姿勢が一貫しているように思った。
 本作、語り手である女性=ジョーと、聞き手である男性=セリグマンの対話劇という一面もある。ジョーの、聞き手によっては荒唐無稽である話に、博識なセリグマンが合いの手・ツッコミを入れる(しかしそのツッコミが同時にボケでもあるというおかしさ)ようにも見えるのだ。しかし、対話のように見えていただけに、最後の展開にはあっけにとられる。何を聞いていたんだ!今までの4時間オール伏線か!

『馬々と人間たち』

 アイスランドの海沿いの村。ダンディな独身男は未亡人とひかれあっているが、とあるハプニングできまずくなってしまう。酒好きの男はウォッカ欲しさにロシアの漁船目指して海へ飛び込んだ。乗馬クラブのオーナーは、土地を柵で仕切る農夫がどうしても許せない。人間たちと馬たちが織りなす群像劇。監督はベネディクト・エルリングソン。
 この邦題、『神々と人間たち』のパロディなのだろうが、どちらかというと「馬たちと人間たち」みたいな雰囲気。馬と人間、どちらかがどちらかより優位だったり片方に従属しているのではなくて、別箇の存在として、並列して存在している雰囲気なのだ。確かに馬は家畜なので人間に従属しているということになるのだが、そこに注がれるまなざしが、どちらかに肩入れするわけでも感情移入するわけでもなく、至ってクール。馬と人間は全く別の存在で、馬には馬の、人には人の事情がある、しかし等価だ、といったようなスタンスを感じた。
 ちょっと泥臭い民話のような、土着のユーモア的なものがある。セックスも死もシリアス一辺倒ではなく、冷静に考えると悲惨なことが起きているのに笑ってしまう。葬式で笑いたくなる衝動と同じような感覚に襲われた(葬式と言えば、本作で2回葬式が執り行われるのだが神父の説教が死因を考えるとギャグみたいだった)。人も馬も、営みが野太くしぶとい。馬は動物だから本能に従って生きているわけだが、人間も結構欲望に忠実だ。欲にかられてえらい目にあったり、最悪命を落としたりするが、それに対する反省が特になさそうなところがいい(笑)。さまざまなことがあっけらかんとしているのだ。
 何よりも、アイスランドの強烈な風景に魅力があった。海のすぐそばに山がそびえたっているような、独特の地形だ。荒地や草原がずっとひろがっているというのもいい。この風景の中だから、こういう物語になるんだろうなというような、風土に説得されるような作品だった。

『シャトーブリアンからの手紙』

 1941年10月20日、ナチ占領下のフランスでドイツ将校が殺された。ヒトラーは報復として、収容所のフランス人150人の処刑を命令する。パリ司令部のドイツ軍人や、政治犯を収容している収容所のあるシャトーブリアンの副知事らは反発するが、事態は止められなくなっていた。監督はフォルカー・シュレンドルフ。
 戦時下の不条理による悲劇を(ドイツにとってもフランスにとっても黒歴史だろう)描いた作品だが、いわゆるナチスの悪事、戦争の大量破壊っぷりや戦禍の悲惨さはあからさまな形では出てこない。本作に登場する軍人、あるいはそれに連なる、処刑を下す側の人たちは概ね(現代の目から見て)ごく普通の、そこそこ良心を持ち合わせた人たちだ。彼らの目から見ても報復処刑は異常なことで、まずは報復を軽減できないかと試みたりする。しかしどの人も途中で断念したり諦めたりで、反対しとおすことはしない。もちろんわだかまりはあるだろうが、彼らにとってはまず業務命令であり、最終的な責任は「上」にあるのだ。自分が直接手を下しているという感覚は多少なりとも軽減されるのだろう。自分は傍観者だとうそぶくドイツ将校は一見クールだが、自分は何もしないよ、責任を負わないよというのと同じことだ。
 作中で神父が収容所の兵士に「命令の奴隷になるな」と言うシーンがある。一方でドイツ将校は部下に「ここでは考えることは必要ない」と言う。考えずに上の決定に従っていれば確かに楽だし兵士としては機能的だろう。しかしそれは人間らしいと言えるのか。神父の言葉は耳が痛いものだ。ただ、この状況でそれを言うか?という空しさも感じる。何がきついって、命令の奴隷になるしか生き延びる道が残されていない(ように見える)ということだ。この状況で「命令の奴隷になるな」と言われても、言われていることはわかるがちょっと無理です・・・って思うんじゃないだろうか。自分の命を賭して考え続けろというのは、できる人は言われなくてもするんだろうけど、強要出来るかというとちょっとなぁ・・・。「ちょっとなぁ」と思ってしまう状況に既になっていると言うこと自体、もう詰んだ状態だということだろう。
 同じようなテーマを扱った作品というと『ハンナ・アーレント』(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)が思い浮かぶ。アーレントの言う「凡庸な悪」とは本作中で将校たちがとった「しょうがないから」という態度のことでもあるだろう。実は、フォルカー・シュレンドルフとマルガレーテ・フォン・トロッタは結婚している。夫婦で同じ問題にアプローチし、お互いに呼応しあっているようでもあって面白い。

『悪童日記』

 第二次大戦下の東欧某国。双子の兄弟は両親と引き離され、母とは不仲だった田舎の祖母の元へ疎開する。祖母は2人に辛くあたり、双子は生き延びる為に2人だけのルールを作り、母の「勉強しなさい」という言葉に従って日記をつけ続ける。原作はアゴタ・クリストフの同名小説。
 私は原作についてはあらすじを知っているという程度なのだが、小説を映像化した作品、という雰囲気が濃厚だった。どのへんをそう感じるのか自分でもよくわからないのだが、まず文章ありきな作られ方のように思った。それが映画として面白くなっているのかというと、ちょっと微妙なところだとは思うが・・・。
 主演の双子を発掘できたことで成立した企画だと言っていいほど(実際そうだと思うし)、双子に存在感がある。よくまあ見つけてきたな!と感心した。演技経験のない少年たちだと思うのだが、完成度が高い。単にルックスがはまっているだけでなく、登場人物の立ち居振る舞いをよく理解しているんじゃないかなと思う。他の出演者も、風貌にやたらと説得力があって(特に双子の祖母)、キャスティングにとても気を使っている様子がわかる。演技力はもちろんだが、この世界にうまくハマる風貌かどうか、という部分の方が重視されているように思った。
 双子と祖母は、世界の端っこ、むしろ異界に近い存在であって、いわゆる「世間」で起こっている物事のとらえ方は、世間の只中にいる人たちとは違う。戦争が激化し、ユダヤ人への迫害がひどくなるが、作品の目線はその現場からかなり距離を置いた、クールなものだ。それは双子が「世間」を見るまなざしでもあるだろう。クールゆえ、人間の滑稽さや醜悪さがより際立つ。
 双子が恋しがっていた父親や母親も、もはや自分たちとは異なる世界に所属するようになり、何かを分かち合うことは出来ない。一方で、険悪だった双子を祖母が、徐々に同じ世界で生きる協力者のような関係になっていく。
 ただ、いつまでも異界にいることはできない。最後、自分の一部を「あの世」に置いて「この世」に戻っていくようでもある。

『エクスペンダブルズ3ワールドミッション』

 バーニー・ロス(シルベスター・スタローン)率いるエクスペンダブルズはCIAのドラマー(ハリソン・フォード)の依頼を受けるが、ターゲットの正体はかつての仲間で今は武器商人のコンラッド・ストーンバンクス(メル・ギブソン)だった。裏をかかれ仲間を重症にされたバーニーは、エクスペンダブルズを解散することを決意、若い人材をそろえ再びストーンバンクスに挑むが。監督はパトリック・ヒューズ。
 大分人口も増え、スターお達者倶楽部感も増し増しになったシリーズ3作目。2作目では個々のキャラを立てていく方向に舵を取っており、スタローン先生がキャラ萌えを学習している!と震撼したものだが、3作目の本作はどちらかというと1作目のノリに近い。私はどちらかというと2作目の方が好きなんだが、本作もユルくて大雑把だけどそこがいい!また、出演している俳優のキャラクターやフィルモグラフィが、彼らが演じる登場人物のキャラクターを飛び越えて表面ににじみ出てしまっているところは、なんというか微笑ましい。まさしくスター映画ではある。特にウェズリー・スナイプスの自虐ギャグかよ!と突っ込んでしまうような登場の仕方と「一つの間違いで人生が台無しに・・・」というセリフには笑ってしまった。
 新メンバーの中では、アントニオ・バンデラスが大活躍。伊達男イメージの強い人だが、本作ではうざい!うるさい!強い!うざい!うるさい!という波状攻撃を繰り出してくる。こういうキャラクターも演じる人だったんだ!とびっくり。小さいおじさん枠をバンデラスが埋めてしまい、ジェット・リーの出番が僅かなのは悲しかったが・・・。また、敵ボスのメル・ギブソンの堂々たる悪役ぶりは素晴らしい。スタローン(ハリソン・フォードもだけど)と並ぶと、同じ往年のスターとは言っても、メル・ギブソンてやっぱり演技上手かったんだな・・・と妙に納得した。
 とにかく老いも若きも仲間大好き!っていう部活のようなノリが可愛くもあり、若干うっとおしくもあり。特にスタローンとジェイソン・ステイサムのいちゃいちゃ感が増しているので、痴話喧嘩かよ!というツッコミのひとつもしたくなる。ステイサムはこのシリーズ内だと若手役というか、かわいこちゃん枠なんだろうか(笑)。新人たちの登場に嫉妬するのも、弟妹の出現に警戒する長男みたいに見えなくもない。

『泣く男』

 幼い頃にアメリカに渡ったものの母親に捨てられ、中国系マフィアの殺し屋として育ったゴン(チャン・ドンゴン)は、ある仕事のミスから少女を巻き添えにしてしまう。マフィアは少女の母・モギョン(キム・ミニ)を新たな標的として指令を下し、ゴンは祖国である韓国へと渡った。しかし深く悲しむモギョンを殺すことをためらってしまう。監督はイ・ジョンボム。
 マンション強襲以降の銃撃・肉弾戦の乱れ撃ちはさすがに見応えがある。特に肉弾戦の見せ方は、チャン・ドンゴンをかっこよく見せるぞ!という気合が感じられて楽しい。が、前半の流れがどうもかったるかった。本作、ストーリーはごくごくシンプルなのだが、色々と設定を盛りすぎてごちゃごちゃしている印象。そもそも、アメリカ在住の中国マフィアの一員にしておく必要がない気がする・・・。
 ガンが動くのは、悔恨や贖罪の為ではあるが、死んだ少女やその母親の無念を晴らすというよりも、自分自身の気が済むようにするため、という側面が強いように見える。彼が「疲れたんだ」と言うシーンがあるが、案外本音なんだろうなと思わせるものがあった。マフィアからは女の為に裏切るのかとなじられるが、そういうことではないんだろうな。
 そしてモギョン個人に対してどうこうというよりも、彼女が「母」であることがより大きな要因なのだろう。ゴンは母親に捨てられたという思いをずっと抱いている。自分の母親はどういう女だったのか、母親は子供を失うと悲しむものなのか、ということをずっと確認したがっているように見えるのだ。それに他人を巻き込むなよと突っ込みたくはなるが。

『カウントダウン・シティ』

ベン・H.ウィンタース著、上野元美訳
小惑星が衝突するまで77日と予測されている地球。社会は混乱し、崩壊しつつあった。元刑事のパレスは、知り合いの女性から突然姿を消した夫を探してほしいと頼まれる。電話もインターネットもろくに機能しない中、失踪者を探しだせる可能性は低い。しかしパレスは調査を開始する。『地上最後の刑事』に続き、終末を迎えつつある世界で探偵する主人公を描くシリーズ2作目。法律を守り「警官」(本作では警察を辞めているが、彼のメンタリティはいまだ警官)たろうとするパレスの行為は、正しいようにも見えるが、彼の置かれた環境を考えると、むしろ奇異にも見える。犯罪者を逮捕しても裁かれる前におそらく(小惑星衝突により)死亡してしまうだろうし、失踪者は「死ぬまでにやりたいことリスト」を消化するためにいなくなったのかもしれない。前作ではかろうじて社会らしきものが保たれていたが、本作ではより混乱が深まり、物資の奪い合いの為の闘争も頻発している。パレスの妹にしろ、キーマンとなる人物にしろ、絶望から逃れる為にはかない望みにすがったり、ある種の強迫観念に駆られて行動したりしているように、現実を直視していないように見える。しかしパレスの(法にのっとった)正義を守ろうとする、秩序を保とうとする姿勢もまた、ある望みにすがっているもの(少なくとも生存本能には反している)のではないか。そして同時に、非常にハードボイルド的でもある。バカみたいかもしれない、でもやるんだよ!という(そんなに威勢のいいものではないが)パレスの姿勢が次作(3部作だそうだ)ではどのように見られるのか。引きの強いラストで続きが気になってたまらない。

『木暮荘物語』

三浦しをん著
世田谷代田駅付近にある、全6室の2階建ておんぼろアパートの木暮荘。セックスがしたくてたまらない老大家や、階下の女子大生をのぞき見る習慣がついてしまったサラリーマン、彼氏がいるのに元彼があがりこんできた花屋の店員ら、ひと癖ある入居者ばかりなのだった。木暮荘の入居者や、その周囲の人々が主人公になる連作短編集。どの話も多かれ少なかれ性愛に関係しているのだが、その関係の仕方、問題の在り方は人それぞれで、普遍的だったりかなりオリジナル(笑)だったり。その問題をほぐすのが、性愛の対象となる存在ではかならずしもなく、もっと関係性の薄い人とのやりとりで、ふっと楽になったりするのが面白い。案外そういうものかもしれないなと思える。性愛そのものに問題を抱えているというよりも、他の部分の(より根深い)問題が性愛の部分に出てきたという感じ。

『逃げる幻』

ヘレン・マクロイ著、駒月雅子訳
ある事情からハイランド地方の村を訪れたダンバー大尉は、家出を繰り返す少年が、ムア(荒野)で突然消えたという話を聞く。少年はほどなく戻ってきたが、彼は何かを異様に恐れていた。そして、少年の家庭教師が殺された。ヘレン・マクロイのミステリは折り目正しくて好ましいなぁ。色気を出し過ぎず、出さなすぎもせずというバランスがいい。本作では人間消失と密室殺人という2つの要素が盛り込まれているが、実はそこ以外の部分の謎に対する解が、おおなるほど!という納得感が強く、どんでん返し的なサービスにもなっていて満足度が高かった。ロジカルな部分以外でも、ハイランド地方の風土の描写やムアの風景、そして人間の機微など、小説としての彩の部分がきちんとしているので、そこでも安心して読める。第二次大戦後の社会の雰囲気が伝わってくる(そして事件とも深くかかわってくる)ところも興味深い。

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