3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2014年11月

『沈黙の果て(上、下)』

シャルロッテ・リンク著、浅井晶子訳
イギリスの田舎の古い屋敷で、5人の惨殺死体が発見された。長年の付き合いの3家族が滞在する別荘だったが、彼らの間に何があったのか?生き残ったイェシカは、自分の夫とその友人たち、友人の妻たちの間に何があったのか、少しずつ探り始める。ドイツでは大ベストセラー作品だったそうだが、確かに面白く、ぐいぐい読まされ長さが気にならない。しかし嫌な話である。“本物の友情は、個人の尊重にも、それぞれのプライヴァシーの存在にも耐え得る。だが人工的な友情は、場合によってはそうはいかない”という文に一端が垣間見えるように、本作のモチーフになっているのは依存関係だ。様々な依存の形がそこかしこで描かれる。一見強い人であっても、その強さを成立させる関係性に依存していると言える。また、人間関係ではなく、屋敷に執着する「部外者」であるフィリップのように、自分の不運を誰かのせいにするために妄想のような願望にしがみつくというのも、ひとつの執着だろう。その執着の様を見ているのがとにかく居心地が悪かった。イェシカは部外者寄りの視線=読者の視線に近いので屋敷の人々の関係の異様さに気付いていくのだが、関係性のさ中にいるとわからないんだろうなぁ。所々に挿入される少女の日記が、年齢相応の視野の狭さでとげとげしいのだが、徐々に自分の父親たちの異様さに気づいてしまうところが痛々しい。

『インターステラー』

 地球規模の環境変化で作物が不足し、深刻な食糧難の進む近未来の地球。宇宙開発に割く予算も資力もなくなり、元宇宙飛行士のクーパー(マシュー・マコノヒー)は、トウモロコシ農家に身を転じていた。ある日、恩師のブランド教授らが密かに宇宙探索計画を立てていることを知り、搭乗員として抜擢される。しかしそれは、幼い娘マーフ(マッケンジー・フォイ)と二度と会えなくなるかもしれないことを意味していた。監督はクリストファー・ノーラン。
 ノーラン監督作品は毎回面白いとは思っているし、それなりに楽しみなのだが、もう一度見たいとはそれほど思わない、というのが正直なところ。なぜなら、作品の構造は良く考えている(多分)のがわかるんだけど、タイムシートとしての構成が下手、というかそこにあんまり気を使っていないからだ。要するに長すぎるからだ。本作も、見ている間はそれほど長さは感じないが、見終わった後で、うわーもうこんな時間か・・・あそことあそこカットできなかったのか?って気持ちになってしまう。その長さの部分で、見終わった後の満足感が差し引かれてしまうのでもったいない。
 今までのノーラン監督作よりも、かなりプライベートな関心の部分に内容を寄せてきたなという印象を受けた。ジャンルとしてはSFになるだろうし、宇宙空間の表現、特に無音であるということの見せ方(聞かせ方)にははっとするものがあった。ただ、ストーリー自体はそれほどがっちりと設定を作りこんだSFというわけではないと思う。中心になるのは父親と娘の関係であり、それ以外の要素は、親子関係を際立たせる為の舞台装置と言ってもいい。父と娘の心理的な距離やすれ違いが、宇宙と地球との距離、そして時間の流れの差異(これを持ち込んだのは上手いなーと思った)と呼応していく。個人的な愛が個人の問題を突き抜けて世界を変えていくというのは、実際にそういうものだというよりも、そうであれ、という祈りのようなものではないかと思う。
 一方、父と娘の関係が強調されればされるほど、息子トム(マーフの兄)の存在が気になった。彼もまた父の子供ではあるのだが、最初からクーパーとの関係はマーフほど濃くない。愛してはいるが別のタイプの人、という感じだ。クーパーの義父は、トムは大丈夫、でもマーフは(心配だ)と言うが、トムだって大丈夫じゃなかったんじゃないだろうか。彼の方が年長だから父親への理解も示すが、やはりマーフと同様に捨てられたという思いを持ち続けていたのでは。成長したトムの胡乱さを見ると強くそう思う。演じているのが私の中でMr.みそっかすないしはMr.胡乱なケイシー・アフレックなので、またお前か!と突っ込みたくなったが。トムにはおそらく、マーフがたどりつくような「解」はなかったのだろうと思うと、どうにも複雑な気分だ。前へ進むためには何かを置いていかないと、という言葉が作中で出てくるが、置いて行かれたものはどうすればいいんだろう。
 なお、本作ロボットが非常にかわいい!まさかノーラン監督作で人工知能萌えゲットするとは・・・。あれはモノリスがモチーフになっているのだろうか・・・。ちょっと笑っちゃうデザインなんだけど合理的と言えば合理的。

『怪しい店』

有栖川有栖著
「みみや」なる看板を出していた正体不明の店。実は人の話を聞くことを商売にしている店だった。その店の女主人が殺害され、犯罪学者・火村英夫は調査に加わる。表題作を含めた中短編5作を収録。何らかの「店」を共通項にした作品集。小粒ではあるが王道本格ミステリで安心して読める。王道ながら、謎の焦点をちょっとづつずらしていく(表題作は特に)ところに職人技を感じた。お勧めは安楽椅子探偵ものな「潮騒理髪店」。たまにはこういう後味のいい謎もいいものだ。

『眠りなき狙撃者』

ジャン=パトリック・マンシェット著、中条省平訳
殺し屋のマルタン・テリエはある仕事を最後に引退を決意する。しかし組織の刺客や彼に恨みを持つ者が、彼を狙い始める。冷徹といっていいほどクールかつ、余計なものをそぎ落とした文体。翻訳の良さもあるのだろうが、ゴツゴツ、殺伐として読んでいる側に切りつけてくるようなスタイルだ。それがテリエの人としてどこか足りないような、偏った言動とマッチしている。はたから見ているとちょっと理屈がおかしいのだが、本人はいたって真面目だしこういうやり方しかできないという不器用さと、それゆえ訪れるラストがやるせない。それを突き放した文体で語っていくのでなおさらだ。


『サブカル・スーパースター鬱伝』

吉田豪著
サブカル分野を中心にライター、インタビュアーとして活躍する著者が、「文化系(サブカル)男子は40歳で鬱になる」という持論をもとに、鬱経験を持つサブカル界のスターたちにインタビューする。文庫版で読んだが、単行本版にユースケ・サンタマリアの章が加筆されている。ユースケ、一時期痩せすぎだったけど、やっぱり具合悪かったのか・・・。そのユースケ・サンタマリアは単行本を読んだ際に自分の方が症状きつかった!ここに出てくる人たちは皆タフガイだ!と思ったそうだが、確かに病気を患っても業界で生き残っているということは、そういう部分もあるんだろうなぁ(笑)。症状の出方はそれぞれだが、成功して活躍の場が広がったり多忙になったりすると発症しやすいという傾向は共通しているみたい。鬱の症状は家族であっても理解がされにくいという面はあるが、本作のインタビュー相手に関しては、客観的には成功して何も不安がなさそうに見えるという側面も、本人の苦しさを増して症状悪化するんだろうなぁ。読んでいて、なんだかなぁと思ってしまうところもあるし、当人にしかわからない苦しさというのは本当に難しいなとしみじみ。それにしても、よく皆ここまで話してくれたなと、著者の聞 く力に感嘆した。同じジャンルの人たちとは言っても、相当していないと話しにくい内容ばかりだもんなー。ちなみに、サブカル内での勢力争いというか分布図というかには笑ってしまった。外から見たら違いがわからないけど、当人には気になるのね(笑)

『紙の月』

 1994年。銀行の契約社員として働く梅澤梨花(宮沢りえ)は、夫(田辺誠一)と2人暮らし。ある日、セクハラ言動をする難物として行員にも知られていた平林(石橋蓮司)の家で、彼の孫である大学生・光太(池松壮亮)と出会い不倫関係になっていく。光太が学費の為に借金していると知った梨花は、ふとしたきっかけで客の預金を使い始める。原作は角田光代の同名小説。監督は吉田大八。
 梨花がどのような育ち方をしたどのような人間であり、何を考えて着服におよび、それで何を得たのかということは、わかりやすく説明されるわけではない。彼女との間には距離があり、しかしだからこそどうなるのか気になって目が離せない。走っていく彼女と映画を見ている側とが並走するのではなく、後を追いかけていくような感覚だった。物語の流が激しく動的というわけではないのだが、妙に疾走感のある作品だった。彼女が自分の感情、考えを言葉にすることは多くはない。終盤、先輩社員である隅(小林聡美)に思いを吐露するが、これはちょっと説明的すぎると思った。よくわからないからこそ、彼女の行動に説得力があると思う。
 梨花が光太との関係に踏み出すのも、横領するのも、最初の瞬間は魔が差したとでもいうか、何か有無を言わせない力が働いてやってしまった、という感じだ。しかしその関係、その行為を継続する、エスカレートさせていくのは、魔が差し続けているというわけではないだろう。しかしずるずると続けてしまう。今の生活、光太との関係が壊れることが怖くてやめられないというのもあるのだろうが、行けるところまで行ってみたい、この先がどうなるのか見てみたいという気持ちもあるように見えた。だからこそのラストだと思う。
 梨花は職場でも家庭でもセクハラ、パワハラめいたことをされるが、それに対する反応は(嫌がっているのはわかるが)ぼんやりとしたもの。その姿にはひやっとするが、彼女は同僚に指摘されるように、確かに「変わった」。それが横領した金や不倫相手との関係によるかりそめのものかもしれない。でも変化は変化だ。
職場の上司や客のわかりやすいセクハラ、パワハラはともかく(いや腹立たしいけど!)、夫の態度にはそら恐ろしくなった。多分いい人だし妻のことを彼なりに大事にしているんだろうけど、とにかく間が悪いし相手に対する想像力がない。こういう人いそうだなってところがまた嫌になる。演じた田辺は「悪気がなく無神経」を見事に演じていたと思う。

『NOVA+ バベル 書き下ろし日本SFコレクション』

大森望責任編集
大森望が編集する、日本SFアンソロジーシリーズ「NOVA」の新シリーズ。今までのNOVAは読んでいなかったが、本作は月村了衛「機龍警察」のシリーズ短編を収録しているので読んでみた。で、機龍警察はもちろん面白かったのだが、他の作品も更に面白い!特に酉島伝法「奏で手のヌフレツン」は私の中では圧巻。この世界をこのように解釈するのか!という驚きと新鮮さがあった。グロテスクであり過剰でもあるがイマジネーションが抜群だと思う。また、SFの“現実のちょっと先”という側面としては、長谷敏司「バベル」はまさにそれだと思う。そして最後に収録された円城塔「Φ」は、確かに最後にふさわしい。宮部みゆきの職人的安定感を味わえたのも嬉しかった。

『マダム・マロリーと魔法のスパイス』

 南仏の名門レストラン、ル・ソール・プリョルールを仕切るマダム・マロリー(ヘレン・ミレン)は、伝統を重んじ味に妥協しないことで、町でも有名だった。ある日、インド人一家がル・ソール・プリョルールの向いにインド料理レストラン、メゾン・ムンバイを開店。マダム・マロリーと、インド人一家の家長であるメゾン・ムンバイのオーナー(オム・プリ)とは激しく反目する。しかし、メゾン・ムンバイのシェフでありオーナーの二男のハッサン(マニシュ・ダヤル)の天才的な料理のセンスが、2者の関係に変化をもたらす。監督はラッセ・ハルストレム。
 これディズニー映画になるのね。誰が見ても安心な手堅さと良心的設計、同時に物足りない大味さは、そのあたりが一因なのかもしれない。フランスが舞台の話だが、主なセリフは英語。フランス語のセリフには日本語字幕はつかないので、フランス語がわからないインド人一家の視点に近いということになる。
 ハッサンのパパは、自分の味覚と店には誇りを持っているが、もし自分にこんな父親がいたら、イライラするし面倒くさいしで喧嘩が絶えないと思う。ハッサンたちも、いわゆるスマートではない父親の振る舞いを恥ずかしがるが、何しろ父親だし、店に対する誇りはお互いに持っているものだしで、耐えている。父親が値切る姿が嫌というのは、ありそうな話だ。対するマダム・マロリーも相当頑固で、2つのレストランの張り合いはともするとオーナー同士の大人げない張り合いになってくる。
 ただ、これが本作のいいところだが、ハッサンのパパにしろマダム・マロリーにしろ、自分の専門分野である料理に関しては、それがインドのスパイスを使っていようが伝統的なフランス料理の流れをくんだものであろうが、「いい」ものは「いい」と即座に認めるところだ。味覚を鍛えたプロとして敬意が双方に生まれてくる、料理があゆみよりのきっかけになるというのは、わかりやすいし、実際そうなんだろうなと思える。
 本作はアメリカ映画なのだが、舞台はフランス。フランスに対するグルメの国というイメージはいまだに強いのだろうか・・・。本作、異文化交流要素があると同時に、異文化=移民排斥についても言及している。フランスも移民は多いし、アメリカはそもそも移民の国だ。おそらくずっとなくならない問題に、かなりライトではあるが言及されており、時代の色を感じさせる。


『TATSUMI』

 昭和30年代に、当時はまだ子供向けのみだった漫画を、大人向けの読み物として洗練させ「劇画」という名称を与えた漫画家・辰巳ヨシヒコの半生を、彼の短編作品を交えて描くアニメーション。原作は辰巳の自伝的長編『劇画漂流』と、70年代の短編。監督はシンガポールのエリック・クー。
 なぜ監督が辰巳作品を知った(なんでも20年近く前に知ったとか)のか気になる!辰巳本人によるナレーションの他、俳優の別所哲也がヨシヒロ役を中心に6役をこなしているのにも注目。といっても、6役を難なくこなせるほど器用ってわけではなさそうだったけど(笑)。ただ、むしろどのキャラクターにも「辰巳ヨシヒロ」の片鱗を感じさせる為の1人複数役なのだと思うので、これはこれでいいのでは。
 アニメーションは(フラッシュアニメだと思うのだが)原作の絵をそのまま使ったもので、おおあのコマが、あの線のタッチのまま動いている!という面白さがある。とにかく辰巳の作品を世界に知らせたいんだ!という意思がびしびし感じられた。監督の中では実写化ってありえなかったんだろうなぁ。これが日本ではなく海外で作られたというところもまた、面白い。どのへんが監督のアンテナにひっかかったんだろうか。
 挿入される短編の舞台は、太平洋戦争直後の話から、高度経済成長期のあたりまでだが、どれもどこか影がある。はたから見たら笑ってしまうような内容の話でも、当人にとっては笑えない、深刻な事態なのだ。人生の孤独やもろさ、不安さが前面に出ているが、ナレーションによると、辰巳本人の当時の気分が反映されたものらしい。だから作者にとっては愛着があると。観客としては、もうちょっと違った味わいの短編も見て見たかったが。
 映画としてはドキュメンタリー的な部分と完全なフィクション・物語としての部分とのバランスがどこか奇妙で不思議な印象だし、アニメーションとしても、いわゆる「映画」という感じではない。それでも、これがどうしてもやりたかったんだ!という意欲が感じられるし、最後に辰巳先生ご本人も登場するのにはちょっとぐっときた。

『サボタージュ』

 DEA(麻薬取締局)特殊部隊のリーダーであるジョン・ウォートン(アーノルド・シュワルツェネッガー)は、8人の部下を率い、潜入捜査や襲撃等の危険な任務をこなしてきた伝説的捜査官。ある麻薬組織のアジトを壊滅させ資金を回収する任務につくが、資金は何者かに奪われ、チームは横領の疑いをかけられる。更に、何者かがチームの面々を1人ずつ殺害していく。監督はデビット・エアー。
 エアー監督の『エンド・オブ・ウォッチ』が滅法面白かったので本作も見てみたのだが、これもなかなか面白かった。シュワルツェネッガー主演というといわゆるスター映画をイメージしがちだが、本作はむしろ地味だし、シュワルツェネッガーが出てきても、えっこんなおじいちゃんになっちゃったの?!とびっくりするくらい最初は存在感が薄い。しかし、本作の場合はそこがむしろ味わいになっている。彼も(やたらめったら強いのは相変わらずだが)あくまでチームの1人であって、裏切ったのが誰かはわからない、というところがいいのだ。
 冷静に見ると結構乱暴な作りなのだが(連続殺人と金の行方に関しては突っ込みどころが多々あるだろう)、特に作中の時間の飛ばし方、ずらし方の手法が気になった。これは面白い点でもあるのだが、作中時間の経過をざっくり割愛したり、時間が連続しているように見せて実は別の日だったり、という仕掛け(というほどではないが)がされている。これによってスピード感が出ているのはいいのだが、ちょっと混乱した(笑)。ミスリードを誘うという点ではいいのかもしれない。
 題名(サボタージュ=破壊行為)の通り、シュワルツェネッガーとその仲間がばんばん破壊活動しまくるが、本作の根底に流れているものは爽快感ではなく、苦く、かつ狂気を帯びたものだ。ある人が実は死人みたいなもので、目的を遂げる為だけに生きている。そしてその目的を遂げる為に何を対価にしたか、というところに狂気が滲んでくるのだ。それが裏切り行為だとわかっている、でもやらずにいられない、というむちゃくちゃさがじわじわとくる。
 DEAのメンバーは一般社会からはともすると外れがちな人たちなのだが、連続殺人事件を捜査する警察官・キャロライン(オリビア・ウィリアムズ)は対称的に、まっとうに仕事をしようとしており、見ていてほっとする。彼女と相棒との軽口も、実際に仕事上の仲間ってこういう感じだよなという説得力があった。『エンド・オブ・ウォッチ』でも思ったけど、エアー監督は「同僚との会話」のニュアンスとか職場特有のジョークみたいなもののつかみ方が的確(というか警察ものが大好きなだけかもしれないけど・・・)だな。

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