3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2014年10月

『姫君よ、殺戮の海を渡れ』

浦賀和宏著
高校生の敦は、糖尿病を患う妹・理奈が群馬県の川でイルカを見たという話を確かめる為、理奈と友人と共に現地へ向かった。しかし町の人々の中には不自然な振る舞いを見せる者がおり、何か隠し事があるのではと疑い始める。そして彼らのイルカ捜索は思わぬ方向へ。読んでいる間中、敦の妙に思い込みの強い性格もあって、この話どの方向にもっていきたいんだ?とハラハラしていたのだが、予想外にエモーショナル、かつ明後日の方向なクライマックスへと突き進む。かなり厚さのある書きおろしだが、読みやすく、かつ引きが強くて一気読みしてしまった。文庫帯には「青春恋愛ミステリ」とあるが、ちょっと違うかな・・・。すれ違いが生んだ悲劇とは言えるかもしれないが。本格ミステリとしてはかなり強引なネタで、力技でねじ伏せた感はあるのだが、少年の視野の狭さや少女の一途さが何を生んだか、という痛切さがある。

『容疑者』

ロバート・クレイス著、高橋恭美子訳
刑事のスコットはパトロール中、銃撃事件に巻き込まれ重傷、相棒は死亡した。事件から9ヶ月後、リハビリを経て警備中隊へ移動したスコットは、警察犬と行動する訓練を受ける。そこで出会ったのは、戦地で相棒を失った元軍用犬、マギーだった。私は特に犬好きというわけではない(むしろどちらかというと苦手)のだが、本作はプロローグからして思わず涙ぐんでしまいそう。犬好きにはたまらないのでは。事件のフラッシュバックに苦しむスコットと、やはりトラウマを持つマギー、過去の記憶に苛まれる1人と1頭が徐々に信頼を築き、本物の「相棒」になっていく過程にはぐっとくる。スコットは事件で受けた怪我の後遺症と同時に、事件の記憶、そして何よりも、相棒は自分に見捨てられたと思っていたということに、肉体的にも精神的にも苦しめられる。記憶に苦しめられるのって、コントロールできなくて本当につらいんだよなぁ・・・。「相棒」ものとしての面白さと同時に、傷ついた者たちがもがきつつも人生のリベンジを図る姿に心震えた。

『ミリオンダラー・アーム』

 スポーツエージェントのJB・バーンスタイン(ジョン・ハム)は大物選手との契約を大手事務所に奪われ、どん底状態だった。いちかばちかで思いついたのが、クリケットの盛んなインドで野球選手を発掘するというオーディション「ミリオンダラー・アーム」だった。2人のインド人青年を選んでアメリカに連れてくるが、インド人青年にとってアメリカは全くの異文化だった。監督はクレイグ・ギレスピー。
 実話を元にしているが、オーソドックスなサクセスストーリーで、家族連れでも安心して見られる。製作がディズニーなので、最初からある程度家族向けという設計なのだろう。万人向けにしたせいかやや大味ではあるが、女性の造形や人間関係のちょっとした機微など悪くないなと思っていたら、監督は『ラースと、その彼女』(とてもおすすめです!)の人だったのね。根っからの悪人は出てこない所や、ユーモアのあり方など、なるほどねと腑に落ちるところがあった。人に対するまなざしが優しいのだ。
 初登場時のJBは堕ちた野心家とでもいった感じで、どちらかというといけ好かない男だ。仕事の成果、お金のことばかり考えていて、プライベートで付き合う女性もその場限りの気楽なもの。事務所が経営破綻寸前で焦っているということもあるのだが、インド人青年たちに対するケアが全く後手後手で、おいおい大丈夫か?!と心配になってしまう。元々そんなに思いやりあふれる人ではないのかもしれないが、何より、他人と一緒に生活していないので、違う環境に投げ込まれた人が何に困るのか、ということがぴんとこないのだろう(悪気はないのね・・・)。
 しかしビジネスとはいえ彼の“商品”であり“投資先”は選手という人間、しかもまだ子供といってもいいくらいの年齢の人間だ。人間と人間として尊重し合い保護者としてケアしないと、当然パフォーマンスは落ち出る成果も出なくなる。JBは野球コーチにそれを指摘され、とんちんかんながらも青年たちとのコミュニケーションを図っていく。それにより、JBもまた変化していくのだ。よく子供を育てることは親も一緒に育つことだなんて言われるが、本作もそういう側面があるかもしれない。
 それにしても、アメリカ人にとって野球というのは、単にスポーツ競技というだけではなく、もうちょっと特別な精神的な何かがあるんだろうな(『フィールド・オブ・ドリームス』にしろ『マネーボール』にしろ)。

『東京湾』

潜入捜査中の麻薬取締官が何者かに殺される事件が起きた。捜査線上に浮上した容疑者は、ベテラン刑事澄川(西村晃)の戦友・井上だった。監督は野村芳太郎。1962年の作品。企画は俳優の佐田啓二。特集上映「ミステリ劇場へ、ようこそ」にて鑑賞。
特に前半のキレが良く面白い。澄川と井上の因縁が浮上する後半はややウェットだが、地味ながらも味のある刑事ドラマ。麻薬取引の手順にしろ、それを追う刑事たちの捜査にしろ、どちらも(片方は犯罪だけど)仕事としての流れを感じさせるもので見ていて面白い。冒頭、車の弾痕から狙撃者の場所を推理する件など、(その信憑性はともかく)おおなるほどね!と思わせる。演じる俳優たちも、いわゆるハンサムはあまりおらず、その辺にいそうな顔つきの人たちで(この時代の日本映画に詳しければあれはあの俳優、とわかることもあるんだろうけど)、説得力がある。麻取との鉢合わせとか、仕事の班分けや割り振りなど、ちょっとしたところが妙に面白かった。過剰に派手な演出がないので、お仕事拝見!的な味わいになっているからか。宿直用の部屋にご遺体も一緒に並んでいるのには、えっそれでいいの?!と驚いたが。
屋外はほぼオールロケらしく、当時の東京の街並みを眺められる所も楽しい。高い建物は少ないし、道もそれほど舗装されていない。東京オリンピックに向けた再開発が始まる前の時代に撮られているので、今の東京の面影は更に少ないのだと思う。面影があるのは浅草の松坂屋くらいか。遊園地の屋上がにぎわっているのにも時代を感じた。

『FRANK フランク』

 趣味で作曲をしていたジョン(ドーナル・グリーソン)はあるバンドのメンバーが自殺未遂をした現場に居合わせたことがきっかけで、そのバンドに参加しアルバム作りの合宿に行くことになった。リーダーのフランク(マイケル・ファスベンダー)は常にお面をかぶっているミステリアスな男で、メンバーから尊敬されていた。ジョンもフランクのカリスマ性に傾倒していく。ある日、ジョンが投稿した映像がインターネット上で話題になり、アメリカのフェスに招かれる。監督はレニー・アブラハムソン。
 フランクのビジュアルが何しろお面男でパッと見コミカルだし、予告編の雰囲気もユーモラスなのだが、実際のところ、なかなかに苦い話だと思う。ジョンは自分でも作曲をするが、そんなに才能豊かというわけではないらしく、バンドのメンバーからはフランクの才能に「ぶら下がっている」と言われてしまう。これについてはジョンも自覚あるんだろうけど、バンドメンバーにとってのカリスマであるフランクの才能も、彼らが才能あると思っているというだけ、と言うと言いすぎかもしれないが、わりと小さい世界の中での「カリスマ」であることが露呈されてしまう。
 ネットに上げた動画についても「そのPV数そんなに多くないよね」と言われちゃうし、大ブレイクするほどのインパクトはない、ないしはポピュラリティはない(フランクたちがやっているのは実験音楽みたいなものだし)のだ。
 森の中の合宿では頼れるリーダーであり才能の塊みたいだったフランクだが、フェスが近づくにつれおろおろし始める。ジョンは自分の道に迷い、確固とした自分の世界を持っているように見えるフランクに憧れるが、フランクもまた、道に迷う弱い人間なのだ。ラストでは、ようやくフランクがバンドのメンバーたちと同じ地平に立ったように見えた。ただ、フランクの迷いとジョンの迷いは全然別次元のものなんだろうけど。
 フランク役のファスベンダーは、ほぼ素顔を出さない状態。ハンサムの無駄遣いである。顔の表情使わなくても表現が上手い(表情なくても感情とかその場の空気感て表現できるんだなと妙に感心した。要するに根本的に演技が上手いってことなんだろう)ことと、声がいいことで起用されたのかな。しかし顔を出さなくてもハンサムからはハンサムオーラが出ているところが恐ろしいなと思った。

『不機嫌なママにメルシィ!』

 3人兄弟の末っ子として育てられたギョーム(ギョーム・ガリエンヌ)は、エレガントなママ(ギョーム・ガリエンヌ2役)や祖母、叔母たちに憧れ女の子のように育つが、男らしさを求めるパパ(アンドレ・マルコン)に寄宿舎に入れられてしまう。ギョームは学校になじめずイギリスの学校に転校し、ようやく羽を伸ばし始める。監督・脚本・主演はギョーム・ガリエンヌ。
 ギョームは自分は女性になりたいのか、男性に惹かれるのか女性に惹かれるのか、自身のセクシャリティについて迷い続ける。彼の場合、自分の愛するもののあり方に自分を近づけたい、同化したいという欲望が強いから、混乱しちゃうんじゃないかなと思った。どこに美しさを感じるかということ、自分の外見をどのように見せたいかということと、その人のセクシャリティとはそれぞれ別(全く別途ではなく呼応しあっているのかもしれないけど)のものなのだろう。必ずしも一貫性がなくてもいいんだろうし、そもそもそういうものなんじゃないかなと思った。
 本作中の母親は、あくまでもギョームの記憶の中の母親、彼が作り上げた母親とも言える。だからギョームの1人2役でいいのだろう。他者としての母親との関係をどうこうするのではなく、自分の中の母なるもの、フィクションとしての母親と折り合いをつけてようやく、母親と自分とを異化できた(母親のような自分でなくても大丈夫と思えた)のかなという気もした。あくまで、自分の中でどう落とし所をつけるか、ということなのだと思う。実際の母親にそこまで求められないということでもあるだろうから、なかなか苦味のある話でもあるが。
 ガリエンヌという俳優のことは恥ずかしながら全く知らなくて、『イヴ・サンローラン』に出演していたのを見ていい俳優だなと思っていた折、本作もそういえばガリエンヌ主演なのねと思って見てみた。本作ではコミカルでちょっとくどい演技なのだが、本作全体にデフォルメ感がある(これも「記憶」っぽいなーと思った)ので、このくらいでちょうどいいのかも。ママを演じている姿には、あっこういう中年女性いるよなー!と思わせる説得力がある。
 ところで、ギョームがイギリスの学校に転校し、自由だ!と解放感にひたるエピソードがある。彼にとっては男性的であることを押し付けられないところが「自由」なのだが、フランス人にとってのイギリスってそういうイメージがあるのかな?寄宿学校の男子たちも、イギリス校の方が荒っぽくなく穏やか。フランスの男性の方が実はマッチョ度が高い(というイメージをフランス人が持っている)のだろうか。

『シュトルム・ウント・ドランクッ』

 大正11年。詩人の中浜哲(寺十吾)は、友人で社会運動家の古田大次郎(廣川毅)と革命運動団体“ギロチン社”を結成。仲間を集めて活動に励む。やがて関東大震災が起こり、その後の混乱に乗じて無政府主義者の大杉栄(川瀬陽太)が殺害され、ギロチン社のメンバーにも取り締まりの手が伸びる。監督は山田勇男。実在した無政府主義結社・ギロチン社をモデルにした青春群像劇。
 山田監督は『アンモナイトのささやきを聞いた』にしろ『蒸発旅日記』にしろ、幻想的かつどこかレトロな雰囲気だが、本作はその作風と内容(大正時代という背景)とがマッチしている。大正時代が舞台ではあるが厳密な時代考証がされているわけではなく、監督のイメージの中の大正時代なので、幻想的な見せ方も悪くない。ただ、現代とのつながりを示唆するような構成なので、だとすると幻想・ファンタジー的要素により、現代との地続き感が薄れてしまったような気もする。
 革命といっても、ギロチン社の雰囲気はサークル活動みたいだし、あまり深刻さは感じない。計画性も覚悟も見えないし、皆粗忽者で笑ってしまう。しかし、そこが青春ぽい。不自由な時代が訪れる前の束の間の自由という時代の雰囲気も、青春感と呼応する。終わりが見えているだけに、より眩しく、寂しく頼りなく見える。
 実際に鳴ったであろう音とは全く関係のない音を効果音として入れるという演出をしている。漫画を読んでいるような感覚の擬音の使い方で、解釈を載せすぎて若干鬱陶しいなと思う部分もあったが、頭の中のイメージの音、こういう気分だという説明としてはいいのかも。


『ヴァイオリン職人の探求と推理』

ポール・アダム著、青木悦子訳
ヴァイオリン職人のジャンニは、刑事のグァスタフェステと共に、友人で同業者のトマソが殺害されているのを発見してしまう。トマソは一千万円以上の値打ちがあるという、幻のストラディヴァリを探しにイギリスへ行ったらしい。彼が殺された原因はストラディヴァリにあるのではと考えたジャンニは、人脈と知識を駆使してグァスタフェステを手助けする。ヴァイオリンに関する知識が次々と披露されるが、特に事前知識がなくても大丈夫。舞台となるのはジャンニが住むイタリアだけでなく、イギリスへも飛ぶ。ちょっと目まぐるしいしジャンニの人脈がオールマイティすぎるきらいはあるのだが、楽器職人ならではのこだわりや知識が楽しい。ダンディなジャンニと、生真面目なグァスタフェステとの親子のようなやりとりも微笑ましかった。

『死都ゴモラ』

ロベルト・サヴィアーノ著、大久保昭男訳
イタリア、ナポリを本拠地とし、世界中にネットワークを広げているマフィアの生態を追ったノンフィクション。2011年に日本でも公開された映画『ゴモラ』(映画はドキュメンタリーではなくフィクションのドラマですが)の原作となる。いやー、映画の『ゴモラ』は本当によくまとまっていたんだね(笑)。本作はノンフィクションではあるが演出が小説風というか、かなり装飾されている。また、マフィアのクランが様々で登場人物も大勢、話があっちに行ったりこっちに行ったりするので結構読みにくかった。文章の気取りがもうちょっと控えめだったらなあ・・・。しかし内容は濃くて面白い。現在のマフィアは巨大コングロマリットのようなもので、世界中にその資本を巡らせているというのだ。資金源が違法事業だが、それ以外はまさに「企業」としての活動。だからこそ根絶が難しいということなのだろう。その一方で、ナポリでのマフィアの根付き方、そしてそれに伴うローカルルールが、これ本当に21世紀?って感じで恐ろしい。

『記憶探偵と鍵のかかった少女』(若干ネタバレです)

 他人の記憶に入り事件を捜査する「記憶探偵」のジョン・ワシントン(マーク・ストロング)は、16歳の少女アナ(タイッサ・ファーミガ)のハンガーストライキをやめさせるという依頼を受ける。アナの記憶の中でジョンが見たのは、両親の不仲や学校教師との関係、そして彼女の同級生が毒殺されかかっている光景だった。真相を確かめる為事件の関係者を訪ねるが、彼らの証言はアナの記憶とは食い違っていた。監督はホルヘ・ドラド。脚本はガイ・ホームズ。
 マーク・ストロングが探偵役だと何やらすごく強そうなんだけど、本作のストロングは心身ともにそれほど強靭ではないし、いろいろポカもやる。対してタイッサ・ファーミガは一見可憐なんだけど、これは厄介な相手だな・・・という雰囲気がじわじわ滲んできて、見た目強面、見た目可憐の対決とも言える。
 学校での殺人未遂事件の真相をなんで保留にしちゃったのかとか、卒業アルバムの中身確認しなかったの?とか、そもそもそれをなぜ彼に渡したのかとか、ミステリとしての整合性上、色々とひっかかるところはある。しかし、おもちゃやサインなどの小道具の使い方は、本格ミステリテイストがあってなかなか良かった。何より、「髭の男」の使い方はなるほど!と思わせる。観客をとにかく騙そう、びっくりさせよう、という姿勢ではなく、これはどういうことだったのか、という方向でミステリ要素が作られているところには好感を持った。極端な話、最初から真相の見当がついちゃってもいいんだよね。
 ジョンがカウンセラーや臨床心理学者ではなく、あくまで探偵だというのがミソだ。おそらく、カウンセラー等人間の心・精神の専門家だったら、アナの記憶の謎にここまでのめり込まなかっただろうし、少なくとものめり込んでいるという自覚を持ったんじゃないかと思う。探偵であること、そして過去に傷を持つことが、ジョンをアナにより近づけてしまうのだ。
 記憶の中では、ジョンは周囲の目には見えない存在になる(元々そこにはいなかったはずだから)というところにはなるほどと思ったが、記憶の中の表現については疑問なところも。特定の人の記憶であるなら、それが第三者の目による情景になっているのはおかしいのではないか。記憶である以上、記憶者の視野で見えるはず。記憶者が含まれた情景になっている時点で、既に記憶者側が「作った」もので、間違いが混じっている可能性があるということになる。記憶はそもそもあいまいなもので、「探偵」が扱うには不向きなのかも。
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