3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2014年10月

『増補版 ぐっとくる題名』

ブルボン小林著
忘れられない題名、インパクトのある題名とはどんなものなのか、そこにはどんなテクニックがあるのか。文学や漫画、映画にというか音楽、幅広く「ぐっとくる題名」の秘訣を、作家としても活躍する著者(というか作家・長嶋有の方が本業と言った方がいいのか)分析していく。新書版を増補した文庫版で読んだ。軽い文体で肩の力が抜けた、ユーモラスなエッセイなのだが、それは表面上の軽さ。徐々に、著者の言葉に対する感覚の鋭敏さ、言葉を使うことに対する真剣さに圧倒されていった。小説家とはこういうものか。読む姿勢をちょっと正したくなった。

『須賀敦子の方へ』

松山巖著
イタリア文学の翻訳家であり、短い活動期間の中、数々の名随筆を残した須賀敦子。彼女と個人的にも親交のあった著者が、子供時代からフランス留学するまでの須賀の足跡を追い、著作の背景にあるものは何だったのかを探る。須賀の作品を読んでいると、キリスト教への信仰に対する葛藤があったこと、また父親に対する複雑な思いが垣間見えるところがあるのだが、その根っこは10代の頃に芽生えたものだった。作品を裏打ちする知性と生真面目さが培われていく過程が読んでいるうちに見えてくるので、やはり須賀の主作品を読んでから手に取った方がいい本ではある。また、著者自身の、須賀との関わり方に対する悔恨が時に洩らされるところにしみじみとする。病身の須賀と正面から向き合えなかった自身の弱さを悔やむ姿は胸に刺さった。

 

『野蛮な読書』

平松洋子著
ご飯を食べたり散歩をしたり仕事に奔走したりする日々の中、一冊の本を手にとると次の一冊がまた現れていく書評集。私は特に著者の文体が好きというわけではなく、ちょっと文章が歌いすぎだなとか飾りと感嘆が大杉だなと思うこともある。しかし、こことここが繋がるのか!という、ジャンルも方向性も違う本が著者の中でイメージが連鎖していく様が楽しく、そしてうらやましい。頭の中に本のプールがあって、そこからひょいひょいと題名を取り出せるというのは、いいなぁ。本の優劣がないところ(叶恭子のエッセイまで出てくる)もいい。本が好きな人ってそういうことだよなと。

『黒いモスクワ ST 警視庁科学特捜班』

今野敏著
ロシアの連邦保安局との科学捜査に関する情報交換会に出張することになった、警視庁科学捜査班、通称STの百合根と赤城。現地で遭遇したのは、古いロシア正教会で起きたマフィアの変死事件だった。プライベートで武道の師範役としてロシアを訪れていたSTの黒崎も合流し、ロシアの捜査当局と合同で捜査にあたることに。TVドラマ化されたものを見ていたので、原作はどんな感じなのかなと思って手近にあった本作を読んでみた。既にシリーズ何作も出ており、各キャラクターもしっかり固まってこなれた状態なので、さくさく読める。サブタイトルに「黒」とあるように、黒崎がわりと前面に出ているが、メンバーそれぞれの能力がちゃんと発揮されている。ドラマ版で赤城が「俺は一匹狼だ」と連呼するのは彼の中で一匹狼ブームが来ているの?と思ったら、本作でもちゃんと言っていた(笑)。そしてドラマのいちゃいちゃ感はイケメン俳優が主演しているドラマならではのサービスかと思っていたら原作でも結構いちゃいちゃしているのな・・・。

『レッド・ファミリー』

 海辺を観光に来ている夫婦と高校生の娘に夫の父親。絵にかいたような模範的な一家だが、実は家族を装って韓国に潜伏している、北朝鮮のスパイだった。彼らが引っ越してきた家の隣には、わがままを言い合い喧嘩ばかりの一家が住んでいた。リーダーである妻役のベク(キム・ユミ)をはじめ、隣人たちを“資本主義の限界”とバカにしていたが、あけすけな彼らの姿に徐々に心を動かされていく。監督はイ・ジュヒョン。原案・製作総指揮・脚本・編集はキム・ギドク。第26回東京国際映画祭で観客賞を受賞。
 キム・ギドクは製作や原案に回るととっつきやすい映画を作るなぁ。『映画は映画だ』を見た時にも思ったが、何かを演じているという設定を俳優に演じさせるというような、メタ視線が入ったシチュエーションが好きなんだろうか。本作はシリアスな問題をベースにしつつも、隣家のテンションの高さやスパイとしての振舞いと韓国の庶民としての振舞いのギャップをネタにしたコメディタッチな味わい。映画祭で観客受けしたのも頷ける。
 ただ、アイディア自体は面白いしコメディ向けな設定だと思うが、如何せんストーリーの作りが粗い。作中でベクらが犯す失態も、わざわざ潜入してくるスパイがそんなにうかつか?と見る側に思わせてしまう短絡的なもの。後々のイベント発生の為に適当に配置された失態、という感じがしてしまう。何より、やっぱり南の人が考えた「北の人」って感じがしちゃうのが辛い。自分に実体験があるわけではないからなぜそう思ってしまうのかよくわからないのだが、皆さんこういうのをご想像でしょ?っていうしたり顔が頭に浮かんだ。
 設定からすると、もっとしっちゃかめっちゃかな暴力的な笑いになってもおかしくないのだが、下手にヒューマニズムが絡んでいるためにキレが悪い。ただ、このヒューマニズムの部分がなかったらそんなにヒットしなかっただろうなとは思う。なんだかんだで人情ものって強いよなぁ。
 出演者の一部が、妙に日本の俳優を思い浮かべるような顔立ちで気になってしまった。隣家の夫は田辺誠一っぽいし、妻は永作博美っぽい。じゃあ夫役のスパイは加瀬亮あたりかな・・・。そしてサラ金業者が堤真一と大沢たかおを足して2で割ったような感じだった。役柄としては堤真一が全力投球しているのが目に浮かびそうで笑ってしまった。

『「ひきこもり」救出マニュアル《理論編》《実践編》』

斎藤環著
精神科医であり、「ひきこもり」問題に長く関わってきた著者が、Q&A形式でひきこもりとはどういう状態かという基本的なことから、どういう対応をすればいいか、行政のサポートは受けられるのか等、様々な疑問に答えていく。文庫版で読んだが、理論編、実践編の2冊から成る(時代の変化に合わせて補足と解説、資料の訂正なども)。質問形式なので読みやすいし、わかりやすいので初心者にもお勧め。著者の治療方針が全ての人にとって正解というわけではないが、おおむね妥当だし何より真摯、かつ具体的な返答であるところがいい。具体的というのは、実際にできることを勧めているということなので、時にあけすけだったりもするが、それが著者の慇懃無礼の慇懃がやや弱い感じの文体と相まって味わいがある(笑)

『嘆きの橋』

オレン・スタインハウアー著、村上博基訳
1948年、東ヨーロッパの某国。人民軍警察殺人捜査課に配属された新人刑事エミールは、同僚らの嫌がらせにあいつつも、作曲家が殺された事件の捜査にあたる。共産主義政府高官が関わったと推理するが、捜査中止命令が出、被害者の未亡人にも危険が迫っていた。舞台は架空の国なのだが、ナチスとソ連との戦いの傷跡の色濃く、共産主義政権下にある。文体がかなり独特でなかなか読みづらかったのだが、舞台が置かれている背景事態がかなりややこしいというのも一因だろう。当時の東ドイツないしウクライナないしは、実際こういう雰囲気だったのだろうか。物事が全て額面通りではなく腹芸で進んでいるような感じなのだ。そして徹底的に監視されており、監視しているということを特に隠そうともしていない社会。エミールは時に情緒不安定ぽいのだが、こういう社会背景と彼の不安、不安定感とが相乗効果で募っていく。

『イコライザー』

 ホームセンターで働くマッコール(デンゼル・ワシントン)は、深夜に馴染のダイナーで娼婦の少女テリー(クロエ・グレース・モレッツ)と他愛のない会話を交わすのが日課だった。ある日、テリーが売春グループを仕切るロシアンマフィアに暴力を振るわれ入院する。マッコールはテリーを自由にするべく、かつて身につけた「技能」を行使する。監督はアントワン・フークワ。
 デンゼル・ワシントンの必殺仕事人、はたまためっちゃ成功した『タクシードライバー』かといった感じで、とにかくデンゼル・ワシントンが強い!以上!と言いたくなるくらいシンプル。ワシントンの無敵っぷりを楽しむ為の作品だろう。マッコールは自前の武器を持たず、手近なものを武器にして戦うという設定なので、これをこう使うか!という楽しさもあった。彼の職場をホームセンターにしたのは、クライマックスのアレをやりたかったからかとニヤリとさせられる。ホームセンターは武器の宝庫ですね・・・。
 ただ、マッコールがどうやって戦闘を組み立てるか、何をどう使ったのかという部分を、いちいち強調するような見せ方をしているのは、ちょっとダサいなと思った。そこまで親切設計にしてくれなくても観客はわかってくれると思うが。もっとも、本作全体的に「ちょっとダサい(スタイリッシュを目指したがスベっている)」感のあるルックスで、そこが味になっていると思う。
 マッコールは当初、自分の「技能」を使うことはないし、テリーを救おうとするときも、まずは金でマフィアと交渉する。しかし一度「技能」を行使すると、その後はタガが外れたように行使の頻度が上がっていく。彼はマフィアに食い物にされる弱者を助ける正義の味方として行動するが、やっていることはもちろん違法だし、その正義も、彼が正義と考えているものにすぎないと言ってしまえばそれまでだ。更に、彼ができるのは目の前の誰かを救うことなので、あとからあとから出てくる「悪の組織」を前にするといたちごっこのように見えてしまう。日常は非常に几帳面で抑制の利いた人が、黙々と「正義」を執行していく姿は、ともするとマフィアよりも理屈に合わず狂気じみて見えた。彼が作中で読んでいる騎士の物語はおそらくドン・キホーテだと思うが、マッコール自身と重ねているのだろう。『老人と海』も同様で、全く割に合わず理不尽に見えても、自分にとっての正しさを行使する人の物語と言える。マッコールもまたそういう人なのだろう。

『千の輝く太陽』

カーレイド・ホッセイニ著、土屋政雄訳
私生児として生まれたマリアムは、母親から父親らへの恨みごとばかり聞かされて育った。父親は毎週娘を訪ねてくるが、一緒に出かけることも兄弟に紹介することもなかった。マリアムは一人で父親を訪ねに行くが、それが彼女の人生を大きく変えてしまう。激動の時代のアフガニスタンを舞台に、世代の異なる2人の女性の波乱の人生を描く長編。翻弄される側から見たある時代の姿でもある。国の「正しさ」が二転三転していく様が空しい。それはともかく、女性たちが置かれた環境の過酷さと理不尽さにげんなりする。読んでいてとにかく苛立つし辛い。これは、私が本作の舞台とは別文化の視点で読んでいるからだろうけど、自国の「正しさ」に人生を翻弄されるのってやっぱり納得いかないんじゃないかなー。その文化にすんなりなじめる人はいいんだろうけど、不自由を感じちゃうとほんとやってられないよな・・・。

『黒衣の花嫁』

 自殺しようとしていたジュリー(ジャンヌ・モロー)は思いとどまり旅に出る、と思いきや密かに町に戻ってくる。派手なイブニングドレス姿でブリス(クロード・リッシュ)の元を訪れた彼女は、彼をベランダから突き落とし姿を消した。原作はコーネル・ウーリッチ(ウィリアム・アイリッシュ)の同名小説。監督はフランソワ・トリュフォー。
 ジュリーが何者なのか、何をしようとしているのか、男たちとはどういう関係なのか、そして男たちはかつて何をしたのか、という背景は中盤まで明かされない。観客は事の次第を知らないままジュリーに引っ張りまわされ、彼女が男たちを葬っていく様を一緒に眺めていくことになる。この引っ張りまわされる感覚こそ、フォリュフォーが図ったものではないかと思う。ミステリとしての整合性みたいなものはそれほど重視せず(最優先とはしておらず)、これはジュリーの事件であり、彼女がコントロールするのだと強調しているように見える。そういう点ではいわゆる「悪女」ものっぽい。
 冷徹さと妙な礼儀正しさというかフェアさみたいなものが同居するジュリーの立ち居振る舞いは、迷いを振り切る潔さがある。白と黒をベースにした衣装の数々も素敵。演じるジャンヌ・モローはこの頃既におばさんぽい顔と体型なのだが、それをものともせず「美女」オーラを出して美女として撮られ、作中でももちろん美女設定。堂々としているところがすごくいい。

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